ずっとまえから、好きでした

村上くんが来馬先輩を意識し始めるけど、気持ちを隠し続けるお話。
本編より六年後のお話や、村上君の身長がちょっと伸びたりする描写があります。
支部で朝食を取ったり、いろいろ捏造もあるので生ぬるい目でお読みいただければ幸いです…!

 三門市の住宅の窓は、寒いが一重にしかガラスがないため、冷気が体にまとわりついてくる。
 自分の住んでいたところではそんなことなかったのにな、とこっちへ来て一年目のときは少しばかり差を感じた。寒波の襲ってくるこれからの三日間が村上には心配だった。クローゼットにしまっていた圧縮袋入りの毛布を取り出して、空気を含める。みるみるうちに元の形を取り戻す毛布を、布団の上にかぶせた。
 とはいえ、鈴鳴支部は冷暖房にさして困った環境ではない。むしろ、設備はかなりいい方だ。それでも、肌にじかに触れる温もりを欲して、こうして布団を用意をするのは、季節感を忘れたくないという村上なりの小さなこだわりだった。いやもしかすると、無意識に冷暖房費を節約しようと考えているのかもしれない。この建物は、自身の隊長が建ててくれたから。
(太一にも持っていこう)
 今はスナイパーの合同訓練に出ている別役の部屋は、村上の部屋よりいくらか離れた位置にある。個人のプライベートが保たれるように、部屋の間隔が一定にひらいている配慮は、我らが隊長の進言だと聞いた。大らかで気さくで、他人の意見もきちんと受け入れる来馬という家の人々は、筋が通っている息子の意見ももちろん採用して、今の形がある。
 その別役の部屋を開いて、ドアを開けた横に布団を置いた。小さくメモを添える。もしかしたら彼のことだから慌ててつまずいて転び、このメモを吹っ飛ばすかもしれない。
(でもまあ、なんとなく配慮されたとわかればいいか)
 村上は今から想像のできる別役の姿にクスリと笑った。

 ──ずいぶん、日々の小さなことに笑えるようになった。
 スカウトを受け、常人とは違うトリオン量と不思議なサイドエフェクトが活かせるのなら、とボーダーへ入った。C級隊員時代はあっという間に過ぎる。白い服の同期たちが、じろじろと物珍しい顔で自分を見ていた。あの視線は慣れていた、慣れていたが、つらい。影浦ほどではないが、村上にも、彼らが何を考えているのか手に取るようにわかった。
『サイドエフェクトがやばいから』
 やばい、なんて単語で簡単に締めくくられた会話の端々 はしばしには、嫌味や妬みが滲んでいる。村上は、それを鼻にかけて笑い飛ばすほど人間ができていない。小さいころと同じで、ちくちくと針で刺されるような痛みを心臓に感じた。これを素肌でじかに受け取る影浦がすごいと思った(本人に言いかけたが、嫌だろうと思ってやめた)。
 そして、荒船がアタッカーをやめた当時の気持ちはよく覚えている。あのどん底に突き落とされた気分。また自分はやってしまった。頭の中が暗闇に閉ざされた。
 これから、ふたたび周りを失い続ける日々なんだろうか。場所を変えてもやることを変えても、自分のサイドエフェクトは変わらない。教わることが怖くなる、けれど、教わらなければなにも進めない。
(どうすれば)
 村上は荒船がアタッカーから転身したと聞かされた日、鈴鳴支部の倉庫で下唇を噛んだ。噛んだ途端目頭が熱くなり、頭の後ろがじわりと痺れた。やわらかい痺れは渦巻く感情を静かに揺らし、目に水の膜が張られ、とうとう水滴が頬をなぞった。涙はとても熱かった。村上はそこで、「ああ、オレは荒船と本当に友達になりたかったんだ」と知った。
 十八年生きてきた中で、近しい人が去っていく瞬間は、いつも慣れることができない。
 そこに、雨で服の袖を濡らした来馬が来てくれた。もちろん、別役も こんもその場にいた。でも、雨の匂いを含みながらやってきた来馬は、誰よりも村上を心配している顔をしていた。自分が、ここまで心配をかけたことが申し訳なくなる。もうやめよう、涙を拭って立たなければ。
 そうして自分を奮い立たせようとしていると、
「鋼は鋼なりのやり方で強くなってもいいんだよ」
 来馬の言葉に、雷に打たれたように背筋が伸びる。
 ……自分には、なにができるのか。なにをしていけばいいのか。鬱蒼とした森を歩いていて、目の前に道が開けたように光が差した。そのさきにいたのは鈴鳴第一のメンバーで、隊長である来馬がいちばん手の届く場所にいてくれる。
 隊にいて、支え合うことも背を預けることも当たり前なのに、村上には一つ一つが常に嬉しかった。いまだかつて、経験したことがない。高校でも影浦と穂刈と水上というボーダーの面子で昼食をさりげなく一緒にするとき、いつだって影浦に、
「お前、んなに嬉しいのかよ」
 と真っ先に言われた。今ではもう「だって、嬉しいから」とはっきり言える。影浦はカリカリと後ろ頭をかいて、舌打ちをしてマスクを上げる。そうしてしまうと顔が見えづらいが、彼の少し高くなっている頬骨が赤くなっているのは穂刈に言われて気がついた。
 村上は、今を生きて、そして今この瞬間がいちばん楽しい、と思いながら毎日を歩んでいる。
 ──だから、恋愛という友人関係における次のフィールドに、まだ踏み込めていない。

