死ぬまでに知りたいたった一つのこと

pixiv再掲
クリア後いくらか経った世界観。ミカグラの花屋で働いている記憶喪失の男性が、花屋にくる不思議なお客を相手にしながら自分を取り戻していくお話です。
アロルク要素はとても薄いですが、最後に彼に「ボーイフレンド」と言わせたかったがために書いたお話…!
とてもネタバレのため、真エンドクリア後閲覧推奨です。



2.Bill meets Chesley.

 店先に水をまいて、今日も暑い日との戦いだ、と着ていたシャツの袖をまくる。七分ほどまくったところで、思いとどまりそこまでにしておく。
 これ以上は、人に見せられない肌だ。
 別に誰がじろじろ見るわけでもないが、家族のことと同様、聞かれたら困ることだ。だって本当に、俺はこの肌についた傷に関しては、何も知らないのだから。
 ──初めてマークの家族に拾われ、「シャワーを」と言われてふらつく足で熱い湯に当たった時、自分の体に信じられない傷を確認した。それも体中に複数箇所。裂傷、火傷、様々な形をしていて、もうずいぶん古いらしかった。そしてその時も、この傷は人に見せてはいけない、と本能的に理解した。
 バスタオルに包まれて水滴を拭うと、鏡が見えた。これは自分の顔だ、そして、自分の顎、首、肩。きちんと覚えている。 ただ、この形を作っている存在が誰なのか、ということだけが、すっぽりと頭から抜け落ちていた。どこか、遠い昔に誰かに名前を呼ばれていたような気はするが。それが本当に自分の名前なのかも曖昧だ。
 借りた着替えに袖を通し、マーク、と呼ばれた男と再び目を合わせて会釈した。すぐに出ていくから、と恐縮すると、彼は俺の頭を見て、奥さんに言う。
「おおい、何か冷やすものあるか? ……アンタ、でっかいコブができてるぜ」
 小走りで駆け寄る彼の妻アニーは、「あらあら」と間延びした声で俺に急いで保冷剤を渡す。妊娠中なのか、少しお腹の大きかったアニーに無理をさせてしまった。シャワーで温まった頭は血流を取り戻したのか、そういえば後頭部がさっきから少しばかりジンジンと痺れている。
 自分のくすんだ金髪に、小さい手が触れた。マークの子どもで、まだ小さい。コブがあることはつまり痛いことなんだ、というのがわかるようになってきた年齢だろう。眉を下げて悲しそうな潤んだ瞳をしている。
「大丈夫?」
「ああ……むしろ、言われるまで気づいていなかったよ。だから大丈夫だ」
 不思議と、マークやアニーと喋る時より流暢に、子どもに向かって話すことができた。髪が短いから男の子かと思っていたら、ゆるいウェーブヘアの先にピンクと水色の水玉模様でできたヘアゴムをつけている。
「おじさん、ご飯は? 食べていかないの?」
 どうやらとても人懐こい子どものようだ。得体の知れない中年男性を見て食事に誘うなんて、危ない橋を平気で渡ろうとする。けれどマークもアニーも、うんうんと頷いた。
「うちの子がこういうんだ、アンタ、食ってけよ」
 マークは褐色の肌を揺らして笑った。アニーも同じような肌色で、ハリのある頬をまるくして、お腹を揺らして笑っている。
 食卓に並んだのは、家族の分から切り取られたラザニアだった。トマトベースのミートソースとシートを重ねて作る、決して一人用の食事としては作りづらい食べ物。家族の味、というものを味わい、口に運んでその美味さに驚いた。
 ……驚く、という感動を、俺は久しく感じていなかったように思う。コブをさすりながら、俺は二口、三口とラザニアを食べ、温かいジンジャーティーをふるまわれる。出会ったこの時の俺はあまりにも体が冷えていたそうで、慣れてきた今でも、未だにアニーは夏だというのに温かい飲み物でもてなしてくれる。
 すっかりと胃を膨らませると、記憶を失っているはずなのに何かに満たされたような感覚に包まれている。このままでもいいのではないか、と思えるくらいに──
