シノハラ
2024-10-18 21:02:57
16960文字
Public アルカヴェ
 

12 months plus one(の前半)

セ伝任2を受けて12ヶ月のアルカヴェの本の前半6ヶ月分の短編集です。
通販は以下からどうぞ。
https://ec.toranoana.jp/joshi_r/ec/item/040031161435


9月
 件の家が人の手に渡ったと聞いて、ざわりと肌の下で蠢いた感情は不安だった。その心の動きが表情にまで這い上がらないように注意して探りを入れると、カーヴェが気に入った部分を同じように魅力と捉えるような人がいたのだと言う。
 それはよかった、と紡いだ言葉に嘘はなかった。それはもうカーヴェの方がびっくりしてしまうくらいに、波打ちかけていた心が凪いだのだ。もう少し焦りや悔しさを感じると思っていたのに、そっち方面の感情は一つも湧いて来ない。
 そう言えば、と不動産業の男は情報を少しでも取り込みたいのだとばかりに目を見開いた。
「カーヴェさんはもう探してらっしゃらないんですか?」
 曖昧な口ぶりに何を、と問い返そうとした口をカーヴェは何とか閉ざした。何を、ではない。家の話に決まってるだろ。
 好きに手を入れられる家が一軒欲しいのだと、まるで手慰みのために欲しがっているような素振りでカーヴェは彼に注文をつけていたのだ。急ぐものではないし、僕が顔を見せた時に良さそうな物件があればなんてふんわりとした注文にして。そうすれば、まさかカーヴェが家を失っていて少しでも安く住居を手に入れたいのだと考えているとは思われまい、と思ってのことである。
「ちょっと機縁を失ってしまったんだ。本当は今頃もう少し暇なはずだったんだけど」
 確かに最近彼に会いに行く努力を怠っていたと思う。ひとまずこの場を凌ごうと、カーヴェは適当に思いついた言葉を選ぶ。
 仕事が忙しいのは本当だが、その中で時間を積極的に作ろうとしなかったのは他ならぬカーヴェである。どう取り繕おうと、結局のところカーヴェはその意欲をいつの間にか失ってしまっていたのだ。
 他の誰かに掠め取られるだろうあの家を最後に惜しんだのはいつだっただろう。素面では口にしなくなって、酔っていても全く違う愚痴に始終するようになって。それで。
 またご用ができたらよろしくお願いします。クライアント向けの土地のご相談ももちろん。そう、カーヴェに営業のための挨拶をした男と別れて、カーヴェは帰路に就きながら一人記憶を辿っていた。
 自分だけの家について夢想じみた考えを巡らせなくなったのは、いったいいつからだったのだろう。明確なきっかけというものはなく、日々の生活が少しずつ欲求を洗い流していったとしか言いようがないと結論づけたのはほとんど無意識に足を進ませて自宅にたどり着いた頃だった。
 アルハイゼンよりも一足早く戻ってこられたらしく、家の中は薄暗い。とはいえ明かりを付けないとどうにもならないほどでもなかったため、カーヴェは照明に触れることなく居間まで辿り着いた。ぴぽ、と隣で音を立てたメラックがカーヴェから離れて、お気に入りらしいカウチの隅に着地した。うっすらと光る目のような出力装置の光量が弱まるのを見届けてから、カーヴェはテーブルに近づいて天井を見上げる。
 遠くなったように感じる夕日を受けたステンドグラスがほんのりと光を湛えていた。日中ではないせいでカーヴェの下までこぼれ落ちてくる光量は少ないが、ちらちらと揺らめく光を見上げていると気分が落ち着く。
 ここを研究施設として使っていた頃から、カーヴェは時折天井にあるステンドグラスを見上げていた。行き詰まって閉塞感を抱えたままカウチに仰向けになり、ぼんやりとその光を眺めていたのを思い出す。その美しさはカーヴェが抱えている問題を今も昔も解決こそしてくれなかったが、ほんの少し思考に余裕を与えてくれる。
 アルハイゼンが市場ではあまり見かけなくなっているカウチをわざわざ探して取り替えでもしていない限り、メラックが身を預けているそれも以前からあったもののはずだ。このカウチの使い方は今も昔もあまり変わらず、カーヴェとアルハイゼンの生活の中心になっている。
 書斎に向かえば背の低いテーブルがカーヴェが見上げている物と揃いのステンドグラスの窓の前に置いてある。アルハイゼンはどちらかというと椅子に座るのを好むようだから、カーヴェがよく座り込んで図面を広げていることの方がずっと多い。
