2024-09-15 22:07:04
142566文字
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マーブリング・マーブル

シャチョコン in ケーキバース。モモ=ケーキ(先天性)、ユキ=フォーク(後天性)。

ピリカラことRe:vale記念日2022リリックビデオの世界観+ケーキバースです。
社長(折笠千斗27歳)&コンビニくん(春原百瀬20歳)のほか、脇役として万理さんが登場します。
捏造過多。なんでも許せる人向け。特殊設定につき注意事項を最後まで必読でお願いします。

◆必読・注意事項◆
・ケーキバースという特殊設定に、多くの独自解釈と追加の設定を付与しています。
・流血・負傷・暴力的な表現があります(いずれも軽傷程度です)。
・モブキャラクター(名無し)による加害・犯罪行為があります(未遂・微量のモブモモ)。
・主要登場人物間のカニバリズム・欠損・殺人等はありませんが、世界観には含んでおり、言及があります。
・医学用語その他の各種用語はフレーバーとして用いており、解釈・知識とも曖昧で浅薄なものです。ご寛恕くださる方のみ、閲覧していただけますようお願いいたします。
・現実における特定のカテゴリ・疾病の方を貶めたり、傷つける意図はございません。また、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

◆あまり内容のないあとがき◆
https://privatter.me/page/66e6da94a683b
※読了後の方向けのためパスワード有です。質問自体がエピローグのネタバレになっていますのでご注意ください。


 色とりどりのペットボトルが並ぶ炭酸飲料の棚の前で、足を止める。
 千斗がコンビニエンスストアに入店して買う飲み物といえば、先週まではカウンターコーヒー一択だった。人生、何がどうなるかわからないものだ。
 フォークとなって五日が経つ。味覚をはじめとする体質の変化に、少しずつ馴染んできたところだ。
 五原味と呼ばれる、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味。いずれもまったく感じない。のみならず、舌触り、口当たりといった、いわゆる食感についても極端に鈍くなった。柔らかいものは泥のよう。硬いものは石のよう。温感と冷感も九割がた失われており、熱いものには用心が必要だ。
 味と感触がほぼ無いため、食べ物はまだしも飲み物の場合、口に空気を含んだかのように存在感が消失してしまう。何度も口の端からだらりと零してしまって、情けない思いをした。試行錯誤の結果、これを防ぐには、鈍った食感でもわずかに刺激が感じられる強炭酸の飲料が最適であるという結論に至ったのが二日前のこと。そうして、常飲する飲み物が変わった。
「五日、か……
 しみじみと呟く。
 怒濤の五日間だった。土曜の夜に社のラボで抗体検査と生化学検査を受け、複数の対照検査を経て、フォークであるとの確定診断がついたのが明け方のこと。日曜の早朝ではあったが、社内外のブレーンを集められるだけ集めてweb会議を開催し、今後についてのディスカッションを行った。週明け、月曜の午前には役職者を招集して意見の取りまとめを行い、火曜からは社内の意思統一と広報の方針及びスケジュール決定の後、関係各所への根回しの準備を進めている。
 とにかく考えること、決断しなければならないことが多かった。多すぎた。
 なかでも大きかったのは、カミングアウトの問題だ。
 ケーキも、フォークも、自らそうであると明かすことはまずない。ケーキはフォークに被食対象として狙われる危険性があること、フォークはいつなんどき犯罪者に豹変するかという疑いの目で見られることがその理由である。
 ましてや要職にあるものが、ケーキならまだしもフォークであると開示することなど、通常ならば考えられない。
 しかし。
 折笠千斗が代表取締役社長を務める会社は、彼自身が七年前に興した、医療系のベンチャー企業だ。創薬研究に加え、ある種の特質を持つ人間について、社会参画の援護や生活環境のサポートなど、きめ細かな支援構築を行っている。
 ある種の特質。いわゆるところの「ケーキ」と「フォーク」だ。

 ケーキのフェロモン放出の抑制薬や、フォークの飢餓感を抑える鎮静薬といった医薬品の研究開発を主軸にしつつ、他方で彼らの社会的立場を守るための仕組みと環境を提案し、運用する。異業種の組み合わせだが、ケーキとフォークの生存権の守護を中軸に据えていることにより、事業の全体図はぶれることなく、どころか相乗効果を得ている。社会福祉に関わるため、公的研究機関や関係省庁との連携と補助も潤沢で、起業からずっと経営的にも人道的にも高い評価を獲得しつつ、成長を続けてきた。
 事業内容と、企業理念――「ケーキとフォークへの偏見を払拭し、彼らが生きやすいように社会的包摂を実現していく」ことを掲げている――からすれば、千斗がフォークとなったことも、包み隠さず発表するのが筋ではないか、と思える。
 だが、代表取締役社長がフォークであるという事実を、世論がどう受けとめるか。企業理念も、これから先、公私混同と見られてしまう可能性があるだろう。
 ……実のところ、千斗にとっては、そもそもがごく私的な動機から始めた事業であったので、今さらとも思うのだが。多くの従業員の人生と、社会的責任とを預かる企業の長としては、そうも言っていられない。
 信用失墜の引き金となってしまうか。千載一遇のチャンスに変えられるか。
 結論は、まだ出ていない。

 ×     ×     ×

 そういうわけで、週明けからの会議に次ぐ会議、決断に次ぐ決断ですっかり疲弊してしまった頭を休めがてら、飲み物を買いに来た。
 会社が入居しているオフィスビル内にもコンビニエンスストアはあるのだが、わざわざターミナル駅の反対側まで足を運び、街中の小さな店舗へとやってきたことには、息抜き以外にも理由がある。
 この店は、百瀬の勤務先なのだった。
 だが、彼の姿は見当たらない。レジにも、店内のどこにも。

 検査結果が出てすぐに、百瀬にメッセージを送った。できるだけ簡潔に、確定診断が出たこと、落ち着いたらまた会って欲しいということ、直接会うのは気が進まないというならば、せめてゲームの中では、いままでどおりの付き合いをさせて欲しいということを。
 既読はついた。けれど、返信はなかった。
 翌日もメッセージを送った。
『怪我の具合はどうですか?』
『いま少し仕事が立て込んでいて。でも、もしも会ってくれるなら、あるいはオンラインで話ができるなら、絶対に時間を作るので連絡して』
 返信はない。
 それからも何度かメッセージを送信したが、この五日間、既読はつけど返事はいちどもなかった。
 仕事の合間を縫い、ゲームのほうにもたびたびログインして確認するも、Momoはずっとグレーのオフライン表示のままだった。ログイン履歴は残っているが、時間は不定で、ごく短い。
 淋しいけれど、あの夜、既読だけでもつけてくれれば、と頼んだのは千斗自身だ。返事まで望むのは贅沢というものだろう。ともあれ本人が活動していて、ゲームを起動するだけの元気があるなら、それでいい。

 ……と、殊勝に思っていられたのも、せいぜい三日目まで。

 リアルで会えない、会ってくれないのは、それは仕方がない。なにしろケーキとフォーク、被食者と捕食者の関係となってしまったのだから。もちろん、千斗には百瀬を傷つけるつもりなど欠片もないが、避けられてしまうのは無理のないことだ。
 だが、ディスプレイ越しの仮想世界であれば、彼の身に危害が及ぶ可能性はゼロだ。楽しく遊ぶような心持ちにはなれないとしても、せめてボイスチャットでの謝罪の機会くらい、与えてくれても良いのではないか。あるいは、メッセージのひとつくらい、返してくれても良いのではないか。つい、恨みがましい気持ちになってしまう。
……だめだ」
 五日間。会えないのみならず、ボイスチャットや通話で声を聞くことも、メッセージやスタンプを見ることも叶わない日々が続き、淋しさが高じて苛立ちへと呑み込まれつつあった。疲労で思考力が落ちていることもあるだろう。けれど、だからといって、百瀬を責めるような考えを抱くことは絶対にあってはならない。
 いずれにせよ、会うことの許しも得ないまま勤務先に押しかけるなど、身勝手で非常識な行為だ。むしろ会えなくて良かった、と思う。当初の目的である飲み物を買って、社に戻ろう。
 気を取り直して、ペットボトルの棚を眺める。プレーンな炭酸水を買うつもりだったが、とあるボトルにふと、目を引かれた。
 桃とりんごのスパークリング。略してももりん。百瀬の気に入りの炭酸飲料だ。前に一度、ひとくち貰って飲んだ時には、千斗には少々甘すぎるように感じられたが、いまはその心配もない。
 手に取ると、後ろの商品が滑って前へと移動した。棚の向こう側で人の手が動き、新たなボトルを置く。バックヤードで店員が在庫を補充したのだろう。
 ピンクのペットボトルの隙間に、小さく顔が見えた。目が合う。大きな瞳が一瞬、ぱっと閃くように輝いて、ぱちぱちと何度もまばたきをした。
……え?」
 百瀬だった。大きな白いマスクをつけている。ショーケースの向こう側、補充のペットボトルを手にしたまま、目を見開いて固まっていた。
――モモ!」
 立ち並ぶペットボトルの向こう側へ、低い声で叫ぶ。
「モモくん、ごめん、話を……少しでいいから、話ができないか?」
 声は届いている。百瀬は困ったように目を細めて弱々しく笑い、頷いた。
――店の外で。休憩を貰ってくるので、ちょっとだけ待っててくれますか」
 マスク越しの声はくぐもって、少し掠れていた。だけど、久しぶりに聞く、聞きたかった、百瀬の声だった。


