死ぬまでに知りたいたった一つのこと

pixiv再掲
クリア後いくらか経った世界観。ミカグラの花屋で働いている記憶喪失の男性が、花屋にくる不思議なお客を相手にしながら自分を取り戻していくお話です。
アロルク要素はとても薄いですが、最後に彼に「ボーイフレンド」と言わせたかったがために書いたお話…!
とてもネタバレのため、真エンドクリア後閲覧推奨です。



3.Bill meets Luke.

 いくらか頭痛がマシな日は、店に立つ。ただ家の中で腐っているだけでは、より鬱々とした気分になりやすいからだ。
 心配しながらも様子を見てくれるマークが、ときどきペットボトルの水やスポーツドリンクを用意して持ってきてくれる。鎮痛剤はあいにく効く日と効かない日があるから、暑さのせいで飲み物を飲むフリをして事務所へ引っ込み、頭を机にくっつけてうなだれている時もあった。店にはまだ動けるうちに、と妊娠中にも関わらずアニーも出てくれていて、普段は二人で回る仕事も三人でやることにした。
 どうして見ず知らずの俺にそこまで、と思って問えば、マークは頭痛の俺を刺激しないよう、静かに喋り出す。
 ──マークたち夫婦は、長いこと子どもに恵まれなかった。やっとできたのがあの娘のハンナだ。彼女との日々を迎えるまでの間、どうしても子どもが欲しくて街を歩く親子づれを羨ましがったり、不妊治療に乗り出してみたり。成果の芳しくない結果報告を見ては、落ち込む日々だった。
 けれど、アニーは諦めなかったし、マークも自分の子どもが見たかった。そして、生まれたら全力で愛そうと思ったのだ。その子が生まれていろいろなことを知り、学び、見ていく上で、大事だと思うことは尊重してあげたかった。
 ある日マークの運転する車のライトが、見慣れない男の背中を照らして危なくぶつかりそうになった時、ハンナは、
「かわいそう、このおじちゃん、どうにかしてあげられないの?」
 と言った。
 弱っている風体の中年男をむやみに放置しておくのは良くない、というのは道徳上の理由だ。しかし、社会経験から、関わることで危ない目に遭うかもしれない、とマークは頭で警鐘を鳴らしたんだとか。アニーもそうだ。そして俺も、きっと同じことがあったら助けることをためらうと思う。けれど、マークはそうしなかった。いざとなれば、俺が責任を持って家族を守ろう。そう誓って、俺を助けた──
 全身がずぶ濡れで、あちこちに打撲跡をつけて、服も擦り切れた訳ありの男。それがマーク家族と初めて出会った俺の姿だ。家へ連れて帰り、ハンナが用意したバスタオルで体を拭き、ハンナが食事を共にと言ってくれた。不思議なことに俺はその時初めて、自分が空腹であったと気づいた。そしてマークたちと生活を共にするうちに、睡眠も、食事も、体が次第に欲していくのを感じた。労働をすれば眠い、客を相手に仕事をすれば腹が減る。だから、ランチで食べるアニーの食事を美味いと感じる。
 しかし、あのキキョウを受け取ったであろう麗人に会ってから、俺は俺じゃなくなっていくようだった。もう少しで取り戻せそうな感覚は、再び麻痺していく。
 頭痛が起きて眠れなくても、隈ができなかった。
 食事を残しても、腹が減らなくなっていた。
 労働中、いくら暑くても汗をかかず、体の疲れも感じづらくなっていった。
 まるで機械だ。しかもこの状態を、むしろ心の中は求めていた。早く殻に入れ、と叫んでいるようだった。
 一体、どっちの俺が本当なんだろう。あまりに人間離れした能力のある俺なのか、人間らしさに怯えながらも足を突っ込もうとしているのが俺なのか。
 わからない、わからない。と頭を振った。ズキリと頭がまた痛み出す。今は考えるのはよそう。
「ビル、出られるか? お前にお客だ」
 マークの声がした。