 ◇

「ごめん」
 そう言うと、目の前の女子生徒は気まずそうに顔を俯かせて、そのうちうしろを向いて走り出してしまった。スカートがひるがえってきれいな脚の曲線が見える。見える、が、村上にはそこまでしか感じなかった。たしか彼女、バスケ部って言ってたな。とか、そのくらいの感じ方と同じ。だから彼女が悲劇のヒロインのように走り去っていっても、村上には罪悪感さえうすい。
(付き合うって、なんだ)
 自分より少し背の低い女子だった。暗めの髪色だけど、目鼻立ちがしっかりしている。彼女が何度か、違う男子生徒と歩いているのも見たことがあったような。なのに、今日は自分に告白してきた。つまりあのとき一緒に歩いていた男子は恋人ではないのか、元恋人になったのか。
 夕方だ。鞄に入れていたスマートフォンから振動が聞こえる。これはきっと誰かからの業務連絡。村上はこのあと、本部に寄る予定があった。予定を済ませたあとは「個人ランク戦やりましょうよ」と何人かに誘われていた。
 少し遠くから とびの鳴く音がする。茜色に変わっていく空のはるか先に本部が見えた。赤い空とそびえたつ壁の頑健さが、村上の精錬された気持ちをさらにまっすぐに立たせる。足先はもうそちらを向いていて、今にも駆け出しそうになっていた。
 今の村上にはまだ、彼女の横に並び立つことをとてもじゃないが、考えられない。


 本部に着くと、珍しく学生服のままの自分に幾人かが声をかけてきた。鈴鳴支部に寄らないでまっすぐこっちへ来ることはなかなかないから、年上の先輩たちからは頭をなでられ、年下の後輩たちからは学生服をつままれる。
 くすぐったい気持ちを抑えながら、からかいの中心から逃れ、ベンチに座った。自動販売機で買っておいた炭酸飲料に口をつけると、喉が冷えと刺激で心地いい。自分のトリガーをポケットの中で探りながら、まだ換装はしないでおこう、と決めた。今はどこか、さまざまな高揚している感覚が、はっきりとわかる生身のままでいたい気分だった。
「鋼」
 天井を仰いでいると、その視界の片隅に見覚えのある顔が覗いてきた。「わ!」と慌てると、来馬はおかしそうに肩を揺すって笑っている。
「こっちに来ていたんだね、ぼくも予定があったからいたんだ」
「そ、そうだったんですか」
 こうやって自分をまれにからかってくることがあるのは、荒船との一件以来、ずいぶんと打ち解けたからだ。来馬も嬉しそうにはにかみながら、村上に笑顔をよこす。
 やわらかくて、心が踊るような笑みは、村上がいちばん安堵する表情だ。夕方、自分に告白をしてきた女子は引きつった表情だったな、と思い出す。もう彼女のことは頭からすっぽり抜けていたはずなのに、ふとそんなことを考えた。
(比較なんて、しちゃいけないのに)
 村上は来馬に気づかれないよう小さく首を横に振ると、自身の隊長に向き直った。手の中で揺れた炭酸水が、ちゃぷんと音をたてる。
「このあとは支部に戻るの?」
「いえ、個人ランク戦を頼まれてまして」
「へえ、久しぶりに鋼のランク戦、見ていこうかな」
「太刀川さんに捕まったら厄介ですよ」
 冗談を言うと、「それもそうだね」と言いながらも来馬は足取りを同じ方角に向けている。本部での予定はなんてことはない、同じクラスの水上へただの届け物だ。「机ん中に参考書忘れてもうた、すまん」と簡素なメッセージを受け取っていたから、渡しに行くだけ。
「支部じゃないところでこうして並んで歩くのは、久しぶりですね」
「鋼を支部へ迎え入れるまえに、自己紹介したときくらいかな?」
 ニコニコ笑って横へ並ぶ先輩を、少し上目づかいで見る。身長差は四センチ、肩幅や体格差は村上に軍配が上がるものの、品のある立ち振る舞いやちっとも不躾 ぶしつけでない目線の下ろし方は、来馬にしかない特徴だと思っている。自分はそれをとても好ましく見ていた。育ちや環境が違えど、少なからずガサツな面や大雑把なところがありがちなほとんどの男子と、一線を画している。
(花を、見ているみたいだ)
 女性的な意味では決してないのだが、村上は柄にもなくそう捉えている。誤解を生みそうだからずっと心に秘めていた。ゆっくり丁寧にいろいろな話を聞かせてくれる来馬を眺めながら、村上は彼がなんの花なのかをひそかに考える。
 きれいな女性の立ち姿をよく芍薬や牡丹に例えるが、そういうものよりも小ぶりなような気がした。花屋の軒先で元気いっぱいに咲いているような。それでいて、束ねれば主役も、脇役も、程よくどのバランスも取れるような。こんなことを思いながらも花の名前には詳しくないのだから、考えるだけ無駄なのだが。そういう日常に彩りをくれたり、心が湧くような気持ちにさせてくれるのが、村上の中での来馬のイメージだった。
 ──水上に頼まれたものを渡すと、「お礼」と小さな紙袋を渡された。生駒隊のオペレーターがちょうど作って余らせてしまっていたクッキーが、いい匂いをさせている。
「太一が喜びそうだね」
 そう来馬に言われると、ランク戦の約束も早々に鈴鳴へ行きたくなってしまう。
 でも、約束は約束だ。トリガーを取り出し換装して、目的地へ向かう。
「少しお待たせしてしまうかもしれませんが」
 とロビーで座る来馬に断り、「いいよ」と手を振るのまでしっかり視界に入れると、村上はランク戦の予定をしていたメンバーのところへ走って合流した。
 そのとき走っていく自分の後ろ姿は、夕方自分に告白してきた彼女のように、未練を見せてはいなかっただろうか。


