2024-09-15 22:07:04
142566文字
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マーブリング・マーブル

シャチョコン in ケーキバース。モモ=ケーキ(先天性)、ユキ=フォーク(後天性)。

ピリカラことRe:vale記念日2022リリックビデオの世界観+ケーキバースです。
社長(折笠千斗27歳)&コンビニくん(春原百瀬20歳)のほか、脇役として万理さんが登場します。
捏造過多。なんでも許せる人向け。特殊設定につき注意事項を最後まで必読でお願いします。

◆必読・注意事項◆
・ケーキバースという特殊設定に、多くの独自解釈と追加の設定を付与しています。
・流血・負傷・暴力的な表現があります(いずれも軽傷程度です)。
・モブキャラクター(名無し)による加害・犯罪行為があります(未遂・微量のモブモモ)。
・主要登場人物間のカニバリズム・欠損・殺人等はありませんが、世界観には含んでおり、言及があります。
・医学用語その他の各種用語はフレーバーとして用いており、解釈・知識とも曖昧で浅薄なものです。ご寛恕くださる方のみ、閲覧していただけますようお願いいたします。
・現実における特定のカテゴリ・疾病の方を貶めたり、傷つける意図はございません。また、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

◆あまり内容のないあとがき◆
https://privatter.me/page/66e6da94a683b
※読了後の方向けのためパスワード有です。質問自体がエピローグのネタバレになっていますのでご注意ください。


 社長室のデスクの上に置かれたペーパープレート。その上には、濁りというよりは澱みのような、青緑とも灰緑ともつかない色合いの、半透明のぶよぶよとした物体が載っていた。
「製品化の際のパッケージはアルミパウチを検討していますので、この色と形状は外からは見えません。ご安心ください」
「それは良かった。できれば試食品にもその気配りが欲しかったところだけれど」
 はきはきとした開発部員の言葉に、千斗は諦めを滲ませて応える。
「恐れ入ります。社長にはこの色合いも是非ご覧いただきたかったもので。こちらの製品の一番の瑕疵となる部分ですから」
 なるほど誠実な態度ではあるが、食欲減退色にも限度というものがある。
 昼休みの時間を過ぎて、少し遅めな本日のランチは、加工食品開発部に依頼されたフォーク向けの機能性食品の試食だ。
 臨床研究も製品開発も、ケーキの協力者は社内外に複数いるが、フォークとなるとなかなかに難しい。各部署においては、千斗がフォークとなったことに、職務上の意味と意義、そして使命感を見い出すものが多くいるらしかった。
「アンケート項目はグループウェアの加食課カテゴリにアップしていますので、ご確認ください。忌憚のないご意見、お待ちしております! では、失礼します」
 開発部員は元気に退室していった。紙の皿を目の高さまで持ち上げて、ゆらゆらと揺らしてみる。添えられていたプラスチックのスプーンを手に持ち、覚悟を決めて口に入れた。
 液体とも固体ともつかないゲル状食品として開発されたのは、食感のあらかたを失ったフォークの口のなかでも存在感を得られるだろうと目されたためだという。確かに炭酸と同じで食感に変化があるぶん「食べている」もしくは「飲んでいる」感はある。加えて、鼻腔を強く刺激する感覚があった。香りそのものは微弱にしか感じられないが、なにかを受容している実感は際立っている。
 食べる・飲むというふたつの感覚を行き来することと、かなり強めにつけられた香りとで、疑似的に味を感じられるのではないか、という着想による試作だ。
 口の中でとろとろと動く物体を舌でかき混ぜながら、千斗はひとり顔をしかめた。味を感じる感じない以前に、さきほど目にした外見から、あまり食べるには適していないものをさまざまに連想してしまう。とにかく、見た目については強く指摘したい。
 ケーキの味を知っても、知らずとも、フォークは食が細くなりがちだというデータがある。前者は、ケーキの味に焦がれて。後者は、味無き世界への失意で。
 ペーパープレートのうえの物体を、殆ど義務のように口へと運ぶ。どうにか半分ほど胃に収めたところで、スプーンを置いた。加食開発部の熱意は認めるが、とにかく口に入れること、飲み込むことそのものに忌避感があり、フォークに食の楽しさを、というコンセプトからは程遠かった。効率的に栄養を摂取できるという点においては、優れてはいるのだろう。このまま開発を進めるなら、手軽に摂れる栄養機能食品の方向に絞り込んだ方が良いかもしれない。
 アンケートに書くべき内容について思いを巡らせながら、デスク上に置いたスマートフォンにちらりと視線を投げる。社用と、私用と。二台並べてあるが、どうしても目が行くのは私用のほうだ。指を伸ばしてロックを解除し、メッセージアプリを開く。万理と別れて出社してから、何度確認したことだろう。

 既読はついていない。

 眉根を寄せ、画面を睨みつけた。
 メッセージを送ってから半日が経過している。たった半日と言われてしまえばそれまでではあるのだが、胸騒ぎめいた不安は、時間が経つにつれていや増すばかりだ。
 ホーム画面に戻り、ふと、ゲームのサポートアプリのアイコンに目を止める。百瀬に勧められてインストールしたものの、活用の機会を見い出せず、ほぼ使ったことはなかった。メンテナンスやアップデートの公式情報がいち早く確認できるため、ログインのタイミングを逃さずに済むのは確かに便利なのだろう。しかし、千斗は自分の時間が空いたとき、あるいは百瀬に誘われた時にゲームを起動するというマイペースなプレイスタイルゆえに、この機能にさほどの有り難みを感じられなかった。通知もすべてオフのままにしている。
 だが、ひとつ思い出したことがあった。
 このアプリには、フレンド登録した相手がオンラインかどうかをリアルタイムで確認する機能がついている。もしやゲームにログインしている可能性はなかろうか、と。
 一縷の望みをかけてアプリを起動し、フレンドリストを開く。しかし期待も虚しく、Momoはオフライン表示だった。
……いないか。それは、そうだろうな」
 ゲームを起動する以前にスマホの通知くらい見るだろう。ため息とともにアプリを閉じかけたとき、ホームメニューに吹き出しのかたちをした新着通知があることに気がついた。何の気なしにタップする。
 ポップアップに表示された内容に、千斗は大きく目を見開いた。

