ずっとまえから、好きでした

村上くんが来馬先輩を意識し始めるけど、気持ちを隠し続けるお話。
本編より六年後のお話や、村上君の身長がちょっと伸びたりする描写があります。
支部で朝食を取ったり、いろいろ捏造もあるので生ぬるい目でお読みいただければ幸いです…!



 あれから何度目かの春が、鈴鳴支部の上空に桜の花びらを舞わせた。
 いや、正確には六度目だ。自分は二十四になる。あの人は二十五、幹部になって二年。そんなことを、すぐに頭の引き出しから出せるほど、村上は毎年をきちんと数えていた。
 来馬の卒業も、幹部着任も、ボーダー内での式典も、すべて顔を出して見てきた。自分もまた、新しい隊を作って及ばずながら隊長として奮起していた。ときどき顔を合わせることもあって、「先輩のすごさを改めて知りました」と嘘のない目で伝えると、「鋼はいい隊長だよ」と負けじと恥ずかしいことを言ってくる。
 鈴鳴支部が弱小と言われなくなってずいぶん経った。玉狛と並ぶほどはまだ無理だが、それでも実績と成果を残し続けている。支部、という立ち位置に甘んじず、本部との連携もうまくとっていった結果だ。
 河原に咲く桜は、見事な枝ぶりをしている。観光で見にくる人も多い。ボーダー本部の屈強に見える佇まいと、桜の儚さはひどくバランスが悪いはずなのに、写真に撮ると意外とSNSで好評だったりする。祭りか屋台を出しているのか、並んだ提灯には昼間なのに明かりがついていた。
 橋には写真を撮る人々が群がっていて、川にしなだれる桜の風情を楽しんでいた。村上はそばを通り過ぎるとき、持っている紙袋が当たってしまわないように注意をした。引き出物の入っているそれは、重量もある。
 ここのところ着る機会の増えたスーツの襟を広げ、革靴を鳴らす。まだこの街にきたばかりのころより少しだけ上から見下ろす川は、花びらを数枚揺らしながら運んでいた。
 ──同級生が、立て続けに四人ほど結婚した。今回の出席でしばらくは式に呼ばれることはないだろう。今日のは今まででいちばん華やかな結婚式だった。幸せそうな二人に穂刈が一筋だけ涙をこぼしていた。そんなに涙もろいやつだったか、と慌ててハンカチを貸す。たしかに新郎は、ボーダー関係者以外だと穂刈がいちばん仲の良い人だった。
 影浦はスーツを着ることさえ嫌がって窮屈そうに席に座っていた。水上は拍手をしながらもどこか別の場所を見ている。
「どこ見てるんだ?」
 と聞けば、
「あそこの設備だけ古いのなんでやろって思っとった。きっとここ内側だけリフォームしたんやろな」
 と返された。水上らしいと村上は肩をすくめる。
 堅苦しいスーツをようやく脱げる、と影浦は披露宴後、早々に帰宅した。穂刈は二次会へ行くという。水上は本部へ呼ばれて行ってしまった。
 村上も二次会へ行こうかと思ったが、支部でやることが溜まっていた。隊長の任務はさまざまで、またしてもここで来馬先輩はこんなこともしていたのか、と頭が上がらない。
 袋を持ったまま、あいかわらず人混みには注意して先を急いだ。今日は一人で黙々と作業をする日になりそうだ。村上はため息をつく。


 タブレットに情報を入力して、自分の役割は終わりだ。気づけば薄暗くなっていた外を見て驚く。慌ててカーテンを引き、電気を灯した。十八のころから使っているライトは、もうすっかり古くてネジが一つ取れてしまった。今はそのネジも、どこへいったかわからない。特に困ってもいないから、探しもしなかった。