 個人ランク戦を終えて(というより、村上が落ち着かなくて早めに切り上げてもらって)、急いで来馬のところへ戻った。ロビーの椅子にもたれながら、姿勢こそきちんとしているものの、わずかに首をかたむけて眠っている。持っていたタブレットと資料を取り落としそうになったから、村上は慌てて彼を起こした。
「来馬先輩、すみません。お疲れだったのに」
 先回りして彼が疲れていることを見抜く。
 普段、来馬は穏やかでどことなく柔和なようでいて、衆人環視の中で眠る姿を晒すような人間ではない。仮眠となればきちんとした身なりに着替え、きちんとベッドへ行く。
「気の抜けた姿を見せたらいけないって、言われていてね」とはにかみながら教えてくれたことがある。誰にどう言われたのか。彼の出生を知っているから、自ずと頭で想像がつく。そしてたしかにこの人は、人のうえに立つべくして教育されているんだな、と胸が痛んだ。
 ボーダーの隊長として立つためにそういう教育をされたわけではないだろう。企業のトップとして、取締役として、はたまた新しいプロジェクトのリーダーとして? 村上には到底知り得ない世界だった。
「あ……ごめん、ぼく、寝ちゃってた?」
「はい、お疲れのところ、待たせてしまってすみませんでした」
「いいんだよ、ぼくが見たいって言ったんだから……でも結局最初の方しか見られなかったな、残念」
「後半も、なかなかいい試合ができました。すごく勉強になりましたよ」
 はは、と来馬が人好きする笑いを浮かべて、村上の肩を叩く。
「鋼にとって良かったんなら、ぼくにとっても嬉しいよ」
 さあ行こうか、と立ち上がり、伸びをする来馬の関節がパキパキと鳴る音がする。村上は支部に帰ったらできることはないか考えた。
(そういえば、さっきもらったクッキーと合いそうな紅茶があったような。今に聞いて、淹れてもらおう……オレは紅茶はうまく淹れられないし。それに、書類整理と次のランク戦に向けての情報収集は、先輩の代わりにオレが受け持とう)
 帰る足取りが少し早くなった。来馬を置いていくような形になりかけて、慌てて村上は歩幅を合わせる。
 どうにも自分は、この隊長が絡むことになると気が急く。


