2024-09-15 22:07:04
142566文字
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マーブリング・マーブル

シャチョコン in ケーキバース。モモ=ケーキ(先天性)、ユキ=フォーク(後天性)。

ピリカラことRe:vale記念日2022リリックビデオの世界観+ケーキバースです。
社長(折笠千斗27歳)&コンビニくん(春原百瀬20歳)のほか、脇役として万理さんが登場します。
捏造過多。なんでも許せる人向け。特殊設定につき注意事項を最後まで必読でお願いします。

◆必読・注意事項◆
・ケーキバースという特殊設定に、多くの独自解釈と追加の設定を付与しています。
・流血・負傷・暴力的な表現があります(いずれも軽傷程度です)。
・モブキャラクター(名無し)による加害・犯罪行為があります(未遂・微量のモブモモ)。
・主要登場人物間のカニバリズム・欠損・殺人等はありませんが、世界観には含んでおり、言及があります。
・医学用語その他の各種用語はフレーバーとして用いており、解釈・知識とも曖昧で浅薄なものです。ご寛恕くださる方のみ、閲覧していただけますようお願いいたします。
・現実における特定のカテゴリ・疾病の方を貶めたり、傷つける意図はございません。また、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

◆あまり内容のないあとがき◆
https://privatter.me/page/66e6da94a683b
※読了後の方向けのためパスワード有です。質問自体がエピローグのネタバレになっていますのでご注意ください。

 深い、夢のない眠りを漂う。透徹した意識の底、一瞬にして永遠、永遠にして一瞬の、深層の睡眠。けれど何故だろう。孤独な昏睡状態だというのに、傍らにずっと千斗の気配を感じている。
 だから、落とされた眠りの中であっても、少しも怖くはなかった。千斗の胸に、ずっと抱かれているようだったから。
 
 水底から、光射す水面へ、ゆっくりと浮かび上がるような目覚め。足の指先がぴくりと動いた。何を考えるでもなく、手をゆるく握り込む。
 遅れて、認識が追いついた。意志の通りに、身体がちゃんと動いている。
 ぴったりと閉ざしていた瞼を、そろりと開く。白い天井と、木目調の床頭台。サイドレールつきのベッド。病院の一室だろうか。淡いベージュのカーテンが揺れて、レース越しにちらちらと木漏れ日が差し込んだ。
 意識が、急速に覚醒していく。
 窓からの陽射しは柔らかく、時刻はおそらく早朝と思われた。ふんわりとかけられた布団は真白い。腕を持ち上げると、入院着らしき淡いブルーの甚平の袖が目に入った。指の先に、小さな絆創膏が貼られている。穿刺器の針を刺された場所だ。
 刺され、舐められ、汚された身体。
 記憶が蘇り、ぶるりと身を震わせる。思わず喉もとへと手を持ち上げた拍子に、肌掛け布団がばさりと音を立てた。
……モモ? 目が覚めた?」
 足もとの方から声がして、心臓が飛び跳ねる。フットボードの向こう側に置かれた一人掛けのソファに、千斗が座っていた。膝に乗せていたノートパソコンを脇のミニテーブルに置いて立ち上がり、百瀬の枕もとへと、たった数歩を早足に駆け寄る。
「ごめん、僕も少しうとうとしてた。気分はどう? 痛いところや具合の悪いところはない?」
「あ、あの……大丈夫です」
「本当に? ちゃんと身体を動かして、確かめてみて」
 言われて、右手と左手を結んだりひらいたり、右足と左足を交互にバタつかせたりしてみた。異常はない。むしろたくさん寝たためか、身体的には爽快ですらある。
「大丈夫です。どこも痛くないです」
「うん。良かった」
 心底ほっとした口ぶりで言い、微笑む。それから、少し表情を引き締めた。
「モモが眠っているあいだに、身体診察と各種検査が行われている。エフメトリン製剤と、使われた薬物……GABA作用系鎮静薬との相互作用を含めての消失半減期は、およそ二十時間で定常状態となるらしい。一泊入院のかたちを取っているけれど、あとで血中濃度の検査を受けて、数値の低減を確認したら帰宅して良いそうだよ」
「身体診察……
 低く呟く。身体のどこからどこまで、調べられたのだろう。指先の小さな針の傷も、見落とされないほどに。
 千斗が気遣わしげに百瀬の顔を見つめた。
「本人の意志も確認したかったけれど、薬物を特定しないと、何があるかわからなかったから。それで、検査・治療方針のキーパーソンは万が請け負った」
「バン、さん……って、大神さんのことですか?」
「ああ、そうだよ。大神万理。担当ソーシャルワーカーなのと、犯罪被害者支援員の認定も受けているから、話はスムーズだった。事件の性質上――
 しばし言い淀む。促すように頷くと、千斗も小さく頷き返し、続きの言葉を口にした。
「嗜食犯罪に加えて性犯罪の側面があるため、プライバシーも鑑みて、ご家族には知らせていない。モモが、希望しているんだってね。緊急連絡先はあくまでもソーシャルワーカーの万にしてくれ、家族に連絡する際はその前に必ず本人に確認をしてくれって」
……そうです」
 百瀬はとっくに成人だし、実家とはすでに世帯を異にしている。これ以上、家族に迷惑も心配もかけたくなかった。万理が約束を守ってくれたと知って、ほっとする。
 千斗は何か言いたげな顔をしていたが、百瀬の方も、まだまだ聞きたいことがたくさんあった。昨日の事件についてもだが、なにより万理とのことが知りたかった。「万」と親しく呼ぶ、その理由について。
 話をするために身を起こそうとすると、千斗が手で制し、かたわらにあったリモコンを操作してベッドのリクライニングを調節してくれた。背に枕を当てて貰い、ふうっと息をつく。気分の悪さ等は無いものの、体力を根こそぎ奪われたような脱力感があった。しかし今は身体のしんどさよりも、聞きたい、伝えたい欲求の方がはるかに勝っている。
 深呼吸をひとつして息を整え、口を開いた。
「あらためて……ありがとう、ユキさん。来てくれて。助けてくれて。本当にありがとうございます」
 枕に寄りかかったまま、頭を下げる。姿勢にちょっと無理があって、実際には小首を傾げたような、格好のつかない仕草になってしまったけれど。
 中途半端に丸まった背中に、千斗がそっと手を添えてくれた。
「いいから、楽にしていて。むしろ、もっと早く行ってあげられなくてごめん。怖い思いをしただろう」
「ユキさんが謝るようなこと、ひとつもないです! オレが考えなしで、不用意な行動を取ってしまったから……
「確かにね。Momoにしては危機管理がなってなかった。普段の射線管理は完璧なのに」
 言葉だけを取り出すと冷淡なようだが、声色は暖かく、ゲームになぞらえて優しく揶揄うような響きがこもっていて、また凝りかけた百瀬の自責の念を解きほぐしてくれた。
「はは……ほんとですね。危機管理、できていませんでした」
「でも、それでもいいと思う」
「え?」
「ケーキだろうとフォークだろうと、何者だろうと。不用意に、油断して、暢気に生きていけるほうがいい。だから僕は、モモを怒るよりも、モモが――ケーキが気負わず生きていけるように、世の中が変わっていけばいいなと思うし、目指していきたいなと思ってるよ」
 まだまだ遠い話だけれどね、と言って千斗は笑った。
 フォークの害意を目の当たりにしたばかりの身としては、咄嗟に首肯できなかった。あまりにも楽観的で、理想論に過ぎやしないか。
 ――けれど。
 当惑しつつ、千斗の笑顔をまじまじと見つめるうち、ふと思った。
 途方もなく遠い道のり。だからこそ、理想を抱き、先を見つめ、一歩ずつを踏み込む者がいなくては、その世界は決してやってこないのだろう、と。

 はるかな未来にまで手を届かせるために、より佳い道筋を探し続け、見晴るかす瞳を持つ人。

 このひとが、千斗が、好きだ。大好きだ。伝えたかった、もうひとつの言葉。
 だが、それを口にする前に、聞いておきたいことがあった。
「あの、ユキさん。昨日のいきさつを教えて貰えますか。どうやってあの場所がわかったんですか。バン、さん……大神さんとは、前から知り合いだったんですか?」
 千斗は頷き、ベッドと床頭台の隙間に置かれていた折りたたみチェアを引き出して、腰を下ろした。長い話になるということだろう。
「モモに貰ったコンタクト用のメッセージIDを使って、万に会った。ソーシャルワーカーと話がしてみたいという気持ちからだったけれど、顔を合わせてみて、知ったんだ」
 そこで言葉を区切り、深く息を吸って、千斗は告げた。
「彼が、七年間ずっと探していた相手だったということを」
 千斗がずっと探していた相手。
 頭の中で言葉と意味が繋がるまでに、数秒かかった。
……大神さんが、ユキさんの『彼』……?」
 呆気にとられつつも、心のどこかでは知っていたような、そんな納得感があった。
 思えばパズルのピースは転がっていた。千斗のひとつ年上のケーキ。法の知識を生かしての官庁勤め。いつか見た額の古い傷痕。そして、昨日の短いやりとりでも窺えた、息の合ったふたりの空気感。
 ただ、実際に千斗の口から聞かされて、真実そうであったと知るのは、やはり衝撃が大きかった。
 万理が、千斗の『彼』なのだ。

