2024-09-15 22:07:04
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マーブリング・マーブル

シャチョコン in ケーキバース。モモ=ケーキ(先天性)、ユキ=フォーク(後天性)。

ピリカラことRe:vale記念日2022リリックビデオの世界観+ケーキバースです。
社長(折笠千斗27歳)&コンビニくん(春原百瀬20歳)のほか、脇役として万理さんが登場します。
捏造過多。なんでも許せる人向け。特殊設定につき注意事項を最後まで必読でお願いします。

◆必読・注意事項◆
・ケーキバースという特殊設定に、多くの独自解釈と追加の設定を付与しています。
・流血・負傷・暴力的な表現があります(いずれも軽傷程度です)。
・モブキャラクター(名無し)による加害・犯罪行為があります(未遂・微量のモブモモ)。
・主要登場人物間のカニバリズム・欠損・殺人等はありませんが、世界観には含んでおり、言及があります。
・医学用語その他の各種用語はフレーバーとして用いており、解釈・知識とも曖昧で浅薄なものです。ご寛恕くださる方のみ、閲覧していただけますようお願いいたします。
・現実における特定のカテゴリ・疾病の方を貶めたり、傷つける意図はございません。また、実在の人物・団体・事件とは一切関係ありません。

◆あまり内容のないあとがき◆
https://privatter.me/page/66e6da94a683b
※読了後の方向けのためパスワード有です。質問自体がエピローグのネタバレになっていますのでご注意ください。


 執務室の大きな嵌め殺しの窓から、外の景色を眺める。
 眼下には、整然としたオフィス街が広がっていた。林立するビル群は、傾きかけた午後の陽を受けて灰白色に光っている。どことなく物憂げに見えるのは、時おり雲に翳る空のせいか、はたまた千斗自身の心情のためか。
 左手を上げて、窓にかざす。まだ鈍く痛みが走り、思わず顔をしかめた。指のみならず、手のひら全体を固めるようにして包帯が巻かれている。大仰に思えるが、治療の際にかかりつけのクリニックでさんざん叱られたうえ、腱すれすれでしたよと脅されたので、素直に巻かれたままにしている。
 なまくらな切れ味の歯で乱暴に裂かれ、破けた皮膚。この痛みと、流れ出た血のにおいが、正気を取り戻させてくれた。
 最初にフォークとして発症した時も、百瀬が流した血のにおいで、我に返ることができた。
 一度は偶然。二度ならば必然。

 血のにおいが、千斗を、意識の変性から連れ戻す。

 フォークが理性を失いかけた時に、血、もしくは特定のにおいによって特殊飢餓衝動が抑制される。類似の事例が有りはしないかと研究資料にあたってみたが、思わしい結果は得られなかった。定型的なフォークの特性ではなく、千斗自身に起因するものであるらしい。
 心当たりはある。かつて目撃した『彼』の事件だ。間近で見た大量の出血と、むせかえるほどの血のにおいが、フォークによる加害行為と結びつき、強い拒絶反応を起こすのではないか、と。ある種の心的外傷であるのかもしれなかった。現時点では、嗜食衝動を抑えるというプラスの作用が大きいので、単純にストレス障害と呼ぶのは偲びなく感じるところではある。
 この心的外傷がなければ――そして、ひとつ判断を違えていたら、己の歯を百瀬に突き立て、この傷は彼が受けていたかもしれない。そう思うと、崩れ落ちてしまいそうなほどに怖かった。あの一瞬、確かに千斗の理性は溶けていた。
 深いため息を漏らす。
 フォークとなったことに悲観も絶望もしない。一緒に生きることを諦めない。
 あの夜の誓いは変わらず胸にある。だが、誓いを実現するにはただ漠然と決意するだけではなく、戦略と戦術、武器と防具、そして何よりも、百瀬と心を合わせることが必要だ。
 どちらか片方が滅私の犠牲を払うのではなく、ともに手を取り、心を満たし、立ち向かうことが。


 ノックの音がして、秘書が入ってきた。社長、と焦れた声で呼ばれる。
「来週の会食のリスケ、今日明日がタイムリミットです。そろそろ決めていただきませんと」
 困り顔で差し出されたタブレットの画面には、社内グループウェアのスケジュールアプリが表示されていた。
 秘書、といっても専従ではない。管理部に在籍し、人事労務全般と、幹部社員のスケジュール調整を担当している。属人的になりすぎないし、適度に世話を焼かれ、適度に放っておいて貰える、いいバランスを保てている。
「役職者の誰か、時間が取れそうな人に代理を打診して貰えるかな。決まったら教えて。先方には僕から連絡する」
 椅子に背を預けて、ふう、と息を吐く。
「会食、ね。食事抜きの会食ってできないものかな」
「それ、そもそも会食って呼びませんよ」
 呆れたような秘書の声を聞き流す。
 食事。食べること。

 ――食べてください。

 百瀬の言葉を思い出すたび、強い衝動が身体の奥底からせり上がってくる。
 言葉とともに、おそらくは意識の埒外で放出されたフェロモンは、むせかえるほどの甘い香りを放ちながら膚に絡みつき、身体に染み入って正気を溶かした。差し出された白いうなじはあまりにも蠱惑的で、決意など、理性など、消し飛ばされた。今もこうして思い返すだけで、胃の腑が苦しいほどにざわめく。
 しかし、欲望と同じくらい、後悔と悲しみと、そして恐れもまた、湧き上がってくる。
 あんなことを言わせたくなかった。
 彼が身を捨てるほどに思い詰めてしまっていると、察して然るべきだった。笑顔をなくした表情、崩されることのない敬語、自分を責めるばかりの言葉。察せられる兆候はいくつもあったのに。何が社会人として、大人としての責任だ。己の不甲斐なさと、つかのま浮かれてしまった能天気さに、怒りすら覚える。
 そして、否応なしに自覚させられた。百瀬とともに居るとき、千斗にどれだけの責務が生じるか、自制が必要であるか、ということを。
 たとえば、理性の最後の欠片を失い、彼の身体を食んでしまったとして。百瀬は抗わず、身を委ねるだろう。本懐だと言わんばかりに。
 自分が理性を飛ばしてしまったら、すべてが終わる。
 そう知って、心臓が冷えた。

「まあ、会食って、いまどきナンセンスですよね。商談の場としては、コスパもタイパも最悪だし」
 軽口めいた秘書の言葉に、思索から引き戻される。若いベンチャー企業であり、形式だけの折り目にこだわらない千斗の性格もあって、上下関係は緩めの社風だ。
「ハラールとか、ヴィーガンとか、宗教や主義による食の信条もあるじゃないですか。同じ釜の飯って時代でもないのに」
 古めかしい表現が少し面白くて、千斗は微笑した。
「フォークの試験紙として会食の場を使う人もいるよ。暗黙の了解だ」
「ぶっちゃけ、それが一番、気に食わないです」
 声が低まる。怒ってくれている。フォークのために、すべての多種多様な人のために。それを嬉しく、頼もしく思う。
「そうだ社長。加食開発部から、新商品のフォーク向け機能性食品の試食をしてくれないかという話が来てますよ。あとシェアラボの方で、検体として傷口から組織片を取らせてほしいという依頼が」
 社長だって便利に扱い、こき使う社員たち。まったくもって、頼もしい。


 試食と検体提供を承知し、ほかにいくつか指示を出す。段取りとスケジュール調整に入ります、と言って、秘書は慌ただしく執務室を出ていった。
 ひとりになり、また、百瀬のことを考える。
 彼はなぜ、あんなに自分を下へ下へと持って行ってしまうのだろう。己の価値を低く見積もってしまうのだろう。
 リアルで会うようになった最初の頃、百瀬はしばしば、謙虚というより卑下するような態度を見せていた。凡ゲーマーで、コンビニ店員で、名ばかりの大学生で、と繰り返し口にする。百瀬の心の中では、その後におそらく「ケーキで、」と続いていたのだろう。
 親しくなり、会話を重ねるうちに少しずつわかっていったが、千斗の社長という肩書きや、人目を惹く容姿が、我知らず百瀬に圧を与えてしまっていたらしい。百瀬はMomoでありつつ百瀬であり、千斗はただ千斗でYukiに過ぎないというのに。

 ゲームの中のMomoはいつも明るく前向きで、不撓不屈の精神を持ち、Yukiを、フィールドの全員を盛り立て引っぱっていってくれる、ヒーローのような存在だ。味方は誰もが彼を頼り慕い、敵は誰もが彼を恐れ敬意を表する。
 百瀬の本質とて変わりはない。リアルでの付き合いを経て、断言できる。どちらも等しく「モモ」であると。
 現実と仮想の百瀬の違い。社会的な立ち位置や年齢の表面化はもちろんあるだろうが、何よりも大きいのは、肉体の有無だ。ケーキの肉体が、彼を枷に嵌め、戒めている。
 どうか、気づいて欲しい。
 ケーキという性質に、いや、ゲーマー、コンビニ店員、大学生、そんな属性などで括る必要はない。百瀬はただ百瀬という、たったひとりの大事なひとで、彼自身が愛されている、愛されるべき存在なのだと。
 代償として差し出して欲しくなど、ない。


 さきほど秘書が戯言のように口にした、コスパとタイパという言葉を思い出す。
 コストパフォーマンスとタイムパフォーマンス。対費用効果と対時間効果。
 支払った費用に、時間に対して、いかほどの効果が得られるか、天秤に載せてつり合わせる。個人主義を是とし、忙しなく時を刻まれ続ける現代社会を生き抜くためには、好むと好まざるとに関わらず、必要とされるバランス感覚だろう。
 そんな中にあって、百瀬は、彼のみが為せる稀有な天秤の掛け方をする。

 たとえばオンラインゲームで、困っている初心者に手を差し伸べる。たいていの人ができることだろう。
 けれど人は、そこに、無意識のうちに何らかの報酬を求める。自分が呈した知識なり時間なり、あるいは与えた親切に対し、初心者が上達し戦力となること、感謝の念を寄せること、といった対価を求めてしまう。
 Momoは違っていた。
 彼は、効率も報酬も求めない。気負うことなく、ナルシシズムに浸ることもなく、いつだってただ自然体で自分を支払う。楽しむこと、楽しませること、彼我ともに楽しさと幸せを得ることが、なめらかに混ざりあっている。
 企業の長として常に利益と効率の追求を強いられ、またケーキとフォークへの偏見や隔意に疲弊して来た千斗にとって、その姿勢は清冽で美しく、天上の無垢な心がかたちをとって地に降りたように感じられた。
 得がたく、愛おしい存在。
 それでいて、時おり見せるいとけなさ。ずっと掌のなかに閉じ込めてしまいたくなる。

…………
 てのひらの包帯をなぞる。
 千斗には、ひそやかに心の奥に隠した、己への疑惑があった。
 彼がフォークになったことを、百瀬は繰り返し、オレのせいで、と言う。確かに千斗の閾値は高く、半年前の検査の時点では、発症の確率は限りなくゼロに近かった。けれど、降り積もればいつか、フェロモンの蓄積により決壊する可能性は皆無ではなかっただろう。

 それを望む気持ちが、何処かに、ありはしなかったか。

 フォークになれば……百瀬にフォークにされてしまえば、きっと彼を縛ることができるだろう、と。罪悪感でがんじがらめにして、生涯、掌中に収めることができる、と。現にいま、そうなっているように。
 あの瞬間が訪れる以前。邪な思いが無かったと、胸を張って言えるだろうか。己の身体を贄として、彼を隷属させることを、無意識のうちに企んでいたのではないか。
 差し出してはならない代償を差し出そうと。
――似た者同士、かな」
 深いため息をひとつついて、椅子に背を預け、目を閉じた。
 鬱屈した感情だけが、堂々めぐりを始めてしまっている。いちど意識を手放して、思考を停止したほうがいいだろう。
 閉ざした瞼の下、百瀬の顔を思い浮かべた。思い出す彼は、無言のまま、沈んだ表情で千斗を見つめている。
 声が聞きたい。
 明るく耳もとで弾けるような、Momoの声。
 優しく耳もとに寄り添うような、モモの声。
 百瀬と千斗がケーキとフォークではなくMomoとYukiで、ただ遊んで笑いあっていられた頃は、毎日のように聞いていたのに。
 いつもみたいに話をして、いつもみたいな声が聞けたなら。あの夜に紡げなかった言葉を、もう一度きちんと伝えられるような気がした。