 今の淹れた紅茶は、本当に美味しかった。今日は珍しくまだ失敗をしていない別役が、頬をクッキーでいっぱいにして、目を輝かせている。村上は小動物を見ているような気分になって、おかしかった。今が注意をして、慌ててごくんと飲み込む姿は、さしづめリスと変わらない。
「生駒隊のオペはなんでもできるんだね、花を隊室にいけたこともあるって聞いたよ」
 来馬が話すと、今もうなずく。
「すごくきれいで良かったみたいなんだけど、すぐに下げちゃったみたい。私も見たかった」
 生駒隊はほとんどが県外スカウト組だから、最初は話せる人間も少なくて暇だったときもあったらしい。水上が言っていた。だからそのころに水上は趣味で落語を覚えたり、真織は花をいけたり。そうしてさまざまな方向に視野を持っている人間が結果的に集まれて、楽しいとつぶやいていた(楽しい、というのは村上の曲解かもしれないが、「まあええと思うで」とぶっきらぼうに言う水上は今までになかった)。滅多に聞けない水上からの隊自慢は、どこかくすぐったくて、気持ちがわかる。
「鋼くん? どうしたの?」
「いや、水上がまえに自慢していたのを思い出したんだ」
 気がつけば、笑っていたんだろう。不思議に思った今が尋ねるまで、自分でも意識していなかった。笑顔が自然と出てくるようになれて、本当に自分は毎日を楽しんでいるんだな、と嬉しくなる。
 しかし、目の前のソファに座っている自隊の隊長を見やれば、まだあまり疲労が取れていないように思えた。今もそれには気づいていて、村上と目が合ってうなずき合う。
「来馬先輩」
 残りのクッキーを咀嚼しながら、来馬がこっちを向いた。生身の体だが、顔色が悪いとか、目の下にクマがあるとか、そういう様子はない。ただどこか、いつもよりぼんやりとしていて手元を見ていることが多いのだ。
「もしお疲れでしたらオレが残りの業務やっておきましょうか」
 今も続けて相槌を打つ。別役だけが村上と来馬の顔を交互に見ていた。来馬がほんのわずかに肩を揺すったのがわかる。一瞬、唇を噛んだのも。しかしすぐに、いつも通りの表情を作られた。
「ありがとう、大丈夫だよ。今回のはぼくじゃないとダメな内容もあったんだ。だから鋼たちはログのチェックをお願いするよ」
 本人に大丈夫、と言われると、引き下がらざるをえない。それに風邪や熱ではないようだ。寒そうにもしていない。村上は眉を寄せたが、その表情に来馬は気づかないふりをしたようで、紅茶のお礼もそこそこに自室へ足早に去っていった。
……鋼くん、ここに来るまでになにかあったの?」
「来馬先輩、ちょっと上の空でしたね」
 別役もようやく話に入れる雰囲気になったからか、口を尖らせて来馬の行った方角を見ている。
「ここに来るまで……は、オレのランク戦を珍しく見ていってくれて、でも途中で眠っていたんだ」
……先輩が?」
「え、レアっすね」
 目を見開く二人に、村上はうなずく。
「オレもびっくりしたんだが、本人は眠っていたことに気づかなかったみたいだ。時間にしても、もしかしたらそんなに長い時間ではなかったのかもしれない」
「よほど疲れていたのかしら……
 神妙な顔つきで顎に手を当てる今に、別役が頭の後ろで腕を組んで話しかける。
「うーん、家のことでなにかあったとかですかね?」
「それはあるかも。私たちには言えない事情とかかもね」
 別役はときどき、するどい。廊下の先、隊室で思い悩んでいるであろう来馬のことをそれぞれが想像し、うなる。
……ボーダーをやめろって言われた、とか?」
 今が考えたくないような顔で言った。すかさず村上は止める。
「いや、まさか。だってこの支部を建てたのも家で決めたことだろう?」
「弟くんがボーダーに入りたいって言ってるのかも!」
「それなら嬉しいがな」
 本人が話すまで答えはわからない。そもそも、敬愛する隊長に隠れてこそこそと噂をすること自体、村上も今も別役もあまり好んではやりたくない。特に人一倍、人間関係において辛い扱いを受けてきた村上はなおさら。
 三人の間でいつしか沈黙が生まれた。これ以上来馬の話はしない、という暗黙の了解だ。きっと彼なら、自分たちの隊長なら、みずから原因を喋ってくれる日が来る。その信頼と結束は、いつだって鈴鳴第一の強みだ。
 ソファに背をあずけ、深く息を吐いた村上は、さっきまでの来馬の表情を思い出していた。それは色鮮やかで、とっくに告白してきた女子生徒の姿は上書きされ、脳内で薄れようとしていたのに。

 その夜、夢に見たのはなぜか彼女の後ろ姿だった。