 大きな窓がある部屋は日当たりが良く時折眠気を誘われるほどで、つまるところ本の保存には適していない。太陽光での本の日焼けが気にならないのかとここで暮らし始めてすぐの時は思っていたが、アルハイゼンは本当に気にしていないようだった。
 紙の上に示されている情報こそが価値であることに異論はないが、手間暇かけて美しく整えられた物は大切にしたいとカーヴェは思う。暇を見つけて日に当たりそうな棚の中にある特に美麗な本を奥に引っ込めているとアルハイゼンがもの言いたげな視線を寄せて来ることもあったが、結局彼はカーヴェに何も言わなかった。彼なりに理屈の通った並びに則った並び替えを前提にした配置換えをカーヴェが試みたからだろう。
 たとえばもう少し広ければ便利だろうと思う台所に、寝起きには少々窓の小ささを感じる自室。かつて研究所として使われていた建物のせいで、生活拠点にするには少々気になる部分だってある。けれどいつの間にか、そういうものに目を瞑らせてしまうような愛着をカーヴェはこの家に抱いていた。
 建築という仕事は決して安いものではない。一生持ち家を持たないままの人間だって決して少なくはないところからして、気軽な買い物ではないのはそこらの子供だって知っている。その上、カーヴェには相応の名声に付随した能力があり、その発注は市場価格の平均からは乖離した価格になる。
 大金を支払う相手が金欠だとか、建築を生業にするくせに家すら持っていないとなるとクライアントへの心証に大きな影響があるはずだ。その人にどれだけ過去の業績があったとしても、そんなやつに高い金を支払うとなるとためらってしまうだろう。
 そう思えば居候のような身分からは早々に離脱しなくてはならないとは思うものの、仕事の事情を無視すれば今の生活に不満なんてものはどこにもないのかもしれない。と、評価するのはさすがに過剰ではあるのだが、いくつかの欠点はあばたにえくぼくらいの感覚で流せてしまっているのも確かだ。
「僕の家」
 そう口にして、わずかではあるがしっくり来ないものを感じる。二つ分の呼吸の間にいくつか言葉を選んで、その全てをカーヴェは否定した。その答えが何であるか、カーヴェはすでに理解している。
……僕たちの家だ」
 躊躇いながらそれでも喉を震わせて、カーヴェは胸中にある思いを認めてやった。ここがカーヴェの家だから、これ以上他に家をほしいとは思わない。かつて暮らした場所のように住所と表現してしまわずに済むのは、ここに住むのがカーヴェ一人ではないからだ。
 彼がいなければ、カーヴェがこの少し歪な住居を家と呼ぶことはなかった。この家が持つ特徴の一つ一つを殊更に愛することなどなかったのだ。
 いつまでぼんやりと立っていたのか、カーヴェは把握できていなかった。玄関の扉が開く音と同居人の靴音が鼓膜を震わせて、ステンドクラスの光がいつの間にか酷く弱まっているのに気がつく。
 廊下の照明がふわりと灯って、その明かりを頼りにアルハイゼンが居間にやってきた。真っ暗な部屋に立ちすくんでいたカーヴェを見て、さすがに虚を突かれたらしく彼の体がかすかに強ばる。
……カーヴェ?」
 アルハイゼンに不審そうに声をかけられて、カーヴェはじっとアルハイゼンを見つめ返した。彼は。この家の主であるこの人は、この家で暮らすカーヴェをどう思っているのだろう。
 口論をするたびに出て行ってやると喚くカーヴェに、彼はできるのであればそうすれば良いと返してきた。彼の決まり文句は、できもしないことを言う愚者への揚げ足取りのようなものだと今のカーヴェは考えている。だからなのか、カーヴェが出て行きたいとでも言わない限りアルハイゼンは決してカーヴェを焚き付けるような真似はしてこなかった。
 その言動を素直に受け止めれば、アルハイゼンはカーヴェをこの家に置き続けても構わないと思っているのだろう。家賃の軽減のためにも家事をカーヴェがほとんど請け負っていることもあって、彼が暮らしていく上で益があるのは間違いない。それでも彼にとって適した環境からは遠く離れてしまったのではないだろうか、と今更ながらに心配になる。
 アルハイゼン。そう彼の名を呼びながらも、カーヴェの胸中に浮かび上がった疑問を問いにはできなかった。自分がやってきてからきっと随分と騒がしくなっただろうこの生活を彼にどう思っていてほしいのかすら、今のカーヴェには分からなかったから。