 俺に客? またあの麗しい男か、はたまた気配の察知できない男か。俺はどうにか立ち上がり、事務所から出た。
 一人の、好青年、とも呼べる男が立っている。グレーのコートにストライプのシャツを着て、俺の顔を見るなり零れんばかりに目を開いている。
 俺の頭痛は彼を見た途端、嘘のように消えた。
 最初はよろけそうになった。頭痛がある時はどうにも重苦しくゆっくりと歩いていたものだから、いつもの調子で歩くと遅すぎて、自分の足で転びそうになるのだ。接客だから、と気を張って自然と体が踏ん張りを効かせたのかとも思ったが、どうにも違う。殻の中に引き込もうとする俺の中身が、凪いだように何も言わなくなってしまった。
「あ、あの……
 彼は、ミカグラでは平均的な顔立ちをしている。特徴は、と言えば……強いて言えば愛嬌のある大きなグリーンアイにライトブラウンの髪、光が当たれば金髪にも見えた。体つきは運動をよくするタイプなのか引き締まっているし、声のトーンもハキハキと明るい。見た目からは悪人にはとても見えない。花の中に佇んでいても紛れてしまうような、控えめな存在感のはずなのに、どうしてか目を逸らせない。
「ここに、友人がきて、それでその……花を、作ってもらったと聞いたので」
「そうか、俺が作った花は結構数があるから、どの人からもらったものかがわからないな……どんなブーケだった?」
「え、ええと、ひまわりでできているもので」
 辿々しく話す彼は、しかし一つずつ丁寧に記憶を反芻しているようで、花の形を思い出している。上を向き、下を向き、周りを見て、どのブーケが例えにちょうどいいかを探していた。
「そうです、あそこにある花束と、よく似ていました」
 棚に並べられたブーケを指差して、男は嬉しそうに笑っていた。
 アレンジメントは都度変えているが、ひまわりを使っているものは季節柄とても多い。花を変えたり、趣向を凝らしたりしてみても、手に取る客には大体同じに見えるそうだ。どこかの花材屋調べでやっていた。
「でもほんの少し、違うような……
「違いがあったか? それは参ったな、あまり差異のないように花を取り入れてみているんだがな」
「あ、ええと、ごめんなさい、そういう意味じゃないんだ……あ、いえ、ないんです」
 両手で受け取ったのであろう花の形をジェスチャーで再現しているが、空をきるむなしい音がするばかりで、俺にはさっぱりわからない。少なくとも、今飾ってあるものと違いがあるんだ、ということを伝えたいことは明確だから、
「どんな風に違ったんだ?」
 と聞いてみる。
 すると青年は顎に手を当て、集中して考え始めた。
 何ももらった花束一つにこんなに真剣になることはないだろう。きっと元来、質問に対してごまかすことをせず、真面目に答えるタイプの人間なのかもしれない。子どもや年寄りにはそれがありがたいかもしれないが、年嵩のいった人間相手には不要。多少肩の力を抜いて話してもらわないと、こっちも気疲れする。
 けれど、彼はどうも悩んでいるらしかった。花の違いを説明しろ、と言われても、専門家でもないのにわかるはずもない。少し意地の悪い質問だったな、と反省した。俺がすまない、と言おうとすると、相手の口が先に開く。
……あの、今飾ってあるものより、しなやか、と言えばいいのか、」
 本当に花の形を思い出して語り出す。それもよほど難しい言葉でも使うのか、うんうん捻っていた。
「ひまわりに、感情があったというか、」
 彼はさらに続ける。
……懐かしく、思えたんです」
 男の顔がふっと曇った。でもそれは一瞬で、また俺の方を向く。
 深い深いグリーンだ、エメラルドにも似ている。顔に何かついているだろうか、と頬に手を当てれば、やがてその目がじわりじわりと潤んでくる。ギョッとして周りを確認する。幸い、ここは物陰になっているからマークや他の客にも見えづらい。だとしても往来で、いつ誰かどう通るかもわからない場所で、涙をこぼす成人男性がいるだろうか。