『コミュニティボードにMomoさんからの新規ゲストメッセージがあります。閲覧しますか?』

 公式コミューンの機能のひとつであるコミュニティボード。存在は知っていたが、これまで使ったことも、使おうと思ったこともなかった。現状、Yukiがゲーム内でやりとりをする相手はMomoだけだ。掲示板などというまどろっこしいものを使わなくても、チャットなりメッセなり、もっと便利で手っ取り早い連絡の手段はいくらでもあるのだから。
 けれど、ゲーム内チャットもメッセアプリも、百瀬はここずっと避け続けている。その彼が、あえて違うツールで言葉を伝えてきた。どうした風の吹きまわしなのか。
 あの日、千斗を呼び止めた百瀬の表情を思い出す。ホルモンバランスの不安定。コンビニバイトの急な欠勤。未読のままのメッセージアプリ。悪い想像がいくつも脳裏をよぎり、知らず呼吸が早くなる。
 緊張に震える指で、閲覧ボタンをタップした。
 ブラウザへと遷移し、公式コミューンに飛ばされる。ナビに従ってログインし、何度も深呼吸をして、メニューからコミュニティボードを開いた。

『タイトル:はじめまして

 Momoです。こちらでは初めまして!
 まだ初めましてができる場所があったんだなって、なんとなく、それだけです。
 来期のデュオマッチもよろしくね』

 不意に、光が射したようだった。
 目の奥がじんと熱くなる。Momoの、百瀬の、明るく優しい声が、そのまま文字のかたちを取ってそこに在った。
 まだ初めましてができる。YukiとMomoは、千斗と百瀬は、何度でも初めましてを始められる。ゲームのフィールドで。リアルの交差点で。コミュニティボードで。

 ×     ×     ×

 ひとつ息をついて気持ちを切り替え、あらためて書き込みを眺める。
 投稿者のIDはMomo。コミューンIDはプレイヤーIDに紐づいており、当人であることは確実だ。投稿時間は昨日の夜遅く。この時間までは、百瀬は公式コミューンにアクセス可能なスマートフォンなりパソコンなりに触れていたということになる。
 しかし、何をきっかけに、普段は使っていないコミュニティボードに書き込みをしたのだろう。
 考えられるのは、先日の打ち明け話だ。千斗の話をもとに、百瀬は公式コミューンで『彼』の情報を探そうとしてくれたのではないか。その合い間に、書き込みをしたのではないか、と。
 だとしたら、嬉しく思うと同時に、申し訳ないような気持ちになる。万理との再会が叶ったことを、早く百瀬に報告したい。これこそチャットやメッセージではなく、できることならば三人で顔を合わせて、報告と、互いを紹介したい。旧友として。恋人として。
 そのためにも、まずは百瀬と話がしたい、のだが。

 メッセージアプリをまた開いてみる。やはり未読のままだった。
 なんとはなしに自分の送ったメッセージを読み直し、コンビニで出逢った青年の台詞について考える。「美味すぎる」という言葉は、あからさまな示威に聞こえた。彼がフォークであるとしたら、百瀬をつけ狙ってコンビニに通っていたのでは、という疑念を抱かずにいられない。
 だが、であれば何故、気をつけてやれなどと忠告めいたことを言ったのか。
「コンビニの常連……か」
 百瀬の働くコンビニは、社会援護局の分室が置かれている合同庁舎からほど近い。至便であるのと、百瀬を気にかけて、万理もしばしば立ち寄っていると言っていた。もしかしたら、あの青年を見かけたことがあるかもしれない。

 登録したばかりのメッセージIDを呼び出した。まっさらなトークルームに、最初の一言を送る。
『今朝はどうも。少し気になっていることがあるので、共有しておく』
 送信先はビジネス用アカウントの方にした。クライエントに開示しているアカウントゆえに、勤務時間内でもこまめにチェックしているとの話だった。精神保健に不安を抱えるケーキを多く担当しているため、既読スルーは勿論のこと、未読のまま放置することも絶対の禁忌なのだという。
 既読スルー。未読のままのメッセージ。
『モモに送ったメッセが既読にならない。いつもはすぐに見てくれるのに』
 画面に表示された己の文章を見て、我に返る。そうじゃない。こんな湿った泣き言じゃなくて、コンビニの青年についてとか、コミュニティボードの書き込みについてとか、そういったことを伝えるつもりだったのに。
 どうやら思った以上に気が緩んでしまっているらしい。万理に相談ができる、という心丈夫さに。
「これは無し……え、ちょっと、無しだって」
 メッセージを削除しようと指を動かしかけたところで、すいと既読のマークがついて、思わず声が出た。どうすることもできずに、頭を抱えつつ、果たしてどんな返答が来ることかと身構えて待つことしばし。
『いま通話できるか?』
 短い一文が返ってきた。了解のスタンプを送る。と、数秒も置かずに着信音が鳴った。スピーカーで受け取る。
「はい、折笠」
『確認だけど、その未読メッセージ、送ったのは何時くらい?』
 前置きもなく、当たり前の遠慮のなさで会話が始まった。未読にかかずらう千斗に、特に思う様子もない。実務的でありつつ気の置けない、七年前と何ら変わらぬ万理らしさが有り難い。
「今朝がた、万と会う直前だ。昨夜までのメッセージには既読がついてる」
『すると、八時半頃か』
 喋る合い間の息が、わずかに弾んでいる。背後にざわめく音と行きかう気配があった。
「歩いてるようだけれど、外出中?」
『庁舎内だよ。込み入った話になるだろうから、オフィスからミーティングルームに移動してる』
 腰を据えて話をしてくれるということか。千斗も椅子に深く座り直した。
「じゃあ、歩きながら聞いて。そのメッセージに書いたことなんだけど」
 未読メッセージの内容、ひいては朝にあった出来事を万理に説明する。コンビニバイトの欠勤と店長との会話、常連の青年について。百瀬には伝えなかった、すれ違いざまに投げかけられた言葉についても。
 万理はしばしの沈黙の後、その青年の特徴を教えてくれ、と言ってきた。
「赤毛に近い蘇芳色の髪、造作は整っているけれど目つきの鋭さが印象に残る。口もとの表情に少し癖があって、おそらく犬歯のためだと思う。身長は僕とほぼ同じくらい、体格は……
 覚えている限りの風貌を伝えると、また少しの沈黙があった。やがて、ドアの閉まる音とともに、背後に聞こえていたざわめきが消える。
『部屋に入った。ここからはオフレコの話になる。まず、その常連客については、さしあたっては気にしなくていい』
 その常連客、と呼んだ言い方に既視感があった。ゲームについて聞いた時と同じ、知っている者の口ぶりだ。
「心当たりがあるのか」
『ああ……うん。気にしなくていいというか、あちらさんのやることに、こっちからは手も口も出せないから。言うなれば競合他社……いや、自社かな、この場合。まあ、行動範囲内でたまたま行き当たって、気にかけていただけだろうと。たまたまではないとしたら……別の意味で気がかりではあるけれど、とにかく、悪いことにはならない……と思う』
 ひどく歯切れの悪い言い方だったが、端々に含められたニュアンスが手がかりを与えてくれていた。彼の属する省庁と管轄を異にしつつ、別のベクトルからケーキとフォークの事象にあたる国家機関がもうひとつ、存在する。
 百瀬が諜報の対象となっているのだとしたら、それもまた懸念すべき事態と思われるのだが。
……追々に、探りを入れておく。けれどこれは今日明日の急ぎの問題というわけではないと思う』
 つまり、今はより急がねばならない問題があるということだ。強く拳を握りしめた千斗の耳に、また違ったためらいを含んだ声が届く。
『ところで、千。あー、なんていうか、プライバシーだし、無粋かと思って朝は口にしなかったんだけど。ここははっきりと確かめさせて貰う。百くんにとっての千、千にとっての百くんは』
 そこで言葉を区切り、一拍置いて、明瞭な発音で万理は言った。