 暑いから頭がぼうっとしたのか、数週間前のことを遡っていた。ひっきりなしに来ていた客も今は昼休憩の看板を出したので、いない。ランチ用にクーラーボックスに入れておいたコールドサンドを取り出して、シャキシャキのレタスを頬張る。アニーの手作りはいつも、新鮮な野菜を使うと決めているらしい。実家が農家だったらしいから、なおのことこだわるのかもしれない。
 そんなサンドイッチをうまそうに頬張っている最中に、まさか数日前の男が花を送った、キキョウの麗人と出会えることになろうとは、俺は想像もしていなかった。
……おや、休憩、ですか」
 紫色の服に身を包んだ彼は、花にも劣らぬ良い香りをしていた。さらりと流れた長い髪は、ミカグラでも珍しい銀や白、ほんのわずかに翠にも見える。プラチナ、と呼ばれる類の色は、よく手入れをされているからなびいても全く崩れない。
「こんにちは」と小さく挨拶をされて、俺は目を見開いた。道ゆく女性は彼を見て、「キャア!」と悲鳴を上げている。ああ、なるほど。これがキャアキャア言われている、ということか。
 いやいや、もしかしたら彼がキキョウをプレゼントされた男ではないかもしれないぞ。自分の先走った勘違いかもしれない。八割程度の確信に留めながら、それでも俺は挨拶を返した。
「どうも。すみませんね、もう少ししたら店を開けるんで」
「構いませんよ。開く時間になりましたら、また来ます」
 恭しくお辞儀をして、男はターンして道を渡った。斜向かいには喫茶店もある。ミカグラで有名なコーヒー屋で、豆にこだわっているらしい。農園にもオーナー自ら赴くほどなんだとか。強い情熱を持った店なら、あの男のことも満足させてやれるかも。何となく俺は麗人に、そんなシビアな判決を下しそうな印象を抱いていた。
 もう一度、食べかけの歯形がついたサンドイッチに目を落とす。色鮮やかなトマトとレタスが、どうしてか彼を見た後だとくすんで見えてしまう。アニーに申し訳がたたない。俺は心の中で、ごめん、と詫びながら、サンドイッチを急いで咀嚼し、飲み込んだ。味はとても美味しい。マスタードのきいた塩味のベーコンを最後に喉に通しながら、さてどうしたものか、と首をコキコキ鳴らした。
 ──果たして男は、休憩が終了して一時間後ほどで現れた。コーヒーの強い香りでもくっつけてきているのか、と思いきや、変わらない男に似合った良い香りを漂わせている。俺なんて、あそこに飲みに行ったらマスターにつかまって軽く二時間は座らされ、すっかり全身をコーヒー豆の匂いに包んで帰宅するというのに。
「ほう……これは見事な花ですね」
 やはり彼も、この間来た男と同じように左側の棚からしげしげと眺めている。花を手に取れば、とてもよく似合っていて、店の宣材写真に欲しいくらいだ。周りの女性客は、頬を染めて男を見つめている。
 けれど俺には、身震いがしていた。別にこの場所はクーラーが効きすぎているわけでもない。風通りが良いかと言われたら、それも違う。
 何だろう、この違和感は。
 俺は男のことは見たことがない、いや、見たことがある、のかもしれない。体が彼に対して激しく警鐘を鳴らしている。しかし、露骨に態度に出すのもいけない。彼はただの客、そして、ここの店の客人から花をプレゼントされ、わざわざ花屋に出向いてくれているのだから。今日日そんな人間は滅多にいない。
 ──迂闊に、足を踏み入れるな。そいつは危険だ。
 自分の中で、誰かが叫ぶ。
 花の匂いを嗅ぐ仕草も、髪をかきあげる手つきも、こちらを見ている目線も。覚えていないはずなのに、全て霞がかかったようになっているのに、脳裏にいつかの映像が浮かび上がってくる。
 あれは、少し幼い彼の姿だ。ピアノを弾いている。
 俺は手元で仕上げをしていたブーケの紐束を取り落とした。青と、白と、グリーンを織り交ぜた、夏のダイニングにも爽やかに見える彩りを、と俺が考えて作ったブーケ。男はそこに目をやって、顎に手を添え小さく呟く。