 百瀬はただ百瀬という、千斗にとってたったひとりの大事なひとで、
 愛されている、愛している存在なのだと。


 ■   〇   ■   〇   ■


 ゲーミングPCに向かい、けれど今日はゲームは起動せず、かわりに複数のブラウザを立ち上げている。
 スタンダードなウェブブラウザのほか、匿名掲示板サイトの専用ブラウザと、分散型SNSの閲覧に特化したブラウザと。
 キーボードの上に指をすべらせ、いくつかの単語を打ち込んでエンターキーを押す。ざっと眺めて確認し、ブラウザバックしてまた別の単語を打ち込む。その繰り返しだ。
――ケーキ、けーき、cake。ケイク。ke-ki。景気、けえき……ケキ?」
 ブルーライトを瞳に映し、ぶつぶつと呟きつつ、百瀬は首を傾げる。ケーキという単語がゲシュタルト崩壊しかけていた。
 いちど追い出すようにぶるりと頭を振り、アドレスバーにまた別の近しい語句を入れて検索する。チェックを終えた語は、そのままカット&ペーストでローカルのテキストファイルに残していく。

 ひとつ、決意をした。
 千斗が語った、ゲーム内におけるケーキのコミュニティの噂について調べ上げる。存在するのであれば、何としてでも探し出す。

 ネットでの情報収集、ことにゲームに関するものや、アングラな情報の掘り出しなら、おそらく千斗よりも百瀬の方がスキルは高いだろう。あまり自慢できる能力でもないが、今はこれが武器となる。
 手がかりは多くはない。それも漠然としたものだけだ。
 其の一。公式のプレイヤーズコミューンにある。
 其の二。ケーキの相談所としてフォーラムのように運営されている。
「情報、少なすぎだよ……
 がしがしと頭をかきむしりながら、つい泣き言めいた言葉が出てしまう。

 調査を始めるにあたって、そもそもフォーラムとは何を指すものか、というところを考えてみた。
 公式コミュンは多機能だが、基本はタイムライン構築型のSNSであり、電子会議室のようなシステムは備えていない。やりとりの可能なコミュニティボードはあるが、個人宛のゲストブックみたいなもので、複数名での話し合いには向いていない。
 コミューンの機能を順繰りに検討していき、これはと思ったのが、サークルチャンネル機能だ。
 サークルの参加メンバーのみ閲覧と書き込みが可能な、ローカルタイムラインチャンネル。公式からいくつかのテーマが用意されているほか、ユーザーが自由にサークルを作成し、プライベートチャンネルとして運用することもできる。
 親しいフレンド同士の語り場として、文字通りプライベートに使われるのがもっぱらであるため、サークルのチャンネルIDはデフォルトで非公開設定となっており、公開は作成者の任意だ。つまり、知らない者には扉の在り処すら見えない。
「そもそも、存在するとして、の話だけど」
 モニタに目を走らせつつ、嘆息する。
 公式コミューンの公開サークルをひととおり調べてみたが、それらしいものは見当たらなかった。さもありなん。千斗も言っていたとおり、ケーキのコミュニティが情報をオープンにしているとは考えにくい。
 非公開サークルであっても、URLにチャンネルIDをベタ打ちすれば、存在を確かめることはできる。そこで、該当しそうな単語を片っ端から入力しては、不正なIDとして弾かれたり、無関係なサークルにアタックしてしまったり、をさっきから繰り返している。が、さすがにこんな当てずっぽうでは、成果を得ることは難しい。
 キーボードから手を下ろし、横に置いたスマホに目を向ける。モニタの端、お守りのように立てかけてあった。そっと触れて、スリープを解除する。
 開きっぱなしのトーク画面には、いくつかのメッセージが表示されている。

 ×     ×     ×

 千斗が立ち去った後、陽が落ちて暗がりに包まれた部屋の中で、百瀬はペットボトルを握りしめたまま放心していた。
 千斗を怒らせてしまった。だけでなく、侮辱し、傷つけてしまった。
 誰よりも尊敬し、誰よりも慕わしく思っているひとなのに。彼の心も自分の心も蔑ろに、ただ楽なほうへと流され、思考を手放した己の愚かさに吐き気すらした。
「どうしたら……どうやって、償えば……
 小さく漏らしたはずの呟きが、ずっと静寂に包まれていた部屋には驚くほど大きく聞こえて、びくりとする。
 跳ね返されるように、千斗の言葉が耳に蘇った。

『勝手な責任感で自分を差し出すな』
『代償は、いらないんだよ』

 冷たい怒気をはらみつつ、どこか痛切に響いた声音。
 千斗は、償いを求めない。
 彼がフォークとなってしまったことについても、責任を取る、責任は自分にあると言っていた。どう考えたって百瀬が元凶で、千斗は被害者であるのに、何故そんな風に言うのだろうと不思議に思っていた。
 それが、不意にほろりと心に解けた。
 百瀬にとって責任とは、責めを負う、という認識だった。対して千斗の言葉における責任は、きっと償うべき『責』ではなく、任されるべき『任』のほうに重きが置かれているのだろう。
 責の先にあるものを見据えて、己に任じたい、と告げていたのだ。

 ゆっくりと顔を上げる。
 うつむいたままでは、彼が見据えるのと同じ景色を見ることはできない。
 少しでも、責任の取れる生き方をしよう。自分を憐れむより先に、できること、やるべきことに、手をつけよう。

 手始めとして、万理に連絡を入れる。コンタクト用のメッセIDを渡したことを報告しなければならない。
 床に落ちて、ビーズクッションの下敷きになっていたスマートフォンを手に取る。
 ホーム画面に通知があった。千斗からメッセージが届いている。
「え」
 虚を衝かれた。あんな風に帰ってしまったのに、その日のうちにメッセージを送ってくるなんて、思ってもみなかった。どんな言葉を伝えてきたのだろう。怒りか、悲しみか、それとも。
 しばしの逡巡ののち、えいやっとメッセアプリを開いた。
 ちゃんと受けとめる。責任を取る。

 ぽってりと座り、ぼーっと目を泳がせている、きみどり色のかわいらしいぬいぐるみのスタンプがひとつ。
 その下に、メッセージがあった。
『いま、部屋に帰りました。診療所に寄ったら何かぐるぐる巻きに包帯を巻かれてしまったので、しばらくエイムが安定しないかも』
『なので、今日はゲームはログボだけにして、早寝します。また今度、あらためて話をしよう』
『あ、それとは別に、デュオのランクマに行くときは誘ってくれると嬉しい』
 おやすみ……と、月と星を背景に、目を閉じて眠りに就くぬいぐるみのスタンプが、トークを〆ていた。
 拍子抜けするほど、普通のメッセージだ。そこに、自然な気配りがいっぱいに詰まっている。
 無事の帰宅を伝えて安心させつつ、怪我の状態と施術の報告をさらりと織り込み、強い感情はいったん伏せたまま、もう一度きちんと話し合う意思、変わらぬ付き合いを、ゲームを続ける意思があることを提示した。
 大人だなあ、と思った。
 年齢だけの話ではなくて、真の意味で。優しくて強い、大きな人だ。
「ほんと、かなわないよ……
 自嘲のつもりの言葉が、やけに柔らかく響いた。それで、口の端が上がっていることに気づく。
 ロングレンジな人。未来まで見晴るかす。
 曇った心を晴らしていく。


 気持ちを封じることも、償いに自らを捧げることも、千斗の視点に立てば、百瀬の独善にすぎないのだろう。かといって、このままなし崩しに関係を続けることも、百瀬にはできない。であれば、自己陶酔めいた感情を追いやって、シンプルに、ひとつずつ向き合っていくしかない。
 フォークにしてしまったことへの呵責。千斗の意思を侮り軽んじたことへの後悔。そして、千斗と『彼』の絆への羨望。
 ことに折り合いがつかないのは、最後のものだ。千斗が『彼』に向けていた想いと、いま百瀬に向けられている想い。千斗の過去、百瀬の現在。どう受けとめれば良いものか、喉につかえて呑み込めない。

 ――ひとつ、考えるたび、心に強く影を落とすことがある。
 百瀬よりも以前に、千斗の傍に居たケーキ。けれど『彼』は、百瀬とは違い、千斗をフォークとして発症させることはなかった。

『彼』と千斗は、ともに生きることを定められていたのではないか。

…………
 声にならない息だけを吐く。まただ。こうしてぐるぐるとひとり思い悩んでいても、何も変わらない。踏み出さなければ進めない。
 踏み出した瞬間に足場を失い、真っ逆さまに墜落するかもしれない。けれど、一歩さきの景色を見ることはできる。

『彼』を探し出そう。千斗の前に連れて行き、聞いてみよう。
 千斗の念願である探し人との再会が叶えば、彼の引け目となっているゲームへの動機付けの不純さが氷解するだろう。それだけでも意義はある。
 フォークにしてしまったこと、軽んじてしまったことへの、責を任じる欠片になれば。

 そういうわけで、あれからずっと人探しをしているのだった。

 ×     ×     ×

 スマートフォンをモニタに立てかけ直す。
 深呼吸とともに大きく伸びをし、自分の頭をコンと小突いた。キーボードにあらためて手をのせる。
 切り込み方を変えてみよう。
 公式コミューンからいったん離れて、別の場所で、ゲームとケーキの繋がりを探す。いくぶんアングラな情報でも構わない。とにかく手がかりが欲しい。
 ケーキのコミュニティとやらが、ゲームクライアントや公式サイトを介してのみ繋がっているとしたら、それ以外の場所に手がかりが落ちている可能性は限りなく低いだろう。しかし、千斗の話を聞くかぎり、ゲームプレイヤーではない人間を介して噂が伝わっている。ということは、どこかに話の出どころがあるはずだ。
……あれ?」
 ふと、引っかかりを覚えた。が、言語化する前にするりと消えてしまう。首を傾げ、しばし考えたが、思いつきの尻尾は逃げてしまった。まあ、探しているうちにまた思いつくだろう。
 匿名掲示板サイトのブラウザを手前に表示し、ずらりと並ぶ掲示板の板一覧を眺める。
 オンラインゲームをテーマとする掲示板は複数の板にまたがって存在し、そこからさらに細かなカテゴリに分かれていて、初心者には至極わかりにくい。情報収集のために頻繁に見る百瀬は、必要な情報の探し方を把握しているが、いま用があるのはそこではなかった。
 ゲーム板よりも、もう少し品の無い場所。インターネット上で他者を観察し、あげつらい、時には晒し行為を行う場所。
 ネットウォッチ板へと、潜り込んでいく。

 ゲーム名でスレッドタイトルの検索をする。いわゆるプレイヤー晒し、チーム晒しなどのスレッドがいくつもヒットし、いささかうんざりする。昨今はSNSに場を譲っているとはいえ、いやむしろそれだからこそ、この閉じた場所での匿名書き込みの粘着度、陰湿さは上がっている気がする。
「あ。公式コミュの個別スレ、あるんだ」
 さまざまなスレッドに混じって、公式コミューンのウォッチスレッドが見つかった。タイトルについたスレッドナンバーは三桁に達している。かなり活発な長寿スレらしい。
 開いてみると、書き込みの最初の十レスほどはテンプレ――スレッドのお約束と、過去の事例を列挙したテンプレートで埋まっていた。これまでのウォッチ対象をリスト化し、プレイヤーのゲームIDが書き連ねられている。サークルのIDもいくつかあった。どうやらサークルについても、ここで取り扱われているようだ。
 テンプレを流し読みしてから、スレッド内をざっと検索する。直球で「ケーキ」という言葉が引っかかることはさすがになかった。次いで「菓子」で検索してみる。この匿名掲示板全体において、ケーキを指す時に使われる隠語だ。が、この言葉もヒットしない。
「んん?」
 検索しつつ眺めていくうち、気になることがあった。
 スレッドの先頭に戻り、テンプレを読み直す。三レス目に【スレ内用語集】という題名のついた書き込みがあった。その中に、探していたものを見つける。

・刑期=菓〇のこと。スレ外の使用厳禁

 このスレッド内では、ケーキの隠語として「刑期」という言葉が使われている。

 いちど手を止めて、考える。
 匿名掲示板の常として、検索避けのため、あるいは逃げ道にするため、特定の語の表記や呼び方に隠語が使用されることは多々ある。だが、すでに定着した隠語の存在する語句に、特定のスレッド内でのみ違う言葉をあてているというのは、あまり見る事象ではない。
 なにか理由があるはずだ。