 百瀬の勤めるコンビニエンスストアは、日本でも有数の歓楽街の中にある。夜ともなると路上は酔客と客引きで埋め尽くされ、お世辞にも治安が良いとは言い難いが、昼下がりのいまは人の姿も少なく、ただ道に散らばる吸い殻や空き缶、猥雑な看板に盛り場の気配を感じるくらいだ。
 店舗の横に、少しだけ引っ込んだ路地のような空間があった。そこに立って、ももりんの蓋を開ける。キャップを捻った瞬間の、炭酸ガスが噴きだす爽やかな音が耳に心地良い。味はわからずとも耳で楽しめるのは、炭酸飲料の良いところだ。
 ペットボトルに口をつける。弾ける気泡が唇に当たって、少しばかり痛い。なのに口の中に流し込むと、ぼんやりとしたものになる。飲み下せば、喉越しにまた炭酸が感じられる。異質なこの感覚に、慣れる日は来るのだろうか。以前とは違う世界に来てしまったような、よりどころのない心細さを感じる。フォークの発症が、時にパラダイム・シフトと呼ばれるのも納得だ。
 味覚を失ったことが辛くない、と言えば嘘になる。けれど、ケーキである百瀬と一緒に居ようとするならば、必然の出来事だったのだろう。
 フォークとして生きるということについて、仕事柄それなりに知識はあると自負していたが、実際に己の身体で体感すると、頭でだけ理解したつもりになっていた部分が多々あったのだと思い知らされた。五味のない食事の侘びしさ。食感を欠いたことによる不自由。かろうじて残ってはいるものの、酷くバランスを欠いた嗅覚。
 ことに嗅覚には翻弄されていた。基本的にはうっすらとしか感じられないのに、時おり抜けるように強く鼻を突く。あの夜の、血のにおいのように。
 思い出したことで、鼻に絡む血なまぐささの記憶が呼び覚まされた。あの夜の記憶。そして、もっとずっと以前の記憶。人いきれとざわめき。流れ続ける血。啜り咀嚼する――
 かぶりを振り、意識を引き戻す。追憶を洗い流してしまおうと、無色透明、さらに千斗にとっては無味の炭酸飲料を口いっぱいに含んだ。
 ふぬけた泡の感触に混じって、ふと、甘い香りが漂った。口腔から鼻孔へと柔らかく触れて、しっとりと染み込む。桃と林檎を模した香料だろうか。液体を飲み込んでなお、口の中に、後味のような果実の気配が残った。
 ……味?
「すみません、お待たせしました」
 ぎくりとする。顔を上げると、百瀬が立っていた。コンビニの制服姿で、白いマスクもそのままだ。
 知覚できる香りではない。けれど確かに、喉の奥、熱を増す熾火のように衝動がせり上がってくる。彼の姿を目にしたからか。あるいは目には見えないものを身体が感じ取り、知らず裡に溶け込ませてしまっているのか。
「ユキさん?」
 ももりんのキャップを閉めて、さりげなく半歩だけ後ろに下がり、ゆるく微笑んでみせる。大丈夫。大丈夫だ。
「風邪、引いたの?」
「え?」
「マスク」
「ああ、これは」
 百瀬は耳にかけた紐を外し、マスクを取り去った。
「風邪じゃないです。ちょっと、しばらく……喋りにくかったので、レジとか接客にはあまり出なかったんですけれど。どうしても必要な時に、会話を最小限にしてもお客さんに不快感を持たせないように、って店長が支給してくれました」
「喋りにくかった?」
 はっとする。聞くまでもない。舌の傷のせいだ。
……ごめん」
「いや、あの、すみません、気にしないでください。オレがドジで、自分で何度も噛んじゃって悪化させただけなんで」
「それはやっぱり僕のせいだろう。僕が傷をつけたから、それで」
 さらに言い募ろうとして、口を閉じる。もっときちんと言うべきことだ。
 姿勢を正し、深々と頭を下げる。
「本当にごめん。悪かった。モモに怪我をさせるなんて」
「やめて……やめてください。顔、上げてください」
 じっと下げたままの頭のうえで、百瀬が焦った声を出す。ひとが見てますから。そう言われてやっと顔を上げた。百瀬はほっと息を吐き、それからわずかに目を伏せて、低い声で言った。
――謝るのは、オレのほうです。謝って、赦して貰えることじゃないけれど」
「どうしてモモが謝るの。あの時もだけれど、モモに謝る理由なんてないだろう」
「そんなわけ、ないじゃないですか。オレのせいで、ユキさん、――になってしまったのに」
 フォーク、の部分だけ、聞き取れないくらいに声を小さく落とす。
「オレの、キ……オレの、フェロモンにあてられたせいなんです。オレと、一緒に居たから。オレが、強請ったから。全部、オレのせいです」
 何度も言い直す、オレの、という言葉。口に出すたび、自分で自分に傷をつけているのがわかる。伏せられたまつ毛は小刻みに揺れていた。
……そんなことを、気にしていたのか」
 繰り返される謝罪の言葉。そこに込められていたものをようやっと理解して、千斗は、鈍感すぎた己を呪った。そうだ。百瀬ならきっと、気にしてしまうはずだと、なぜ思いつけなかったのだろう。
 知っていたのに。


 フォークの発症は、ケーキが体内で生成する特異な外分泌物質――いわゆる「ケーキフェロモン」の吸入が引き金となって起こるという説は、臨床的にほぼ確定と目されている。
 このことは、ケーキは基礎知識として教え込まれるし、千斗はケーキ・フォーク関連の医療業界に身を置く者ゆえに知っているが、一般には機密扱いとなっている。なぜかと云うに、これが広まってしまえば、フォークのみならずケーキもまた「フォークを目覚めさせる者」として忌避の対象となってしまう可能性があるからだ。
 だが、ケーキフェロモンはあくまでも誘発因子だ。発症を促す要因のひとつではあれど、原因ではない。そもそも、フェロモン受容体の感度が高いことは、フォークの潜在因子と見做される。卵が先か、鶏が先か。その程度の話だ。
「もとから、発症するだけの潜在因子が、僕にあった。それだけのことだ。モモが気にする必要なんてない」
 一語一語に力を込め、ゆっくりと噛んで含めるように言う。けれど、百瀬は硬い表情でかぶりを振った。
「だって、ユキさん、半年前の検査の数値はあんなに低かったじゃないですか。どう考えても、オレと会うようになって上がっちゃったってことでしょう」
 思わず言葉に詰まる。百瀬の言葉は、データに裏付けされた事実であり、真実だった。頭ごなしに否定することはできない。
 調子に乗って診断結果を見せたりするのではなかった、と臍を噛む。百瀬を安心させるため、自分が安全な人間であると示すためにしたことが、思いも寄らぬかたちで返ってきてしまった。
「最後の発症トリガーも、オレが引いた。……誘った」
「それは……
 沈み込むような声に胸を衝かれる。
 特別な日にする、という決意とともに誘っておきながら、情けなくも言葉を紡げなかった千斗に、優しく心を、身を、あずけてくれたこと。あんなに嬉しかったのに。そのせいで、百瀬にこんな思いをさせてしまっている。もしも時を戻すことができるのなら、絶対に悲しい気持ちになどさせない。負い目など感じさせないのに。
「あの夜に、戻れるものなら……
 洩れてしまった呟きを聞いてか、百瀬が身じろぎをした。頬が微かに震えている。我知らず手を伸ばしかけたが、喉もとに甘く粘つく気配を感じ、ぐっと拳を握りしめた。いまは、触れることはできない。
「モモのせいじゃない。本当に、モモのせいじゃない。僕の認識が甘かった。それだけなんだ」
「そんなこと、オレがちゃんと、わきまえて、」
「聞いて。昔のことだけれど、僕は」
 また繰り返される自責の言葉を、強引に遮る。
「ケーキと、付き合いがあったんだ」
 百瀬が目を見開いた。え、と言葉にはならずに口だけが動き、千斗を見上げる。
「その相手とは近い距離で長い時間を一緒に過ごしたから、かなりの量のフェロモンを浴びたはずだけれど、フォークの潜在因子の検査値はまるで上がらなかった。それで僕は、自分のことを、フェロモン受容体を持たない……ケーキの影響を一切受けない体質だと信じ込んでしまって、油断していた。本当ならもっとちゃんと気をつけるべきだった」
 じっと百瀬の顔を見つめる。まだ呆然として、口が小さく開いており、そこから八重歯が覗いていた。年よりもだいぶ幼げに見えて、ふいに強い庇護欲が湧き上がった。
 ゲームの中のYukiは、出会ってからずっと、初心者として、後衛として、Momoに守られてきた。リアルでは千斗が、年上として、大人として、百瀬を守ってやらなければならない。
「だから、責任はすべて僕にある。社会人として、僕が責任を取る。モモくんは何も、何ひとつ、気にする必要はないんだ」
 すべてを千斗に委ねて、身も心も軽くしてくれたらいい。ただ笑っていてくれたらいい。その願いを込めて言ったのだが、なぜだか百瀬の顔は曇ったままだった。なのに、無理矢理のように口の端を上げて、笑みらしき表情をつくる。
「ああ、そう……なんですね。前の……。わかりました。でも、やっぱり、オレの責任だと思います。オレのフェロモンのせいで発症したんだから」
「モモ……
 平行線、というより、どうやらふたりが考える「責任」の定義がまず違っていて、そこを擦り合わせることから始めなければならないようだった。どう言えば解ってくれるのだろう。百瀬の顔を見据えつつ思案していると、彼は居心地悪そうに視線を逸らし、店の方へと目をやった。
「すみません、オレそろそろ仕事に戻らないと」
「え、ごめん、待って」
 言うなり身を翻そうとするのを見て、千斗は慌てた。
「待って、日をあらためて、もう少し話がしたい。説明させてくれ。僕があのゲームを始めた理由にも関わることだから、いちどちゃんと話しておきたかったんだ」
「ユキさんが、ゲームを始めた理由? 教えてくれるんですか?」
 問い返されて、頷く。成長を続ける企業の経営者として多忙を極めており、また元来ゲームが趣味というわけでもなかった千斗が、なぜFPSゲームなどというものを始めたのか。いまは純粋に楽しんでプレイしているが、最初はゲームとは無縁の理由があった。
 ゲームそのものをこよなく愛する百瀬に、他の目的があったと打ち明けるのは、不純に聞こえてしまうのではないか、失望させてしまうのではないかという怖れから、これまで何度か水を向けられてもさりげなく濁してきた。しかし、今こそ告げるべき時だろう。
「週末にでも、時間を貰えないかな。通話か、ゲームのボイチャでもいいから」
 百瀬はうつむいてしばし考えた後、意を決したように顔を上げて言った。
「いえ、良かったら、会ってお話しましょう。オレも伝えたいことがあるので」
……! わかった、ありがとう」
 直接、会ってくれる。まさかの返答を得て、瞬間、心が浮き立った。
 仕事の後にメッセージアプリで日時を決めようと約束し、店内へと戻る百瀬の背中を見送る。メッセージをくれる確約。また会える確約。それだけで舞い上がってしまうのだから、我ながら他愛ない、と千斗は苦笑した。
 透明な自動ドアの向こう側、百瀬はマスクをつけ直してレジへと入った。店の中はだいぶ混雑して、会計待ちの列ができている。そろそろ夕方の帰宅時間か、あるいは残業や夜仕事の出勤前の買い出しか。
 引きとめてしまって店にも悪いことをした、と申し訳なく思いながら、百瀬の仕事ぶりをしばし眺める。赤い髪をした青年が、おにぎりや菓子パンなど大量の商品が入ったバスケットをレジに置いた。常連なのだろうか、マスクを指し示して親しげに話しかけている。手際良くバーコードを読み取りながら、百瀬がなにか応え、ふたり同じタイミングで笑った。
 ――そういえば、先刻の会話のあいだ、百瀬の笑顔を一度も見ていない。
 幾たびか笑ったときも、どこか翳りのある笑みばかりだった。交わした言葉を思い出していくうちに、ふと、敬語が取り払われなかったことに気がつく。
 生来の遠慮深さと、年齢差もあって、もとから丁寧に喋る子ではある。けれど、いつもは会って話をしているうちに少しずつ柔らかい表現が混ざり、だんだんと気安い口調になっていく。慣れると緊張を解く小動物のようで、ひそかに好もしく思っているのだが、今日はずっと硬い言葉遣いを崩すことなく喋っていた。
 手に持ったままだった薄紅色のペットボトルを強く握りしめる。
 何か、どこか、大事なことを間違えているのではないか。そんな不安が背中にじわりと貼りついて、離れなかった。