「あなたが、作ったのですか?」
 長身の彼が手に取れば、あまりに小さい花束だった。麻の紐で一旦仮締めをして、上からリボンを当てて雰囲気を考えようとしていたところだ。さっきピンクのリボンを当ててたら、あまりに全体がこぎれいにまとまりすぎていたので、やり直している。花も可憐な印象のブルースターから華やかさの増すアジサイに変えた。
「ああ、近頃はこういうブーケがよく売れるから、担当させてもらってるよ」
「そうですか……一つ一つ、意味のこもっていそうなブーケをお作りになられる」
 言い方は丁寧だが、やけに俺に含みのある口調で話してくる。気を抜いてはいけない、とまた心の中で誰かが話す。わかっている、と唇を引き結び、リボンを選ぶフリをして相手を観察した。
 さっきまでは、ただうつくしさに呆気にとられていたが、よくよく見れば、彼は目元に浅からぬ傷を負っている。メイクでごまかしてはいるが、わずかにまばたきの速度が右と左で違う。あれは、おそらくそこまで視力が回復していないのかもしれない。
 こんなに暑いのに手袋は外さないし、店に来てからも触れるものは限定している。よほどの潔癖か、店に対して何か汚い印象を抱くようなことがあったのか。細く、長い指は脳裏に浮かんだイメージ通り、ピアノを弾くのに向いている。
 そしてこの暑さの中で、汗一つかいていない。汗は、少なくとも動揺がわかってしまうツールだ。一切かいていないと、その人物の考えはわかりづらくなる。参ったことに、俺は彼の考えがいまだに読めない。
 けれど自分でも驚いたことに、彼に会ってから、俺の額にも一切の汗をかいていなかった。さっきまではあんなに暑さに体が順応していて、ふき出すほどだったが。
 まるで彼に会って、汗をかかない機能を、思い出したかのように。
 男は薄く笑って、こう言う。
「アジサイの花言葉は、移り気、冷酷……
「何を」
「いいえ、花屋に花言葉を説くのは野暮でしたね。そもそも、見栄えの良い花を使うためなら花言葉なぞ気にしては作っていられない。あなたがお作りになっている花束は、そんな言葉など考えなくとも、見る者を引きつける素晴らしい出来栄えだ」
 だからきっと売れていくのでしょう。と、先ほどからカウンターでブーケを買う客が絶えないのを見ている。そんな客たちに、マークが丁寧に釣り銭を返し花を渡す。
「どんなお気持ちで、花束を作られているのですか?」
 どんな? どんな気持ち、と言われても。
 俺がブーケの担当に選ばれたのは、全てマークの一存だった。ある日、何もわからない俺をポンと店頭に立たせ、一から作業をアニーと教えてくれた。飲み込みが早かった俺は一通りの店の仕事を覚え、そんな折にブーケを作ってみないか、と言われた。
「ビルならきっとできるわよ」
 と柔らかいアニーの言葉に、不思議と今の自分にはできるような気がした。恐る恐る一本ずつ、慎重に飾り付け、組み上げてみる。記憶は失われているが、確かにそこには誰か、相手がいた。その相手のために、作っていた。
 誰なのかはわからない。けれど、何を考えていたのかは毎回違う。
 幸福を、成長を、喜びを、悲しみを、寂しさを、慈しみを。全て教えてくれたような気がする相手だ。本当に、朧げにしか頭にない。ただその気持ちだけで作ったブーケは、次の日から飾られ、少しずつ買い手が増え。俺が働き出してから二週間、噂を呼んで売れ始めた。
 俺は最初、気分が高揚しかけた。心臓がポカポカと暖かくなる感覚だ。次いで、その感覚を、俺は持っていいのだろうか、と疑問に思った。ここでマークやアニーと一緒に売り上げを数えながら、今日買っていた人の笑顔の話や、手をつないで帰っていくカップルの様子を、笑って聞いていることが正しいのか。溝の前で立ち止まり、思考を重ね、そして──まるで暑さに負けた花のように、しおれていった。