 コマンドメニューから、スレッドの過去ログ倉庫を開く。
 適当に古い日付の過去スレッドを開き、テンプレートを確認する。「刑期」の項目は見当たらない。
 ひとり頷いて、次に「刑期」で全文検索する。該当なし。
 そこから、スレッドナンバー順に過去ログを開き、ひとつひとつ確認していく。数ヶ月分のログのチェックを終えたあたりで、ようやく「刑期」という言葉が最初に登場したスレッドを見つけた。別の書き込みへのアンカーがついた返信だった。

【>156 菓子に菓子事案の刑期を聞くとか正気じゃないな】

 なかなか不穏な文章だ。遡って156番の書き込みを見る。
【156 菓子がモグられた事件の判例を知りたいっつってるけど、こいつ示談が不満な菓子なんじゃね?】
 そんな文章に添えて、なにがしかのスクリーンショットが貼られていたらしい。らしい、というのは、その画像がすでにリンク切れとなっているからだ。一定期間で自動的に削除されるアップローダーを使用していたのだろう。
 156には他にも多くの返信がついていた。そこから発生したやりとりの流れを追ってみる。

【つか、このログ持ってる>156は菓子か?】
【菓子の特定はさすがにアウトやろ】
【ちょま、こいつ菓子食ってどうなるか聞いてるってことは菓子じゃなくアレじゃん。通報案件だろ】
【モグったらどれだけの罪になるか知りたがってるし、49っぽいよな。まじでヤバいヤツ】
【何でもいいけど公式コミュでやるなよ。なんでこんなところでこんな質問やってんだ?】
【そりゃサークル主が法律に詳しい菓子って有名人だからだろ。知らんの?】

 書き込みに目が吸い寄せられる。
 流れから推察するに、貼られていた画像は『過去にこれこれこういったケーキへの加害事件があったが、示談となった。もし起訴されて実刑判決となっていたら、刑期はどれくらいになるか』という質問が書きこまれたサークルタイムラインのスクリーンショットであったらしい。
 ケーキによる相談が持ち込まれたサークルチャンネル。そのサークルの主は、法律に強いケーキ。
――ビンゴ。って言っていいやつ?」
 思わず指を鳴らす。あまり上手くないので、パチン、ではなく、べしょん、といった音しか出なかったけれども。
 スレッドはその後、書き込みの限度数に達するまでずっとこの話題で持ち切りとなっていた。いわゆる祭り状態だ。
 書き込んだ人物は果たしてケーキか、フォークか、どちらでもないのか。どんな意図があるのか、犯罪の示唆か、教唆か。示談となった過去の事件は本当にあったのか、これから起こそうとしているのか。スレッドは無責任に盛り上がり、憶測と決めつけが飛び交い、さんざんに捏ねくりまわしていた。
 ケーキの刑期が、刑期へのケーキの、とごちゃ混ぜになるうち、このトピックについて語る際は「刑期のやつ」と頭につけられるようになった。次第に、ふたつの言葉の境界が溶けていく。
 そうしていつしか、今回の件に限らずに、このスレッド内ではケーキが「刑期」と表記されるようになっていった。「けーき」という音の被りも大きな後押しとなったのだろう。


 刑期の謎が解けるとともに、強力な手がかりが得られた。次のステップだ。
 このサークルを探して、コンタクトを取る。
 おそらく156に貼られた画像にはサークルIDなども載っていたのだろうけれど、リンク切れとなった今、見ることはできない。どうしたものか、としばし考える。
……あ、待てよ」
 腕組みを解いて、マウスに手を伸ばした。
 過去ログ倉庫から現在の掲示板に戻り、再度、最新のスレッドを開く。テンプレートを確認すること、本日三度目。ひとつひとつの事例を丹念にチェックしていく。
 思ったとおり、祭りとなったことから、「刑期のやつ」はテンプレ入りしていた。件のサークルのIDも、がっつりと晒されている。
 最初から全部ここにあったのだ。
 とは言うものの、過去ログから関連ワードを突き止めていなければ、隠語とスラングだらけのテンプレの説明文だけでは、ここに晒されているなどと見抜くことはできなかっただろう。遠回りに思えても、おそらくこれが情報への最短ルートだったのだ。
 なんにせよ、辿り着けて良かった。自分のスキルで千斗の役に立てる。そのことが、気分を高揚させる。
「ええと、サークルIDは……あれ。作成者のコミューンID名のままなのか」
 ユーザーが作成したサークルのIDは、デフォルトでは作成者の名前――コミューンID名となる。任意の文字列で作成することも、後からリネームすることも可能だが、このサークル主はそういうことはしなかったらしい。
 テンプレートに書かれていたサークルのID、ならびにサークル主のコミューンID名は、IR=NABとなっている。
「なんて読むんだ、これ。アイアール? イル?」
 いかにも架空のキャラクター名、といった文字の連なりだ。読み方、もしくは呼び方は、当人しか知らない系統の。
 ともあれ、IDは判明した。あとは公式コミューンでこのIDを叩き、鍵を開けて貰うだけだ。

 ×     ×     ×

 ここまでが、できすぎだとは思った。

 公式コミューンのサークルチャンネルで、サークル名IR=NABを検索し、それ自体はすぐに見つかった。参加申請をクリックして表示された詳細情報には、主催者のコミューンID名とサークルの活動趣旨、参加者数、そしてチャンネルへの最終書き込みの日付が記載されている。
 主催者はIR=NAB。サークルの趣旨は『プレイヤー同士の交流を深めましょう。』という定型文のまま。参加メンバー数は三桁に近い二桁。
 問題は、最終書き込み日だった。
「二年以上前……ゲームランチャーも旧UIバージョンの頃じゃん……
 悄然と呟く。
 匿名掲示板に貼られたスクリーンショットは、書き込みの時点で、かなり過去のものであったらしい。IR=NABは、もうずっと使われていない、実質休眠状態となっているサークルだった。
 サークル主であるIR=NAB氏個人の公開タイムラインを確認してみたが、自動出力されるゲームプレイ履歴のログが表示されているのみで、それもサークルと同じく二年前から止まっていた。
 つまり、すでにゲームを辞めてしまっている可能性が高い。

「ランチャー更新後も復帰していないってことは、これはもう完全に引退だよなあ……
 今からちょうど二年前、大規模なシステムアップデートと、ゲームランチャーの更新が行われた。大々的な復帰キャンペーンが行われ、新規登録者と復帰者で、サービスイン以来の大きな賑わいを見せた。そのタイミングでもログインをしていないということは、生活の変化か、思うところがあったのか、いずれにせよゲームからはきっぱりと足を洗ってしまったと思わざるを得ない。
 意気消沈しつつ、ともあれサークルへの参加申請を出してみた。ついでにIR=NAB個人のコミュニティボードにも、軽い挨拶と、サークルに参加申請を出した旨、書き込みをしておく。
 駄目でもともと。なんらかの反応があれば良し、なかったら――その時は、次の手を考える。何かしら、調べ続ける方法はあるはずだ。
 自分に言い聞かせる。少なくとも、五里霧中の状態は脱した。調べ始めた時に覚悟したよりもずっと、手がかりはある。まだまだ、がっかりするには早い。

 書き込みを終えて、ふと、Yukiの公開タイムラインを覗いてみた。
 プレイ履歴の他、百瀬と一緒にコミューンの機能について確認した際のテスト書き込みが残っていて、懐かしさに頬が緩む。それとともにパスワードのことも思い出し、緩んだ頬がさらに崩れてしまった。誕生日が知りたかった、なんて。
 コミュニティボードも見てみる。こちらは開設された初期状態のまま、まっさらだ。
 マウスを動かし、書き込みウィンドウを開く。

『タイトル:はじめまして

 Momoです。こちらでは初めまして!
 まだ初めましてができる場所があったんだなって、なんとなく、それだけです。
 来期のデュオマッチもよろしくね』

 タイトルは、あえてひらがなにした。
 初めましてから、また、始まっていく。これからも、ふたりでゲームを続けていく。そんな気持ちを込めて、投稿ボタンを押す。
……いや、その前にメッセに返事しろってね」
 わかってはいるのだが、今の心境のままで、直接にしろネット越しにしろ、双方向のリアルタイムなやりとりを上手くできる自信がない。既読をつけてくれたら、と言ってくれた以前の千斗の言葉の優しさに甘えて、そのままにしてしまっている。
 あと少し。あともうちょっと『彼』の手がかりが掴めたら。『彼』と千斗を再会させる目途が立ったなら。
 視界の隅、スマートフォンを横目で見ながら、心の中で何度も繰り返す。
 と、ホーム画面に光が入る。通知が届いた。
 一瞬、千斗からのメッセかと思ったが、違った。ゲームのサポートアプリからのシステムメッセージだ。ゲームのメンテナンスや障害情報、アップデート情報をプッシュ通知で届けるアプリで、日々活用している。使用頻度は少ないが、公式コミューンの書き込み通知、返信の通知も行ってくれるはずだ。

『あなたの公式コミューンのコミュニティボードに
 新規ゲストメッセージが書き込まれました』

……!」
 思わず目の前のモニタを見る。そこには、先ほど百瀬が書き込んだYukiのボードが表示されていた。ここではない。自分の――Momoのボードだ。
 まさか、という気持ちと、もしや、という期待が胸を打つ。
 コミューンのマイページを開き、ボードを確認する。新規メッセージが一件。書き込みのタイトルは『サークルIR=NABへの参加申請について』となっている。
 逸る気持ちを抑えつつ、本文を読む。
 書かれていたのは、思いも寄らない人物からの誘いの言葉だった。


 ■   〇   ■   〇   ■


 早い時間にマンションを出た。
 朝の空気の中で考えをまとめる時間が欲しくて、徒歩で駅へと向かい、公共交通機関を使うことにした。通勤ラッシュにはまだ少しの間がある。緩やかな人の波を縫って改札を通り、うぐいす色の電車に乗り込んだ。
 車窓を流れる景色を見るともなしに見ながら、これから会う相手について、思いを巡らせる。

 百瀬を担当するソーシャルワーカーと、面会の段取りをつけた。
 互いに勤務時間外の私人として、オフィスでも庁舎でもなく、屋外で会うことになっている。

 相談したいのは、自分のことではない。百瀬のことだ。
 以前からの彼の自尊感情の低さと、千斗がフォークとなってからのいっそう不安定な精神状態について、情報を共有したい。前者について、気を配るべきところがあれば、本人不在の場で差し支えの無い範囲で、ソーシャルワーカーの見識に基づく助言が欲しい。
 プロの知見で、現状の堂々めぐりから脱却できるかもしれない。
 そう思っての決断だった。

 昨夜、一時コンタクト用のメッセージIDを打ち込みながら、送信前の最後の瞬間まで迷っていた。いや、迷っていたというより、臆していたと言うべきか。
 百瀬があんなにも信を置いている人物との対面にあたり、自分は平静でいられるだろうか、と。
 ずっと百瀬を支えていてくれたことへの感謝はもちろんある。が、それと表裏になって、仕事としては少し踏み込みすぎではないか、公私の別をわきまえているのか、という気持ちが沸々として消えない。
 この感情の名前は、わかっている。羨望だ。
 百瀬の口ぶりから窺える全幅の信頼。彼が最も辛かったであろう時期を支え、彼に何かがあったときにはいちばんに報せを受け取る役割を持ち、住まいからアルバイト先に至るまで、陰に日向に守ってきたという人物。
 場所を譲れ、と言いたかった。
 これからは自分が百瀬を守り支える。そして百瀬に守られ支えられる、最も強い関係になるのだ、と。
 この感情の名前は、わかっている。
 嫉妬だ。

 ×     ×     ×

 いつもとは別方向の改札から出て、繁華街側に抜ける。不夜城の異名を持つ日本有数の歓楽街は、明けて早朝の空気の中にあっても、濁った夜の気配を色濃く残していた。立ちこめる路上の臭気。うずたかく積まれた収集袋。信号機の上で羽を休めるカラス。
 それらの横を足早に通り抜け、コンビニエンスストアへと向かう。面談に向けて、飲み物を買うためだ。
 待ち合わせ場所の最寄りのコンビニは、相手の職場である庁舎からもほど近い。そして、百瀬の働く店でもある。
 期待はしない。この時間、シフトに入っていることは多くはないはずだ。
 思ったとおり、店内に百瀬の姿はない。それでも未練がましく視線を彷徨わせていると、検品をしていた年嵩の男性がこちらを向いた。千斗を見て、あ、という顔をし、頭を下げる。どうやら、個人として認識されているらしい。
 少しの居心地の悪さを感じつつ、小さく会釈をした。そんなに通い詰めているつもりはなかったのだが。
 無糖の強炭酸水を手に、レジカウンターへ向かう。さきほどの男性が、作業の手を止めてレジに入った。胸につけたプレートには、名字の上に店長と書かれている。
……春原くん、今日は欠勤してますよ」
 いらっしゃいませ、袋は必要ですか、とお決まりのやりとりの後に、ごく自然な調子で言い足されて驚いた。
「お客さんが来たらシフトを伝えていいって、本人に言われてるんで」
 バーコードをスキャンしながら、なにげない世間話のように伝えられて、二度驚く。同時に、じわじわとした嬉しさが込み上げた。仕事のスケジュールの共有。百瀬の生活に組み込んで貰えたような、そんな心持ちになる。
 緩みそうになる顔を引き締めつつペットボトルを受け取って、ふと、欠勤という言葉に引っかかりを覚えた。
「欠勤って、シフトが無いということですか?」
「いや、本当は今日は早朝からフルの予定だったのが、急な用事ができたって連絡があって。体調不良とかじゃないとは言っていたけど」
 それで店内が手薄なのか、と納得する。しかし店長の言葉に棘はなく、むしろ気遣わしげな口ぶりだった。
 それが、嬉しかった。
 コンビニ店員、春原百瀬。彼はここに居場所を得ている。ひとりの働く人間として、好かれ、大切にされている。