 ■   〇   ■   〇   ■


……こんなもんかな」
 スティック掃除機のスイッチを切って、百瀬は部屋を見渡した。
 狭いアパートの狭い居室は、まず絶対的に収納が足りない。クローゼットのかわりに壁に長押が付いていて、アウターやちょっとした小物を掛けるのに重宝しているのだが、どうしたって雑然とした雰囲気になってしまう。床にはタコ足配線のマルチタップがいくつも転がり、ビーズクッションのソファはくたびれ加減で、片付けをしても全体にだらしない印象が先に立つ。せめても掃除機は丁寧に、ノズルをつけかえて隅々までかけた。来客の服に、間違っても埃などつけてしまわないように。
 ごちゃついて冴えない部屋のなか、窓際に置かれた煌々と光るゲーミングPCだけが存在感を放っている。モニタにはゲームのデモ画面が表示されていた。
「あ、そうだ」
 PCデスクの横の棚から、普段は収納したままのゲーム機を引っぱり出す。
 百瀬と千斗が出逢ったゲームは、マルチプラットフォームに対応しており、パソコンの他に複数メーカーの家庭用ゲーム機でもプレイすることが可能となっている。それを生かし、以前、千斗がこの部屋に来たときには、千斗はパソコン、百瀬はこのゲーム機で、並んで一緒にプレイをした。
 百瀬の隣に座り、モニタを真剣に見つめていた千斗の横顔を思い出す。手に持ったコントローラを見ずに操作できるようになったよ、と少しだけ得意気に言っていたのが微笑ましかった。
 マイクを通さずに隣同士でお喋りをしながらプレイするのは、オンラインゲームなのにオフラインマルチみたいで面白かったし、画面を並べて見ていると微妙な同期ずれや描画の遅延があって、ベストなマルチプレイを目指してああでもないこうでもないと試行錯誤するのも楽しかった。
 今日、一緒にゲームをするような空気になるとは思えないけれど、一応、セッティングをしておく。
 あのときの楽しさの名残りを、傍らに置いておきたい。そんな気持ちもあるのかもしれなかった。

 ×     ×     ×

 込み入った話になりそうだし、どちらかの部屋で会うことにしてはどうか、という百瀬の提案を、千斗は最初のうちずいぶんと渋った。
『なんでダメなんですか? ゆっくり話せていいかなと思ったんですけど』
『他人の目がない。ふたりきりになってしまうから』
『そのほうが気にせずケーキやフォークの話ができますよ』
『衆人環視の場所にして欲しい。保険をかけたい』
 意図するところがわからず、クエスチョンマークを出したぬいぐるみのスタンプを送る。少しの間があって、長めの文が送られてきた。
『免疫抑制剤と鎮静剤を調剤して貰ったけれど、まだ内服テストの段階で、適応が定かではないんだ。効能が確認できるまでは、第三者がいる環境で会うほうが安全性が高いと思う。そうしたらモモも安心できるでしょう』
 鎮静剤という言葉で、やっと、千斗が何を気にしているのかわかった。完全に意識の外だった己に、ちょっと配慮が足らなかったかな、と反省する。だが、正直なところ、千斗をフォークとして警戒する方向には思考がなかなか繋がらない。
 なにしろ、世間で言われるところのフォークのイメージ――一般市民に紛れて暮らしながら夜な夜なケーキを探し求め、ひとたび見つければ欲望のままに体液を啜り肉を喰らう異常者――に、これほどそぐわない人もいないだろう。いつだって理知的で、優しくて、穏やかに微笑んでいて。ゲームではたまにむきになって子どもっぽい負けん気を見せるけれど、彼が豹変するところなど、想像もつかない。
 ことのはじめとなったあの夜、明確な「食べる」意図でもって口のなかをまさぐられ、舌の傷をこじあけるように血を吸われた時には、本能的に身が竦んだ。けれど、百瀬のせいで千斗がフォークとなってしまったという衝撃のほうがだいぶ大きくて、自分の身に及んだ危険にはあまり思いが至っていなかった。
『ユキさんは大丈夫ですよ』
 深く考えずにそう送ると、うーん、と悩んでいるピンクのぬいぐるみのスタンプが送られてきた。さきほど送ったクエスチョンマークのぬいぐるみと同じシリーズで、以前、百瀬がプレゼントしたものだ。千斗がスタンプを使うのは、わりと珍しい。
『ごめん。格好つけた。モモじゃなくて僕が安心したいんだ。まだ手探りの部分が多いし、万が一にでも酩酊状態になったらと思うと』
『まさか!』
 思わぬ単語が出てきて、反射的に否定の意を送ってしまう。

 フォークの酩酊状態。それは、フォークの特殊飢餓欲求が暴走した変性意識状態のことだ。
 暴走と言っても、傍目には特に変わらない。言動もごく普通で、一見して理性が保たれているように見えるが、目の前のケーキを生きた人間としてではなく、純粋に「食べるもの」としか認識できなくなり、欲求のままにひたすら貪り続けてしまうのだという。

 ケーキへの捕食衝動それ自体は、すべてのフォークが持っているものであり、欲望に負けて「食べて」しまう事件は、変性意識に陥らずともしばしば発生している。
 酩酊状態がそれと違うのは、ケーキに対し「人間」として尊厳や苦痛を慮る意識が欠落してしまうため、抵抗しようが声を上げようが一切を意に介さずに、生きて動いて話している相手を、果実をかじるように無造作にそのまま食してしまうことだ。ゆえに、事件にまで発展すると、たいていの場合、目を背けたくなるほど凄惨な現場となる。犯罪史に残る猟奇的なケーキ殺傷事件は、その殆どがこの状態のときに起きている。