 やがて一滴の水が固いコンクリートの床に落ちる。花へ水をやるためにあらかじめ濡れていた店の床は、難なく彼の涙を吸い込んでしまった。
「大丈夫か?」
……うん」
 子どもに返ったかのように、返事をされる。これじゃあハンナとまるで変わらない。ポケットから取り出したハンカチでごしごしとやや乱暴に目元を拭うが、そのハンカチも涙で滲んできている。
 じっとりと太陽が店の花を照らす。雲影も人の影も濃い。このミカグラに太陽が近くなったことをよく表していた。光の強さが、彼の存在をより明るく自分に示してくれる。
 青年はしばらくすると落ち着きはしたが、赤い目尻のまま気恥ずかしそうにしていた。どこかその照れた様子に、ふつふつと湧き立つ懐古がある。
 確か、あれは、そう、ここではない、どこか別の場所で。
 ──暑さの遠ざかるのがわかる晩夏だった。セミが最後の恋を鳴いていた。
 花屋の前で少年が、売れ残りのひまわりを寂しそうに見つめていた。どうした、と問いかけたら、何だか僕みたいだ、と言う背中が、やけに小さく見えた。
 だからその花を彼と買って帰り、花瓶なんて大層なものはないからグラスに水を入れて生けた。
 嬉しそうにしていた。けれど、自分にはその感覚がどういったものなのかはわからなかった。虫の声もグラスの結露も少年の笑い顔も、夏だとわかれど、感慨はない。
 ただ今晩こそは、何かこの少年から収穫があればいいと思っていた。脳波のグラフを頭に思い描いていた。そんな自分を、ひまわりがじっと見ている気がした──
「それだけ伝えにきました。すみません、お呼び立てして」
 あの日から大きく育った青年は、ペコリとお辞儀をしてその場を去る。彼の手元にあったタブレットが、さっきからうるさく鳴っていた。誰かに急きたてられていたのだろう。
 彼は走りながら、何度もこちらを見ていた。そして口元で小さく、何かを呟いた。俺は困ったような、曖昧な笑顔を向ける。今はそれが、記憶喪失者として一番的確な表情だろうと思ったからだ。
 ただ、その青年から溢れた呟きは聞き取れた、聞き取れてしまった。何度も聞いたことのある懐かしい響きだったからだ。そして生涯、忘れることのない呼称。
………………父さん」

「ビル、もう頭痛は大丈夫なの?」
 晩飯時に、ハンナが尋ねてきた。心配そうな表情をしつつ、苦手なニンジンをこっそり避けている。会話をすることで母親の気をそらそうとしているのかもしれないが、アニーにはお見通しだった。
「今日はあの後、調子が良いみたいだったわね」
 アニーが軽く叱りつけながら、再び食事の上にニンジンを乗せ直す。げえ、と顔をしかめながら、諦めて大人しく食べ始めるハンナを見て、俺は笑った。
「ああ、大丈夫だ。すまないな、迷惑をかけて」
「本当に? それなら良かったんだけど。ちょうど鎮痛剤を切らしていたから、明日また買ってくるわね」
 アニーが自分の漢方薬の入っている引き出しをゴソゴソと探り、予備がないことを改めて確認してくれた。
 それでもなお、もどかしそうにしている少女を見つける。苦手な食べ物を食べたからではなく、心の底からの俺への心配だ。俺はハンナの頭をくしゃりと撫でた。ハンナは今年で九歳になる。ちょうどあの子が、うちに引き取られて、笑顔を頻繁に見せ始め、ませたことを言うようになった年齢ぐらいだ。
 俺は笑った。多分この家で見せる最後の笑顔だった。ハンナには、なぜか、見せたいと思ってしまった。明日にはきっともう会えないだろうから。
 殻の中の存在が、まもなく自分を、まるで暁霧ぎょうむにしまい込むように覆う。