 近い距離で長い時間を一緒に過ごし、引き離されて七年ものあいだ探し続けていたという、千斗にとって唯一無二の、特別な存在。

 千斗は小さく頷いて、照れくさそうに笑った。はにかんだ子どものような笑みに、胸のどこかがつきりと痛む。
「驚くよね。対面するなり、久しぶりなんて言われて、僕だって本当に驚いた。こっちは会う前にメッセで名前を伝えていたから、一方的な不意打ちを食らってちょっと口惜しかったな」
 再会したふたりは、姿を消してからの万理のことや、千斗と百瀬が知り合った経緯のほか、互いの立場からのケーキとフォークの支援について思うところを語り合ったという。
「それから、あのゲームでの噂も確かめた。モモが辿り着いたIR=NABのコミュニティは、確かに万のものだったよ。モモは凄いな。僕が話した情報とも呼べない情報だけで、きっちりと探し当ててしまうなんて。ゲームの入り口で右往左往していた自分が情けなくなった」
 大いに感心しているような口ぶりで言われ、百瀬は、恥ずかしさと居たたまれなさにうつむいた。
「そんなの……情けないのはオレのほうです。勝手に調べて、いい気になって出て行ったらこんなことになって、ユキさんにも大神さんにも、たくさん迷惑をかけた。余計な、無駄なことをして」
 万理との再会は、結局、千斗が自力で成し遂げた。ひとりよがりに空回りしていた自分が莫迦みたいで、少しだけ鼻の奥がつんとする。情けなさで泣けることなんて、あるんだな。うつむいたままでそんなことを思っていたら、千斗の手が伸びてきて、布団の上で握りしめていた百瀬の手を取った。
 包み込むように指を絡められ、驚いて顔を上げる。近い距離、ひどく真剣な顔で、千斗が見つめていた。
「無駄なんて、言わないで。モモが探してくれたおかげで、万と再会できたんだ」
「いや、だって、オレがこんなことするより先に会えてたわけで」
 言い募る百瀬に、千斗は大きく首を横に振った。
「紹介してくれたのはモモじゃないか。モモが、モモだから、僕たちを引きあわせてくれたんだ。モモだから、僕のために万を探してくれた。順番なんて関係ない」
 絡まった指に、わずかに力が込められる。まるでプロポーズのような構図。そんな連想をして、知らず顔が赤くなった。
 どう言われても、つじつまが合わないという気持ちは消えない。けれど、千斗の視線が、表情が、理屈よりもっと深い部分に切々と訴えてきて、不思議と納得させられてしまいそうになる。
「それに、モモがコミュニティを調べてくれたおかげで、さらに多くのケーキにも及んだかもしれない被害を未然に防ぐことができた」
「さらにって、あの人たち……
 千斗は頷いて、握っていた手をそっと外した。
「モモ、お腹空いてない?」
「え?」
 唐突な話の転換に戸惑ったが、聞かれてはじめて空腹を意識した。そういえば昨日の昼にeスポーツカフェで軽食を取ったきりだ。
「一日だけの入院ということで、食事の配膳は頼んでいないんだ。軽いものを買ってきてあるから、良かったら」
 そう言って立ち上がり、床頭台の扉を開けた。百瀬のデイパックと千斗のものらしきビジネスバッグ、それとレジ袋が収められている。そこからレジ袋を取り出して、中を見せてくれた。おにぎりとサンドイッチ、菓子パン、それにシリアルバーが何種類か。どれも見慣れたパッケージの商品で、あれ、と思ったところに、すかさず声がかけられた。
「モモの勤め先のコンビニに行ってきたよ。店長さんに、都合で何日かお休みしますって伝えてある。ごめんね、勝手に」
「あ、いえ、助かります。ありがとうございます」
 どこまでも手回しが良くて、有り難いを越えてもはや感動的ですらあった。
 ――束の間、千斗のオフィスの下にある同じチェーンのコンビニで買ってきたのかなと思ったことは、口には出さないでおく。知ってしまったことを、小さな秘密にしておきたい。
 焼きしゃけのおにぎりを手に取ると、千斗が取り上げて、フィルムを剥がしてくれた。差し出されたおにぎりをどぎまぎしながら受け取り、ぱくりとかぶりつく。海苔の香ばしさと、鮭の甘い塩味が、じんと舌に沁みた。五体満足で、大好きな人に見守られて、またごはんが食べられる喜びとともに、味わい嚙みしめる。
 しかし、これはもう、千斗には得られない感覚なのだ。そう思い出して、おにぎりを持った手がふと沈む。
 と、千斗がまた床頭台の扉を開いて、なにか銀色のアルミパウチらしき容器を取り出した。飲み口がついていて、ゼリー飲料のように見える。
「僕も朝食にしようかな。これ、うちの社員が考案したフォーク用の栄養機能食品なんだ」
「フォーク用の?」
「そう。『食べている』感覚に近いものが得られるし、味らしきものもそれなりに感じられる」
「え、すごい……すごいですね!」
 思わず声が大きくなり、慌てて手のひらで己の口を塞ぐ。個室とはいえ病院だった。千斗が苦笑する。
「まだまだ、試作品の段階だけどね。研究熱心な社員のおかげで、僕の食事はしばらくこれの試食になりそうだよ」
 仕事の一環だからアンケートを書かなくちゃいけないんだ、と言ってミニテーブルに置き去られたノートパソコンを指し示しつつ、飲み口を唇で挟み込んで吸っている。すぼめた表情の千斗が珍しくて、思わずじっと見つめていると、口を離して小さく笑った。
「なんだか、ゲームで徹夜したときみたいな朝ごはんになっちゃったね」
「ああ……あはは、確かにそうかも」
 思わず笑った百瀬を見て、千斗もまた微笑んだ。
 手軽に摂れる、ワンハンドフード。ゲームに熱中し、あるいはチャットで夜を明かした朝に、それでもなおモニタの前から離れがたく、こうして雑に食事を済ませることが多々あった。
 本当のところ、離れがたかったのはゲームではなくて、千斗と過ごす時間のほうだったのかもしれないけれど。


 なんとなく和らいだ空気の中、ふたりともに簡素な朝食を終えた。ミネラルウォーターのペットボトルを差し出しながら、千斗が口を開く。
――さっきの話だけれど。あのフォークたちは万が私人逮捕して、警察に引き渡した。事情聴取と、援護局の過去資料にあたった結果について、今朝までにいくつか連絡を貰っている」
「私人逮捕……一般人による現行犯逮捕ってやつですね」
 犯罪行為に遭遇した一般市民による緊急逮捕。
 一時期、これを拡大解釈し、私人逮捕系と銘打って再生数を稼ぐ悪質な動画配信者が社会問題となったことがあった。それで百瀬も気になって、ひととおり調べたことがある。結果、私人逮捕にはいくつかの要件を満たすことが必要であり、そこらで見かける軽微な犯罪に濫用できるものではない、という認識に落ち着いた。
 法学部に在籍していた千斗と万理なればこそ、はったりを効かせつつ、正確な知識でもって、咄嗟に行うことができたのだろう。
 千斗は頷いて、少し重たそうに話を続けた。
「年上の男の方は、嗜食歴があった。十年ほど前に嗜食による傷害事件を起こしたが、酩酊状態にあったという理由で不起訴となっている。被害者は、命はとりとめたものの、酷く傷つけられて精神を病み、身体にも障碍が残った」
 障碍、と言った時の痛ましげな表情が気になった。
「ユキさん。オレ、大丈夫ですから、全部教えてください」
 百瀬がそう促すと、千斗はため息をつき、ごく低い声で言った。
「手指欠損だそうだ。左手の人差し指と中指。酩酊状態による嗜食行為で、ぐずぐずになるまで咀嚼され、噛み取られて、再生は不可能だったと」
 ぞわりと毛が逆立つような感覚に包まれ、反射的に小さな絆創膏の貼られた指先を見下ろす。味見と称して舐めまわされた指。
 嗜食歴のあるフォークは、過去に食した部位に執着する傾向があるという。身体診察で指先まで調べられた、のではなくて、指先は特に丁寧に調べられたということだったのだろう。
――ごめんね、食べたところにこんな話を聞かせてしまって」
 気遣わしげに千斗が言った。その言葉を聞いて、もうひとつ思い当たる。話を区切って朝食を勧めてきたのは、食欲のなくなる話をするからだったのか、と。
 これはもう気遣いというより過保護の域だなあ、という気持ちで、口もとが緩んだ。あたためられる心とともに、肌の粟立ちがふわりと消えていく。
「モモ?」
「なんでもないです。話の続き、お願いします」
 ごまかすように軽く手を振る。千斗はまだ訝しげな表情を浮かべつつも、話を再開してくれた。