 ひたすらに日々のタスクをこなし、任務を遂行し、支部へ帰って泥のように眠る。なにかに追われているわけでも、焦っているわけでもない。けれど、村上はずっとそうしていたかった。ずっとそうして、ふとしたときに己から湧き出してくる感情に目を背け続けてきた。
 近頃は特にひどい。来馬を見るとただでさえやわらかな内面が歪んで痛む。いっそ会わなければいいかと、なにかしら言い訳をして避けてはみているが、もう聡い相手にはごまかせないだろう。
 いっそ誰か助けてほしい、じゃあ誰が助けになってくれるのだろう。思い浮かぶのは友人たちだ。けれど、彼らはもう六年もまえに村上に答えをくれている。つまり、なにもかもが村上次第なのだ。
(言うべきか、言わないままか)
 ぐうと腹が鳴る。そういえば、披露宴でも少ししか食べられなかった。新郎との写真撮影や周りに気を取られて、食事に集中できなかった。オリーブオイルで色づいた魚がすっかり乾いてしまって、皿の上にむなしく散っていた。フォークでさらうと口の中に重たくオイルが乗った。魚には食用の花が添えられていて、それだけが鼻孔にどこか春らしい匂いを運んでくれた。
 空腹をごまかすように、村上は机に額をくっつける。ひそやかに卓の冷たさが浸透してくる。目を閉じれば、目の前は真っ暗になった。当然だ、ただでさえ薄暗い部屋の中、デスクの下方へ向けていた視線は自分の足元しか映していなかった。ライトの当たらない足元は、カーペットの色さえ反射せずに暗がりだった。だから村上が目を閉じたとき、暗さを容易に受け入れられた。
 額の一点だけに負荷が集中してきたので、頬をくっつけて顔を横に向ける。片方だけになった耳で、外の物音を聞いた。車の走る音、支部の誰かが歩いている音、草木のそよぐ音。村上にとっての変わらない生活音は、ひどく眠たくさせる。
(腹が減っているはずなのにな)
 今は好物の白米さえ、摂取しようとはあまり思えなかった。体の中で飢餓を感じると、脂肪や筋肉は燃焼されてしまうから、非常事態以外はきちんと食べ物を食べなければならない。隊長として自分が、隊員たちに言っていることだ。それを今は、守れていない。村上は小さな罪悪感に さいなまれる。
 トリオン体になれば食事は少なくて済むが、きっとそんなことを言い訳にすれば、
「そういう問題じゃないでしょう」
 と今あたりに怒られる。怒った顔が、すぐに浮かんで村上は笑った。
 うとうとと眠気が襲ってくる。食事よりも先に睡眠だな、と村上は、閉じたままの目を開くことはしなかった。腕を顔の下で組んで、ふたたび首を預ける。
 チリチリと鳴く虫の声が聞こえる。彼らにとって短い春だ、きっとすぐに番を見つけて、ここから飛び立つんだろう。


 目を覚ますと、慌ただしいクラクションが鳴って、外はすでに明るかった。不自然な姿勢で眠ったせいで、首はきしむし肩も痛い。
 やってしまった、と後悔はしたが、いくらか眠気が吹き飛んで気持ちがいい。伸びをしようと腕を上げたら、肩からなにかが落ちていった。
 ──自分の上着と、ベッドにいつも置いてある毛布だ。今年は寒さが少し続いたから、まだ出しっぱなしにしていた毛布。村上はかけた覚えのないものがあることに驚いて、そしてかけられたことに気づかなかった自分にも驚いた。
(誰だ……?)