『恋人なのか?』

 真面目な声で発せられた、単刀直入な言葉。それで、察してしまった。この問いかけは、友人の恋愛事情への揶揄いでも、当然ただの興味本位でもない。千斗にとってひとつの正念場であり、次の扉を開くための鍵だ。
 椅子の上で背を伸ばし、深く息を吸い込んで、正直に現状を答える。
……必要十分条件を満たしつつ、未満状態」
『はあ? なんだそれ』
 満たしつつ未満って何だよ、と万理が胡乱げに繰り返す。
『お前がフォークになったことで、友人から恋人へと変わりつつあるってことか?』
「それは違う」
 きっぱりと否定する。
「因果が逆だ。未満状態から踏み出そうとしたことが、フォークとして発症するきっかけとなった」
『踏み出そうとした?』
――告白と、キスを」
 告白とキス。
 正しくは、告白する勇気の出なかった千斗に代わり百瀬が包み込むように受け入れてくれたのだし、キスは途中からたとえようもなく甘くて苦いものへと変わってしまったのだけれど。
 キス、と電話口の向こうで繰り返されて、頬がじわりと熱くなる。互いに学生時代からの恋愛遍歴も何もかも知った相手だというのに、どうして今さら、こんなに居たたまれない気持ちになるのだろう。
『やっぱりそうか』
 千斗の煩悶を知ってか知らずか。やけに落ち着いた声で言われて、身体から力が抜けた。
「万? 何、やっぱりって」
『百くんに相談を受けたときの雰囲気で、もしかして、とは思っていた。そして今日、お前が香りの話をしたときに確信したよ』
 診断に至ってからの日が浅い百瀬は、ホルモンの分泌量が多いために香りが強い。朝に告げたことは事実ではあるが、千斗の話しぶりは、それ以前にフォークのある特性を想起させるものだった、と万理は言った。

 ケーキの「味」を知ることにより、ケーキの香りについてフォークの感応性が上がることは、既知の事実である。
 加えて、こちらはあまり知られてはいないが、フォークは「食べ」た個体の香りを特有のものとしてひときわ鋭敏に感じ取るようになるのだ、と。

 フォークが感知する味の深度はさまざまだ。体表を舐めた、唇をあわせた、程度の接触であれば、この事象の発生には至らない。ではどれだけの深度でこれが起こるのかというと、万理の見聞きしたところでは、人体を構成する組織の一部を摂取した場合、もしくは体液を一定以上の生体レベルのまま口にした場合だったという。
 体液の生体レベルとは、ケーキのそれを摂取したフォークにのみ存在する侵襲基準だ。主だった細胞外液と分泌液――血液、唾液、精液、汗や涙なども含む――について、種別と濃度、それとケーキの身体から体外へと放出された後の経過時間により定義される。
「体液に限らず、生体反応の有無がケーキの味に大きく関わることは知っていたけれど」
 生体反応の消失した――絶命したケーキの「味」が急激に劣化することは、一般にも良く知られている。それゆえにフォークの人肉嗜食は、生きたまま体液を啜り、肉を齧り取って食らうのが常だ。生命を保った状態で長く食するために、ケーキの拉致監禁を目論むフォークも後を絶たない。
「個体への紐づけが発生するというのは初めて聞いた。エビデンスのある話なのか?」
『そこはそれ、援護局というか支援福祉部は最前線だから。進まない研究より先に事例の積み重ねがあるんだよ。特定のケーキの香りを強く感じてしまう、って訴えるフォークは、その後たいていは対象のケーキと恋愛関係にあることが判明するものでね』
 ケーキと比して、フォークの臨床研究はそう盛んではない。根強く残る差別意識により社会的意義が安く見積もられがちなこと、対偶の弱者であるケーキの救済が急務として優先されていること、そして何よりも研究に協力的なフォークの絶対数が少ないことがその理由だ。
 ましてやパートナー関係を結んだケーキとフォークは、祝福を受けるよりも、共依存関係に陥った者たちであると白眼視されがちだ。彼らもそれを承知しており、結ばれても公にはしない者が多いため、ケーキとフォークの関係性の臨床はなおさら遅々として進まない。
 であればこそ、特定形質支援福祉部では、一歩踏み込んで受け容れることを銘としているのだという。
『ケーキとフォークがパートナー関係になると、精神的にも身体的にも負荷が大きい。そこにある強い意思と覚悟を斟酌し、支援福祉部の裁量権でもって、パートナーを二親等の親族に準ずるものと見なす特例措置が認められている』
 つまり、担当のソーシャルワーカーが恋人同士であると認めた場合、家族と同等に緊急時の安否確認やトラブル対応の連絡先になれるのだと。
 話の行き着くところがわかった。
『この期に及んで未満なんて言うお前の煮え切らなさは置いといて。ふたりの話を突き合わせると、俺としては認定してもいいかなと思う。……キスは、同意なんだろう?』
「当たり前だ」
 ぶっきらぼうに答えながら、頬どころか耳まで熱くなるのを感じた。事例の積み重ねとやらで、どれだけ深いキスをしたかまで看破されてしまうのだろうか。あとで問い詰めてやらねばならない。
 それはともかくとして。
……助かるよ。認めてくれて」
 友人の万理に、恋人同士として認められたこと。公的な機関に、親族同様の存在であると認められたこと。いずれも嬉しく、心強いことだった。
 杓子定規な対応に苛立たされることも多い社会援護局ではあるが、現場の人間の真摯な取り組みは、代表取締役としても、一個人としても、本当に有り難く思っている。こうして、ケーキとフォークの現状に寄り添った対応をいち早く実施してくれていることも。
『ただし、ひとつ約束してくれないか』
「約束?」
『七年前の事件のことを、百くんに、包み隠さず話して欲しい』
 思いがけない言葉に、知らず身体が揺れた。
……ひととおり、話してあるよ」
『ひととおりじゃない。包み隠さずすべて、だ。あの事件より以前の俺たちの関係や、引き金となったことも、すべて』
「それは……
 言い淀む千斗に、電話の向こうの万理が苦笑する。
『ま、ひとつの失敗例としてさ。七年も前のことだ。もう清算は終わってる。公式コミューンも、そのひとつだった』
 すぐに首肯するのはためらわれた。事件のすべて、ことに彼らの関係を百瀬に打ち明けるには、千斗にもまた相応の覚悟が要る。
 だが、ここは頷くべきところだった。万理のみならず、千斗の心にも痕を残したままの過去に、向きあう時が来たのだろう。
 包帯に包まれた左手をそっとさすりながら、千斗は応えた。
「わかった。次にモモに会ったら、必ず話す」
――ああ。ありがとう』
 万理が低い声で礼を言う。
 礼を言われるような筋合いのことではないのに。自分たちの過去を、千斗と百瀬の未来に生かせと。反面教師とするようにと告げてなお、万理は穏やかな空気をまとっていた。
 こういうところだ。あの頃からずっと、追いつけずにいる。この先もきっと、ずっと、追いつけないままなのだろう。