 供述によると、サブマスターを名乗っていた人物がIR=NABのコミュニティを発見したのは、一年半ほど前とのことだった。
 当時、主催であるIR=NABこと万理はすでにゲームを休止しており、サークルも開店休業状態となっていた。主の不在に乗じてIR=NABのアカウントをハックし、サークルやコミュニティボードを監視しては、時おり迷い込むケーキに声をかけ、相談のためのオフ会と称して誘い出していたのだという。
「ケーキの常用薬との飲み合わせで神経抑制作用が劇薬レベルとなる鎮静薬を使用し、意識を混濁させたところを『食べて』いた、と。食べると言っても、体液を分泌させて味わったり、皮膚を舐めたりで、怪我を負わせることはないように注意を払っていた、と主張しているそうだけれど」
 千斗の眼が、あの時と同じ鋭い銀光を放つ。
「目に見える傷はつけなくても、騙して薬を飲ませるのは当たり前に傷害行為だ。そうして自由を奪ったうえで、他人の身体を好き勝手に暴き貪る行為は、許されるものではない」
 低く抑えた声に、底知れぬ怒りが滲んでいた。先ほどは、ケーキとフォークの未来について穏やかに語っていたというのに、今はフォークの行為に怒気を露わにしている。
 ――いや、そうではない。相反するものではない。千斗はいつでも、ケーキやフォークという枠に嵌めた話ではなく、ただ人としての在り方について語っている。

 そして、これはきっと、百瀬のために怒ってくれている。
 深く強く憤ってくれている。

 嬉しい、などと思ってしまうのは、ひどく浅ましいことであるのかもしれない。真摯に想ってくれている千斗に対し、不誠実に過ぎるのかもしれない。
 けれど、心の奥底からじわじわと湧き上がってくる気持ちを、止めることはできなかった。
 百瀬を救い、抱きしめてくれた腕。着衣を整えてくれた、優しい手を思い出す。千斗に触れられて、百瀬の輪郭はかたちづくられ、見い出されて行く。この身は、大切にされるべきもの、大切なものであるのだと。
「ユキ、さん……
 思わず、といった声が出てしまった百瀬に、千斗が目を向ける。今さっきの険しさはひとつもない、柔らかな眼差しだった。また心がぐっと動き出すのをどうにか抑えて、とりあえずの言葉を探す。会話の続きを。
……あの、人、システムエンジニアだって言ってました。それでハッキングのスキルがあったのかな」
「ああ。自作のツールを走らせてパスワードを解析したそうだ。認証失敗によるアカウントロックさえすり抜けられれば、四桁の数字なんて試行回数でどうにでもなる、と嘯いていたらしい」
 そこまで言って千斗は、はっとしたように口に手を当てた。
「そうだ、モモに謝らなければならないことがあった」
「オレにですか? ユキさんが?」
 聞き返すと、千斗はひどくばつが悪そうに頷き、もそもそとした口調で昨日の行動について語った。
 百瀬がバイトを急遽休んでおり、メッセにも既読がつかなかったため、不安にかられて万理に相談したこと。万理もまた、GPS追跡サービスの使用を示唆した百瀬からのメールを気にかけており、ふたりで部屋を訪問したこと。
「それで、万の合鍵で、モモの部屋に入ったんだ。部屋だけじゃなく、パソコンに……Momoの公式コミューンのポータルにも侵入した。パスワードを破ったから、僕もハッキングしたのと同じだよね。ごめん」
「パスワードを破った」
 おうむ返しに答えながら、頭の中でぐるぐると四桁の数字が回る。
 公式コミューンの登録方法の説明をした日、千斗が帰った後に、パスワードを変更した。自分以外の誰かの誕生日をパスワードにするのは確かにいい考えだ、と思ったのがひとつ。千斗の生まれた日を指先に刻みつけておきたいと思ったのが、もうひとつの、もっとずっと大きな理由だった。
「パスワード、わかっちゃったんですか……
「うん。パスワード、わかっちゃった」
 千斗も、おうむ返しに答える。

 十二月二十四日。美しい人が生まれた、美しい日。

 誕生日を設定していることが知られた、というだけではない。
 千斗が、己の誕生日が設定されているのではないかと思い、試してくれたこと。それ自体が、言うに言われぬほどに照れくさくて仕方がなかった。
 ふたり目と目を合わせて、どちらからともなく、おずおずと笑う。笑みを浮かべつつほんのりと色づいた千斗の頬を見て、気がついた。
 彼もまた、盛大に照れていることに。


……んん、ええと。それで、コミュニティボードのログを見て、モモと彼らのやりとりから、待ち合わせ場所と行動予定の情報を入手したんだ」
 千斗が、小さく喉を鳴らすような咳払いをひとつして、話を続ける。
 サブマスターを名乗る人物も、フォローアップと称した活動も、サークル主であるIR=NABこと万理のあずかり知るところではなかった。疑念とともに会話の流れを追っていくうち、千斗と万理は確信した。これは、百瀬を――ケーキである蓋然性の高い者を、おびき出そうとしているのだ、と。であれば、目的はひとつしか考えられない。
 ふたりは急ぎ百瀬の部屋を出て、プチオフ会場という名目で予約されていたeスポーツカフェへと赴いた。
 フロントで、待ち合わせの相手を探していると告げたところ、ひとりの店員が教えてくれた。ご友人たちは別のネットカフェに移動されたようです、と。その店員は百瀬たちの話を漏れ聞いており、千斗らのことを待ち合わせ相手の「古参メンバー」だと早合点したのだった。
「立ち聞きするようなつもりはなかったそうだけれど、店を出る時の会話がどことなくちぐはぐで、気になっていたのだって。予約は入っていなかったのに、席が埋まっているかのような話をしていた、とか」
「あれ、嘘だったんだ……そっか。そうだよね」
 思い返せば、不自然なところは多々あった。入店受付、軽食の注文と受け取り、利用時間延長の交渉。いずれの時にも、サブマスターだけがフロントへ行き、弟分はさりげなく会話を持ちかけてきて、百瀬を近寄らせなかった。そうやって、後の店へと連れ込むための段取りが組まれていたのだろう。
 店員に礼を言ってeスポーツカフェを辞した千斗と万理は、条件を満たす店を検索した。近隣、おそらくは徒歩移動の範囲内で、例のオンラインゲームがプレイ可能で、四人以上で入れる個室があるネットカフェ。
「場所がら、けっこうな数がヒットして。ひとつずつ当たっていくしかないかなと思ったんだけれど、幸い、近辺に詳しい協力者と合流できたので、怪しげな店から順にピックアップして貰って、三軒目であの店に辿り着いた」
 協力者と合流。刑事ドラマみたいな言葉だ。千斗の人脈か、あるいは万理の職場である社会援護局の関係者だろうか。
 百瀬の疑問を読み取ったのか、千斗が付け足すように言った。
「万が仲立ちしてくれたから、僕も詳しい素性は知らない。店にも同行して、モモの居た個室に踏み込んだ時には、万と一緒にあのフォークたちを取り押さえてくれた」
「えっ、あそこに来てくれていたんですか……! あのう、その協力者さんに、お礼を伝えることはできますか?」
……どうかな。顔を合わせて名乗りあう、というのは難しいと思う。万に聞いてみるといいよ。伝言ならきっと大丈夫」
「わかりました。少し残念だけど……できれば直接、ありがとうございますって言いたかったな」
 そう言うと、千斗はどことなく微妙な顔をした。いちど口もとを引き結んで真顔になり、それからまた口を開く。
「気持ちはきっと、伝わるよ。モモが、コンビニのレジに立って、誰にでも笑顔で、明るく元気に、ありがとうございますって伝えてくれているように」
 ゆっくりと丁寧に紡がれた言葉は優しく、そして美しかった。コンビニ店員の春原百瀬のことが、少しだけ好きになれるような。
――あとは、だいたいこれまで話したとおり。万があのフォークたちを警察に引き渡し、逮捕者としての事情聴取を終えた後は、支援福祉部と行ったり来たりで事後処理と情報収集をしてくれている。モモはこの病院に運ばれて、診察と検査を受けた。ここは、特定形質科……いわゆるケーキ・フォークの専科があって、うちの社の提携医療機関でもある。それでいろいろと融通も利かせて貰った。夜間の出入りとか、検査入院への付き添いとか」
 モモの勤めているコンビニからも近いんだよ、と教えて貰った病院の名前には聞き覚えがあった。繁華街から少し外れた場所にある地域の基幹病院で、百瀬も何度か前を通りかかり、特定形質科を掲げる看板を眺めたことがある。
 日常と地続きの場所に居るということが知れて、足もとがしっかりと地に付いたような気がした。非日常的な昨日から、今日へと。