 店の外で、ペットボトルを開けた。噴き出す炭酸の音が、朝の空気に馴染む。顔を上に向けて、口へと流し込んだ。はぜる泡。味は無い。もとから味の無い炭酸飲料だ。
 喉を滑り落ちる刺激を確かめつつ、またペットボトルに口をつける。
 と、コンビニの自動ドアが開く。赤い髪の青年が、ぎっしりと中身の詰まったレジ袋を提げて出てきた。袋の口からは菓子パンやおにぎり、飲み物の紙パックやペットボトルが覗いている。
 その大荷物と精悍な顔立ちに既視感があった。記憶を探ってみて、思い当たる。以前、レジを打つ百瀬と談笑していた、常連らしき青年だ。
 なんとはなし、窺うように顔を見る。百瀬と楽しげに会話していた時には感じなかったが、ひとりでいると眼光の鋭さが際立って見えた。顔立ちの印象からくるものだけでなく、何か強い苛立ちを抱えていて、それが表情に出ているようだった。
 瞳がぎろりと動いて千斗を見た。貫くような強い視線に射られ、たじろぐ。と、彼はすいと近くに寄ってきて、すれ違いざまに低く囁いた。
「あんた、ちゃんと気をつけてやれよ。あれは美味すぎる」
 そのまま、足早に去っていく。
 動けなかった。不意を突いて通り過ぎる身のこなしが物慣れており、口を開くことも、追うこともできず、気圧されたまま呆然と見送る。
 後ろ姿が、レジ袋に手を入れて何かを取り出した。片手でキャップをこじ開け、ぐいとラッパ飲みする。
 千斗が飲んでいるものと同じパッケージ。炭酸水のペットボトルだった。

 ×     ×     ×

 朱塗りの社殿が、朝の光に煌めいている。
 小さなスナックやバーなどがひしめきあう飲み屋街の裏手に、ぽっかりと開けた広々とした空間。地域の鎮守である神社の境内が、待ち合わせ場所だ。

 庁舎内での面会を予期していたところ、このような場所を指定されて、少なからず戸惑った。意図するところを聞いてみたが、返ってきた答えは「私人としてお会いしたいと思っているため、庁舎外、また貴社外での対面とさせていただきます」というもので、回答になっているのかいないのか、判然としなかった。
 千斗はフォークであるため、飲食を伴う場所では居心地が悪いことへの配慮はあるだろう。そして相手は、ケーキ担当のソーシャルワーカーだ。百瀬の口ぶりから察するに、彼自身もケーキなのだろう。人目のある、ひらけた場所で会うことを求められるのは理解できる。この神社は、社殿の裏から境内の外に出てすぐに交番がある。万が一の備えとして申し分ない。
 腕時計で時間を確認する。社の始業時刻までは、だいぶ余裕がある。少しばかり遅刻する可能性があることは、あらかじめ秘書に伝えてあった。
 相手の始業は官公庁だけに早いだろうから、どうしたって就業時間に食い込むと思われるが、これも仕事の範疇なので問題はないと言われれば、諾するのみだった。
 私人として会いたいと言いつつ、仕事の範疇であるとも言う。それもまた、釈然としない。

 最初に送ったメッセージで、千斗は社名と役職、そして姓名を名乗った。社名についてはいくらか迷ったが、後になって説明するよりも、初手から明かしてしまったほうが良いと判断した。どうせ顔を合わせれば知れてしまうことだ。メディアへの露出と、何よりも彼我の業種がら、千斗の顔と名は知られているだろう。
 相手は、所属組織と部署名、そしてソーシャルワーカーの登録番号を伝えてきたが、実際に顔を合わせるまではと、未だ名は伏せたままでいる。
 待ち合わせのために幾度か交わしたメッセージは、短い文章に過不足なく用件を詰め込み、それでいて事務的なだけではない慮りが感じられ、確かにこれは信頼に足る人物だ、と思わされるものがあった。
 その印象が、正しいかどうか。助言を求めるに足るかどうか。
 直接会って、しっかりと見極める。


 社殿へと続くゆったりと幅広な石段の少し手前、濃緑に繁る樹々に囲われた納札所の前で立ち止まった。
 境内を抜けて、ぽつりぽつりと人が通り過ぎていく。歓楽街の中にあって、ここだけは、神域らしく澄んだ空気に満たされていた。
 スマートフォンを取り出し、百瀬に宛てて、いくつかメッセージをしたためる。あの青年の警告めいた言葉がどうにも気がかりで、何かしら行動を起こしておきたかった。
 百瀬の勤めるコンビニにたまたま立ち寄って、店長と会話し、欠勤と知ったこと。体調不良ではないと聞いたが、なにか手伝えることがあれば言って欲しいということ。そして、帰りがけに、以前にも見かけた常連らしき人物とすれ違ったこと。
『大荷物の買い出しで大変そうだな、と前の時も思って、それで印象に残っていたんだ。レジを打っていても、印象的なお客さんって覚えてしまうものなのかな?』
 はっきりと問うではなく、会話の糸口のように、それとなくメッセージに織り込んだ。流れに乗って、もしかしたら返信をくれるかもしれない。そんな下心めいた気持ちもあった。
 締めにスタンプをひとつ送って、スマートフォンをしまい、顔を上げる。
 広い境内の、納札所から参道を挟んだはす向かいに、手水舎があった。銅板の屋根に、柱梁は社殿と同じく朱塗りで、石造りの水盤を囲っている。用向きは参拝ではないけれど、場所を借りるのだし、清めはしておくべきだろう。そう思い立ち、ゆるゆると足を向けた。
 近づいてみると、屋根の下に先客がいた。ダークスーツに身を包んだ、長身の男性だ。左の手に柄杓を持ち、袖口を濡らさぬよう、ゆっくりと丁寧に右の手に水を振りかけている。
 ふと、胸が騒いだ。
 身体に馴染んだスーツの後ろ姿、わずかに身をかがめる背中の線に、心の奥深いどこかが、懐かしさを伝えてくる。
 千斗の気配を察してか、頭のうしろでひとつに束ねられた髪が揺れて、身体ごと振り返った。その拍子に額に垂らした前髪がふわりと浮き上がり、一瞬だけ、引き攣れた傷痕が見えた。あの日の彼が、嚙まれ、食まれたと同じ場所。
 まさか。どうして、こんなところで。今という時に。
 その人物は、柄杓を水盤の上に戻すと、頷くように会釈をした。
「折笠千斗さんですね。ご足労いただき、ありがとうございます」
 滑らかで愛想の良い、腰の低い口調だった。
「社会援護局、特定形質支援福祉部所属。ソーシャルワーカーの大神万理です」
 口を開くことができない。ただ大きく眼を見開いて、食い入るように目の前の人物に視線を据え続ける。と、彼は幽かに苦笑して、水盤に後ろ手をついてもたれかかった。
……私人として面会する、って言っておいたよな」
 瞳が細められた。懐かしい、眩しいものを見るように。懐かしいもの。それは自分だ、と千斗が思い至るより先に、彼はまた小さく笑った。

――久しぶり、千」

 再会する日を、想像したことがある。自分は喜ぶのか、怒るのか。笑うのか、泣くのか。肩を抱くのか、頬を張り飛ばすのか。
 実際には、そんなドラマティックな展開などなく、うまいことも言えず。間の抜けた顔で突っ立って、穴が開くほどに見つめ続けることしかできなかった。
 大神万理。ずっと探していた、親友の姿がそこにあった。

 ×     ×     ×

 ふたりともに清めを終え、手水舎を離れる。待ち合わせの目印としていた納札所の横、神楽殿の裏手で足を止めた。参道からは少し外れていて、通り抜ける者も、参拝者も、あまり立ち寄らない位置にある。
 祭りの日には、神楽囃子が披露される場所。今は、朝の光の中、ひっそりと佇んでいる。
 炭酸水のペットボトルからひと口含み、ふう、と息を吐いた。
 話したいことは山ほどある。
 聞きたいことはひとつだけだった。

――どうして、連絡をくれなかったんだ」

 彼が姿を消した事情は理解している。
 だが、その後ほとぼりが冷めてなお、連絡を絶ち続けたのは何故なのか。

 物理的にも、社会的にも、驚くほど近い距離に居た。
 街区は違うが、同じ駅勢圏でずっと働いていた。通勤経路は交差せずとも、たとえば百瀬の働くコンビニで鉢合わせをする確率だって、それなりにある。
 そして、社会援護局。特定形質支援福祉部とは、ケーキとフォークの支援を執り行う部署であり、社の者は頻繁に出入りしている。「大神」の名を聞けば誰かしら気づいたことだろう。なんなら、千斗自身が折衝のために庁舎へと赴いた際に、顔を合わせる機会も少なからずあったはずだ。いずれも、注意深く己の存在を隠していたとしか思えない。
 千斗がそう指摘すると、万理は素直に頷いた。
「社会援護局の職員が、近い業種の社長と個人的に接触するのは、私情による便宜の計らいを疑われる恐れがあるから避けたほうがいいだろう、という組織の見解があってね。具申したのは俺だけど」
――万自身から、か」
「もちろん、未来永劫ってわけじゃない。お互いに身辺が落ち着いた頃を見はからって、それなりの根回しをした上で、連絡を取るつもりではいたんだ。ただ、日々の仕事に追われて、二の次になってしまっていた。……悪かった」
 彼は口にしなかったが、千斗がケーキとフォークに関わるベンチャー事業の先駆者として持て囃され、時の人扱いをされて顔が売れてしまったことも、おそらくは要因のひとつだろう。ケーキのみならずフォークをも支援することへの反発は根深い。そこに官民の癒着という弱みを作らせないための配慮だったと推察される。
 訊ねる前に半ば予想はしていたものの、心を斬られる事実だった。
 彼の事件をきっかけに事業を興し、彼を探すために積極的にメディアへと露出してきた。それが逆に、再会を遠のかせることになっていたとは、ひとり芝居にも程があるだろう。道化な己を嗤わずにはいられない。
 と、万理が身を動かした。二歩、三歩と移動して、千斗に向き合う位置に立つ。
 姿勢を正し、正面から目を合わせて、彼は言った。
「こちらの独断で、接触を避けることを優先した結果、千に対して、ひいてはC&F社に対して、迷惑をかけてしまった部分があったと思う。そこは本当に申し訳なかった。許してくれ」
 深々と頭を下げる。束ねた髪が地面を向いて垂れ下がった。
「ちょっと、万、」
「だけど」
 顔を伏せたまま、強い声が遮る。それからゆっくりと身を起こした。深い色の瞳で真っ直ぐに見据えて、告げる。
「嬉しかった。ずっと繋がってくれている。そう感じていたんだ」
 ――それは、千斗の過ごした七年間へのエールだった。
 ひとつ年上の親友。あるいは悪友。十代の半分と二十代の端緒をともに過ごし、かつて一緒に事業を、人生を設計していた相手。
 立つ場所は違えても、ずっと同じ方向を見つめ、歩き続けてきた。
 ひとりの道では、なかったのだと。