『さて。というわけで、こっちからも情報共有だ』
 そう言って万理が語った内容は、さらなる不安を呼び起こすものだった。
 百瀬から万理あてに、昨晩遅く、GPS追跡サービスの使用を示唆するメールが届いていたのだという。なんらかの危険が予期される場所に赴く、あるいはケーキかフォークかそれ以外か、素性の定かでない人物との面会の予定があるのではないか、と。
『午後にテスト使用するかもしれないという内容だったが、今のところ事前の連絡も発信もない。いちど連絡をくれるようにメールには返信したけれど、その後はなにも』
「メールだけ? メッセージや通話は?」
『定期連絡と相談案件へのレスポンス以外に、ソーシャルワーカーの方からクライエントに連絡を取ることは原則禁止とされている』
「原則がどうとか言っている場合じゃないだろう……!」
『ルールは組織の屋台骨だ。緊急時であるという確証がない限り、逸脱することはできない。――だけど』
 語気を荒げた千斗を抑えて、万理の声が強く響く。

『親族、またはそれに準ずる人物からの依頼があれば、話は別だ』

 安否確認の要請による、ソーシャルワーカーの住居訪問。
 千斗はいま、その依頼を出せる立場にある。

 ×     ×     ×

 ターミナル駅に通ずる私鉄の沿線、古くから学生が多く住む街に百瀬のアパートはある。
 周辺の交通量が多く混雑しがちなのと、百瀬のアパートがあるあたりは細い道路が入り組んでいるため、訪れる際は主に公共交通機関を使っていた。一緒にどこかで遊んだ帰りに寄るか、訪問の場合は百瀬が駅まで迎えに来てくれることが多く、アパートまでの曲がりくねった道のりもふたりならまた楽しかった。
 その道を、今日は万理と一緒に辿った。
「一階には大家が居住しているんだって?」
「ああ。リタイアした元局員なんだ。百くんの事情は承知している」
 知ってから見れば、一階に、二戸ぶんの間取り幅を一戸で占めている部屋があった。玄関のつくりも他よりいくぶんどっしりとしており、あれが大家の居室なのだろう。立ち寄るものと思ったら、万理は素通りして二階へと続く外階段に足をかけた。
「大家に声はかけなくていいのか。部屋を開けて貰うんだろう」
「あいにく今日は不在だそうだ。連絡はしてあるし、鍵なら俺が合鍵を持ってる」
「そうか合鍵を……は? 合鍵?」
 思わず声が大きくなり、万理がわざとらしく耳を押さえた。
「身元引受人で、緊急連絡先なんだ。合鍵くらい持ってる」
 そう言って振ってみせる銀色のディンプルキーをまじまじと凝視していると、万理が嘆息混じりに笑った。
「なんて顔してる。仕事だよ、仕事の一環。だいたい、この部屋に来るのは引っ越しを手伝って以来、初めてだ。千のほうがよほど来てるだろう」
……親族に準ずるものと認定されたなら、僕も緊急連絡先になれる?」
「それは百くん次第だな。本人に聞いてみるといい」
 百瀬本人に。
 話すこと、話したいこと、聞くこと、聞きたいことがたくさんある。何より、早く会って無事な姿を確かめたい。
 外階段を上がりきって廊下を進み、百瀬の部屋の前でふたり立ち止まる。手を伸ばし、インターホンのボタンを押すと、室内にチャイムの音が響くのが漏れ聞こえた。五秒、十秒。十五秒。再度押して、しばし待つ。十五秒。いらえは無い。
 ドアを叩こうとして上げた左手の、包帯の下で皮膚が引き攣れて、思わず顔をしかめる。万理が手で制し、一歩前に出て拳で軽くドアを叩いた。
「春原さん、ご不在ですか。春原さん。いらっしゃいませんか。――百くん。大神です。居たら返事をして」
 ドアの向こうに気配は無く、応えも返らない。
 目で問われて頷く。万理が、手にした銀の鍵を差し込み、くるりと閃かせた。サムターンの回転音が鳴る。
――百くん、入るよ」
 そう言ってレバーハンドルのドアノブに手をかけ、ゆっくりと開く。身振りで促され、千斗が先に中へと入った。
 アパートの小さな玄関と、ひとつながりの廊下兼キッチン。居室との間を仕切るドアは開け放たれており、1Kの間取りのあらかたが見とおせた。
 百瀬の姿はない。室内は薄暗く、部屋の奥に鎮座するゲーミングPCの電源ランプだけが微かにLEDの光を放っている。モニタはブラックアウトしているが、本体の電源は落とされていないようだった。
 もぞもぞと靴を脱ぎ、室内へ上がる。背後で同じく部屋に上がった万理が、ユニットバスに繋がる折れ戸を開いた。続いてトイレへの扉も開き、覗き込んで確認している。
……居ないな」
 少なくとも、体調不良で動けずにいるという線は消えた。
 居室に入り、主のいない部屋をぐるり見渡す。衣服、雑貨、小型家電に一人用の家具。使い込まれた分厚いゲーム攻略本、サポートマシナリーのぬいぐるみ。壁も床も、たくさんの物で埋め尽くされた部屋。雑然としてはいるが、百瀬が暮らすための、百瀬にとっての居心地の良さが詰め込まれているのが感じられて、千斗はこの部屋に来るのがとても好きだった。
「何か、気づいたことはあるか?」
 万理に尋ねられ、顎に手を当てて考える。
「そうだな……部屋はいくぶん散らかって見えるけれど、これは通常の状態だ。PCの電源が点いているが、モモは外出する時でもシャットダウンはせずにスリープにする習慣がある。そして、いつも持ち歩いているデイパックが定位置にない。自宅にいるときは充電するかモニタに立てかけているスマホも見当たらない。普通に自分の意思で、身支度をして出かけたのだろうと思う」
「なるほど。そうすると、何のために、どこへ行ったのか、だな。思い当たる節は?」
 無言でかぶりを振りながら、目はゲーミングPCへと吸い寄せられる。
 コミュニティボードのメッセージ。あれはこの部屋で、このPCから書き込まれたものである可能性が高い。万理の情報を得ようとしていた、という千斗の推察が当たっているならば、百瀬がコミューンを探り歩いた形跡が残っているはずだ。