 隊長である村上を気遣う人間は、ありがたくもたくさんいる。隊員か、村上とは違う隊で活躍している別役か、別役と一緒にオペレーターとして働く今か。
(それとも、いやまさか)
 椅子から立ち上がり、デスクのものも落ちた毛布もそのままに、ライトもつけっぱなしで村上は部屋を出る。扉を開けると廊下に光が差した。眠気から覚めたばかりの目には少々きつい光だ。村上は構わずに、廊下の先の明かりを捕らえる。
 キッチンへ続くドアから光が漏れていた。足音もする。村上は、そっとドアまで近づいた。ドア越しに会話は聞こえないから、この先にいる人物はきっと一人だ。
 ドアノブを回すと、湯気の香りがしてきた。昨晩思考から追い出していた食欲が、倍になって戻ってくる。白い飯の炊ける匂いと、魚の焼ける匂い。換気扇の回るファンの音と、それから、
「あ、鋼、おはよう」
 避けていた人からの、爽やかな挨拶。
「おはよう、ございます……
 じんわり汗が浮かんだ。体温がゆるやかな上昇を見せる。呼吸はまだ乱れてはいないが、このままだと詰まりそうだ。村上は一度、息を吐いた。
「朝ご飯を……?」
「うん、そうなんだ。久しぶりに作ったよ」
 座って、と言われ、村上はテーブルにつく。湯気の先には来馬がいて、なんだか幻のようだと思った。
「今ちゃんから教わったやり方、まだ覚えていたから、ちょっとやってみようと思って」
 魚を焼く手つきは慣れていた。村上はじっと作業を見つめてみる。来馬は六年前より上手くなった。料理もしない自分が言える立場ではないが、手際がいい。
 いつもそうして、自分で料理をしているのだろうか、それとも誰かに作っているのだろうか。
 一つ皿が近くに置かれるたびに、心臓が高鳴る。
「鋼もいたし、食べるかなと思って作っていたけど……食べるかい?」
 緊張は取れないのに、この人と久しぶりの食事に心は踊った。「はい」と頷き、手伝いを申し出る。
「箸と、コップを並べてほしいんだ」
 子どもでもできるような手伝いを、それでもやれることが嬉しい。避けていたはずなのに、会話には一切の淀みもないしぎこちなさもない。長年の二人の連れ添いを物語る、静かな朝の風景だった。
(オレが、意識しているだけなんだな)
 手を合わせていただきます、と唱和する。口に含んだ茶の熱さに少し戸惑った。昨日からいつぶりの食事だろうか。食べるたびに頬がじわりと滲むような美味さを感じる。魚をとらえ、身をほぐし、鮭の赤い一切れを白米と一緒に頬張った。澱粉 でんぷん質の甘みと鮭の塩みが、鈍っていた意識をどんどん覚醒させる。付け合わせに作られたサラダに箸を伸ばせば、あまりに美味しそうに食べるのを見られていたのか、「おかわりまだあるからね」と笑われた。
「鋼はよく食べるなあ」
 見れば、来馬の食卓は自分のものよりはるかに少ない。痩せぎすの体がさらに細ってしまうのでは、と村上は口に出さないが感じたが、当の本人は昔と変わらない体型をしているし、表情もいたって健康そうである。
 そのうち、自分のペース配分が悪かったのか、白飯がなくなった。椅子を引き、茶碗を持って炊飯器のまえに立つ。ふたを開けるといい匂いがたちこめた。他の隊員たちの分も取っておいた方がいいだろうか。しかし今この支部に誰が朝から残っているかを村上はすっかり失念していた。
「今日は鋼以外、誰もいないよ」
 悩んでいるのを見透かされ、来馬は言った。なるほど釜に残る米の量が少ないはずだ。
「朝早くからの防衛任務だったり、本部に泊まりだったりしたみたいだね。そのうち帰ってくる子もいると思うけど……その、今は二人だよ」
 言いづらそうに顔を俯かせながら話す来馬が、こうして食事の機会を設けた理由がふつふつとわかってきた。村上はきちんと炊飯器を閉じると、ギクシャクと足を動かして席についた。そっと来馬を見やると、泣き出しそうな顔をしている。実際来馬が泣いたところなんて見たことはないが、なぜか村上には、 おごりかもしれないがそう見えた。