 過去にあった凶悪事件から、フォークの残虐さを象徴するものとしてメディアなどでセンセーショナルに語られがちだが、実際のところ国内で数年に一件確認されるかどうか、というごく稀な症例である。ケーキのリテラシー講習などにおいては、いたずらに脅えすぎてQOLを下げてしまったり、フォークへの過剰な警戒から差別意識に繋げてしまわないように、というベクトルの教えられかたをする。
 なお、酩酊状態は、医学定義上は精神疾患症状として扱われるため、ケーキに危害を加えても、状況次第では心神喪失を認められ、罪に問われないことがままある。世論でフォークが憎まれる理由の一端だ。

『酩酊状態なんてそうそう起こらないですよ。日頃から備えるようなものじゃないって講習で言われました』
『確かにレアケースとは聞くけれど、念のため、誰かの目があって欲しい。これは譲れない』
 千斗はなかなかに頑固だった。少し考えて、手札を切る。
『目はないけど耳なら。うちの部屋は真下の一階が大家さんの住居なので、もし何かあっても声を出すとか床を叩くとかすれば聞こえます』
『大家さんが住んでいるの? 珍しいね』
『防犯性が高いので意外と人気があるらしいです。ソーシャルワーカーに紹介して貰いました』
『なるほど……
『だから大丈夫!』
 百瀬の住む部屋は、ひとり暮らしを始める際に担当のソーシャルワーカー、つまり大神万理に紹介して貰った物件で、管理会社も大家も堅くて信頼が置ける。万理には本当に世話になったし、今も頼ってばかりだ。

 あの夜のやりとりを思い出す。土曜の夜遅くに送ったメッセージなんて、当然勤務時間外のはずなのに、万理はすぐに連絡をくれた。
――ほんとうに、すみません。大神さん、あんなに何回も言ってくれてたのに」
『百くん。あまり自分を責めないで』
 通話の向こう側、万理はいたわるように言った。覚悟していた落胆も、呆れる様子もなく、ただ思いやりに満ちた優しい声だった。
『俺のことなんて、全然気にしなくていいんだよ。それだけ、百くんにとって、信頼できる人と会えたってことだよね』
……はい」
『なのに、そんなことになって、つらかったよね。話してくれてありがとう。相談する相手に俺を選んでくれて、ありがとう』
「大神さん……
 いつだって、気持ちを受けとめてくれて、励ましの言葉をくれて。年の離れた兄のようで、つい甘えてしまいたくなる。百瀬には兄ならぬ姉がいるため、弟気質が出てしまうのかもしれない。以前そう伝えてみたら、万理は笑いながら、俺にも妹がいるから、お兄ちゃん気質が出てしまうのかもしれないな、と言っていた。
 姉、そして両親とは、ひとり暮らしを始めて以来、一度も顔を合わせていない。
 ケーキを担当するソーシャルワーカーの多くがそうであるように、万理もケーキだ。もしかしたら彼も、妹とは久しく会っていないのかもしれなかった。

 スマートフォンの通知音が鳴り、物思いが途切れる。長考していた千斗から、メッセージだ。
『わかった。モモの部屋で会おう。でも約束して。少しでも様子がおかしいと思ったら、すぐに声を出すこと』
 了解の「りょ!」と元気に告げるぬいぐるみのスタンプを送り、手早く来訪時間の打ち合わせを済ませ、メッセージアプリを終了した。
 スマートフォンを放り出して、目を閉じる。
 直接会って、話をする。しなければならない。
 千斗の過去の話。ゲームを始めた理由の話。付き合っていたというケーキの話。
 万理の話。ソーシャルワーカーの話。これから先のふたりの話。
 聞きたい。聞きたくない。話したい。話したくない。
 封じたい。封じたくない。

 ×     ×     ×

 スティック掃除機を隅の定位置に戻したところで、チャイムが鳴った。時計を見れば、さすがというか、約束の時間ぴったりだ。
 狭い玄関のドアを開ける。千斗が立っていた。カジュアルなジャケットとチノパンに、なぜかコンビニのレジ袋をぶら下げて、いかにも休日のビジネスマンといった風体に見える。
「いらっしゃい、どうぞ上がってください」
「こんにちは。お招きありがとう」
 定型の挨拶が、どことなく他人行儀に響く。
 千斗がこの部屋を訪問するのは、初めてのことではない。ゲーム関連のレクチャーのため、周辺機器の環境を見せるため、あるいは外での食事の後に話が弾んで別れがたくなり、と、理由はさまざまに何度も訪れている。彼にとっては勝手知ったる部屋のはずだ。なのに、まるで初めての来訪のように緊張した表情で立っている。
 百瀬の顔を見て、深々と息を吸う。うん、と、確かめるように頷いて、千斗は靴を脱いだ。
――お邪魔します」
 居室内に通し、なにか飲みますかと聞くと、千斗は手にしたレジ袋を差し出した。
「自分用と、差し入れ。冷蔵庫に入れておいて貰えるかな」
 受け取って中を見る。クリアピンクのペットボトルが半ダースほど入っていた。百瀬の気に入りの炭酸飲料、桃とりんごのスパークリングだ。
 あれ、と首を傾げる。千斗は甘いものがあまり得意ではない。このジュースも、前に百瀬が飲んでいるのに興味を示して味見をしたときは、ひとくちだけですぐに返してきたものだった。
「そういえばこのあいだも、ももりん飲んでましたね。ユキさん、甘いものは苦手だったん……じゃ……
 言葉が途中で立ち消える。千斗は小さく笑って、百瀬が手にした袋からももりんを一本、引っぱり出した。
「そんな顔しないで。音と泡の感覚で楽しめるのが良くて、炭酸を飲むようになったんだ。味はまあ、わからないけれど、せっかくだからももりんにしてる」
 せっかくだから。何がせっかくなのだろう。味で選ぶという選択肢を奪われて、好んでもいなかった炭酸飲料をやむなく飲んでいるというのに。
 手のなかのペットボトルを見下ろし、百瀬がそんなことを考えているあいだに、千斗はラグの上に座って腰を落ち着けた。テーブルにセッティングされたゲーム機に目をやって、顔をほころばせる。
「出してくれてたんだ。前にやったふたり同時プレイ、楽しかったね」
「同期はめちゃくちゃでしたけどね。描画もバグっちゃったし。テクスチャ崩れ、ほんとひどかった」
「新鮮で面白かったよ。遮蔽物が全部砂嵐みたいになって、ハイドしていて新フィールドのような気がして緊張した」
「あの砂模様、だいぶグロかったなあ」
「アバターは崩れなくて良かった。あまりグロテスクになったら、モザイクが必要になったかも」
「あはは、そんなの、レーティングが変わっちゃうから!」
 楽しそうに語る千斗につられるように笑ってしまう。千斗はどこかほっとしたように頬を緩め、ローテーブルに肘をついて、上目遣いで言った。
「やろうよ。ゲーム」
「え、今ですか?」
「今でも、今でなくても。僕が帰ってログインしてからでもいいから」
 百瀬をじっと見つめたまま、声に力が加わった。
「ランクマ、全然ポイント稼いでいないじゃない。シーズンパスも進めていないでしょ? Momoのランクキープ連続記録が途切れてしまうし、このままだと次シーズンでの昇格ボーナスも貰えない。……ね、やろうよ。ねえ。ゲーム。一緒に」
 次第に熱を帯びて、たたみかけるように言い募る。呆気に取られ、次いで、じわじわと不思議な感動がやってきた。
 せがむように、強請るように、ゲームに誘っている。気鋭の企業経営者にして、ビジネスメディアでも引く手あまたのカリスマが、ちいさな子どもみたいに一生懸命に、コンビニ店員の気を引いて、一緒に遊ぼうと迫ってくる。
 かわいい、と思った。すごくかわいい。年長の立派な社会人に対して、おこがましいというか、失礼を通り越して無礼の域かもしれないけれど。
「またふたりで遊びたい。僕はモモと、ずっと一緒に遊び続けたいんだ」
 連ねられた言葉に、縋るような響きが混じり、ふと胸が痛くなる。
 不意に気づかされた。