 座卓タイプのパソコンデスクの前に座り、そろりとマウスに触れる。モニタの待機状態が解除され、デスクトップの画面が現れた。
「って、おい、千。パソコンの中身を見るのはちょっと」
「うん」
 生返事をしながらマウスを操作し、最小化されていたアプリケーションをタスクバーから呼び出す。インターネットブラウザだ。表示されているウェブサイトは、予想した通りのものだった。
――ゲームの公式コミューンか」
 肩越しに覗き込んで、万理が呟く。
 YukiのコミュニティボードにMomoからのメッセージが書き込まれていたことは、ここに来る道すがらに話してあった。百瀬が万理を探し、公式コミューンを調べていたのではないか、という推測も。
「モモはおそらく、出かける直前までこのページを見ていた。手がかりがあるとしたら、最も近いのはここだ」
「それは、まあ……そうだろうけれど」
 まだ逡巡している万理を置き去りに、あらためてマウスを握りなおす。
 ポータルのトップページは、ログアウト状態になっていた。
 公式コミューンをパソコンから閲覧するには、ゲームのウェブサイトにあるバナーをクリックする。するとポップアップが表示され、そこにゲームIDとコミューンのパスワードを入力することによって、個人ポータルへと遷移する。
 現在の画面は、コミューンのトップページが表示されてはいるが、セッションタイムアウトにより、再度の認証を求めるポップアップが出現していた。
 ポップアップのID入力欄にMomoのゲームIDを入力し、パスワード入力欄へと飛んだところで手が止まる。
「千?」
 入力欄は空白のままだ。オートコンプリートによるパスワードの自動入力機能は使われていない。
「パスワードは知らないのか。どこかにメモとか、パスワードマネージャーは?」
「ツールは使わず、自分の頭の中だけに入れておく主義だとモモに聞いたことがある」
 千斗の言葉に、万理が唸り声をあげた。いつのまにかすっかりパスワードを破る方向に傾いているのが可笑しかったが、揶揄できるような場面でもない。糸口が目の前にあるかもしれないというのに、あとひとつの鍵が足らないもどかしさ。気ばかりが急く。
 試しに【1111】と入力してみて、当然のように弾かれた。それはそうだ。千斗にダメ出しをしたパスワードを自分で使ってはいないだろう。
 背後の万理が、気が抜けたように細く長い息を吐いた。
「さすがにないな」
「うるさいな。ちょっと試してみただけだ。モモにとっては特別な数字だ」
「知ってるよ。百くんの誕生日だろ。ネットリテラシーの高い子なんだから、そもそも自分の誕生日をパスワードにするわけがない」
「だから試してみただけだって」
 パスワードを口実に百瀬の誕生日を知った時の、湧き立つような嬉しい気持ちを思い出して、心のどこかが少しだけ痛んだ。誕生日には何を贈ろう。当日は会えるだろうか。できればリアルで会いたいけれど、日付けが変わった瞬間にゲームのなかでお祝いを言うのも良いな。しばらくの間、そんなことばかり考え続けていた。十一月十一日。いちど聞いたら忘れられない。

 覚えやすくて忘れない、特別な数字。特別な日。

……ああ」
 閃きがあった。
 自意識過剰かもしれない。けれど、きっとこれが正解だ。
 テンキーに指を伸ばし、ゆっくりと四つの数字を入力する。最後にエンターキーを押し込むと、ポップアップウィンドウが消え去った。画面が遷移する。
 読み込まれたトップページには、数百時間をともに過ごし、見慣れ親しんだMomoのアバターグラフィックが表示されていた。メッシュヘアの頭上に、ウェルカムメッセージが表示されている。
 ログイン成功だ。
「俺の見立ては、正解だったみたいだな」
 呆れたような、それでいて暖かさを含んだ声で、万理が言った。
「お前と百くん。未満なんかじゃないよ」

 打ち込んだ数字は【1224】。

 十二月二十四日。百瀬に伝えた千斗の誕生日が、扉を開いた。

 ×     ×     ×

 ゲーム全般にブランクのある万理と、コミューンについては初心者のままの千斗のふたりで、コミューン内を手探りに調べていった。
 まずはインフォメーションウィンドウに表示されたコミューンのアクションログを確認する。

《サークルIR=NABへの参加を申請しました。》
《IR=NABのコミュニティボードに新規書き込みを投稿しました。》
《Yukiのコミュニティボードに新規書き込みを投稿しました。》
《 ... more》

 IR=NAB。万理のサークルIDであり、ゲームIDでもある文字列だ。
 千斗が語ったあれだけの情報で、こんな短時間で、百瀬は辿り着いていた。己の不甲斐なさへの忸怩たる思いと、百瀬への純粋な賛嘆とが、心の中でない交ぜになる。そして、やはり千斗のために万理を探していてくれたのだという嬉しさと、手間をかけさせてしまった申し訳なさも。
「うわ。百くん、うちのサークルを探し当てていたのか。さすがのネットスキルというか、良く見つけたなあ。非公開サークルなのに」
 千斗の隣に座った万理が、額に手を当てて言った。
「非公開サークルを見つけるのは難しいことなのか?」
「そりゃあね。公式のサークル一覧には掲載されないし、検索からも除外されるから、参加メンバー以外はサークルIDどころかそもそも存在すら知ることができない。そういう意味では、千が言っていたメンターの噂の件にしても……
 ふっと万理が口を閉じた。顔を向けると、眇められた瞳がモニタを睨みつけている。片方の手は無意識のように前髪を撫でつけていた。
「万?」
……いや。まずはログの続きを見よう」
 そう言われて、アクションログのウィンドウをスクロールさせる。