「鋼、ぼくは頼りないかい?」
 ついに本題に入る。近頃、村上が来馬のことを避けていることについてだ。ふわりと二人の間に湯気がよぎった。来馬の輪郭をおぼろげにするそれは、ますます来馬を儚く見せる。
「幹部になって、支部に来ることは減ってしまったけど……まえみたいに、鈴鳴第一のメンバーには普通に接してほしい、ってぼくは言わせてもらった」
 数刻遅れて頷く。来馬が二年前、たしかに約束したことだ。
「でも、もしも鋼にとってそうできない理由や原因がぼくにあるんだとしたら、」
「先輩のせいでは、絶対にないです」
 食い気味に否定をした。村上は強く言い過ぎた、と後悔はする。しかし、決して違うのだ、とそこははっきりさせておきたかった。来馬も、肩を震わせはしたが戸惑いはない。
 来馬とは違う人間なら「普通に接してほしいと言ったのに」とか「あのときぼくはそう言ったよね?」とか、確認という名の高圧的な疑念がぶつかる。来馬は、相手に責任を問わない。詰問もしない。相手に期待をしていないとか、そういうわけじゃない。ただ淡々と、自分と相手の間に生まれた溝を埋めるだけ。
 今はその正しさが、村上にはますます好意を実感させる。
「先輩」
 六年前からずっと同じ呼び方で、幹部になってからも変わらなかった。いつまでも村上にとって来馬は、人生の先輩で、指標で、目的で、憧憬 どうけいという枠を超えて、好きなのだ。
「オレが、自分を統制できていないんです」
……それは、隊長としてってことかい?」
「いいえ、人として、です」
 まだ湯気は、ゆるやかに間をよぎっている。今度は来馬の顔ははっきりと見えているだろう。村上は、正面を見ることはできないがなんとなく気配でわかる。
「人間として、まだ、自分のことをうまくコントロールできていない。オレは高校生のときから、変われていないんです」
 村上が話すと、今度は来馬が焦ったように口を開く。
「そんなことないよ、鋼はすごく変わったじゃないか」
……どんなところが、ですか?」
「変わったよ。鋼、気づいていないのかい?」
 珍しくそう言われると、たじろいでしまう。自分のことを、あれから成長したとはいえ魅力がある人間だとは思っていないから、面と向かって懇々 こんこんと話す来馬をついじっくりと見た。
 その口から自分のことが放たれるのは、どんな具合なのか、知りたくて。
「鋼が隊長になって、新しい隊員が入ってきたとき、背中がすごくたくましく感じたよ。頼りがい……は昔からあったけれど、自分や相手の意見をすり合わせて作戦を立てていて、さらに周りを尊重できる人間になっているな、って感動したもの」
「それは……
 先輩の真似だから、と言いかけて、口をつぐんだ。今、言葉を挟んではいけないような気がした。来馬は続ける。
「お前が自分をどんなふうに思っているかはわからないけれど……昔よりも、きっと自分に自信を持てているんだろうなっていうのは良くわかるよ。それはぼくも、とても嬉しいんだ」
 ああでもこれって、隊長業を通してってことになっちゃうか……、と申し訳なさそうな、やさしい笑顔がこぼれる。村上のいちばん好きな笑顔だ。これを支えに、何年も村上はここで過ごしてきた。好きな気持ちが口をついて出そうになる。笑顔の崩れる音が空想の中で聞こえる。いけない、だめだ、と拳を握り、爪が手のひらに食い込んだ。
 湯気は消えて、食卓に自分たち二人があらわになった。自分は今どんな顔をしているんだろう。真っ当で誠実な正しい評価を下されて、喜ばない人間はいない。けれど、恋でも、愛でもない。それはあくまで先輩と後輩でのことなのだ。ズキズキと痛む心臓にさらに杭を打つ。
 しかし杭は、意外なところで自ら抜ける。
「ごめん、これだと、仕事を通しての鋼の成長を言っているだけだね。お前が知りたいのは、もっと内面的なことだ」
 どこまでも相手のために話をする来馬を見ていると、以前水上に言われたことを思い出す。