 かわいい、ではない。
 この感情は、いとしい、だ。

 ――気づきたくはなかった。


 並んで座り、ふたりでももりんを飲む。甘い果実の香りとともに、強めの炭酸が喉を滑り落ちていく。
 同じ味は感じられなくても、同じ刺激は感じることができる。少しだけ嬉しくて、せつなかった。
「音、聞いてみて」
 言われて耳を澄ます。飲み口から聞こえるぱちぱちと気泡が弾ける音は、爽やかで心地良い。
「飲んでるあいだ、ずっと音を聞いているんだ。炭酸っていいよね。今度からお酒を飲むときは、ビールで乾杯した後、スパークリングワインにしようかなと思ってる」
 どこまでも前向きに、楽しい発見のように語る。百瀬に対する気配りはもちろんあるだろうけれど、同時に、純粋に新しい自分と向き合おうとしていることも伝わってくる。いいな、と思った。いつだって、どんな時だって、本当に素敵なひとだ。
 あらためて決心する。果たすべき義務を果たさなければならない。償いというにはあまりに小さくても、できるかぎりのことを。
「先に、オレから。これ」
 用意していた封筒を取り出して、テーブルの上に置いた。薄っぺらい、白い事務用封筒。なかにはメモが一枚だけ入っている。
「これは?」
「オレがお世話になっているソーシャルワーカーの連絡先です。力になってくれるそうです」
「ソーシャルワーカー……ね。ケーキには、診断が出た時点で、公的機関からの相談員が付くんだよね」
「はい、そうです。検査結果が出てすぐに、最初の面談がありました」
 万理と最初に会ったのは、病室だった。
 試合中の事故により長年の夢と目標を絶たれ、さらにはケーキであると告げられて、頭の中が真っ白になったまま、茫然と過ごしていた入院の日々。面談に訪れた万理の、公僕らしい誠実な受け答えと、共感と同情に溢れた励ましに、どれだけ力づけられたことか。
「すごく頼りになる、信頼できるひとです。それはオレが保証します。GPSもその人にお願いしているくらいで」
「GPS登録、してるの?」
 封筒を矯めつ眇めつしていた千斗が顔を上げた。
 ソーシャルワーカーとの面談を経て、ケーキとして公的に認定されると、行政の庇護対象となり、さまざまな補助や特別措置を受けることができる。そのひとつが、GPS発信機の無償貸与による見守りシステムだ。
 ケーキは犯罪遭遇率が極めて高い。統計によると、生涯犯罪遭遇率は、ケーキ以外のそれの数十倍にも及ぶという。大きく報道される人肉嗜食事件以外にも、舐められたり、噛みつかれたりといった暴行・傷害事件は、日常的に数多く発生している。
 その対策のひとつとして打ち出されているのが、ケーキへのGPS発信機の貸与だ。これは、実効よりも広報的な意味合いが大きい。ケーキの居場所は常に掌握され、ガードされているのだとフォークに認識させることにより、犯罪抑止力となることを期待して導入された試みだという。
 実際に制度を利用して発信機を持ち歩いているケーキは、そう多くはいない。支給されるGPSのシステムソフトは常時追跡タイプではなく、有事の際に本人が発信する防犯ブザーのようなものなのだが、それでもやはり監視されているという感覚がぬぐえないためだろう。
「オレの場合、家族と離れて暮らしているので、なにかあったときの緊急連絡先みたいなものです。有り難いと思ってます」
……ふうん。モモくんが納得しているなら、いいのだけれど」
 そう言って千斗が頷いてくれたので、話を続ける。
「連絡先、オレの担当者さんの一時コンタクト用メッセIDが入ってます。名前とかの個人情報は、顔を合わせるまでは明かさない決まりだそうなので。ケーキ担当のソーシャルワーカーは、自分もケーキなことが多いので、一時期それでソーシャルワーカーがフォークに狙われたりしたらしくて」
 人間関係の構築に危険を伴うケーキにとって、定番の候補となる就職先のひとつが、ソーシャルワーカーの資格を取得して同じケーキの相談員になることだ。百瀬もこの先の道のひとつとして考えている。危険が云々よりも、仕事に向き合う万理の姿勢に惹かれたから、ということが大きい。
「支援に繋がるかどうかは、その人次第だから、まずは考えて貰って、連絡をくれたら相談に乗ります、ってことでした」
 万理の言葉をそのまま伝える。
「そうか。お役所の人らしいね」
 おやっと思った。口調にも言葉にも、やんわりと棘がある。こんな言い方をする千斗は珍しかった。思わずまじまじと顔を見てしまうが、表情は茫漠としていて内心を窺わせない。それもまた珍しかった。百瀬といるときは、感情をそのまま面持ちに載せがちな千斗であるから。
 心の中で首を傾げつつ、説明を続ける。
「あと、民間のサポート会社に相談するのも良いって教えて貰いました。ケーキは公助が充実しているけれど、フォークはなかなか難しいから。会社名が、ええと、確か……C&Fパワーとか、パワフルとか、そういう名前の……
「エンパワメント?」
「あ、それです! ……ユキさん、どうかしたんですか?」
 千斗はぐいっとももりんをあおり、ボトルをテーブルに置いた。
「モモくんの信頼している人に、こういう言い方をするのは申し訳ないのだけれど」
 甘いはずのジュースを飲んで、苦い顔をしている。いや、どちらにせよ、味はわからないはずではあるが。
「その人次第、という便利な言葉を使って、最初から丸投げするのはどうかと思う。まず公的機関が動いて、僕らはそこから零れた人を、というのが筋だろうに」
「え? 僕らは、って……
「C&Fエンパワメント。正式名称は、ケーキ・アンド・フォーク・エンパワメント・コーポレーション」
 千斗は憮然とした表情のまま、呪文のように長い会社名をひと息で言った。
「僕の会社の名前だ」

 つかのま、沈黙が場に落ちた。まだ弾けている炭酸の気泡が潰れる音だけが微かに響く。
 百瀬は目を瞬かせた。
「って、……あれ? ユキさんの会社って、医療系じゃなかったですか?」
「現在の基幹事業は製薬だけれど、もともとはケーキとフォークのサポートをする会社として立ち上げたんだ。生活設計とか、就職支援とか。いまも事業は並立している。ケーキ&フォーク・エンパワメント。ケーキとフォークを支援する力、という意味を込めている」
 何もかもが初耳だった。驚きをそのまま顔に出してしまったためか、千斗は少しきまり悪そうに言った。
「ケーキはともかく、フォークの支援をしていると聞くと、好ましく思わない人も多いから。プライベートでは、自分からは言わないことにしている。ごめん、隠していたようで」
「いえ……オレも、聞かなかったですし」
 フォークは現状、意識と無意識、グラデーションの濃淡はあれど、偏見と差別の標的となっている。
 人間を「喰う」存在への生理的な忌避と嫌悪感。身近で事件を見聞きし、恐怖心や恨みを抱くものも多い。フォーク排斥のデモや抗議活動もしばしば行われている。
 百瀬はケーキの身なれど、ただフォークというだけでそこまで憎む必要はあるのだろうか、と常から心苦しく思っていた。なので、千斗があえて告げずにいたことは理解できる。
 千斗は、心を落ち着かせるようにひとつ深呼吸をした。深く息を吸い、数秒のあいだ呼吸を止める。
 それから、ふうっと息を吐き出して、再度口を開いた。
「僕がこの会社を作ったのは、過去に遭ったケーキの事件がきっかけだった。その事件で、大事な人との繋がりを失った」
……前に言っていた、ケーキさんですか?」
「そう。彼が――彼もケーキなので、名前は出さないでおくけれど」
 彼、なのか。百瀬より以前の『彼』。胸の奥のどこかが、ずきりと痛んだ。


 初めて会ったのは高校生の頃だった。『彼』は千斗よりもひとつ年上だったが、一緒にいると不思議と心地良く、自然体になれる相手だった。
 家庭の事情で家を出て、ひとり暮らしをしていた『彼』の部屋に、千斗は毎日毎晩入り浸り、語り合っては夜を明かしたという。
 通う高校は違っていたけれど、一年遅れで同じ大学に入学し、同じ学部へと進み、いつか社会に出る時には、ともに事業を立ち上げようという計画まで立てていた。
 事件があったのは、その大学時代のことだ。
 大学祭の準備中、ふとした拍子に『彼』が怪我をした。命に関わるようなものではなかったが、大きな創傷で、傷口からはかなりの出血があった。
「学祭の準備で、キャンパス内にはたくさんの人がいた。そのなかに、フォークがいて。最初は普通に手当てをしてくれていたのだけれど、『彼』の血に、あてられたっていうのかな」
 千斗がぐっと目を上げる。不意に鋭い視線で射抜かれて、百瀬はびくりとした。
――酩酊状態になったんだ」

 そのフォークは、何の前触れも、狂気の色を見せることもなく、当たり前のように『彼』の傷にかぶりついた。驚き遮ろうとする千斗を煩げにいなし、『彼』の上げる苦痛の声も意に介さず、ただ黙々と皮膚を食い破り、咀嚼し、流れ出る血を啜り続けた。
 幸い、異常事態に気がついた回りの者が数人がかりでフォークを取り押さえ、引き剝がしたため、それ以上の惨劇は避けられた。フォークは拘束され、『彼』は病院へと搬送されて治療を受けた。
 しかし、この事件は、学内のフォークをひとり、ケーキをひとり、衝撃的なかたちで衆目に曝すこととなった。
 口さがない学生たちのあいだで、事件の噂は野火のように広がった。やがてそれは、SNSなどを通じて学外へも流れ出す。彼らについての情報――学部、名前、年齢、性別、そしてケーキである、フォークであることが、どこまでも拡散されていった。挙句、フォークの危険性を煽る格好の材料としてマスコミに取り上げられ、喧騒はさらに拡大した。
 幸い『彼』は対応のしっかりとした病院に収容されたため、直接的にメディアスクラムなどの被害に遭うことはなかった。事件の捜査関係者と家族以外はすべてシャットアウトされ、手厚く守られた。
 だが、それは、千斗と『彼』の面会の謝絶をも意味していた。