《コミュニティボードに新規ゲストメッセージが書き込まれました。》

《コミュニティボードのメッセージに返信を投稿しました。》
《コミュニティボードに返信メッセージが書き込まれました。》
《コミュニティボードのメッセージに返信を投稿しました。》
《コミュニティボードに返信メッセージが書き込まれました。》
《 ... more》

 新規ゲストメッセージと、書き込みへの返信。さらなる返信と、返信への返信。その繰り返しが延々と続いていた。
 横に座る万理に、目で問いかける。頷くのを見て、マウスを動かした。
 トップページのメニューから、コミュニティボードを開く。いちばん上に表示された最新の書き込みは、百瀬によるリプライだ。
『到着しました。店内に入ります』
 長く続いたやりとりの、最後の返信らしかった。タイムスタンプを見ると、書き込まれた時刻は今日の朝、ちょうど千斗と万理が顔を合わせたころだ。
 スレッドの全体表示をクリックする。発端のメッセージは、『サークルIR=NABへの参加申請について』と題された、サークルのサブマスターを名乗る人物の書き込みだった。サークルへの参加申請者のフォローアップをしています。悩み事や相談事がありましたらお話を聞かせてくれませんか。無理にとは言いませんが、気が向かれましたらお気軽にお返事を。
 一見したところ誠実そうな語り口で、IR=NABに代わる者として相談に乗ろうとしている。普通の掲示板のやりとりであれば、特段思うところはなかっただろう。
 だが、相談事を抱えたケーキへの接触としては、いささか積極的かつアピールが過ぎる。
「万、念のために聞くけど」
「ないよ。サブマスターなんて置いたことはないし、こんなIDネーム、見たことも聞いたこともない」
 硬く強張った声だった。
 マウスを握った指先が、血の気を失って冷えていく。万理が手を添えて動かし、画面をスクロールさせた。やりとりの続きが表示される。
 顔合わせの申し出。立ち合いの提案。性急なセッティング。短時間での回答の要求。
 言葉巧みに期待と不安を煽りつつ、自らもケーキであると開示して信ずるに足ると思わせ、冷静な判断や他人への相談をするための時間を与えぬままに、待ち合わせの約束を取り付けている。
 待ち合わせ――ではない。
 これは、おびき出しだ。
「そもそも、いまごろになってゲームの外にまで広汎に噂が流れていることがおかしかったんだ」
 怒りと、悔悟と。感情を抑えつけた低い声で、万理が言う。
「IR=NABは、いつからか、ケーキをおびき寄せるためのトラップとして使われていたんだろう。俺の責任だ。ゲームから離れるときに、きちんと始末をつけておくべきだったんだ。ごめん、千。俺のせいで百くんに――
 なおも言い募ろうとする万理の顔の前に、包帯の巻かれた左手を突き出す。そのままぐっと握りしめ、拳の向こうから強く見据えた。
「万が謝る必要はない。責任と言うのなら、万の口からモモに説明してやってくれ。そのために、今はやることがある」
――ああ。ああ、そうだな」
 どれほど怪しかろうとも、現時点で、目に見える部分での事件は未然だ。警察を動かすことはできない。ならば、自分たちで動くしかない。
 ふたりで、モニタの中のコミュニティボードを凝視する。万理がスマートフォンを取り出し、最初の書き込みから順繰りに、画面ごと写真に撮った。そうしながら、すべてのメッセージを再読し、精査していく。
 足取りのヒントが、いくつも残されていた。待ち合わせのコーヒーショップ、予約を取ったeスポーツカフェ、相手の服装と特徴。
 必要な情報は手の中にある。