 他人がらみの、他人の悩み。この人はいつも当たり前のように、息をするように村上たちやそれ以外の他人のことを考えていた。ずっとそうだ。自分の悩みを見せてくれたのは、後にも先にも、昔部屋で話してくれた結婚の話だけだった。
「うーん……でもやっぱり、ぼくから言うとどうしてもボーダーの人たちを介して強くなれた鋼、っていう説明になっちゃうなあ……鋼がボーダーに入って変化に対応して強くなれたっていうのが本当に喜ばしくてさ」
「来馬先輩、いいんです。それで本当に十分、嬉しいんです」
 黙っていては、納得がいかないと思われるのも悪くて村上はとっさに謝辞を述べる。深々と礼をすると、来馬はほっとしたため息をついていた。
「それにオレも……自分のボーダーで過ごしてからの変化は、自分でめざましく感じています。本当に、入って良かった」
 少しは成長できた、と思えていることを暴露したのは初めてで、どうにも照れ臭い。けれど、来馬はとてもご機嫌そうに目を細めて、いつも村上に見せるのと変わらない笑みを浮かべた。
 結局自分は、高校生のころよりなにも変わっていない。しかし、変わらないことを悔やむことはもうやめた。
(オレはきっと、この人のようにはなれない。他人のことを、一から百まで他人のために考えられるようには)
 立ち上がり、来馬の座る椅子の横まで移動する。不思議そうにする彼の細い黒目は、自分の動きを追う。追われた村上の足は、来馬の真横でちょうどぴたりと止まった。
(でも違う人間だから、惹かれたんだ)
 村上はきっぱりとまえを向いて、「先輩」と呼びかけた。箸を置き、茶に手をかけようとしていた来馬が、ただならぬ後輩の様子に背筋を伸ばしたのがわかる。
「オレは、高校のときから、やっぱり自分のことでしか悩みを持てなくて」
 ここで一度言葉を切って、息を吸う。
「だから先輩みたいに、誰かのために百パーセント考えられるような、そんな人間にずっとなりたいと思っていました」
 来馬の顔がさっと赤くなる。さっきまで彼も村上のことをこんなふうにベタ褒めしていたのに、いざやられる立場になってむず痒さを体感しているのかもしれない。
「今でも、オレはずっとあなたに憧れを抱いています」
 胸の内が、スッとして軽くなる。この人を避けるのはもうやめよう、これでいいんだ。村上はやわらかく笑んだ。好意だとか恋愛だとか、それだけで人間関係は区切りをつけられるわけではない。憧れ。思慕。慕情。その感情だけでもう村上にとっては、彼のそばにいる十分すぎる理由だ。
……ありがとう、鋼」
 だが来馬の手が、かすかに震えていた。村上はおかしいと気づく。まるでこれは、数年前に結婚の相談をされる前兆のような。来馬の中になにかを内包している殻がある。その殻を破る術を、もう村上は知っている。頭の中にある、友人たちの残像が「聞いてみりゃいいじゃねえか」とあっさりと言う。
「すみません、オレ、なにか不快な発言をしていましたか」
「い、いいや、そうじゃない」
「言ってください、来馬先輩」
「どうして……
「お願いです、オレは……好きな人に悲しい顔をされるのだけは耐えられないです」
 来馬が「えっ」と裏返った声を出す。村上はしばらく、今自分が言ったことをうまく飲み込めていなかった。
 目の前の来馬の顔が、みるみるうちにゆでだこのようになる。
 あれ、先輩、熱がある? そんなにオレはまずいことを言ったか。今、オレはなんて言ったっけ。そう、先輩の悲しい顔は見たくないと言った。さっきオレが伝えたことで、先輩は明らかに表情を曇らせた。でも今度は真っ赤にしている。ええと、オレは憧れ、と言った。そしてそのあとに、悲しい顔を見たくないと言った。好きな人の悲しい顔は。
「あっ」
 村上は、数秒遅れて気がついて、同じくらい顔を赤らめた。熱があるかと思うくらい、首から頭のてっぺんまで燃えるようだ。
 好きな人に、悲しい顔をされるのは。たしかに自分はそう言った。
 村上はのぼせたように、頭がグラグラと煮えた。
(言ってしまった……!)