 ぽつぽつと話を続けていたところに、控えめなノックの音がした。女性の看護師が入ってきて、てきぱきとした口ぶりで検査を告げる。医師の診察などは特になく、このまま病室でバイタルチェックののち採血を行うという。
 本人確認と消毒を終えて、こなれた手技ですいと針が刺し入れられた。採血管をいくつも取り替えて、真空に血が満たされていく。赤い色を見るうち、少しくらりとして視線を逸らすと、看護師のきっちりとまとめた髪からわずかに垂れた後れ毛のウェーブが目に入った。
 ――下ろしたら、同じくらいの髪の長さかもしれない。ふと、離れて暮らす人の面影を脳裏に浮かべる。
 採血後、検査結果が出るまで少しお時間をいただきます、それまでもうしばらくお身体を休めていてくださいね、水分補給もお忘れなく。そう言って退室していった笑顔は明るく爽やかで、ほっと心が落ち着いた。
 ベッド横で見守っていた千斗が身じろぎをして、床頭台に置かれていたミネラルウォーターのペットボトルを手に取り、差し出した。
「売店に行けば、ももりんがあるかもしれないけれど。今はこれを飲んで水分補給して、言われたとおり少し横になるといい」
 礼を言って受け取り、いくぶんぬるくなった水を喉に流し込む。思ったより多量の血液を採られて、気分的なものかもしれないけれど、目の前が少しふわふわしているように感じる。空になったペットボトルを千斗に手渡し、掛け布団を引っぱり上げて、潜り込むように横になった。足かけ二日を過ごしたベッドに、いまいちど身体を預ける。
 足かけ二日。日付けの切り替わり。
「目が覚める頃には、検査の結果も出ているだろう。退院の準備をしておくよ」
……ログボ」
「え?」
「ログボが貰えるうちに、帰れるかな」
「ああ、ログボ……ログインボーナスか」
 やっと百瀬の言う意味が取れたらしく、千斗は小さく噴き出した。
「連続ログイン記録はずっと途切れていないものね、Momoは。だいじょうぶ、日付けが変わるどころか、陽が落ちる前にはこの病院を出られるよ。一緒に帰ろう」
「ユキさんと、一緒に……
「そう、一緒に」
「帰る……
「うん、帰ろう」
 歌うように唱される、穏やかで優しい声。ふんわりとした眠気につつまれて、だんだんと意識が溶けていった。

 帰ろう。ふたり一緒に。ふたりで一緒に遊ぶ、ゲームの世界へ。


 ■   〇   ■   〇   ■


 この病院には、入院棟と診療棟を結ぶ渡り廊下に面して、こぢんまりとした裏庭がある。柔らかな彩りの花壇と丹念に刈り込まれた緑の植え込み、それと温もりのある木製のベンチが配されており、入院患者や付き添い、見舞客らの憩いの場となっていた。
 レンガ色の小道の先にはひっそりと通用門があり、主に特定形質科に用向きのある者たちがここから出入りしている。ケーキやフォークたちが、人目を引かずに診察を受けられるように、という配慮だった。
 退院の際もまた、然り。
「まだ全然、明るいですね。ユキさんが言ったとおり、陽が落ちる前に部屋に帰れそう」
「ログボには間に合うかな?」
 からかい半分に千斗がそう言うと、百瀬は面映ゆそうに笑った。
「余裕で間に合っちゃう! でも、あんなに寝たのに、っていうか寝過ぎて怠い感じがするから、今日のところはログボ勢です」
 今日のところは。
 言外に、次の機会には遊べる、遊ぼうと伝えてくれているように聞こえて、不意打ちに心が弾んだ。

 昨夜、不安と焦燥を抱えて何度も往復した細い道を、今は百瀬と歩いている。
 触れそうで触れない、文字通りの付かず離れずの距離で、千斗の半歩先を行く百瀬の背中はしゃんとして、事件の残滓は感じられない。だが、表立って見えなくても、身体と心に受けた傷は確実にあるだろう。しばらくは目を離さないよう、さりげなく見守っていくつもりだ。
 検査結果は良好だった。薬物血中濃度は順調に低減しており、通常の生活行動を取って差し支えないとのお墨付きとともに、退院許可が下りた。
 ただし、すべての成分が完全に体外へと排出されるまでは、飲み合わせに関わった常用薬の服用は控えねばならない。書き換えられた三日分の処方薬は、ホルモンの放出抑制作用がいくぶん劣っており、その間の生活には細心の注意が必要となる。
 ――ましてや、百瀬は。

 ×     ×     ×

「美味すぎる、って言っただろ」
 害を為したフォークたちを取り押さえ、警察の到着を待つ少しばかりの間。
 協力者の青年は、千斗の腕のなかで眠る百瀬を一瞥し、低く押し殺した声で言った。甘きについて語りながら、苦きを噛みしめるように顔をしかめて。
「そいつは、ネクタルだ」
「ネクター……ネクタル?」
「あるいは、アンブロシア。まあ、どっちでも指すところは同じだ。特異に味の良いケーキは、界隈の好事家にそう呼ばれている」
 古代よりの神話に語られる、天上の神々の喉を潤す美酒、ネクタル。永劫の命をもたらす滋味の果実、アンブロシア。
 より広い意味を持つのはアンブロシアという呼称の方で、ネクタルとはアンブロシアの中でも特に「体液の味が良い」個体を指すのだという。
 そんな定義があるとは初耳だった。万理に目をやるが、首を横に振っている。
「悪趣味な隠語だ。表側の人間が知っている類の言葉じゃない。とにかく別格に甘すぎる、美味すぎるケーキのことをそう呼んで珍重している筋がある」
「なるほど。特定形質の発現過多による要観察対象者。俗称をネクタルもしくはアンブロシア。支援福祉部の相談支援受付票に書くとしたら、そんな感じかな」
「いや窓口用語、回りくどすぎないか」
 差し挟まれた万理の言葉に呆れ声で応じて、少し気が抜けたようだった。部屋の隅を振り返り、拘束して目と耳を覆ったフォークたちを親指で差し示す。
「あいつらはただの愚連隊だろうが、ここの店は以前から、その筋との繋がりが疑われていた。店員の尻尾切りで終わりそうだけどな」
 協力者の彼の仕事的には、そちらが本命だったらしい。だが、フロントで押し問答をしている間に、ルーム担当の店員は姿を消してしまった。店舗責任者は知らぬ存ぜぬの態度を取っている。
「逃がしちまったもんはしょうがない。ただ、覚えておくといい。――ネクタルは、人気商品だ」
「モモは商品じゃない」
 固い口調でそう言うと、彼は苛立ったように前髪をかき上げた。
「当たり前だ。だが、逃げた店員がフォークだったとしたら。こいつらが何かしら手がかりを与えていたとしたら。たとえ今回のことが起こらなかったとしても、ネクタルと知れたなら、値を付ける奴らが出て来る」
 千斗の胸にもたれかかる重みが、増したような気がした。涙のあとを頬に残したまま、すっかりと身を預けて眠る百瀬を見下ろす。彼がまた物のように扱われ、意識を、意思を奪われることなど、考えたくもない。あってはならない。
――それで、気をつけてやれと?」
 だが、反社会的勢力を相手に、市井に暮らす人間が気をつけるといっても無理がある。組織立った圧倒的な暴力は、一般市民が抗えるものではない。
「まあ、手の届く範囲で、な。うちのセクションとしても、ネットを介した匿流への繋がりを問題視して、摘発に本腰を入れ始めているところだ。何かの時には早急に動けるようにしておく」
「支援福祉部……いや、社会援護局としても、できる限りサポートする。縦割りに風穴を開けて、連絡と連携の密度を上げていこう」
 ふたりともに、しっかりとした、強い口調だった。この救出劇において、個人的な行動の範疇で助け手となってくれた彼らが、今度は、組織の人間としての助力を申し出てくれている。
 個の力が及ばないのならば。個人が組織となり、組織に個人が力を及ぼしていけばいい。
――そうか。そうだ。僕は」
 百瀬を抱える腕に、ほんの少しだけ、力を込めた。
 深い眠りに落ちて、静かに、静かに呼吸をしている身体。衣服越しに触れる肌は、緩やかに息づいて、温かかった。
 ケーキとフォークのエンパワメント。もとより、私的な動機に端を発する事業だ。かつて誰よりも近くに居た『彼』のために。