「酷い傷ではあったけれど、本当のところ、入院するようなものではなかったらしい。ただ、状況から通院が難しかったのと、不安定になっている精神状態を落ち着かせるため、便宜的に入院するのだと病院の人には言われた。そして、事件の時にいちばん近くにいた僕は、フラッシュバックを呼び起こしてしまうから、見舞いだけでなく音声通話やメッセ……すべての接触を控えるようにと言われて」
 無責任な報道と噂話、千斗のもとにも及んだ取材に神経をすり減らしながら、じりじりと時を過ごした。何の知らせもなしに一週間が過ぎ、さすがにそろそろ会えるだろうかと病院へ行ったところ、とっくに退院したと言われ、唖然とした。
 慌てて連絡を取ろうとして、メッセの宛先登録が消えていることに気がつく。その他のアプリの通話にも応答はない。電話をすればお決まりの「この番号は現在使われておりません」というアナウンスが流れる。急ぎ『彼』の部屋を訪ねたが、そこはもぬけの殻となっていた。何度か訪問した『彼』の実家すらも空き家となっており、近所の誰も行き先を知らなかった。
「なんで……?」
「ケーキであることが、知れわたってしまったからだと思う」
 百瀬の呟きを拾って、千斗が答える。
「そういう例は過去にもあったらしい。報道で実名が出され、あるいはネットで特定されて、ほとぼりが冷めるまで遠い場所に引っ越したり、名前を変えたりして、環境を一新する。原則として、それまで親しくしていた人間であっても、家族以外とは完全に交友関係を断つそうだ」
「そんな……家族以外って、親友とか、恋人でも?」
「例外を認めていたら、きりがないからね。……『彼』とはそれっきり会えていない。ずっと探し続けているけれど」
 大学にも『彼』と、あのフォークの籍はなくなっていた。追いかけて入り、一緒に学んだ学部から『彼』の姿は消えた。
 フォークについてはその後、かなりの時間を経過して、ひっそりと追加の報道が出た。代理人を通しての示談が成立し、不起訴。酩酊状態にあったことも情状として勘案されたのだろう。

 ふたりの若者を失くし、大学は、なにも変わらない顔をしていた。

 千斗は、社会経済学部へと転部した。包摂の理念や社会福祉について学ぶ傍ら、『彼』とふたりで作っていた事業構想を基盤に、医療と福祉の両面からケーキとフォークを支援する会社を設立した。
 立ち向かいたかった。
 学祭での事件は、事件である前に、不幸な事故だった。彼らが――ケーキとフォークが去って終わるのではなく、もっと別の道を作ることもできたのではないか。
 その道を舗装しようと、人生の舵を切った。
 すべての人が共存していける社会を作るために。そして、いつか『彼』と再会した時には、力となれる自分であるために。
 想いが千斗を支え、熱意が事業を軌道に乗せた。


 話を終えて、千斗はペットボトルを手に取った。ひとくち含んで、飲み口を耳もとに当て、じっと音を聞いている。
 百瀬は身じろぎもせず、ただ千斗を見つめた。語られた過去は「物語」としてわかりやすく整理されていて、彼の心に抱かれてきた時間の長さを感じさせた。落ち着いた表情も、抑えた語り口も、それだからこそ強く響く。
「起業してからは、目が回るほどの忙しさだったけれど、並行して『彼』の捜索は続けていた。どんな些細な手がかりでも、ひとつずつ確かめて、可能性を探して。だけど、足取りは全然つかめなかった」
 目が回るほど、と言うところで、ペットボトルをゆらりと回すように振った。長い打ち明け話を語り切ったからか、少しだけ肩の力が抜けた様子だ。
「で、ふとしたはずみに知ったのが、あるオンラインゲームのことだった」
 唐突にゲームの話が出てきて、百瀬は目をぱちくりさせた。
「ゲーム? オレたちのやってる、あのゲーム?」
「そう。ケーキのプレイヤーで構成された、互助会のようなものがあるという噂を聞いた。噂というか、うちのラボの研究員が、検体検査の協力者から聞いた話で、その人もたまたま病院の特定形質科……ケーキ専科で耳にした世間話だった」
「うわあ……めちゃくちゃ遠いソースですね」
「うん。でも、引っかかるところがいくつかあって」
 ゲームの中――仮想世界の繋がりでは、カミングアウトの精神的なハードルが低くなる。たまたま法に強いケーキのプレイヤーがおり、口コミで相談を受けているうちにメンターとして祀り上げられ、いつしかフォーラムのようなコミュニティが成立したのだという、都市伝説のような話だった。
 法に強い、という部分が気になった。彼らふたりが所属していたのは法学部だ。自主退学となった後も、またどこかで法律を学んだ可能性はある。他のケーキの相談に乗っているという部分にも、面倒見の良い性格だった『彼』らしさを感じた。
 それらを差し引いてなお、あまりに漠然とした案件ではあった。しかし、ここ数年の捜索は暗礁に乗り上げている。久しぶりに得た手がかりに、藁にも縋る思いでゲームをインストールした。
 会社は今年、創業七周年を迎える。この節目の年になんとしてでも『彼』を探し出したい。そう強く願っていた。
「手探りでプレイを始めて、ゲーム内外の知識を深めながら少しずつ情報を集めていったけれど、皆目見当がつかなくて。ある時、気がついたんだ。そもそも、コミュニティという言葉の意味を取り違えていた。一般的な意味ではなくて、単純に、公式コミュニティのことだった」
「ああ、それで! いっとき、急に公式コミュについてすごく聞かれたの、なんだろうって思ってました」
 運営が用意した公式のプレイヤーズコミューン。ゲームIDの所有者だけが参加できる、クローズド型のSNSだ。プレイ記録をミニブログとして出力するほか、ゲーム画面のスナップショットをアップロードしたり、コミュニティボードへの書き込みで他のプレイヤーと交流ができる。
 リアルで邂逅し、たびたび会うようになって、少し経った頃だろうか。一緒に食事をしている時に、千斗から、公式コミューンへの登録方法と、他のプレイヤーとの交流方法について、質問攻めにされたことがあった。
 公式コミューンの機能は雑多で多岐にわたるため、操作をしながら直接説明するのが手っ取り早いだろうと、この部屋へ招待した。PCの前にふたりで座って、コミューンへの参加登録と各種ツールの使いかた、ポータルの構造や外部SNSとの連携について、ひとつずつ丁寧にレクチャーをしていった。
 千斗は生真面目に聞き入りながら、モモくんはOJTが上手だな、と感心していた。オン・ザ・ジョブ・トレーニング。実務研修。ゲームを仕事になぞらえるなんて、ユキさんも、もう立派なゲーマーだ。そう言って笑った日が、少し懐かしい。
「そういえば、パスワードの変更ってできました?」
 ふと思い出して聞いた。
 公式コミューンへのログイン、そしてコミュニティボードの閲覧と書き込みには、ゲームIDのほか、四桁の数字のパスワードが必要になる。
 千斗にコミュニティ登録の方法を解説し、教えた時に、なぜだか最後まで要領を得なかったのが、パスワードの設定だった。

 ×     ×     ×

「いまどき四桁、使えるのは数字のみって、ちょっとセキュリティ的にどうなのって思いますよね」
 キーボードのテンキーを指し示しながら軽口を叩き、百瀬は顔を背けた。
「モモくん?」
「そこ、パスワードを入力してください。オレ、見ないようにするんで」
……うーん。突然、四桁の数字と言われても。なにか連想するものでもないと、忘れてしまいそうだな」
「自分にとって、覚えやすくて忘れない、特別な数字にするのがいいかなって。でも、誕生日とか、個人情報に紐づいちゃうのはだめですよ」
「誕生日。誕生日ね……なるほど」
「だめだって言ってるじゃないですか!」
 思わず笑ってしまい、百瀬はそっぽを向かせていた顔をもとの位置に戻した。目が合った千斗が、ゆったりと微笑する。
「自分の誕生日は避けたほうがいいだろうけれど、自分以外の誰かの誕生日なら良くない? モモくん、誕生日っていつ?」
「すいません、それほんとにだめなやつなんで」
「なんで? いつなの?」
 十一月十一日、1111なんです。そう言うと、千斗はなぜか満足そうな顔をして、パスワード入力欄に1111、と入れた。
「だからダメだってー!」
 笑いながら、そういうユキさんの誕生日はいつですか、と聞いてみる。十二月二十四日、という回答に、百瀬は目を丸くした。
「クリスマスイブ生まれ……?」
「だめ?」
「いやだめとかそういうんじゃ……そもそも誕生日がだめってことないでしょ! ちょっとびっくりしただけです」
 十二月二十四日。鈴の音が鳴り響き、真白く降り積もる聖なる日。
 美しい人が生まれた美しい日に、あまりにもぴったりすぎて、感動してしまっただなんて。言えるはずがなかった。