 憧れだと伝えて、終えるつもりだった。この気持ちはフタをして、生涯持っているつもりだった。でも憧れという言葉に来馬は、ショックを受けた顔をしていた。どうにかしなくては、とあまりに必死だった。だってそうだ、これから先ずっと好きでいるつもりだった人に、そんな顔をさせるのは嫌だった。
 観念した村上は、ダイニングの床に正座をする。今から腹切りでもする侍のごとく膝に拳を置き、来馬に頭を垂れた。
「すみません……オレは、大それたことを……!」
「だ、大それただなんて、そんな。謝らないで、鋼」
 とりあえず正座はやめようよ、と来馬は椅子を運んでくる。同じ高さで彼の顔が見られるわけもなく、椅子に座り直しても両手で顔を覆ったまま、村上は項垂れた。
……ええと、その、鋼」
…………はい」
 村上は、蚊の鳴くような声を出した。虫でさえも聞き逃すのではないかというほど。それなのに来馬はちゃんと返事を拾ってくれる。
「好き、だと言ってくれたね」
 改めて本人から言われると、心臓がうるさいぐらいに鳴る。六年も わずらっていた病だ。恥ずかしくて部屋中を転がりまわりたい。
「あのね、鋼。ぼくも同じ気持ちだと言ったら、顔を上げてくれるかい?」
 村上は、目を見開いた。今までこんなに、眼球がこぼれ落ちそうなほど驚いたことはない。心臓が口から飛び出しそうだ。そのまま爆発するんじゃないか、と思うほど、体が震える。
……顔を上げなくてもいいから、聞いてほしいんだけどね」
 まだ事実を信じられていない自分のことを、来馬はもちろんちゃんとわかっていて、話を続ける。
「憧れ、って言われて、それはもう嬉しかった。嬉しかったんだよ。でも好きだからさ、鋼にはやっぱりそういう気持ちを持ってもらえないか、ってちょっと……これはフラれたのかもなあって思ってね」
 危なかった。村上は、自分のうっかりで口を滑らせていなければ、来馬に盛大な勘違いを起こさせたままになるところだったのだ。顔は熱いし冷や汗は止まらない。目まぐるしい自分の感情で、もはやどんな顔をしているのかわからない。
「なんだか鋼と、久しぶりにたくさんしゃべった気がするよ。大人になってからはほとんど業務連絡ばっかりで、まだぼくが隊長だったころみたいに時間も取れないし」
 村上はそれを聞いて、ようやく両手を解いて顔を上げた。そうだ、たしかに。こうしてゆっくりできることだってなかなかないのに、さらに想いは通じて、目の前にいてくれて。もったいないからなにか会話を、と村上は思うが、目の前でやさしい笑顔をしている来馬を見ると、しばらくはうまく話せないかもしれない。
「それ、は、オレにも、原因があって」
「原因?」
……最近は、先輩に、迷惑をかけたくないから、気持ちがバレないように、避けていたり……してしまっていて」
 すみませんでした。とまた謝ると、来馬は首を振る。
「正直に話してくれてありがとう。もういいんだ。それにぼくも、もし気持ちをうまく隠せないでいたら……きっと同じことをしているよ」
「それ、それなんですが、」
 疑問に思っていたことを来馬にぶつけてみる。当の本人は村上の慌ただしい様子に驚いていたが、構わずに村上は聞いた。
「先輩は……いつから、隠していたんですか?」
 来馬が、目を泳がせる。年数をかぞえているのだろうか、しかしさして悩んだ様子もなくて、視線を村上へ戻す。そのときの来馬の笑顔は、安心できるというよりも、心が踊るような、どこか気持ちが湧きたつような。
 来馬が人を好きになると、こんな表情で相手を見るんだな、とやっと初めて村上は気づいた。けれどその顔を、村上はよく知っていて、見たことがあった。十八のころより、何度も何度も自分に向けられていた笑顔だ。想いの精一杯を目線にこめて、言葉には出さねど「お前が好きだよ」と告げている。今はもう村上の背も伸びて、来馬と同じ位置にある心臓が、大きく高鳴った。二十五歳まで身長は伸びる、といういつかの別役の言葉を聞いたときも、たしかに来馬はこんなふうに、村上の横で笑っていた。その幾多の笑顔を見て、村上は彼を好きだと気づかされたし、ずっと笑っていてほしいと願った。
 やわらかくて、やさしくて、村上のいちばん好きな顔。
 居住まいを正して、来馬が背筋を伸ばす。これから大事なことを言われる、と村上も身構えた。まっすぐに村上を捉え、ほころびを見せた表情をする。まるで花だ、花のようだ。
 そして来馬に告げられる。
「ずっとまえから、好きでした」