 神楽殿のぐるりを囲む鉄柵に、ふたり並んでもたれかかる。
 小脇に抱えたビジネスバッグから、万理がバインダーと筆記用具を取り出した。当初の目的であった面談に入るらしい。
 積もる話はいくらでもあるが、互い仕事に追われる身だ。感傷に浸るには、いささか日も高い。いつか、炭酸を強く効かせた酒を酌み交わしながら、語り合える夜を作ろう。百瀬も一緒なら、なお良い。
「それで、相談というのは? C&Fの社長さんが、いまさらフォークとしての心構えでもあるまいし。何かソーシャルワーカーについて、というよりソーシャルワーカーの俺に対して、聞きたいことがあるんだろう」
 さすがの察しの良さ、そして話の早さだった。メッセージのやりとりでも感じたが、要点を掴んで対話の段取りを組むのがとにかく上手い。こういった処理能力の高さは学生時代から見るべきものがあったが、ソーシャルワーカーとしての経験を得て、さらに磨かれたようだった。
「相談したいのは僕のことじゃない。ソーシャルワーカーのことでもない。けれど、モモのソーシャルワーカーである万にしか聞けないことだ」
「モモ……春原百瀬くんについて、話がしたいと?」
 頷くと、万理はごくわずかに顔をしかめた。
「クライエントについて、俺が答えられることはあまりないと思う。お前の話ならいくらでも聞くし、守秘義務を持って相談に乗るよ。職務上でも、友人の助言でも」
 公人として。私人として。
 待ち合わせ前の言動に合点が行った。仕事の範疇でありつつ、私事として会う。彼なりの譲歩であり、けじめなのだろう。
 千斗はといえば、良くも悪くも公私混同が可能な立場にある。ふうん、といくらかわざとらしい声を出してから、言う。
「まあ、僕はどうでも。公務員と違ってそれなりに融通は利く。なにしろ代表取締役社長だからね」
「あのな……
「けれど、モモについて、聞くべきでないことを求めるつもりはない。これ以上モモを傷つけないために、力を貸して欲しい。それだけだ」
 軽口に続けてそう告げた千斗の声に、なにか思わされるところがあったのか。万理は真摯な顔をして頷いた。それから、頬を緩める。
「しかし、百くんから受けた相談の人物が、まさか千のことだったとはなあ。本当にびっくりした。世の中ってのは広いようで狭い」
 しみじみとしつつも、どこか暢気な口調で言われて、肩の力が抜ける。
「そんなに意外かな」
「意外っていうか、とにかく驚いたよ。だいたい、お前と百くんで、どんな友達付き合いをしてるんだ」
「モモとは……モモは、何て?」
 質問で返すと、万理はバインダーを開いた。挟まっている書類のタイトルがちらりと見えてしまう。相談支援受付票と印字されていた。
「聞き取りでは、近年の友人とだけ。百くんからの相談内容は、自分が原因となって友人をフォークとして発症させてしまったことの報告と、その人物への支援、当人の希望次第ではアドバイスやメンタルケアをして欲しい、ということだった」
 友達。友人。百瀬は万理にそう言ったのか。何とはなしにほっとするとともに、心のどこかが少しだけ燻る。
 では、発症の直接の引き金となったあの夜の出来事――初めてのキスについては、どう語ったのだろう。
「発症のきっかけについては聞いていない。無警戒にパーソナルスペースを狭めた状態で長時間を過ごしてしまったせいだろう、との話だった」
 見透かしたかのように言われ、知らず凝らしていた息を吐き出す。万理は特に気にした様子もなく、書類に目を落としたまま言葉を続けた。
「個々の発症事例は、プライバシーに大きく関わることが多いから、何らかの切迫した理由がある場合を別として、詳細は聞かないし記録しない。そういうのは医療機関に任せてる。で、今のところ切迫しているとは見えないから、とりあえずこのまま受理ってことで」
「は?」
 ボールペンで何か書き込んでいる。流れとしては、一種の誘導と言えなくもない。怒ろうかと思ったが、それより感心してしまう。本当に手際が良い。
 さらさらと書き込む手の動きを見て、思い出した。確認しておかなければならない、大事なことがある。
「万って、ケーキだよな」
「ご存じのとおり」
「そして僕はフォークになった」
「らしいね」
……でも、万からは香りがしない」
 万理もまたケーキだ。しかし、百瀬といるときにしばしば惑わされた、あの脳を蕩けさせるほどにあまい香りが、これだけ近くにいても一度たりとも感じられない。有り難いことではあるのだが、この違いはどこから来るものか。香りの拡散性には個人差があったりするのか。いささか無遠慮な疑問を口にすると、万理は肩をすくめた。
「年季が違う。俺は就学前健診で診断されて、二十年以上もケーキとして生きているんだ。内分泌系のバランスはとっくに落ち着いているし、長いこと抑制薬と付き合ってきて、調整は完璧だ。言語野からの脳神経伝達による、無自覚なホルモンの過剰分泌――いわゆるフェロモン放散を抑えることも、身体で覚え込んでいる。それに……
「それに?」
 言い淀んだ言葉の先を促す。が、万理は小さくかぶりを振った。
「いや。とにかく、そのへんかな。百くんは、下垂体ホルモンの分泌が開始し、ケーキと診断されてから三年足らずだ。まだ他の主要ホルモンとのコントロールバランスが安定していない。なのに発症直後で分泌量そのものが多いし、乱高下する。これに起因して、情緒も不安定になるから、フェロモン関連の事故を引き起こしやすい。自他ともに注意が必要な時期なんだ」
 万理の言葉に、思い当たる節は山ほどあった。むしろ思い当たる節しかない。
 あの夜から始まり、押しかけたコンビニ、幾度となく送ったメッセージ。百瀬の部屋で、彼に伸ばした手。
 発症時期による差異については、すべてが初耳だった。千斗が接したことのあるケーキはみな、就学前健診により判定を受けた者ばかりで、ごく稀に中学校の入学前に診断されたという話を聞くくらいだった。ケーキにとっての人生について――ひいては、ケーキとして生きる百瀬について、きちんと考えることをしていなかったのだと、突きつけられた気がした。
 わかっているつもりで、なにもわかっていなかった。ケーキとフォークに関わる事業を興したというだけで、分野に詳しいと思い上がり、無知なままに百瀬に触れてしまった。その結果、彼の心と身体を掻き乱し、追い詰めたのは、他ならぬ自分自身だ。
「千? 大丈夫か」
 あからさまに顔に出したつもりはなかったのだが、聡く気づかれたか。万理に問われ、思わず苦笑する。本当に、鬱陶しいほど察しが良い。
「僕はモモについて、ケーキについて、あまりにも知らないことが多すぎた。モモの友人としても、職業人としても、未熟でもの知らず過ぎて、自己嫌悪に陥っているところ」
 あはは、と万理が笑った。笑われた。なのに、いやな感じはひとつもしない。明るく風に飛ばすような、軽やかな笑い方だった。
「お前がそんな風に言うなんてな。大人になったもんだ。年を取ったとも言う」
……そうね。お互いにね」
 怖いもの知らずだったあの頃から、時は流れている。背負うものは増えた。守りたいものができた。広がった世界の裾野まで、伸ばす手は届かない。
 万理がバインダーを閉じ、クリップにボールペンを挟んだ。ここからは私事になる、という合図だろう。
「百くんについて、知らないことが多すぎたって言うけど。他人から友人になって、少しばかり一緒に過ごしたくらいで、何もかもわかりあえたら苦労はないよ。ここから長い時間をかけて、少しずつ知っていく。って考えると、楽しみじゃないか」
「そのあいだに、フォークとして発症したりもするけどね」
「またそういう口を叩く。しかし、この仕事を始めてそれなりに長いけれど、言っちゃ何だが、フォークになったことをこんなに軽く受けとめている相談者はまず居ないぞ。お前、さ。お前、なんだか……
 そこで言葉を切ったのは、ためらったのか、ただ言い終えたというだけなのか。
 短い間から、会話を引き取る。
「仕事がら、フォークであっても普通に暮らしている人はたくさんいると知っているから、発症しても世界の終わりみたいに悲観はせずに居られたよ。それに、貴重な事例を得て、経営者として体験を生かせるだろうとも考えているからね」
 できるだけさりげなく、それらしく聞こえる言葉を探し、繕う。万理の目は、覆い隠したものを見透かそうとするかのように、千斗の表情をじっと追いかけていた。
 百瀬によりフォークとして発症することが、ひそやかな願望であったかもしれない、という己への疑惑は消し去れない。だが、それよりも強く、心に抱いている想いがあった。こちらのほうが、他者には、ましてや万理には、もっと伝えがたいことかもしれない。

 世の人々に蔑まれ、危ぶまれ、石を投げられても。
 百瀬によって穿たれた刻印ならば、千斗にとって、それは福音だ。

 しばしの沈黙ののち、万理は小さく息を吐いた。
「ま、そういうことにしておいてやるよ。百くんを傷つけることはしない、という言葉を信用して」
 そう言って、バインダーを黒のビジネスバッグにしまい込み、柵に肘をついてくつろいだ姿勢を取る。ふっと目もとを緩ませて、千斗を見上げた。
「仕事としても、個人としても、俺の口から百くんについて話せることは少ないけれど。かわりに、俺自身の話を少しだけするよ」
 話しながら、時おり前髪を撫でつける仕草は、無意識の癖だろうか。
 不意に壊れてしまったあの日から、七年間。額の傷とともに、万理がどのような日々を送ってきたか。

 ×     ×     ×

 もとから万理は、家族とは離れて暮らしていた。
 父親の再婚相手の連れ子である妹と、同じ屋根の下で暮らすことを避ける、という大義名分のもと、自由なひとり暮らしを満喫している。表向きはそう語っていたが、もうひとつ、理由があったのだという。
「再婚の前に、検査をして貰ったんだ。母さんと、妹に。で、妹がさ。ほぼ潜在的なフォークと呼べるくらいの因子保有者だった」
 息を呑んだ千斗に、何ということもなさそうな顔をして、ひらひらと手を振る。
「必要な時にはこの話をしていいと、許しを貰ってある。妹もとっくに成人だ。あまり気にせずに……っていうのも難しいかもしれないけれど、とりあえず最後まで聞いてくれ」
 万理のケーキとしての体質は、抑制薬でしっかりと抑え込まれていたものの、日常的な接触があっては、発症の確率はどこまでも上がっていく。ふたつの家族はひとつになり、またふたつに分かたれた。万理と、万理以外とに。
 ひとり暮らしは楽しかったし、思いきって離れることで、家族関係は良好に保たれた。父親とはまめに連絡を取り、新しい母親は気遣いと申し訳なさを多分に含みつつも、温かく家族の縁を結んでくれた。妹と直接会うことはごく短時間に限られたが、ビデオ通話やメッセージアプリを通じて会話を交わし、次第に兄妹らしく、他愛ないやりとりから身内としての相談ごとまで、親しく話し合う間柄になっていった。
 傍からは、万理は家庭から放逐された者と見えたかもしれない。けれど、家族のかたちはさまざまだ。大神家はこの在り方に満足していたし、仲の良い家族だとの自負があった。
「とは言うものの、時々、どうにもしんどくなることはあったよ。父親は俺と母と妹に、母親は父と俺に、妹は俺に。みんな少しずつ負い目を感じていたから」
 そこに、あの事件が起こった。
 悲劇のケーキとして大神万理の名がメディアとSNSに流布し、顔画像が曝け出され、取材の手やSNSによる特定は家族にまで及んだ。
 好奇と悪意の目から逃れるために新たな場所へと身を移し、万理も、家族も、それまで築いた暮らしが一度すべて白紙となった。
「俺の負い目は、そこにある。でも、両親と妹が言ってくれた。『俺のせい』じゃない。『俺のため』だ、って。今までひとりにさせたぶん、俺のために家族が団結してできることがあるのが嬉しい、って」
 その言葉を貰っても、やはり辛かった。大切な人を、家族を、自分がケーキであるということで脅かしてしまった。どうやっても乗り越えられない理不尽さが、世の中にはある。己の手の小ささを知った。
「それで、今の仕事に就いたんだ。ケーキとして顔と名前が売れてしまって、他に選べるような仕事が無かったってのは、まあ、あるけどね」
 手を伸ばしても届かない。ならば、足場を持とう。一段ずつ積み上げて、少しでも先へ、遠いところへ、届くように。届けられるように。
 ケーキというだけで、フォークというだけで、狭められてしまった道を往く人々の、未来へと踏み出す足がかりとなり、長く続く旅路の拠りどころとなれる自分であるために。

――今でも、家族への負い目はある。そもそもは俺がケーキとして生まれたことが始まりなんだから。幸い妹は、今のところ発症の兆候はないけれど、家族が大事であればあるだけ、まさかの時の後悔は大きくなるだろう。そして、家族でなくても、大事な人をフォークにしてしまったら、どれだけ辛い気持ちになるか……正直、俺だって、想像しただけで怖気づく」
 長いようで短い、短いようで長い話の最後は、ひと巡りして再度家族の話へと着地した。
 遠まわしに伝えてくれているのだろう。家族と離れての、ひとりでの暮らし。似かよった事情があるのだと。
 そして、千斗は、百瀬にとって大事な人であるのだと。