 ×     ×     ×

――さすがに1111は危ないでしょう。あの後、変えられました?」
「うん。ランダム生成して、パスワード管理アプリでね。ちゃんと保管しているよ」
「ええっ」
 衝撃の事実だった。
「すごい、しっかりしてる! っていうかしっかりしすぎ! あの時の会話はいったい何だったんですか」
 しみじみと追憶に浸っていた反動で、呆れたように言ってしまう。千斗は、ついと目を逸らし、口もとを手で押さえた。
……あれは、その……知りたかったんだ」
「知りたかった?」
……モモくんの、誕生日」
 白皙の頬が、微かに赤く染まっている。
 四桁の数字にかこつけて、百瀬の誕生日が知りたかった。そのために恍けて、さりげなく誘導したのだと。ささやかで、けなげな企みだった。
 ――覚えやすくて忘れない、特別な数字。
 部屋の空気が、やんわりと暖かく色づいたように感じられる。千斗の頬の色か、百瀬の頬の熱か。
……ええと。話を戻すよ」
 ごほん、とわざとらしく咳払いをして、千斗が言った。
 公式コミューンに登録し、ひととおり検索してみたが、今のところ手がかりはない。そもそもが雲をつかむような話であるし、よしんばそういったコミュニティが本当に存在していたとして、ケーキの集まりであれば、見えるところに看板を出してはいないだろう。焦らずにゆっくりと、情報を収集しながら探していくつもりでいる。
「だから、今はただ、普通にゲームを楽しんでるよ。モモのおかげで、本当にすごく楽しい」
 楽しいという言葉を殊更に強く、力を込めて繰り返す。
「こんな不純なきっかけでも、赦してくれるなら、これからも、モモと一緒にゲームを続けていきたい。ほんとうはずっと、言いたかった……言おうと思っていた。でも、ゲームが大好きで楽しんでいる人に失礼な気がして、――モモに、嫌われるんじゃないかって。打ち明けられずにいた。ごめん。ゲームを始めた理由を聞かれるたび、ごまかしてばかりで」
 過去の話をしていた時とはまるで違う、訥々として、真っ直ぐな言葉の連なりだった。いつも優しく穏やかに響く声が、幽かに震えている。
 あの運命の夜のように、必死になって言葉を紡ぎ出そうとしている。
 百瀬は知らず千斗の手を取り、両手で包み込んだ。千斗が驚いて顔を上げる。
「ゲームを始めるきっかけなんて、何だっていいじゃないですか。もっとずっと、どうしようもない理由で始める人だっているし、理由なんてなんにもなくても始める人もいるし。そういうもんでしょ、ゲームって」
 千斗の手、長く骨ばった指をそっと撫でる。最初はおぼつかなくコントローラを握った手。いまは一流のスナイパーの手だ。
「結果、好きになってくれて、一緒に楽しく遊べるなら、全然オッケーですよ! ユキさんがすごく楽しんで遊んでくれてること、好きになってくれたこと、オレはちゃんと知ってるから」
 最初から、千斗は満点だった。遊びと侮ることなく真摯に取り組んで、勝つたびに喜びを露わにし、負ければ次への展望を語り、すべて掛け値なしに心から楽しんでいた。ずっと隣に居たから、たくさんの勝利と敗北を分け合ってきた相棒だから、知っている。
「だから、何も変わらないです。大丈夫。前みたいに……前と同じに、ゲームの世界で一緒に楽しく遊べたら、それだけで」
 千斗の手が、応えるように指を絡め、強く握りかえしてきた。
……今までどおりで、いいの?」
 心細げに揺れる瞳を真正面で受けとめて、頷く。
――いいよ」
 あの夜と同じ肯定の言葉でありながら、意味するところは対極にあった。
 百瀬はケーキで、千斗はフォークである。それは動かしようのない現実だ。ましてや、千斗の会社のこともある。リアルではもう、会うべきではないだろう。
 けれど、ゲーム仲間として、オンラインの仮想空間でなら。距離を保ったまま、変わらず相棒として付き合っていくことはできる。
 自分に許される身の丈は、もとから、そこまでだったのだ。
「モモ」
 仄暗い想いから掬い上げるように、重ね合わせていた手がぐいと引かれた。
……ありがとう、モモ」
 身体ごと、引き寄せられる。え、と戸惑いの声が出たが、千斗は気にとめることなく、引き寄せた勢いのままにふわりと百瀬を受けとめた。
 手が肩の後ろに回り込んで、抱きしめられるようなかたちになる。首筋近くに寄せられた顔から息が吹きかかり、思考も身体も硬直した。何が起きているのか、起ころうとしているのか、全然わからない。
 固まったまま、永劫とも思える数秒が経って。
 すん、と吸い込む音がした。
……あのね。このあいだ、コンビニの前で立ち話をしたときにも感じたのだけれど」
 とても言いにくそうに、声にためらいを含みながら、千斗が言う。
「モモのケーキフェロモンの分泌量、薬効のキャパシティを越えている、と思う。今日は僕も薬を飲んでいるのに、これくらい近づくと、気配みたいなものがはっきりとわかる。ケーキ用の抑制剤、なに飲んでる?」
「そ、そん、その話、ですか」
 千斗が話すたび首に吹きかかる息のこそばゆさと、フェロモンについて指摘された気恥ずかしさと、それから、なにか。とにかく、顔が熱い。絶対、真っ赤になっている。この態勢のおかげで、お互いに顔が見えないのが救いだった。
――心配なんだ。とても。差し支えがなかったら、教えて欲しい。仕事柄、薬品名を聞けばある程度わかるから」
 切実な口調でそう言われれば、応じるしかない。しどろもどろになりつつ、ずっと飲み続けている定期処方薬の名前を答えた。千斗はひとつずつ、うん、うん、と確かめるように頷きながら聞いている。口にするたび、肩が顎につつかれる。それで、見えなくても頷かれていることがわかる。それはいいのだれど、つつかれるたび、どうしてか声が上擦ってしまう。
「定番だな。無難にまとまっている。でも、もう少し強いものに変えたほうがいいと思う。そもそも、コンビニなんて、不特定多数の人と接触するところで働いて大丈夫なの」
 言葉の合い間にずっと、すう、すうと鼻から息を吸って、確かめるように嗅いでいる。ちょっと、いやかなり、恥ずかしすぎる。
 さりげなく身体を離そうと試みるが、回された腕に存外強い力で押さえつけられていて、身動きが取れなかった。それでまた、頬が熱くなる。
「あ、あ、あの、ユキさん……
「うん」
「ええと……あ、コ、コンビニ、飲み屋街で、いろんなにおいに紛れるから、大丈夫だろうって。店内でも揚げ物とか、調理もしてて、油のにおいがきつかったりするし」
 顔が熱くて、茹だりそうになりながら、とりあえず質問に答える。
「あと、あの、うちの店、交番がある区画だし、繁華街だから監視カメラがたくさんあるし、それから、庁舎もすぐ近くなので、何かあったらいつでも相談においでって、心強いし」
「区の合同庁舎か。それも担当のソーシャルワーカーに言われた?」
「そう、です」
 息を吸う音が止まり、かわりに千斗が小さく鼻を鳴らすのが聞こえた。あまり好意的ではない感じだ。
「彼らが使う『相談に乗る』とか『頼れ』といった言葉は、真に受けないほうがいい。あてにして梯子を外されると、あてにしたぶんだけダメージが大きくなるから」
 声が低まる。どことなく、不機嫌そうな色味が混じっていた。
 そういえば先ほどから、ソーシャルワーカーや公的支援の話になるたび、好もしくなさそうな様子を見せている。
「すみません、もしかしてですけど……ユキさん、ソーシャルワーカーがあんまり好きじゃないんですか?」
「ああ……すまない。ちょっと大人げなかったな」
 苦笑する気配があった。緊張していた雰囲気が少しだけ和らぐ。
「仕事上いろいろと、楽しくないやりとりが多くてね。まあ、持ちつ持たれつ、基本的には協力関係だよ。――それはそれとして、モモがそこまで信頼して、頼っている相手、いちど会ってみたい気はするね」
 そう言って、また息を吸った。今度は深く、長く。
……そんなに、においます?」
 問いかけてみると、千斗ははっとしたように身体を揺らし、わずかに顔を遠のけた。
「ごめん。無意識だった。気づいてなかった」
 声に強い罪悪感が滲んでいる。百瀬は慌てて言った。
「いいです、いいんです。平気です。オレ、自分では全然わかんなくて。フェロモンって、どういうにおいなんですか? ……やっぱり、臭いですか?」
「臭くなんかないよ」
 千斗が驚いた、というよりひどく心外そうに言う。
「フェロモンは、嗅覚ではなく、フェロモン受容体で受けとめるものなんだ。そこから、脳内の味覚中枢に直接注ぎ込まれるような感じ。においというより、美味しいという感覚そのものに、直に触れられているような……甘さ……
 千斗の身体が、次第に傾いでいく。気がつけば、鼻先がまた首に――それよりももっと奥まった、うなじのあたりに近づいていた。喋るたびに首筋に吹きかかる息が、熱く湿っている。百瀬は小さく身を震わせた。良くわからない、わからないけれど、なにか少しずつ、空気が変化していく。
……耳のうしろ。本当にすごく、いい香り」
「ユキさん……?」
「あまい。香りなのに。甘いんだ。いや……だめだ。甘いだなんて。いい。いらない。欲しくない」
 うっとりと、ため息にも似た声で、けれど拒絶の言葉を吐く。彼の内側で昂まりゆくものを、必死に抑え、闘っているのがわかる。
 香りを、味を。狂おしいほどに欲している。
「モモに、味を感じるなんて……モモを、美味しいと感じてしまうなんて、絶対に」
 感じたくない。思いたくない。美味しくなんかない。感じない。思わない。美味しくない。譫言のように呟き続けている。
 肩に回された千斗の腕をそうっと撫でた。ずっと小刻みに震えていて、胸が詰まりそうになる。ただ一心に悔いていた。生涯の瑕を背負わせてしまったことに。こんな目に遭わせてしまっているのに、彼の目の前からいなくなることくらいしかできない、思いつけない自分に。
 いなくなることくらいしか。いなくなってしまえば。