 あとは、追うだけだ。


 ■   〇   ■   〇   ■


 黒いフェイクレザーの座椅子に寄りかかっていた百瀬の身体が、ずるずると滑り落ちていく。のを、弟分が脇を抱え上げて、背もたれにぴったりと身体を寄りかからせた。震える瞼は、かろうじて閉じきらずにいる。けれど、ぐらりと頭が揺れてうなだれ、視界に入るのは脱力して投げ出された己の身体のみになった。
 意識を保つだけで、精一杯だ。それにも膨大な精神力を費やしてしまう。だが、ただ意識があるだけで、何ができるというのか。この状態で、この場から逃れる方法など、ひとつも思いつけない。
 視界の外、力の入らない手を持ち上げられた。やけに熱を持った誰かの手が、百瀬の手のひらから中指の先を、擦り上げるように撫でている。
……っ!」
 カチリと音がして、指先に一瞬だけ、鋭い痛みが走る。
 穿刺器の針だ。
 針が離れた後、また指の付け根から圧迫するように擦られ、しごかれた。指先へと血液を集め、絞っている。
「どれくらい?」
「七、八滴ってところか。このチューブの部分が全部赤くなるまで入れる」
「けっこう面倒っすね」
「まあ、これさえ出しておけば、場所を提供してくれるってんだから。……こんなもんかな。どれ、味見」
 中指がぬるりと生暖かいものに包まれ、怖気立つ。穿たれた針の痕をざらりと這うのは舌だ。指を口に含まれ、小さな針穴から吸い出すように血を舐め取られている。
 ひと舐めして、舌先の動きが一瞬止まった。んん、とくぐもった唸り声とともに、吸いつく力が増し、舐め回す舌が速くなる。あまりの気持ち悪さに、叫び出すか、暴れ出すかしてしまいそうだった。けれど、動かぬ身体ではそのどちらも叶わず、ただ唇を震わせて、睨むまでも行かない、いまにも閉じそうな瞼を必死に持ち上げるのが精々だ。
「ちょ、っと、平気っすか?」
 弟分の声に、はっとしたように口が離れた。荒く吐き出される息が濡れた指に当たり、ぞわりと冷える。
「やばい。これやばい。大当たり引いたっぽい」
「マジで? もしかして、……とか、そういう?」
 知らない単語だった。霞のかかった意識では聞き取れない。
「いや、さすがにそれは無いだろう。いや、うん、ひょっとしたらわからんけど。とりあえず検体はあっちに渡しといてくれ」
「了解」
 立ち上がる気配がして、やがてドアのテンキーロックが開く音が耳に届いた。弟分と誰かの低い話し声が漏れ聞こえてくる。誰か。先ほど、飲み物を運んできた店員の声だった。この店そのものがトラップだったのか、それとも偽の店員なのか。意識を繋ぎとめるために、知れるはずのないことを、低まった思考力のまま考え続ける。
 やがて、弟分が戻ってきた。フラットシートが沈み込み、横に膝を突かれたのがわかる。耳の後ろ側に顔を押しつけて、鼻を鳴らしながら匂いを嗅いでいる。
「いやあ……いいっすね、これ。甘い。匂いだけでいくらでもいけそう」
「匂いだけなんて、遠慮深いふりするなよ。前菜みたいなもんなんだから」
 サブマスターの手がうなだれた襟もとに伸びて、無遠慮にシャツの襟ぐりを広げた。
「なんだこれ。純情そうな顔して、やることやってんだな」
 揶揄するような声とともに、指先が肩口の一点をつつく。見えなくてもわかる。何度も鏡で確認し、そっとシャツの下に隠した赤い痣の場所。千斗につけられた痕だ。
 下卑た含み笑いとともに、その痕をざらついた舌が舐める。最初はゆっくりと、それから、舌の先端で抉るように何度も。
…………め、……やめ、ろ……!」
 弛緩による生体機能の減衰で低まっていたはずの体温が、羞恥と、それを遙かに凌駕する怒りとで熱くなる。
 汚された。
 千斗につけられた、千斗がつけてくれた痕を、汚された。
「こいつ、まだ喋れるのか。意識レベルはどん底のはずなのに。エフメトリン製剤の常用期間が短いタイプかもしれん」
「まあ、今から物理的に喋れなくなっちゃうっすけどね。頭、支えときます」
 ひんやりとした金属が口もとに触れた。両側から金具が引っかけられ、口をぐっと横に押し広げる。ラバーのベルトが頬から首の背後に回され、カチリと音がした。バックルかなにかで固定されたらしい。
……っあ、ぅあ?」
 口枷だった。もう、くぐもった母音しか発せない。
 誰かの指が顎にかかる。撫でるように揉み解し、顎から首の下、耳の後ろへと、下顎の全体にマッサージを施していく。
 口腔内が緩やかに波打ち、じわりと唾液が滲む。開かされた口の端に溜まり、やがてつうと垂れた。顎を撫でていた指が、伝った唾液を拭い取る。
 ぴちゃり、と音がした。
 指ですくった唾液を舐めている。
 動かないはずの全身が震えた。口枷の縛めがなければ、歯の根が合わずにガチガチと音を立てていたことだろう。
「はは、鳥肌立ってら。あーあ、お散歩動画配信者にしてシーズンランカーのMomoくん、こんなもん嵌められてかわいい顔が台無しじゃないか。なんてな」
 自分の言った安っぽい台詞を面白がって、くつくつと嗤う。異様なほどに上機嫌だった。
「どうっすか、上の味」
「いやこれ、やばいわ。血も凄かったけれど、唾液でもぜんぜん濃厚だし、味が深い。極上品だ」
 興奮と高揚を露わにした会話を耳もとで聞かされ、こじ開けられた喉の奥がぐっと詰まる。血液を、唾液を搾取されての、勝手な品定め。尊厳を剝ぎ取られて丸裸にされたような屈辱と、嫌悪と、それらよりもっと深い悲しみに溺れてしまいそうになる。彼らにとってケーキは、百瀬は、人間ではない。ただ捕食の対象、味のする物体として扱われている。人としての魂を殺されているのと同義だ。
 けれど、まだ終わりではなかった。
「血液唾液がこんなに美味かったら、『下』の液も試したくなるよなあ」
 足にずっしりと重みがかかった。眼球だけをどうにか動かして見ると、弟分が抑え込むようにして両足の上に座り込んでいる。
「こいつなら俺ぜんぜん行けるっすよ。手でも口でも。下の準備と味見、してもいいですかね?」
「おう。じゃあ任せた」
 下腹部と、さらにその下へと手が伸びてきて、じわじわと撫でまわす。嘘だ、と思った。まさかそんなことを。そんなことまで。信じられなかった。事態を受けとめきれずにいる間に、腰をまさぐっていた手がベルトを掴む。臍のあたりでカチャカチャと金属音が鳴り、やがてするりと抜き取られた。
「こいつ、意識飛ばさないみたいなんで、念のためお願いします」
「ああ、わかった」
 だらりと垂れたままだった腕が、座椅子の後ろへと回される。弟分が手渡したベルトで、サブマスターが手早く百瀬の両手首を繋ぎ、縛り上げた。強く引き絞った後、百瀬の顎を持ってうなだれた顔を上げさせ、耳に吹き込むように囁く。
「意識があるならあるで、楽しみ方はある。どうだ? 自分が咥えられるところを見るのも、なかなか乙なものだろ?」
 そう言って、しゃくるような動きで弟分を促した。頷いた弟分が顔を下に向け、ファスナーに手をかける。そんなもの、見たくない。見たいわけがない。けれど、首の角度を固定され、身体のどこにも力は入らず、脱する術はなかった。
 いっそ、意識を失ってしまえば、この現実からいっときであれ逃れられるだろうか。何も見えない、感じない、人ではないただの甘く美味しい物体――ケーキになってしまえば。

 ――これは、罰なのかもしれない。

 無力感のなかで、ふと思った。優しいあのひとを傷つけ、強いあのひとを侮ってしまったことへの。けれど、ならばせめて、あのひとに食べられたかった。そう思ってしまうこともまた、罪なのか。
 いま、この瞬間。この次の瞬間に、あのひとに会えたなら。あのひとが赦してくれたなら。有り得はしないことを望みながら、諦めと絶望のままに、瞼をゆっくりと下ろしていく。視界が暗く閉ざされたとき、すべては終わるのだろう。
 と、その時。
 ドアから、音がした。テンキーロックの操作音ではない。金属を差し込み、捻る音。マスターキーによる開錠だった。
「何だ?」
 サブマスターがドアの方へと顔を向ける。
「飛び入りの参加者っすかね?」
 弟分も同じくドアを見ているのだろう、ファスナーを半ばまで下ろしたまま、手が止まった。
 彼らが知らぬ来訪者。たとえば不審に思った他の客や店員だとしたら、救い手となるかもしれない。気力を振り絞って、閉じかけた瞼をわずかに持ち上げた。顎の先はサブマスターの手に持たれ固定されたままだが、かろうじて部屋の入り口が見える角度を保っている。
 重たい防音のドアが、風を切るように勢い良く開いた。
 薄ぼんやりとした廊下の照明を背に、長い髪がふわり揺れる。銀光りする眼が狭いルーム内を鋭く見渡した。黒いフラットシート、壁際のゲーミングPC、ロングデスクに置かれたままの青い飲料が入ったグラス。呆気に取られているサブマスターと、顔だけ振り返って腑抜けたように固まっている弟分。そして、その間に留め置かれている、口と腕に拘束を施され、下半身を抑え込まれた百瀬を。
 眼光が燃え上がった。いつか見た焔よりもなお熾烈に、なお青白く、炯々と光を放つ。
 目と目が、合った。
 会いたかった人。赦して欲しかった人。
 折笠千斗その人が、空恐ろしいほどの怒りを湛え、立っていた。