 ならば、今からは、誰よりも近くに居て欲しい「彼」のために。

 ×     ×     ×

 百瀬が病院へと搬送される際に万理と話し合い、彼がネクタル――あるいは、特定形質の発現過多状態――であるという裏付けを取るために、一度ホルモンの分泌状態を調べたほうが良いだろうということで意見が一致した。
 精密検査にはMRI診断が必要になるが、取り急ぎ、血液検査により血中ホルモンの数値を調べて、内分泌異常の有無を確かめる。
 薬物血中濃度の低減を確認するための採血と同時に、内分泌検査用の採血も行うよう、手筈を整えた。

 そうして行われた血液検査の結果シートは、今、百瀬が背負ったデイパックのなかに収められている。
 薬物血中濃度の結果シートと、付随検査というかたちで行われた内分泌機能検査の結果シートと。百瀬には、この機会に念のための基礎検査をして貰った、とだけ伝えてある。
 検査・治療方針のキーパーソンである万理から委譲を受けたとして、千斗が立ち会い人となり、百瀬が医師からの説明を受けた。
 ふたつの検査結果のうち、前者については、何の問題もなかった。代謝は順調で、薬物濃度の値は半減期のグラフどおりに減少している。
 問題は後者だった。
 説明にあたった医師は、検査結果シートの項目をひとつずつ指差し、丁寧に噛み砕いて解説しながら、疾患の疑われる項目はありません、どの数値も高めながら、ケーキであれば普通に有り得る範囲内です、と述べて千斗を拍子抜けさせた後、ですが、と続けた。
 本来ならば、こちらの数値が高ければあちらの数値は低く、といった案配で出るはずのところが、法則を突き抜けて、すべてにおいて基準値よりも高く出ている。いずれも、要精密検査の判定には届かずとも、軽度異常と認められる数値であった。さしあたって健康への影響は無いと思われるが、経過を観察し、できれば近々にMRIを受けることを勧める、と。
 医師の口ぶりに深刻さは感じられず、大事を取って、というニュアンスが強かった。そのためか、百瀬は気楽な様子で聞き流していたが、千斗としては、ぞくりと背筋の冷える心持ちがした。
 甘さ美味さは個人の感覚に依拠するところだろう、ネクタルだのアンブロシアだの、曖昧な言葉遊びの定義だ。そう笑っていなせることを望んでいたのに、医学的な根拠の存在が示唆されてしまった。
 百瀬はホルモンの分泌量が多いから、香りを、味を強く感じる。千斗は百瀬の味を知ってしまったから、なおさら強く感じる。
 それだけで、それだけなら、良かったのに。


 かわいらしい色合いの花たちを眺めながら、裏庭をゆっくりと散策する。迎えの車が来るまで、まだいくらか時間があった。
「少し座ろうか。貧血気味じゃない?」
 てのひらでベンチを示す。百瀬は控えめに首を振った。
「平気です。血を抜かれる時は少しくらっとしたけれど、寝て起きたらすっかり」
「ああ。そういえば、採血中は目をそらして、看護師の方を見ていたね」
 採血のあいだ、少なからず面白くない気分でいたことは、口には出さないでおく。看護師の女性をじっと見つめる百瀬の横顔を眺めながら、厚かましい願いを抱いてしまったことは。
 痛いのなら、怖いのなら、不安なら、千斗のほうを見ていてくれたらいいのに。理由などなくても、ずっと、見ていてくれたらいいのに、と。
 そんな気持ちを知る由もなく。そよと揺れる小さな花々と目を向けたまま、百瀬は、いつになく静かな口調で言った。
「あの看護師さん、ちょっとだけ、姉ちゃん……姉に似ていて」
――お姉さんに?」
 百瀬が家族について語るのを、初めて耳にする。実家は隣県にあり、両親ともに健在。いつかの帰省シーズンに、そう聞いたのみだ。
『オレ、帰省はしないんで。毎日ログインしているからいつでも呼び出しOKです、っていうか暇してるんで遊んでくださいね!』
 連休入りの前夜、次のログインはいつになるかと聞いた千斗に、それだけ言って笑っていた。
「お姉さんがいるということは、モモくん、弟なんだね」
 きょうだいの話を聞いたことがなかったのと、千斗はひとり息子であるため、漠然と百瀬もひとりっ子のように思っていた。だが、姉弟の弟と言われると、なんとなくしっくりと来るものがある。
 百瀬は頷き、花壇へと視線を向けた。瞳の先には、ちいさな鳥のかたちをした花の群れが揺れている。眺めながら、瞳孔が幽かに開いた。もっとずっと、遠いものを見ているかのように。
「オレがケーキだってわかった時に、家族全員、検査をしたんです。それで……それで、四人家族だったんですけれど、オレ以外の家族みんな、フォークの潜在因子があるってわかって」
 ああ、と思った。
 万理の妹。百瀬の姉。
 神社での打ち明け話は、思ったとおり万理の事情を伝えるのみならず、百瀬の負ったものについても、ほのめかしてくれていたのだろう。
「姉ちゃんは特に閾値が低かった。一緒の家で暮らしたままなら遠からず発症するだろう、ってお医者さんに言われました。家族で話し合って、オレは、家を出ることにしたんです。父も母も因子保有者だし、それが最良で、唯一の方法だろうって」
 世帯を分離し、生活の拠点を遠くに置いた。盆暮れ、ゴールデンウィーク、シルバーウィーク。長期休暇であっても、百瀬が帰省することはない。家族、ことに姉とは、この先よほど飛躍的な医療の革新でもない限り、直接に顔を合わせることは叶わないだろう。
「なのに、ユキさんには会ってしまった」
 うなだれるように顔を伏せて、ぽとりと呟きを落とす。
「僕?」
 春原家の話から一転、自分の名前が出てきて、千斗は目を瞬かせた。
「家族とは、もう会わないって決めて、ずっと守ってきたのに。ユキさんには、会ってしまった。何度も、何度も。いくら検査の数値が低くたって、会えば会うだけ発症の確率は高くなるって、知っていたのに。オレは――
 声が揺れる。身体の横で固く握られた拳は、微かに震えていた。
 伸ばしかけた手を、すんでのところで止める。揺れる声を、震える身体を、今すぐにでも抱きしめてあげたかった。けれどこれはきっと、百瀬自身がきちんと口に出して、自分の耳からも聞かせることが必要なのだろう。そう思った。
 だから、千斗は待った。彼がずっと喉に詰めていた言葉を、綺麗に吐き出してしまえるように。
 百瀬は、息を大きく吸い込んだ。震える唇を開き、懸命に動かしていく。
――オレは、自分の欲を優先して、ユキさんに会い続けた。一緒に居れば楽しくて、嬉しくて。家族からも世の中からもはみ出して、バーチャルの世界をうろつくしかないような、どうしようもない自分でも、ユキさんは真っ直ぐに見つめてくれる。オレが好きになれるオレのかたちを作ってくれる。そんな気がしていた」
 いちど言葉を切り、身体ごと、千斗の方へと向き直った。裏庭の穏やかな風が、ふたりのあいだを渡っていく。
「だから、やっぱりオレのせいだ。オレは、ユキさんを守れなかった」
 吹き抜けた風に撫でられて、花たちがざわりと揺らめくなかに、百瀬は深々と頭を下げた。
「守れなくて、ごめんなさい。大事にできなくて、ごめんなさい。それでも……それでも、一緒に、居たいです。ゲームでも、ゲームの外でも、こうやって、会って一緒に居たいです。……赦してくれますか」
「モモ。僕は――
 低く呼びかけた声が掠れた。
 胸の奥で、鼓動が早鐘を打っている。
 百瀬の言葉も表情も、呵責の痛みに満ちていたけれど、千斗は今、まったく別の感情に心を動かされていた。

 家族を守るために、会うことをやめた。
 千斗を守りたかったのに、会うことをやめられなかった。

 皆が幸せであるために、無私無欲に己を差し出してしまう百瀬の吐露した、唯一の欲がそれだった。
 百瀬が抱く罪と後悔。千斗をフォークにしてしまったことへの強い罪悪感の裏側には、千斗を大事にできなかったという悔恨があった、だなんて。
 大好きだから、会い続けた。大切だから、悔やんでいる。
 そう言っているのと同じではないか。いくらかの後ろめたさを伴いつつ、体の奥底から湧き出でるような喜びを感じずにはいられなかった。