 ――天啓のように、閃いた。

 この人をいま、苦しみから救ってあげる方法がある。ケーキである自分が、フォークである千斗にしてあげられること。
 記憶を辿り、掘り起こす。あの日、フォークとして目覚めた千斗が求めていたことを。口腔内をくまなく舐めとり、舌に吸いつき、頬の内側も綺麗にさらって、喉を鳴らしていた。彼が味わっていたもの。
 口を閉じる。唇まで内側に閉じ込め、頬をすぼめて、できるだけ唾液を分泌させる。
「ユキさん」
 零してしまわないよう、小さく呼んだ。肩に置かれていた顔が上がる。欲望と葛藤にさいなまれ、疲弊の色が濃くあらわれた面持ちだった。
 いまだけだ。すぐに、楽にしてあげる。
 千斗のほうを向き、できるだけ近くに顔を寄せて、口を大きく開けた。溢れそうな唾液が、口の端に糸を引く。
 息を呑む音がした。次の瞬間、千斗の顔が目の前に迫り、かぶりつくように口が合わせられた。じゅるりと音を立てて唾液を啜り上げられる。
――っ、あ、」
 すぐに舌が入り込んできた。長い舌が溜められていた唾液を舐めとって、なおも執拗に搔きまわし、一滴も残さずしゃぶり尽くす。そのまま百瀬の舌にざりざりと擦り合わせたかと思うと、強く吸いついてきた。いざなわれるままに舌を差し出す。千斗の口のなかへと。
 絡めとられた舌が、千斗の歯に挟み込まれた。あの夜と同じ、生殺与奪を握る拘束。そのまま、飴を舐めるように、舌先をずっとなぶられる。熱くぬるつく千斗の舌にあわせて、縫いとめられた舌を必死で動かし応えた。

 ああ、食べられる。
 食べてくれる。

 口の端から零れた唾液が、顎をつたい落ちた。千斗の唇が追いかけてきて、丹念に舐めとりながら顎をちゅ、ちゅ、と撫でるように口づけていく。最初は、唾液の滴り落ちた場所を辿るように。それからだんだんと、顎の下の窪み、喉の凹凸をなぞって、首へと降りていく。
 ちろりと出された舌が狙いをつけるかのように首の付け根、肩口のほど近くを舐めて、次の瞬間、強く吸いつかれた。ちりちりとした感覚が肌を刺す。
「っは、ふぅ」
 我知らず息が漏れる。身体の向きをわずかに変え、うなだれるように頭を傾けて、着ているシャツの襟もとから、肌を広く出した。それとともに、首をぐいと伸ばす。より深く吸いつき、歯を立て、嚙りつけるように。
 千斗が生唾を飲み込んだ。舌を長く伸ばして、ざらり、と首を舐める。千斗の舌は、滴るほどの唾液でぬめっていて、舐められたあとが濡れて残った。
「モモ。これ以上、僕は、……止まれるか、わからない。けれど、どうか、もう少しだけ……触れても……?」
 熱い吐息とともに首もとで囁かれる声は、縋るような響きを帯びていた。隠しきれない欲望が、ありありと伝わってくる。
 はい、とこたえると、抱きしめる腕の力が増した。
「お願いだ。少しでも様子がおかしいと思ったら、声を出して。誰かを、助けを呼んで。でないと、僕は」
 食べてしまう。
 言外の意味を、むしろ喜ばしい心で聞き取って、百瀬は微笑んだ。
「いいですよ」
 ――声をあげて他人を呼ぶつもりなんて、最初からなかった。
 千斗の社会的地位を傷つけるようなことは、これ以上、絶対にしない。
「オレ、いいですよ。食べて貰って。いいです」
「な……!」
 千斗が弾かれたように顔を上げ、至近の距離から驚愕の表情で百瀬を見据えた。
「オレが……オレにできることなんて、これくらいしかないから。全部の責任を取るのは、オレのほうです。オレを、食べてください」

 食べて良い、というケーキの赦し。それは、フォークに与えてはならない、禁断の言葉だ。
 人肉嗜食の教唆。ケーキがフォークを「煽る」行為は、フェロモンによる精神支配の行使と見做され、ことと次第によってはケーキのほうが罪に問われる。もっとも、裁かれる以前に、理性を飛ばしたフォークによって、物理的にこの世から消え去ってしまうのが大概の結末だ。

 それでもいい、と思った。
 百瀬がいなくなってしまっても、千斗には、かつて付き合っていたというケーキがいる。七年ものあいだ探し続けていた、きっと、彼のためのケーキ。
 百瀬というケーキは、再会するまでのあいだ、心と身体を埋めるパテ。いっときの飢餓欲求を満たすだけの糧。それでいい。
 シャツを手で引っぱって、首回りをひろげる。晒された百瀬の喉首を、千斗はぎらぎらとした目つきで食い入るように見つめた。唇を震わせながら、口を大きく開ける。真白い歯が、刃のように光った。
 目を閉じて、身体の力を抜く。どこか安堵するような、穏やかな気持ちで。
――だめ、だ。だめだ。だめだ、モモ……!」
 がりり、と嫌な音がした。次いで、つんと鼻につくにおいが漂う。肌の上にぽたり、と熱い液体が落ちた。
 血だ。けれど、百瀬のではない。どこにも痛みはない。
 そっと目を開く。そのまま、百瀬は大きく目を見張った。
 いまにも喉笛を食い破ろうとしていたはずの千斗の歯は、百瀬の喉ではなく、己の指を強く、深く噛みしめていた。
 左手の甲、中指の根もと近く、破れた皮膚が引き攣れて、歯で抉るように開けられた穴から血が流れだしている。勢いはないけれど、あとからあとから、溢れだすように血の盛り上がりができて、指から手首へと伝っていく。
「ユキさん――なん、で」
 指から口を離し、千斗は立ち上がった。欲望から醒めきり、強張った表情で、呆然とする百瀬を見下ろす。
「勝手な責任感なんかで、自分を差し出すな」
 血に濡れた口をぬぐいながら、吐き捨てるように告げられた。冷たく見下ろす強い瞳に射すくめられ、凍りついたように動けない。
 いつもは穏やかな瞳が、青い焔のように燃え盛っていた。
 激怒している。
 初めて見る彼の怒りだった。ゲームであれリアルであれ、未だかつて、声を荒げる姿すら見たことがなかった。いつだって穏やかで、思慮深くて、優しく微笑んでいる人だ。
 百瀬が怒らせた。怒りという負の感情で、彼の心を昏く塗りつぶした。
 今さら、自分がしてしまったことの意味を知る。
 理性と叡智とで、フォークである己と折り合いをつけようと努力していたこの人を、ひとときの欲望に膝を折るものと見下げ、尊厳を踏みにじり、侮辱した。
「っゆ、ユキさ……
――ごめん。今日は帰る」
「待っ……待って。傷の手当て、出血を止めないと」
「いらない」
 まだ血の流れ続ける指をジャケットのポケットに突っ込んで隠し、千斗は大股に部屋を横切って、玄関へと向かった。なにか、言わなければ。引きとめなければ。そう思うのに、身体も、口も、竦んだまま動けない。
 靴に足を入れ、ドアノブに手をかけたところで、千斗は一度、振り返った。
「代償は、いらない。いらないんだよ、モモ。僕は……僕が欲しかったのは……
 唇を噛みしめる。言葉はそれ以上続けられることなく、彼は去り、扉が閉められた。


 ひとりの部屋に取り残されて、百瀬は力なく座り込んだ。
 震える手で、よれた服の襟もとを引っぱり上げる。赤く滴り落ちて服に染みた千斗の血が目に入って、喉の奥、ぐっとなにかが込み上げ、口を押さえた。指の隙間から嗚咽が漏れる。
 かたわらのビーズクッションに、頭から突っ込むようにして倒れ込む。ぼす、と間抜けな音がして、クッションがへこんだ。
 いつもいつも、間違えてばかりだ。
 責任。代償。百瀬が千斗に払うべきは、そんなものじゃなかった。決めるべき覚悟が、違っていた。
 何度もまばたきをして、涙を振り払い、身を起こす。
 ローテーブルの上、桃とりんごのスパークリングが横倒しになっていた。ペットボトルに半分ほど残った液体が、窓から射す西日をうけてきらきらと光っている。
 手に取って、無意識のようにキャップを捻り、口をつけて流し込む。飲み下した後で、気がついた。転がっていた場所。残っていた量。
 千斗が飲んでいたボトルだ。
 ペットボトルの輪郭を、指先でそっとなぞる。淡く愛らしい、透きとおった桃色。
 それは外側だけの色。中身は、つくりものの香りをまぶされた泡立つ砂糖水。
 とても甘くて、とても苦かった。