 わからなかったのだ。多分、この高揚という感情、いやむしろ、その他の様々な感情を抱くことをずいぶんと長い間してこなかったんだ、と感じた。慣れない感覚に、肌は粟立ち顔は引きつって。マークとアニーに見えないところで俺は自嘲を噛み殺して、下手くそな笑いを貼り付けたまま、家族の中で一人たたずんでいた。
 こんな機械のごとく鉄の心を、俺は一体どうして持ってしまったんだろうか。だが、もしもそれが当たり前に記憶を失う前の自分が持っていたんだとすれば、花を作る時のあの感情たちは何だというのか。
……色んな、気持ちだ。何もかも、一緒くたになっている。けれど少なくとも、怒りだとか暴力的な感情だけは、入っていないと言えるな」
 美麗な男にやっとのことで返事をすると、男は数度まばたきをした。今の俺には精一杯の言葉だったんだが、伝わらなかっただろうか。しかし彼は一つだけ俺を肯定するように頷いて、ブーケの棚を眺めた。
「あのひまわりが使われているブーケをいただけますか?」
 彼が手袋をした指で差した先には、棚の中にあるものでも、俺が気に入った作り方で最近アレンジメントをしている花束だった。
「ああ、少し、待ってくれ」
 入れ替わりの激しいこの列にあっても、やはり花は暑さで傷みやすい。緑の葉が弱っていそうなものは取り替えて、花を点検する。生き生きとしたひまわりは太陽の暑さも気にせず凛としていた。俺の手に包まれてなお、まだ成長をしているような。
 もしかしたら、先日来た男にやるのだろうか。そうだとしたら、リボンもラッピングも変えて店がわからないようにした方がいいのではないか。いや、そもそもこの男なら、買う店を変えるか。
「送る相手は、男性か? それとも女性?」
「男性です」
 ふむ、と相槌を打ち、俺はカウンターへ移動する。ちょうどマークがすれ違い、俺の客の横顔をまじまじと不躾に眺め、大量の汗を滲ませてTシャツの袖を肩までまくって接客へ向かう。
「ならリボンは、何色がいい?」
 俺は贈答用のリボンを何種類か取り出した。サテン地で、様々な色味を取り揃えている。一つ取り出すごとに男は吟味して、青と赤が出てきたところで俺を制止した。
「そうですね、ああ、その赤色だけはやめてください。青にしましょう」
 俺は、キキョウの麗人が見せた人間味に、ほんのわずかに驚いて、そして笑ってしまいそうになった。
「赤は獰猛で、野蛮で、血気盛んに見えたか?」
 からかうように彼を見ると、キョトンとした顔をしたまま、眉根を寄せた。そして、
「あなたにも、今にわかりますよ」
 と告げたのだった。
 俺は何のことかわからずに、それでもブーケを仕上げると男に渡す。青色のリボンがたなびく花を持って、彼は静かに立ち去った。

 ◇

 ……マークの家に帰宅したその夜、ゲストルームで俺は飛び起きた。夢見が悪かったわけではない。吐き気を伴うほどの、頭痛に見舞われたからだ。ズキズキと痛む脳の中心は、内側からじわじわといたぶられているようだ。
 夜中だというのにリビングのライトをつけて、親子三人の食器が並ぶガラスケースからグラスを取り出した。そして冷えたミネラルウォーターをあおると、少しだけ、ほんの少しだけ気分が和らいだ。
 しかしこの頭痛はしばらくの間続くことになる。夜に限らず朝も、昼も、不規則に襲ってくるようになった。俺は店を休みがちになり、ベッドにうずくまる日々もある。時折アニーが持ってくる食事は、半分以上が食べられない。薄い意識の中で、それだけが申し訳なく思っていた。
 マークやアニーは病院を勧めてくるが、俺には今、健康保険も本人確認書類もない。どうすることもできぬまま、市販の鎮痛剤を今日も水と一緒に喉へ送る。そうしてごまかしながら店に立つこともあったが、そろそろ限界なのかもしれない。
 俺は暗い谷底を、淵から見下ろしているような気分だった。その底にはもう一人の俺がいる。
 そしてそいつは、全くと言っていいほど、出来すぎた演者のようににこやかに笑ってこっちを見ていた。