 だが、今は。
 千斗の返答を待ち、頭を下げたままの百瀬の後頭部を見て、表情を引き締める。
 百瀬は、自分の行いに傷ついている。もとからの心がやわらかいぶんだけ、己の欲望に脅かされ、傷つけられている。
 伝えなければならない。君が傷つく必要など、何もないのだと。
 一歩、足を踏み出した。両手を差し出して百瀬の肩に置き、そっと掴んで身を起こさせる。
――僕は、嬉しいよ。モモに会えて。モモが会ってくれて、嬉しい。いつだって、会いたいとねだるのは僕のほうだったじゃないか」
 身体も表情も強張ってしまっている彼を解きほぐすように、ゆっくりと穏やかな口調で語っていく。
「それとね、正直なところ、フォークになったことは全然気にしていないんだ。むしろ仕事の役に立って助かっているくらいだから」
 けれど百瀬は、硬い表情のまま首を横に振り、目だけをまた伏せた。
「そんなわけ、ないでしょう。味もにおいもわからなくなっちゃって、自分の意思とは関係なしに嗜食衝動が起こるなんて、絶対、つらいじゃないですか。ユキさんがオレに気を遣ってくれるのは嬉しいです。でも、そこまで言って欲しくない」
 うーん、と唸りながら、わざとらしく首を傾ける。くだけた雰囲気を作れるように、いくぶん戯画的な動きを心がけた。深刻になる必要はないのだと、わかって欲しくて。
「信じられないかもしれないけれど、本当なんだ。今までは机上論に頼りがちだったフォークの支援施策が、僕という身近なケースを得たことで大きく駆動しつつある。会社にとっても、僕自身も、有り難く思っている」
 決して方便ではない。実際に社員たちのモチベーションはかつてないほどに高まっていた。フォークの協力者が少ないがために遅々として進まなかった臨床実験を、社内人材で賄うことが可能になり、喜んでいる者は多い。
 また、業務に直接結びついた理由のみならず、折笠社長のクオリティ・オブ・ライフを上げるために急ピッチで研究を進めたい、仕事に邁進したい、という健気な思いを抱く者も相当数居るらしい。社長としての己が思いのほか慕われていることを知り、感慨を深くしたこの数日でもあった。
 フォークとなった千斗のために、力を尽くしてくれる人々がいる。
 フォークのために。ケーキのために。ともに生きていくために。
「ケーキもフォークも、どちらでもない人も、皆が混ざりあって笑いあえる。そんな世の中を目指すために、僕がフォークになったことはとても役に立つ。だから、掛け値なしにモモには感謝しているんだ。そして、僕はこう思っている。ふたりで一緒に居たせいで、フォークになったわけじゃない。ふたりで一緒に居るために、僕はフォークになったんだって」
 百瀬が顔を上げた。頑なだった表情が崩れて、いぶかしげに揺れている。
「いや、それも、つじつまが……順番が違うじゃないですか」
「順番なんて関係ない」
 百瀬と一緒に居た過去。百瀬と一緒に生きる未来。そのための必然。
「僕がフォークになった。僕らがケーキとフォークになった。それはあらかじめ決まっていた、ただの通過点に過ぎないんだよ。だから赦すも赦さないもない。そうだろう?」
 問いかけるというよりは念押しのような疑問形で語り終えて、深々と息を吐いた。しばし沈黙が降りる。耳に聞こえるのは、風がさやさやと花々を揺らす音だけ。
 ――ふと、空気が変わる。

 小さな花が、ふわり開いたように。
 百瀬が、笑っていた。

 微笑と呼ぶにはいくらかの愁いを含み、けれど苦笑と呼ぶほどの苦みは無くて、ただ少しばかり呆れたような、はにかんだような、やさしい笑みだった。
「ユキさんってば、どうしてそんな……どれだけロングレンジなんですか」
「ロングレンジ?」
 突然、ゲームの話になったことに困惑する。よほど要領を得ない顔をしてしまったのか、百瀬はまた笑った。笑みが顔全体に広がって、満開の笑顔になる。
「視野が広くて、射程が長いなあって意味です」
「うん……? まあ、メインウェポンはスナイパーライフルを使っているから。広域レーダーマップは透過ウィンドウで常に表示しているし。でも、ショートレンジ用にショットガンの練習をもっとしないとね。近距離戦でも、きっちりと仕留められるように」
「そうじゃなくて……あ、いや、そういうことでもあるのか。オレ、仕留められちゃったんだな」
「え? Momoを? 味方は仕留めないでしょう。バトルロイヤルモードの話?」
「だから……! そうじゃないけど、そういうこと!」
 百瀬が声を上げて笑った。愁いも苦みもなにもない、弾むように明るい笑い声だった。
 百瀬の言葉の意味も笑っている理由も全然わからなかったけれど、あの夜以来、久しぶりに見せてくれた屈託のない笑顔がかわいくて、嬉しくて、感動とともにひたすらに見つめてしまう。見惚れるうち、笑いで息を切らしていた口が動いて、思いがけない言葉を紡いだ。
「ユキさんがフォークであることを仕事に役立てるのなら、オレがケーキであることも役に立てられないかな。役に立ちたい」
「ケーキであることを、役立てる?」
 うん、と百瀬が頷いた。
「みんなが混ざりあう世界を作るお手伝い、させて欲しいです。その世界で、オレたちは」
 千斗の手を取って持ち上げ、ぎゅっと握る。それから一度離して、開いた手を打ち合わせた。小気味良い音がして、手のひらが少しだけピリピリと痺れる。
「何度でもまた会えるし、ずっと一緒に居られる」
 そう言った百瀬の笑顔は、夏空のように晴れ晴れとしていた。
 千斗をフォークにしたこと、百瀬がケーキであること。その双方を満たす答えを得て、心の置き場を見つけたのだろう。ゲームとリアル、どちらにあっても最高の相棒である彼を取り戻せたことに、深い安堵と喜びが押し寄せる。
 だがしかし、千斗の胸中には、心の底からの嬉しい気持ちとはまた別に、燻るもどかしさがあった。
 ゲームのデュオであり、相棒。尊いものだ。けれど、あの運命の夜、千斗が求めていたふたりの関係は、それとは違う名前のものだった。
 言わなければならない。ずっと、求めているものを。そのために、必要な言葉を。
 意を決して口を開きかけたとき、ポケットのスマートフォンが振動して、思わず脱力してしまう。取り出して画面を見れば、社の専任運転手からの連絡だった。
「道路の混雑で、車が遅れているらしい。もう少しだけここで待って、移動しようか。こちら側に車寄せは無いから、通用門を出たところで乗車することにしよう」
「わかりました。すみません、帰りの段取りも全部お任せしちゃって。タクシー代はオレ、自分で払いますから」
「気にしないで。それに、タクシーじゃないよ。ちょうどドライバーの手が空いていたから、送迎用の社用車を出している」
「え……えっ? 社用車?」
 送迎用の社用車って、まさか、あの? と、なぜか恐れをなしたように言うのを聞き流す。
「公私混同じゃないから安心して。僕はこのまま直帰するから、そのついでということで」
 百瀬がまだ理解が及ばないといった顔をしているのを見て、気がついた。今後の予定と帰宅について、説明も相談もしていない。
「ええと、ごめんね。ちゃんと話していなかった。今日のところは、とりあえず、うちに泊まりに来てくれないかな」
 ええ? と、また困惑の声が上がる。
「ユキさんちに、泊まるんですか? オレが?」
「そう。モモさえ良ければ、だけど。退院直後だし、薬が変わって、体調の観察に誰かがついていた方が良いかなと思って」
 身体のこともあるが、ひとりでアパートに帰したくない、というのがより大きい理由だった。なにしろ昨日の今日だ。心的外傷によるストレスの推移を見守る人間が必要だろう。ネクタルとして狙われる可能性も懸念するところだ。
 突然の申し出に戸惑っている様子の百瀬に、ふと思いついて提案する。
「あるいは、モモのアパートに僕が泊まる、という考え方もあるね」
「オレの部屋に、ユキさんが泊まる?」
「うん。どっちがいい? 僕はどちらでも大丈夫だから、モモが決めて」
 セキュリティは比ぶべくもないが、事情を知る大家もいることだし、なによりも百瀬がくつろげることがいちばん大事だ。いざというときのホットラインを確保して、セキュリティレベルを確認して、と、頭の中で段取りを考えていると、百瀬がためらいに満ちた声で言った。
「あの、ユキさん。オレが泊まりに行ったり、オレの部屋に泊まりに来たり、って、そういうのはあんまり良くないと思います」
「良くない、って何が? 今までだって、何度もゲーム合宿でお互いに泊まっていたじゃない」
 突然の、謎めいた言葉だった。意図が掴めず、また声に含まれたわずかに咎めるような響きが心外で、不審と言うよりも不満の露わな声を出してしまう。――それから、思い当たった。
……僕が、フォークだから? やっぱり、一緒に居るのは怖い?」
「違う! 違います、そんなんじゃなくて」
 百瀬は叫ぶように言って、顔を歪めた。瞳の色が、少しだけ滲む。
「だって、ユキさん、探し人が見つかったんでしょう。探していた『彼』が。なのに、いいんですか。誤解されるんじゃないですか」
「探し人、って万のこと? 万が何を誤解するというんだ」
 話の行き先がさっぱり見えない。ひたすら戸惑って首を捻っていると、百瀬も次第に戸惑い顔になっていった。
「大神さんが『彼』なんですよね?」
「確かに、万が探していた『彼』だけど……
「なら、彼がいるのに、オレが部屋に行くのは」
「え、ちょっとちょっと、ちょっと待って」
 百瀬が口にする『彼』という言葉に含められた意味に、ようやっと気がついた。単なる二人称代名詞ではなく、意味を持たせて、万理のことを「彼」と呼んでいる。いわゆる「彼氏」だと思っているのだ。
「彼、彼氏!? っく、あ、っはは、あはははは」
 驚くよりも怒るよりも、身を折って笑ってしまった。笑いすぎて、かたわらのベンチにへたり込む。
「なんで、笑うの……
 傷ついた口ぶりに、慌てて笑いを引っ込める。
「ごめん。あまりにも突拍子のない話だったものだから。僕と万が、恋人同士だなんて、有り得ないにも限度ってものがある」
……え」
 違うんですか、と、消え入りそうな声が聞く。笑いすぎて乱れた呼吸を整えながら、千斗は大きく頭を横に振った。
「僕と万は、友人だよ。僕らのあいだに恋愛感情が入ったことは、ひとつもない」
「だって、お付き合いをしていたって」
「おつきあい……?」
 しばし考える。そうだ。確かに言った気がする。「ケーキと付き合いがあったんだ」と。それで誤解を招いたのか。
「あれは、飲みに付き合うとか、遊びに付き合うとか、そういう意味の付き合いだ。友達付き合いであって、恋愛のお付き合いじゃない。ごめんね、友人だってきちんと言わなかった僕が悪かった」
「そういう意味……意味が違……オレ、オレってば……ひどい勘違い……なんでオレ、あんなに悩んで……
 千斗の言葉が沁みとおっていくにつれて、じわじわと百瀬の頬が紅潮していく。
 悩んでくれたのか。考えてくれたのか。
 なにげない言い回しで惑わせてしまったことを申し訳なく思うと同時に、そんな場合ではないのだけれど、過去の恋人の存在を考えて悩んだという百瀬がかわいらしすぎて、いじらしすぎて、じんわりと嬉しくなってしまう。
 座ったベンチの隣を手のひらで軽く叩き、座るようにと促した。百瀬は、今度は素直に、というよりも脱力したように、すとんと座ってくれた。
「そもそも、七年前、万には恋人が……そういう意味でのお付き合いをしている人が居たからね」
「大神さんに? って、あの、オレが聞いてもいい話ですか、それ」
 目を丸くしたあと、はたと口を押さえて、困ったような顔になる。千斗は頷き、笑いの余韻を消して、真顔を作った。
「モモに、話しておかなくちゃならないことがある。七年前の事件の背景について。万からも、伝えてくれと頼まれているんだ」
「七年前の……あの、大学祭であったっていう事件のことですか」
 千斗の表情と声に何か感ずるところがあったのか、百瀬もまた生真面目な表情になった。真摯に開かれた大きな瞳を見つめながら、あらためて口を開く。
「万が怪我をしたことで、血のにおいにあてられ、酩酊状態になったフォーク。――その女性は、万の恋人だった」
 百瀬が息を呑む。瞳が、さらに大きく見開かれた。ケーキの恋人であったフォークが起こした事件。重ね合わせて、怯え嫌悪されても仕方ないだろう。その覚悟をしていたけれど、百瀬は隣に座ったまま、身じろぎもせずに千斗の次の言葉を待っている。
「僕はあまり顔を合わせる機会は多くなかったけれど、大学に入学した頃に出逢ったそうだから、わりと長い付き合いをしていたのだと思う。互いにカミングアウトしたうえで、細心の注意を払って、恋人としての時間を作っていた。ケーキとフォークが恋人同士となっても何ら問題は無いと僕が思うのは、根っこのところに、彼らを知っていたからというのがある」
 少しの間を置いて、言葉を継ぐ。
――ただしそれは、酩酊状態にさえならなければの話だ」