 ×     ×     ×

 小さな電子音が鳴った。
 万理が左腕を上げる。スマートウォッチの画面をタップして、朝の定例ミーティングだ、と呟いた。
 時間はいいのか。目で問うと、笑って手首の端末をぽんぽんと叩いた。気にしなくて良いらしい。
 境内は変わらず穏やかな空気に満たされていた。時おり風に揺れる樹々のざわめきだけが、頭上を撫でていく。通り抜けをする人はずいぶんと減った。オフィスワーカーの出勤時刻のピークを過ぎたのだろう。
「さて。次は、お前の話を聞かせてくれ。共通の友人として、純粋に気になるよ。百くんと友人になったきっかけとか、何をして遊ぶとか。知り合ったのはやっぱり百くんのコンビニで? 店員と客って友人になれるものなのか?」
 友人、という言葉を何度も繰り返されて、いささか湿った気持ちになる。現状、百瀬との関係を表す言葉を千斗は持っていない。あの夜、口に出せずに、百瀬に甘えて宙ぶらりんのままにしてしまった報いであり、千斗自身のせいだった。
 そこまで考えたところで、気がついた。
 逆に言えば、これは、千斗自身が解決できることだ。

 きちんと、百瀬に伝えよう。伝えて、それから。いつかふたりで万理の前に立ち、告げるのだ。
 YukiとMomoは、折笠千斗と春原百瀬は、相棒で、友人で、そして。

――僕とモモが知り合ったのは、コンビニじゃない。雲に浮かぶ空中都市だ」
 決意を新たにすることで、いくぶん心は落ち着いた。あの夜の詳細だけは伏せたまま、千斗は、これまでの経緯――Momoとの出会い、百瀬との邂逅を、万理に語った。
 ある日、ゲームの中で、凄腕プレイヤーのMomoが初心者のYukiを助けてくれたこと。仮想世界での相棒として、ペアを組むようになったこと。たまたますれ違った交差点でふたりともに感ずるものがあり、互いに見つけあって、リアルでの出逢いを果たしたこと。それ以来、相棒として、友人として、――距離を近づけていったこと。
 万理はひとつひとつ相槌を打ちながら、じっくりと耳を傾けてくれた。
「百くんがあのゲームをやり込んでいることは知っていたけれど、まさか千もプレイしているとはね。昔はゲームには全然興味が無かったのに。しかもFPSなんて」
 あの、とゲームを指して呼ぶ言い方が、どことなく気安かった。良く知っているもののような語り口だ。
 ことの始まりを思い起こす。一筋の光明に賭けて、千斗がゲームをインストールした、最初の理由。面倒見が良く、法に強いケーキのプレイヤーの噂。
「あのゲーム、って。万、もしかして……
「ああ。俺もいっときプレイしていたんだよ」
 聞くよりも先にあっさりと頷かれて、二の句が継げなくなった。
「百くんを含めて、受け持ちに何人かプレイしているクライエントが居たから、気になってインストールしたんだ。どういう遊び方をするゲームなのか知りたかったのと、メインコンテンツが対人戦ってことでメンタルに悪影響がないかという確認も兼ねて。そうしたら普通に面白くて、ちょっとハマった」
 ゲームの雰囲気を見極めた後、しばらくは純粋に楽しんでプレイしていたが、ある時、ケーキを自称するプレイヤーに悩みを相談され、持ち前の知識と経験を生かしてちょっとしたお節介を焼いてしまった。そこから口伝てに、似たような悩みを抱えるケーキが、何人も相談に訪れるようになった。相談者は次第に増えていき、人から人へ評判となって伝わり、万理がケーキであるということが、ゲーム内と云えど大きく広まってしまった。公務員が非公式な場で職業上の知識を用いることの危うさもあり、思いきってゲームそのものから離れたのだという。
「バーチャルな空間で、ケーキであることを忘れて遊べるのが楽しかったのに、相談を受けることで、いつのまにか誰よりもケーキらしいケーキであることを求められるようになったのが堪えた。ケーキはこんなふうに、些細なきっかけで居場所を失うことがある。みんな、大なり小なり、そういった経験をしているんだ」
 ケーキであることが、万理がゲームから引退する理由となった。その事実は、千斗の心にうすら寒い風のように吹き込んだ。
 どうしたって百瀬のことを考えてしまう。あんなにも楽しそうにゲームの世界を駆けている彼が、もしも、同じように引退を余儀なくされたら。アバターのMomoに、会えなくなったら。想像するだけで背筋が冷える。
「千?」
 名を呼ばれ、知らず強張っていた顔を意識して和らげる。大丈夫だ。いま現在、ゲーム内では何の問題もない。たとえ何かが起きたとしても、全力で守ろう。Momoという存在を、百瀬の居場所を、奪われることなどあってはならない。
 杞憂を振り払い、話題を変えることにした。
「何でもない。それにしても、あの噂は本当のことだったんだな」
「噂?」
 怪訝な顔をする万理に、千斗がゲームを始めるに至った経緯を説明する。万理は最初は興味深そうな顔で、次第に胡乱げな表情となり、最後ははっきりと渋面になって、話を聞いていた。
「そんな話が広まっているのか。確かに公式コミューンは持っていたし、コミュニティボードやサークル機能を使ってケーキとフォーク関連の相談に乗ったりもしていたけれど、趣旨として掲げていたわけじゃない。あくまで俺個人のコミュニティ……交流場所だったよ。メンターだなんて、ずいぶんと尾ひれがついたもんだな」
 そう言った万理は、苦々しい顔をしていた。千斗としては、答え合わせで丸がついたくらいの感覚だったが、確かに噂がひとり歩きしてしまっているのは気になるところではある。
「再インストールして、公式コミュまわりのチェックと――あのコミューン自体、閉鎖した方がいいだろうな。その上で、アカウント削除の手続きをするか。週末にでもやっておくよ」
 運営企業への登録アカウントそのものの抹消。これを行えば、二度とゲームには復帰できない。少しばかり残念な気もするが、件のコミューンを発信源として無責任な噂が広まっている以上、該当IDの完全消去が最適解となるのは、止むを得ないことだろう。
 ただ、その前に、千斗としては、ひとつ頼みたいことがあった。
「消してしまう前に、コミューンのログを少し見てみたい。良かったら、公式コミューンのIDを教えてくれないか。一般の公開範囲で構わないから」
「え? ログを?」
 物好きだな、と呆れたように言われてしまい、だいぶ心外だ。決して興味本位ではない。リアルよりもはるかにガードの低い仮想世界でのケーキ同士のやりとり、親交、悩み相談。公私ともに――社の事業であるケーキのサポート業務においても、ケーキとしての百瀬を理解するためにおいても――参考となる事例の宝庫だろう。
「そうだなあ。個人的なやりとりはコミュニティボードを使っているから公開範囲に関わらず見えないだろうし、プレイログやサークルの過去ログはもともとメンバーに公開していたものだし、まあいいか。サークルの投稿は精査していたから、個人が特定できる情報はないはずだけれど、とにかく繊細な話題が多いんで読み取った内容の扱いは慎重にしてくれよ。――あと、千が見たらすぐに気がつくだろうと思うから、先に言っておくけど」
 そう前置きをした上で話された内容に、今度は千斗が渋い表情になった。
「そういうの、有り?」
「俺が有りだって思ったから有りだろ」
……それは、そうだけど」
 ため息をつく千斗を放って、万理はスマートフォンを取り出した。
「俺の個人メッセからフレンド依頼を送っておくよ。そっちでゲームIDを送る。サークルは初期設定のままだから、俺のプレイヤー名で検索すれば出てくるはずだ。ちなみに名前、最初は『BAN』にしようと思っていたけれど、アカウント停止の意味があるからイメージが悪いって知ってさ。逆さ読みにしてる」
 長い指が忙しなく動いて、端末に文字を綴っていくのを、横から覗き込んだ。
 IR=NAB。それが、彼のプレイヤー名であり、コミューンIDだった。


 限られた時間のぎりぎりまで話し込んだ後、万理と別れた。
 昔のふたりのこと、離れていたあいだのこと、これからのこと。万理のこと、千斗のこと、百瀬のこと。ケーキのこと、フォークのこと、作るべき未来のこと。話はいくらでも、尽きることはない。
 名刺と電話番号、そしてメッセージIDを交換した。プライベートのものも、仕事のものも。千切れた糸は繋がった。いつでも連絡が取れる。話ができる。
 七年のあいだ探し続けた相手と再会し、あの頃の気の置けない空気のまま、当たり前のように付き合いが復活した。つい数時間前までと、世界がひとつ変わってしまったような気がする。まだ心のどこかが呆然としていて、ふわふわと実感がなかった。
 けれど本当のことだ。そしてこれは、決してゴールではない。始まりだ。
 ここから、万理と、百瀬と、手を取って一緒に歩いていくのだ。
 百瀬と。
 メッセージを送っていたことを思い出し、プライベート用のスマートフォンを取り出す。ロック画面に返信の通知はない。淋しく感じる気持ちは隅へと押し除けて、メッセージアプリを立ち上げ、百瀬とのトーク画面を開いた。
……あれ」
 最新の表示は、面談の前に千斗が送った、コンビニでの出来事についてのメッセージだ。わかっていたことだが、返信はない。それは別に気にしないのだが。

 既読がついていなかった。

 メッセージのやりとりにおいて、百瀬はいつも、送信から数分後、遅くても一時間以内には既読をつけてくれる。あの夜以降はさらに早く、五分と置かずして既読がつくことが常となっていた。自宅ではスマートフォンをモニタの横、通知が来ればすぐに目に入る位置に置いているらしかった。たまに遅れる時は、コンビニでの勤務中だ。スマートフォンはバックヤードのロッカーの中で、休憩時間以外は触ることができないという話だった。
 だが、今日、百瀬は欠勤している。
 もうひとつの可能性は、就寝中だ。バイトを休んだのであれば、眠っているのかもしれない。が、店長の言葉を思い出す。
『急な用事ができたって連絡があって』
『体調不良とかじゃないとは言っていたけど』
 ――欠勤の理由は、何だったのだろう。今さら気になった。
 ふと、頭上を仰ぐ。朝から昼へと向かう空の色は薄青く、仄かに雲がたなびいていた。どこかでカラスの鳴き声が聞こえる。かすかに届く街のざわめきは、まだのんびりとして穏やかだった。
 スマートフォンをポケットに戻し、苦笑する。気にしすぎだろう。たかだか二時間足らずの未読にやきもきするなんて、昨日や今日の初恋でもあるまいし。
 そう思った。思おうとした。
 けれど漠とした不安は身体の中へと沈み込み、いつまでも居座り続けて、消えることはなかった。


 ■   〇   ■   〇   ■


 早い時間にアパートを出た。
 たいていのシフトでの出勤時間よりは早いが、本当なら今日は早朝勤務があって、夜明け前には部屋を出ているはずだった。心の中で店長に謝りつつ、いつもの道を駅へと歩き、馴染みの黄色い電車に乗る。ターミナル駅へと向かう私鉄は、すでに通勤ラッシュに突入しており、乗客たちは隙間なく詰め込まれて、都心へと運ばれていく。
 デイパックを前に抱えて車両の中ほどに立ち、電車に揺られながら、頭の中でぼんやりと昨夜の出来事を振り返っていた。

 ×     ×     ×

 百瀬のコミュニティボードに書き込まれたメッセージ。それは、IR=NAB当人からのものではなかったが、繋がる人間であることを明らかにするものだった。

『サークルIR=NABへの参加申請について:
 Momoさん初めまして。突然の書き込み失礼します。
 自分はサークルIR=NABでサブマスター的な役割を果たしている者です。
 IR=NABは現在ゲームを離れてしまっているため、サークルへの参加申請者をお見かけした際には自分がフォローアップをしています。
 悩み事や相談事がありましたらよろしければお話を聞かせてくれませんか。
 無理にとは言いませんが、気が向かれましたらお気軽にお返事いただけますと幸いです。』

 これだけの文章を、何度も、丹念に読み返した。
 事務的だが、丁寧で誠実そうな文面に見える。使う言葉の雰囲気からして、社会人だろうな、と思った。
 公式コミューンのサークルは、基本的に個人に属するものであり、サブマスターという機能はない。これはおそらく、ケーキの相談事についてIR=NABのサポートをする役割にあったのだとほのめかしているのだろう。
 少し考えて、メッセージを返す。