 また、怒らせてしまった。
 ぼんやりとした思考の中、不意にそんな思いが浮かび、目の前が歪む。罠に嵌まり囚われて、どれだけ悔しくても悲しくても出ることのなかった涙が、溢れて止まらなかった。このひとには、穏やかに笑っていて欲しいのに。いつだって、百瀬が怒らせてしまう。
 ぼろぼろと涙を零す百瀬に、千斗の表情が凍りついたように動かなくなる。そのまま、冷然とした顔を作って、サブマスターらを眺め下ろした。
 凛と張られた声が告げる。
「身体の拘束と場所的移動の自由の阻害、刑法第220条、逮捕監禁罪。薬物による生理機能への傷害、刑法第204条、傷害罪。……抗拒不能状態での猥褻行為、刑法第178条、準強制猥褻罪」
 最後の罪状を言う声は極限まで低く響き、ぎりりと歯の鳴る音がした。
「現行犯逮捕には十分すぎるくらいの案件だ。お前たちの氏名は?」
「え? は? 逮捕?」
「はったりだ、構うな。行くぞ」
 引っ掴むようにして荷物を取り、サブマスターが立ち上がる。弟分も慌てて続こうと立ち上がった。が、千斗の長身が出口を塞ぐ。
「何だ、どけよ。警察か? なら警察手帳を見せてみろ」
「僕は警察官ではない」
「ほらな。何の権限があって逮捕とか……
「現に犯罪が行われたことが明らかであり、要件を満たしていれば、私人だろうと警察官だろうと関係ない。……そうだな、万?」
 そう言って身体を斜めにし、背後を振り返る。千斗の影になってもうひとり、長身の男性が立っていた。
「ああ。仮に先ほどの罪状のうちいくつかが適用外となり、軽微事件と見做されたとしても、氏名を開示せずに逃亡の意思を見せたことで、刑事訴訟法第217条における現行犯逮捕の要件を満たしている」
 こちらも、百瀬の耳に馴染みのある声だった。多くは電話回線越しに、いつも親身になってくれた、大神万理の声。万理が来てくれている。
……お、お……み、さん?」
 発せない声を、音の名残りだけ絞り出す。弾かれたように千斗が百瀬の方へと向き直った。後ろの万理に低く声をかける。
「万、逮捕を」
「俺が? あー、まあ、後のためにもここは俺がやるほうが良いだろうな。しかし面倒な方の役回りを押しつけてくれるよ……
 軽く愚痴めいた口調で言いながら、千斗の肩から万理が顔を覗かせる。室内の様子から百瀬へと視線を向けて、語尾が途切れた。一瞬の後、再度口を開き、ひどく硬い声で彼は言った。
「こいつらの確保は任せろ。早く、百くんを」
「ああ」
 千斗が短く応え、大股に室内へと踏み込んで、百瀬の前に膝をついた。
「モモ……モモ! 大丈夫、もう大丈夫だから」
 涙でゆらめき歪む百瀬の視界を、千斗のさらりとした雨のような髪が覆った。骨ばった指が唇にかけられ、そっと口枷を外す。左手に巻かれた包帯の白さが、残像のように目の端に残った。
 そうだ。怪我の具合を聞かなければ。
 言葉を紡ごうと口を動かすと、ごぷりと唾液が溢れた。氷を差し込まれたかのように背筋が冷たくなる。千斗を惑わせ誤らせた、己の唾液。それが口の端からだらだらと滝のように流れている。
 駄目だ、と思った。またこのひとを、フォークの衝動に、フォークとしての運命に直面させてしまう。少しでも千斗から顔を逸らそうと、動かない身をよじった。だが、弛緩した身体はどれだけの意志でも動かせず、逆にがくりと首が折れてしまう。
 力なくうなだれた頭が、千斗の胸にふわりと受けとめられた。そのまま、かき抱かれるようにして、顔を胸へと埋められる。
……モモ」
 頬に押しつけられた千斗の胸が、心臓が、慟哭するかのように激しい鼓動を打っていた。さっきまではあんなにも怜悧に響き渡っていた声が、いまはか細く震えて、百瀬を呼ぶ。
「モモ、ごめん。遅くなってごめんね。でも、良かった……間に合って、良かった……
……っゆ、き、さん……
 溢れた唾液が口から零れて、止まらない涙とともに、千斗の胸をしとどに濡らす。ドアの方で、低く唸るような声がした。万理に取り押さえられたフォークたちのどちらか、あるいはふたりともか。離れていても強烈な刺激となるほどの香りを放っているのだろう。ましてやこんなにも近くで浴びてしまっては。
 けれど千斗は、少しも揺らぐことなく、ただ百瀬を抱きしめる腕の力を強くして、ふたつの言葉だけを繰り返していた。
 ごめん。でも、良かった。でも、ごめん。でも、――良かった。

 怒りも悲しみも、嘆きも悔しさも。すべてが融け出し、大きな海にたゆたうような安堵感に満たされていく。
 千斗の手が、百瀬の背中へと伸ばされる。座椅子の後ろで縛められたベルトを外し、手首をそっと撫でさすった。それから少し身を離して、引き伸ばされた襟もと、はみ出したシャツ、半ばまで下ろされていたファスナーも、丁寧に整えてもとどおりにする。長い指で、大きな手のひらで、大切な宝物を扱うかのように恭しく敬意をもって、着衣の乱れを正してくれた。
 人として、人間としての尊厳。剥がされたものが、千斗の手で、ひとつずつまた百瀬を包んでいく。
 もう、大丈夫だ。
 身体も、心も、春原百瀬という人間のかたちは、いつだって何度だって千斗が見つけてくれる。
 曇った心を見晴るかす、ロングレンジの瞳で。
 ――このひとが、好きだ。
 伝えなくては。ありがとうと。大好きだと。けれど、その前に、今は少しだけ。
……モモ、いいよ。あとは僕に任せて、おやすみ」
 優しい声。ほつれた髪を柔らかく撫でる手。
 千斗の胸にすべてを預けて、百瀬は意識を手放した。