 発端は小さな事故だった。
 バルーンアーチの骨組みとなっていた針金が弾け飛んで、組み立ての支え役をしていた万理の額をかすめた。さほど深い傷ではなかったが、場所が場所だけに出血が多く、額から顔、首へと血が流れて滴った。
 たまたま冷やかしに来て現場に居合わせた千斗と、差し入れを持ってきていた彼女と。どちらが先に駆け寄ったかは覚えていない。尻餅をついてその場に座り込んだ万理の背中を千斗が支え、額から頬へと伝う血を彼女がハンカチで拭った。
 病院へ、その前にとりあえず医務室か、実行委員会に事故報告を、などと周りの学生たちを交えて話しているうち、不意に彼女が黙り込み、それから――口を大きく開けた。
 喋るためではなく、齧るために。

 本当に、何のためらいもなかった。気に入りのおやつを食べるように、微笑みながら歯を立て、唇で挟み込んで噛みしめ、溢れた血を啜り飲む。居合わせた人々が呆然とする中で、千斗は叫んだ。叫ばざるを得なかった。彼はケーキで、彼女はフォークなのだと。彼と彼女を引き離してくれと。
 周りの者たちは皆、万理らが恋人同士であることは知っていても、ケーキであること、フォークであることは知らなかった。千斗だけが知っていた。
 事件の後、報道が過熱した理由の一端は、ここにある。秘められて悲劇に散った愛、禁忌に立ち向かった恋人たちの末路。好き勝手に書き立てる週刊誌、したり顔のコメンテーターに、どれだけ苛立たされたことか。
 この頃はまだケーキではなく、サッカー好きの中学生だった百瀬が、それらを見聞きしていないであろうことは、少しばかりの救いだ。語り終えて息を整えながら、ひっそりとそう思う。
 千斗が語る彼と彼女の顛末に、百瀬はずっと真剣な顔で聞き入っていた。
……それでユキさんは、酩酊状態をあんなに警戒していたんですね」
 思ったよりずっと落ち着いた声で、百瀬が言う。むしろ千斗を気遣うように、瞳には同情といたわりの色が浮かんでいた。
「彼女さんと大神さん、その後は……
「ああ。一家で違う環境へと身を移した万は、連絡先を教えることはしていない。以前にも話したとおり、代理人を通して、顔は合わせずに示談となった。けれど……
 ここからは、つい昨日になって知ったことだ。
「彼女はずっと悔いていて、刑事罰を受けるべきだった、と思い続けていたらしい」
「そんな……酩酊状態は、それこそ事故でしかないのに」
「頭ではわかっていても、気持ちとして割り切れなかったんだろう。それである時、相談をした。たまたま遊んでいたゲームの中に、法律に詳しいプレイヤーが居ると知り、そのプレイヤーのサークルへの参加と書き込みというかたちで」
「ゲームのサークル……って、まさか」
 察したらしく、百瀬の口がぽかんと開いた。
「偶然にしても凄い確率だよね」
 肯定の代わりに苦笑する。
 とは言うものの、諸々を考えあわせればそう非現実的な確率でもない。あのゲームをプレイしているクライエントが百瀬以外にも複数居て、と万理は言っていた。リアルでの他者との接触を避けて、オンラインゲームの世界で淋しさを紛らわせるケーキやフォークは一定数存在しており、それらの者が選ぶ定番的なゲームタイトルのひとつなのだろう。
「万のサークル……IR=NABに参加し、質問を寄せたメンバーの中に、彼女が居たそうだ。たとえばの話として事件のあらましを伝え、過去の嗜食事件の判例から量刑を知りたいと」
 当たり前だが、IR=NABが万理であるとは知らずに取った行動だった。書き込まれた内容と文章の癖、本名をもじったゲームIDから、万理の方はすぐに彼女本人であると気がつき、悩み迷った末に、それとなく己の正体を告げて、言葉を寄せた。
 すべては過去のこと、不幸な事故でしかない。すべてを過去にして、新しい道を歩いて行こう。二度と交わることのない道でも、一度交わったあの頃は、確かに幸せな時間を過ごせたのだから。
 ありがとう、と。