『レスありがとうございます:
 書き込みありがとうございます! 正直サークルへの参加は難しいかなと思っていたのでレスをいただいてとても助かりました。
 悩みというのとはちょっと違うのですが、IR=NABさん個人とお話をしたいことがあってサークルへの申請を出しました。メールかSNSなどでIR=NABさんと連絡を取る方法があったら教えていただけると助かります』

 やりとりのスレッドに記事を追加するかたちで送信した。間を置かずして、さらなる返信が届く。

『連絡先の件:
 残念ながら自分は現在のIR=NABの連絡先を知りません。
 しかし古株のサークルメンバーの中にリアルでも親しく付き合っていた人間がいますので、コンタクトを取ってみます。
 少しお待ちください。』

 期待と不安を抱きつつ、じりじりと待つことしばし。さきの返信を編集するかたちで、新たな書き込みがされた。

『連絡先の件 追記:
 コンタクトが取れました。IR=NABの現在の連絡先を把握しているそうです。

 ところで、ご存じかと思いますが、IR=NABはケーキです。
 そしてこちらの古参メンバーもまたケーキです(当人からカミングアウトの許可は出ています)。
 彼としてはIR=NABの連絡先を渡すのは事情を伺ってからにしたいとのことでした。できれば直接お会いして話したいと言っています。
 突然ではありますが明日都内でお会いすることは可能ですか? 明日を過ぎるとしばらく都合がつかないそうなので。
 Momoさんが可能かつご希望でしたら自分が仲介をします。本日は時間も遅いため恐れ入りますがお早めのお返事をお願いします。』

「いやちょっと待って……待てって」
 百瀬は頭を抱えた。急展開にも限度というものがある。
 その古参メンバーという人物、そしてIR=NABがケーキならば、理由も明かさぬ突然のアプローチに警戒するのは当然のことだ。対面してひととなりを確かめたい、フォークではないことの確証を得たい、という心情は理解できる。
 しかし、あまりにも性急だ。今日の明日という話であり、その今日はすでに深夜にさしかかっている。誰かに相談する時間も、じっくり考える時間もない。
……でも、ここまで来たら、行くしかないよな」
 手がかりは目の前にぶら下がっている。臆してこの機を逃してしまったら、何のために調べていたのかということになる。
 キーボードに向かい、承諾の返事を書き込む。程なく返信が届き、具体的な待ち合わせの相談となった。
 場所は任せると言われ、百瀬のバイト先からほど近いコーヒーショップを指定させて貰う。時刻は先方から指示された。けっこうな早朝で首を傾げていると、古参メンバーの予定が流動的であるため、まずはサブマスター氏と合流して、連絡待ちをするということだった。
『自分もケーキなので付き添いをひとり同行させたいのですが構いませんか。その人物もケーキです』
『了解です。カミングアウトありがとうございます。オレだけ、言えなくてすみません』
 このコミュニティボードでのやりとりだけで、幾人ものカミングアウトを受けてしまった。ここは百瀬としても打ち明けるべきだろうかとも思ったが、文字を綴ろうとすると、万理の言葉を思い出してしまう。
 心の底から信頼できる相手であっても、打ち明けることは避けるように、と。
 その助言を安易に破った結果、千斗をフォークにしてしまったことが、心に大きく影を落とし、どうしても打ち明ける気になれない。
 おそらく相手は八割がた察しているだろうけれど、それでもなお、自分から直接的な言葉で告げることはしたくなかった。
『気にしないでください。それでは明日よろしくお願いします』
『はい、よろしくお願いします!』
 話を終えて、コミュニティボードに目をやると、短い文章のやりとりで埋まっていて、まるでチャットログのようだった。
「ケーキとケーキがケーキと会い、もうひとりのケーキに会って、別のケーキに会うための連絡先を教えて貰う、のか」
 ボード上に踊るケーキ、ケーキ、ケーキの文字。誰も彼もがケーキとして名乗りを上げる、奇妙な状況だった。そもそもがケーキのためのサークルなのだから、不思議なことではないと、頭ではわかっているのだが。
 多くのケーキが集っている。千斗という、ひとりのフォークのために。そう考えると、皮肉なようであり、また、集うべくして集ったようでもあった。

 ×     ×     ×

 黄色い電車が、終点であるターミナル駅のホームへと滑り込んだ。人の波に乗って電車を降り、デイパックを背負い直して改札へと向かって歩く。出たところで端へと寄り、立ち止まった。
 待ち合わせの前に、行こうと心に決めている場所があった。スマートフォンを取り出し、地図アプリを起動する。
「ええと、目的地設定、徒歩ルート……おっと」
 行き先を入力しようとして、文字入力に思いがけず手こずった。いま手にしているのは、普段から使い慣れたスマートフォンではない。いつも使っているものよりもひとまわり大きく、厚みがあり、無骨な印象の漂う端末だ。てのひらをはみ出すサイズのため、片手でのフリックが常の感覚とかなり違っており、誤入力が多発してしまう。
 使い勝手の悪さは、一般向けに市販されている機種ではないためだろう。
 これは厚労省によるケーキへの貸与機。GPS送信機能のついたスマートフォンだ。

 GPS追跡サービスの利用登録時に配布されたガイドブックには、常日頃より携行を心がけ、ことに日常の生活圏の外に赴く場合や、多くの人々との接触が予期される場合には、忘れずに持ち歩くこと、とある。
 とはいえスマートフォンの二台持ちはそれなりに煩わしく、百瀬もいつも守ってきたわけではなかった。だが、今日はきちんと持って出ようと心に決めていたし、万理にも携行することを伝えておいた。
『明日はGPS携帯を持ち歩きます。午後あたりにテスト使用するかもしれません。その時は事前にメッセで連絡を入れます』
 伝言はPCメールで送った。万理の部署の共有メールアドレスを同報のCC送信に入れておく。
 深夜だったため、メッセージアプリではなくこちらにした。これなら、職場に着いてパソコンを起動するまで、目にすることはないだろう。万理にはいつもプライベートな時間にまで面倒をかけてしまっている。急ぐ用件でもなし、出勤後に見て貰えればじゅうぶんだ。
 デイパックのポケットに無骨なスマートフォンを押し込んだ。日常で使用している方のスマートフォンは、念のためバッグの底に入れてある。
 厚労省の貸与端末は、機能的には普通のスマートフォンと遜色なく、民間のアプリもひととおり入れられるのだが、端末の契約情報に紐づくメッセージアプリの同期は行えないのが不便といえば不便だった。
 もっとも、百瀬が日々メッセージを受け取る相手は、そう多くはない。ケーキと診断され、いまの生活を始めるより以前の交友関係は、ほぼ絶えている。家族との連絡も、さほど密には取っていない。他には万理とのやりとりが時おりで、あとはせいぜい、コンビニバイトのグループメッセージと、通話が不調な時のゲーム内フレンドからの誘いくらい。そして、千斗だ。
 ――今日も、メッセージをくれるだろうか。
 既読をつけるのが遅くなることで、心配させてしまうかもしれない。そんなことを思ってしまった自分に呆れ、自嘲のように呟く。
「付き合いたての恋人同士でもあるまいし……
 口に出した瞬間、己の心が幽かに、けれど確かに痛むのを感じてしまった。過ぎた自惚れだ。
 これまでも、たとえばコンビニでの勤務時間などは、既読をつけるのが数時間後になるのはざらだった。そこまで気にすることではない。だいたい、忙しい社長の身の千斗に、いちいち既読の確認をする時間なんてないだろう。余計な心配だ。
 自分にそう言い聞かせて、駅の構内を早足に歩き出す。外へ出たところで再度スマホに目を落とした。地図アプリが示す方へと身体の向きを変えて、歩き出す。
 勤務先のコンビニがある繁華街とは、反対の側。ビジネス街の方へと。


 辿り着いた場所には、一棟のオフィスビルが建っていた。かなりの高層ビルだが、シンプルな佇まいが美しく、威圧感はない。外壁の色は落ち着いたシルバーグレーで、朝の陽射しを照り返して鈍く輝いていた。
 エントランスのガラスドアは外へと開かれており、一階にはオフィスの他にもさまざまなテナントが入っていて、関係者以外でもふらりと通り抜けてよさそうな雰囲気だ。
「あれ?」
 通りに面したテナントに、コンビニエンスストアがあった。百瀬が勤めているのと同じチェーンの店だ。ぽかんと口が開く。

 ――会社からはちょっと遠いけれど、このチェーンのコーヒーが気に入りだから。

 百瀬の手渡すカップを受け取りながら、涼やかに微笑んでそう言っていたのは、誰だったか。
 こんなの、困る。また、自惚れてしまいそうで。
 ぶんぶんと振り払うように頭を動かすと、まわりの様子が視界に入った。早朝のためか、人の姿は少ない。そろりと足を踏み入れてみる。入ってすぐの壁に、入居企業の一覧を掲げるテナント案内板があった。じっと見上げ、目を凝らして探す。
……あった」
 千斗の会社――C&Fエンパワメントは、高層階の二層を専有フロアとしていた。他のテナントの社名を眺めるに、このビルには、医療系の企業が多く入居しているようだった。創薬探究、医療機器開発、ラボラトリー。同じ建物内にシェアラボがあって、ちょっとした実験や他社の研究者との交流の場として重宝している、と千斗に聞いたことがあった。
 金属の案内板に刻まれた企業名のロゴを、しばしのあいだ見つめる。ケーキとフォークの力となるために、千斗が興した会社。
 エンパワメントという言葉の意味を調べた。社会福祉において、当人の意思決定に基づいて生きるための力を付与するという概念。自立した人間としての尊厳を重んじる考え方だ。
 とても千斗らしい、と思った。ただ救いの手を差し伸べるのではなく、掴んで、引っぱりあげて、ともに並び未来を見つける。ケーキとフォークに、すべての人に、力を与えてくれる。
 百瀬に、力を与えてくれる。
 受け取った力で、きちんと立って、歩いていく。その気持ちを強くするために、ここに立ち寄った。
 案内板に向かってぺこりと一礼し、踵をかえす。まずは今日、やるべきこと。IR=NABを知っているという相手との対面に向かうため、歩き出した。


 待ち合わせのコーヒーショップは、百瀬の勤めるコンビニから三区画ほどを隔てて、大きな通りに面した雑居ビルにある。小さな外階段を下りて入店する半地下の店舗で、外向きのカウンター席に座ると、道行く人の膝から下しか見えない。ぼんやりと窓の外を眺めていても、うっかり目が合うことがない、見られることもないのがなんとなく気に入って、バイト帰りに時おり立ち寄っていた店だ。
 スマートフォンを取り出して、ブラウザからゲームの公式コミューンにアクセスし、コミュニティボードを開く。新規書き込みがあった。相手はすでに到着し、店内にいるとのことだった。着席した場所と、服装などの特徴を教えてくれている。
 ひとつ深呼吸をして、店の中へと入った。