――正直、僕としては、万の対応はあまり納得の行くものではないけれど、当人がそれをもって由としたのだから、口を挟むことはしない。あとはただ、願うだけだ。ふたりの心が、穏やかであるように」
「ユキさんの気持ち、なんとなくわかります。オレも……ああ」
 百瀬は考え深げに顎に手を当てて、ひとり呟いた。
「そうか、あの書き込みは……転載で利用されて……
「モモ? どうかした?」
「あ、いえ、ひとつ答え合わせができたことがあって。あとで話しますね」
 そう言って笑顔を見せる。
 差し迫って話すことではない、けれどちゃんと共有しよう、という意思の感じられる話の運びかたが、その誠実さが嬉しかった。あとで話してくれる。あと、があると自然に口にしてくれたのも。
 ――そう、誠実に。
 あとからではなく、いま。伝えるべきことがある。あの夜に置き去りにしたままの言葉。千斗から言わなければならない言葉だ。
 ベンチから腰を上げ、一歩動いて、座る百瀬の前へと立つ。
「ケーキとフォークが一緒に居れば、こうした危険といつだって隣り合わせの日々になる。けれど……それでも、僕は、君と一緒に居たい。何度でも会いたい」
 百瀬は黙ったまま、けれど瞳を不思議にきらめかせて、千斗を見上げた。
「そのためにできることは何だってする。フォークとしての僕に勝利してみせる。会社も動かすし、世の中だって変えてやる。一緒に生きることを、決して諦めない」
 身を沈め、レンガ色の道に片膝をつく。両方の手で百瀬の手を取り、真っ直ぐに見つめて、その言葉を口にした。
「モモくん――春原百瀬くん。君が好きです。僕の恋人になってください」
…………
 絡めた指が、少しの熱を帯びながらしっかりと握り返す。握ったまま、百瀬はゆっくりとベンチから立ち上がった。ひざまずいていた千斗の手をやさしく引いて、同じくゆっくりと立ち上がらせ、真正面から向かい合う。

 小さな息が震えて、はい、と音を作った。

 ユキさん――呟きのような呼びかけは、口のなかで溶け去る。改めて口を開き、はっきりとした声で、百瀬は言った。
「いつも、いつだって、オレを見つけてくれて、オレにかたちを与えてくれて、ありがとう。好きになってくれて、ありがとう」
 百瀬の後ろで、小さな花々が揺れている。ふたりで駆けるあの世界で、始まりの合図に飛び立つ色とりどりの鳥たちのような花。かすかにあまい匂いがしたのは、風が運んだ花のかおりだろうか、それとも。
 もう恐れない。甘い香りも、胃の腑のざわつきも。
 百瀬の次の言葉を待つ。その言葉があれば、きっと何だって受けとめられる。
――折笠千斗さん。あなたが好きです。オレの恋人になってください」
 明るく弾けるような、Momoの声。優しく寄り添うような、モモの声。千斗の大好きな声で、百瀬が告げた。

 真っ直ぐに見つめかえしながら、はい、と答える。

 笑顔が、春のように咲き溢れた。続けてなにか言おうとした唇は、震えて言葉を紡げない。千斗を見つめる瞳がやわらかく煙って、まばたきを繰り返すうち、大きな粒になった涙がほろほろと零れた。
「あれ、おかしいな、オレ……
 袖口でぐいと拭こうとするのを押しとどめ、ポケットからハンカチを取り出して頬にあてる。おとなしく拭われながら、ふと思いついたように百瀬が言った。
「涙も甘いのかな。それとも、やっぱりしょっぱいのかな」
 ケーキが口にするにはだいぶ危うい問いかけだったが、子どもが発した純粋な疑問のようで、嗜めるより先に微笑んでしまう。
「どうだろうね。試したことはないから」
……いいですよ。オレのあじ、試してみて」
 また無防備な言葉だ。今度こそ諫めようと口を開きかけて、気がつく。以前の、嘔吐にも似た強烈な衝動はどこにも生じていなかった。目の前であどけなく首を傾げる百瀬を、ただひとしおにかわいい、いとしいと思う気持ちだけに満たされている。
 フェロモン放散は起こっていない。落ち着いた心で、きちんとコントロールが為されている。
 そのうえで、己を味わって、と誘っているのだ。
 フォークの衝動とは異なった、けれどよりいっそう甘美で抗いがたい欲望が潮のように押し寄せ、身体を熱くする。
 彼の味を知りたい。隅々まで、彼を知りたい。
 百瀬の肩に手を置き、頬に顔を寄せる。目尻から零れた涙を、そっと唇で受けとめた。
 舌先が雫に触れた瞬間、鮮烈な甘さが背筋を走り抜け、脳髄を痺れさせた。透きとおってしっとりとした液体が、舌のうえで滑らかにひろがり、淡く蕩ける。まるで極上の生クリームのように。
 甘露を味わう快楽の傍ら、耳もとに吐息が吹きかかる。少しだけ顔を離して眺めれば、百瀬の頬は薄紅色に染まって、目も口もぎゅっと閉ざしていながら、時おり耐えかねたように唇が開き、ふぅふぅと息を零していた。
 呑み込まれそうになる理性を、より強い意志を錨にして繋ぎとめる。君を食べない。君を守る。
 僕のための君。君のための僕。
 頬を滑り落ちていく涙を、大きく出した舌でゆったりと掬い取る。口の端の上から始めて、頬、目尻へと。最後に、まつ毛に散る小さな雫を吸い上げ、名残り惜しく口を離した。
 百瀬がぱちぱちとまばたきをして、ずっと閉じていた目を開けた。見上げる瞳は甘やかな光を帯びつつ、まだ残る涙に覆われて潤み、揺れている。
……百瀬」
 千斗の呼びかけに、ふるりと身を震わせた。
「くち、開けて」
 夢見るような表情のまま、従順に口を開ける。白い八重歯が見えた。百瀬の口のなかは唾液に浸され、ぬかるんでいる。
 ――彼の蜜だ。
 むさぼりたい衝動を抑えつけて、涙の後味を残したままの舌をそっと差し入れる。舌先と舌先をあわせ、小さくつつくように擦りあわせると、百瀬が微かに身じろぎをした。
…………っふ……うぇ……?」
 怪訝そうな声を漏らし、舌が離れる。何やら物申したげな表情の百瀬に悪戯っぽく笑いかけると、確かめるように口のなかをもごもごさせてから、彼は言った。
「普通にしょっぱい。です」
「それは……まあ、そうね」
 思わず噴き出す。どうやら、舌に広がる後味を届けることに成功したようだ。
 百瀬は口を尖らせたが、すぐに崩れて照れ笑いになる。
……千斗さん」
 耳朶にも甘い百瀬の声が、名を呼んだ。甘く、優しく、慕わしい声。愛おしさに喉が詰まりそうになる。
「千斗さんには、これ、甘いんですか。オレにはしょっぱいのに」
「うん、甘いよ。そして美味しい。甘いものはあまり得意ではなかったはずのに、百瀬はほんとうに、とても美味しい」
 百瀬は、美味しい。禁忌としていたその言葉をすんなりと口に出せたことに、自分で驚いた。驚きをごまかすように、なにしろ僕はフォークだからね、と付け足す。百瀬は邪気なく頷いた。
「オレ、ケーキなんだなあ」
 しみじみとした声音に、自虐の響きは無い。ただそこにある事実として受け入れ、自然に呟いていることが、嬉しい。
「オレの味覚と千斗さんの味覚、混ざりあったらちょうどいいのに。あの、塩キャラメルアイスみたいな感じで」
――ああ」
 マーブル模様のアイスクリーム。フォークになる以前の味覚がある状態で、最後に味わった食べ物だ。百瀬とふたり、甘いのにしょっぱい、しょっぱいのに甘いね、と感心しながら食べた、肉バルでのデザート。ほんの二週間足らず前のことなのに、遠く懐かしい思い出のようだった。
「なるほどね。あれは美味しかった。社の開発部に提案してみようかな。良いヒントをありがとう」
「千斗さん……
 百瀬の顔が、わずかに曇る。問いかけるように覗き込むと、少しのためらいの後、彼は言葉を続けた。
「千斗さんは、やっぱり、あの夜に戻りたいって思いますか?」
 甘くてしょっぱい後味を舌に残しながら、にぎやかなバルを出て、ふたりで歩いた土曜の夜。
「そうだね。もしも時間を戻せたなら――
 公園のガス灯の下、伝えたくて伝えられなかった言葉。君がくれた優しい許し。
「僕は今度こそ、きちんと君に想いを伝えたい。それができなくて、たくさん苦しめてしまったから。不甲斐なくて、ごめん」
 百瀬が微かに目を瞠った。なにか言いかけて小さく開いた口もとを、一本立てた人差し指で塞ぐ。
「でも、あれからいろいろなことがあって、僕らはここに居る。あとは未来のことだけ、考えていこう。楽しくて素晴らしい未来を」
 唇から頬へと指を這わせ、手のひらで包み込んだ。涙の流れた跡がしっとりと湿って、やわらかい。
 頬を淡く色づかせ、百瀬は、ただじっと千斗を見上げていた。透明なジュレのように揺れて光を散らす瞳が、てらいなく真っ直ぐに見つめている。

 唇が小さく開き、千斗さん、と呼ぶ。
 百瀬、と応えて、そっと唇を寄せた。

 芳しい吐息を、甘やかな花蜜を、混ぜあわせる。今だけは、溺れてしまおう。千斗のためのケーキに。百瀬のためのフォークとして。

 心のかたちまでもとろけさせるような、透きとおった蜜の味。甘くて、甘くて、甘くて、甘い。この世に、あるはずのない味。
 世界は、変わってしまった。
 世界を、変えていく。

 ふたり混ざりあって、マーブル模様を描くように。