 店内を見渡していると、待ち合わせの相手らしき人物が片手を上げてくれた。確認し、挨拶を交わしたのち、互いに自己紹介をする。
「初めまして。突然のお呼び立て、失礼しました」
 口火を切ったのは、サブマスターを名乗る人物だった。見たところ二十代後半、三十手前といったところか。短く刈り込んだ髪に、縁なしの丸い眼鏡が柔和な雰囲気を醸し出している。フリーランスでシステムエンジニアの仕事をしています、おかげでゲームをしていてもシステムの方に興味が向いてしまって、と言って笑った。社会人らしい、こなれた挨拶だった。
 次いで、その横に座る人物が、軽く首を曲げるような会釈をした。こちらはもう少し若そうに見える。分厚いレンズの眼鏡をかけて、真っ黒な前髪が少し重たげだった。学生で、サブマスターとはデュオマッチで組む弟分みたいな感じです、と言葉少なに語ったのに対して、サブマスターが、アバターはFタイプだから妹分かも、と茶々を入れる。ゲーム仲間同士の定番のやりとり、といった空気があった。
 ふたりが話し終えるのを待って、百瀬も口を開く。
「はじめまして、Momoです。バイトしつつ大学生やってます。普段は野良でソロか、デュオマッチがメインで、あと、たまに動画を上げたりしています」
 バイトしつつ大学生か、大学生しつつバイトか。どっちにしても中途半端だな、と少しばかり気恥ずかしく思いつつ、そんな風に自己紹介をした。サブマスターがうんうんと頷く。
「Momoさんの動画、見たことあります。お散歩シリーズのフィールド解説、とても参考になりましたよ」
 横で弟分の彼も頷いて、喋りが聞き取りやすくていいすよね、とぼそっと言った。思いがけない褒め言葉に恐縮する。
「デュオはYukiさんって方とですよね。超スピードでランクを駆け上がったって、身内でも話題になってました。どこか別ゲーから移住してきた人なんですか?」
 これまた予想もしなかった話題だった。Yukiの名を言われた瞬間、心臓が跳ねる。つっかえつっかえ、答えた。
「あの、いえ、そういう、あれじゃないと思います。他のゲームはあまりやったことないみたいで」
「ゲーム自体が初心者ってことですか? いやすごいですね。やっぱりMomoさんの教え方が上手いから」
「そんな、オレなんて何も……Yukiさん、勘がいいし、めちゃくちゃ努力家なんです」
「ああ、教え上手と努力家で、いい組み合わせなんでしょうね。うちの妹、じゃなくて弟分にも見習わせたいな」
「それはこっちの台詞だっつの。教え方見習えば?」
 にこやかなサブマスターと無愛想な弟分のやりとりの気安さが、なんとも良い雰囲気だった。自分たちとは違った距離感の相棒らしさがある。
……と、脱線してすみません。今日は、突然の提案だったのに、来てくれてありがとう」
 ぶつぶつと絡む弟分をいなして、サブマスターがこちらに向き直る。
「こちらこそ、ありがとうございます。手がかりが何もなくて、困っていたところでした。あの、IR……アイアール、さん」
「IR=NAB、イル=ナブさんですね。イルさんと呼んでいました」
「イルさんと直接お話をして、確かめたいことがあって、探していたんです」
 サブマスターは鷹揚に頷いた。
「コミュボードでもそういう話をされていましたね。あちらにも書き込んだとおり、自分はイルさんのゲーム外の連絡先は知らないんですが、ご紹介する古参メンバーはほぼ確実に知っていると思います。学生時代からの友人だそうなので」
「そうなんですね! 繋いでいただいて、ほんと助かります……でも、今さらですけれど、お時間も取らせて、ここまでしていただいちゃって、申し訳ないというか……
 なぜ、ここまでしてくれるのか。言外に若干の疑問を含ませてそう言うと、相手は気遣うような笑みを浮かべた。
「お気になさらず。事情があるのでしょう。同じ苦労を背負う者として、少しでも役に立ちたい。それが、イルさんと同じ、自分の気持ちです」
 同じ苦労を背負う者、と言われてしまった。やはりケーキと目されているのだろう。肯定も否定もできず、ともあれ、繰り返し礼を言うのみだった。
「彼、地方在住なんですが、今日はたまたま出張で上京していて、タイミングが良かったです。商談で都内を何ヶ所か回るとのことで、合い間に連絡をくれる手筈になっています。とりあえず、待ちですね」
 サブマスターはそう言って、よいしょと立ち上がった。
「実は朝食がまだでして、ちょっと食べるものを買ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
 サブマスター氏がカウンターへと向かい、残されたふたりに沈黙が下りた。斜め向かいに座った弟分は、コーヒーに砂糖を入れ、黙ったままかき混ぜている。あまりコミュニケーションに積極的なタイプではなさそうだ。カップを持ち上げて、口をつけ、顔をしかめて舌打ちをする。
「ど、どうかしましたか?」
「いや、思ったより苦味が強くて。追加の砂糖、貰ってきます」
 ぼそぼそとそう言って席を立った。入れ替わりでサブマスターが戻って来る。トレイの上には、ふんわりとクリームのたゆたう焦茶色のラテと、薄い層が幾重にもなったケーキの皿があった。テーブルに置かれたそれになんとなく目をやると、彼は照れ笑いを浮かべた。
「ほうじ茶ラテと、ミルクレープです。甘党でして。朝からどうかとは思うんですが」
「朝に甘いもの、元気が出ていいですよね。オレも何か食べようかな」
 あたりさわりなく言いながらも、気がついていた。これは、シグナルだ。
 苦味が強い。
 甘いものが好き。
 味を知っている、味がわかるということを、伝えてきている。
……買ってきますね」
 定番のホットドックを注文し、席に戻る。このマスタードの粒々が効いていて、レタス入りも食感の違いが好きで、などと言いながらかぶりついた。
 食べることに、味を語ることに、別の意味がある。試し、試される場。
 サブマスターは、銀のフォークを手に持ち、ミルクレープをひとくちぶんずつ端から丁寧に切り取って食べている。口に運ぶたび、実にしあわせそうに、陶然とした顔になるのが微笑ましい。ほんとうに大好物なんだな、と思う。
「ちゃんと歯ごたえがあるのに、ふんわりと嚙みきれる、それでいてもっちりとしているのがすごく好みで。咀嚼していると口のなかに甘みが押し寄せて来る感じがね、いいんですよ。ここのコーヒーチェーンのミルクレープが大好きで、来るたびに食べちゃうんです」
 ちょっとした食レポみたいになっているのが面白かった。百瀬は笑って、オレも今度食べてみます、と応えた。


「このあとの予定ですが、コミュボードでお話したとおり、連絡を待ちつつ予約した店に移動しようと思います」
 サブマスターの言葉に、百瀬は頷いた。ケーキが集っての話し合いとなる。周囲を気にせずに落ち着いて長時間を過ごせる場所がいいだろう、ということで、近くのeスポーツカフェのグループブースを予約し、そこで話をすることになっている。都内ではわりと名の通った店で、今回の利用目的は違うところにあるとはいえ、行けるのは楽しみだ。
「移動前に合流できたらいいんですが、たぶん難しいかなと。昼近くか、ひょっとしたら午後になるかもしれないと言っていたので。一応予約は長めに取ってます。……とか言っているあいだに連絡が来ていたりして」
 そう言ってスマートフォンを取り出し、画面に触れて、眉根を寄せる。
「あれ、圏外になってる。さっきは繋がっていたんだけど。半地下だから安定しないのかな」
「え、そうですか? オレは普段、この店を使っていて、気になったことはなかったですけど。席の位置によるとか?」
「そうか、そうかも。困ったな。それともキャリア側の問題かな」
「キャリア、どこですか?」
 聞きながらデイパックのポケットに手を伸ばし、スマートフォンを取り出す。取り出してから、あ、と思った。いつものスマホではなく、GPS送信機能つきの貸与端末だということを失念していた。
 これの回線は、GPSシステムが依拠する衛星通信と、大手キャリアとの二段構えとなっている。衛星システムによるGPS信号は、地下などでは届きにくい。また、高層ビルが林立する都市部では、遮断や反射によっても届きにくくなるため、携帯電話の基地局を経由しているのがGPSシステムの常だ。
 通常、通信モードは大手キャリアになっている。画面を確認して、キャリア名を告げ、こっちは電波が来ていますね、とだけ伝えた。そのまま、さりげなくパーカーのポケットに滑り込ませる。
「じゃあ、通信会社の障害かな。お前は?」
「俺はモバイルWi-Fi持ち歩いてるし」
「なんだ、じゃあちょっと便乗させてくれよ」
 サブマスターは、百瀬の動きを特に気にした様子はなかった。弟分のモバイルWi-Fiを借りて、自分のスマホと交互に見ては操作している。ネットワーク設定を入れているらしい。
「よし、繋がった。お騒がせしました。連絡はまだ来ていなかったけれど、トラブルが怖いし、少し早めに移動しようか」


 eスポーツカフェは期待を上回る楽しさだった。ハイスペックのゲーミングPCに快適な高速回線、取り揃えられた最新のデバイスと座り心地抜群のゲーミングチェア。ドリンクバーつきでフードの提供もあり、甘いものや軽い食事を取ることが可能だ。店内はオープン席が全体の八割を占めているが、予約したグループブースは半透明のパーテーションで仕切られており、開放感を保ちつつほどよくプライバシーが守られて、とても居心地が良かった。
 話したり、一緒にゲームをプレイするうち、連れのふたりがかなりゲームをやり込んでいることがわかった。同じゲームのプレイヤーで、ケーキ。仲間意識というわけではないけれど、こういう人がゲームのなかに、街に、溶け込んでいるということに、感じ入るものがあった。ケーキも、フォークも、普通に暮らし、遊び、日々を過ごしているのだと、今さらながらに実感する。
 eスポーツカフェのフリープレイを利用して、百瀬と千斗が普段遊んでいるゲーム以外にも、さまざまなオンラインゲームの試遊をした。これなら千斗と一緒にできるかも、これは千斗が面白がりそうかも、などと無意識に選り分けてしまい、心のなかでひっそりと苦笑する。
『またふたりで遊びたい。僕はモモと、ずっと遊び続けたいんだ』
 真っ直ぐに向けてくれた、千斗の言葉。いとしく思った言葉。
 願うところは同じ。似た者同士だった。


 三人でプレイしたり、ソロでプレイしたり、時に休憩を挟みつつ、ずっとゲームに興じて時間を過ごした。サブマスターは合い間に何度もスマートフォンを取り出しては連絡の有無を確かめている。やがて、フロントの店員と何やら話し込んだあと、戻ってきて困ったように言った。
「利用時間の延長を申し込もうと思ったんですが、後に別の予約が入っていて、グループブースもオープンブースもいっぱいだそうです。例の古参メンバーからは、何度か現状の報告は来ているんですが、もう少し時間がかかりそうとのことで。長いことお待たせしてしまってすみません」
 店内の時計を見る。フードカウンターの軽食で昼を済ませて、今はもう午後、気がつけばそれなりの時刻だ。夕方に向けて混雑する時間帯なのだろう。
「どこか落ち着いて話ができる場所を確保したいと思うんですが……別のネットカフェを探して移動するか、話だけならカラオケとかでも良いですかね?」
 聞かれてしばし考える。ゲームをやりこんでいるプレイヤーか否か。百瀬にとっては、食べることよりも、こちらのほうが試金石だ。
「オレとしては、ゲームをしながら待てるから、ネットカフェのほうが嬉しいです」
「わかりました。探してみます」
 サブマスターはスマートフォンの地図アプリを起動した。テキスト入力で検索し、画面を示す。
「近いところで、こちらの店でどうでしょう。四、五人まで入れる個室もあるようです」
 端末を覗き込む。表示されているのは、あまり聞いたことのない店名だった。チェーンではない独立店舗のネットカフェらしい。位置的にはごく近く、土地勘のあるエリア内だ。頷くと、サブマスターはブースの外に出て予約の電話をかけ始めた。
「三人ですが、あとからひとり合流する予定です。はい、はい、そうですね、個室で、ハイスペックPCのある席が希望なんですが――
……Momoさん。ちょっと、いいっすか」
 電話の会話を聞くともなしに聞いていたところに、背後から声をかけられ、びくりとして振り返る。いつからか、背後に弟分が立っていた。
「えっと、なんですか?」
 なんとはなし身構えながら聞き返すと、顎でブース内を示された。
「このマップを引いたときの制圧パターンについて、意見が聞きたいんすけど」
 なんだ、と拍子抜けする。モニタに映っていたのは攻略サイトのマップ画像で、若干出現頻度の低い、いわゆるレアステージだった。
「これ、見た目で惑わされやすいんですけれど、基本は以前配信された期間限定ステージのテクスチャを貼り換えただけなので、既存の戦法でほぼそのまま行けます。ただ、マップパターンが複数あって」
 弟分は興味深げに頷きながら聞いている。攻略サイトの情報と照らし合わせながら、マップの判別方法を説明した。パーテーションの向こう側では、こちらに背を向けて、サブマスターがまだ電話をしている。長いな、と、ちらりと思った。あちらの店も混雑しているのだろうか。
 マップ解説をひととおり語り終えたあたりで、サブマスターが戻ってきた。
「予約が取れました。あと、古参メンバーからも連絡がありまして、こちらへ向かっているそうなので、店の場所を伝えておきました。同じくらいのタイミングで到着すると思います」
「ありがとうございます!」
 朗報だった。eスポーツカフェは楽しかったけれど、ようやっと当初の目的が果たせると思うと、ほっとする。さすがに一日仕事になるとは思わなかった。
 ゲームからログアウトし、荷物をまとめる。割り勘で会計を済ませ、三人揃って店を出た。

 サブマスターを先頭に、ゲームの話をしながら、昼下がりの歓楽街をだらだらと抜けていく。歩くことほんの五分か、十分か。サブマスターが立ち止まった。
「ここですね。フロントは地下のようです」
 ごく地味な雑居ビルだった。三角コーンを支えにして、インターネット&コミックカフェという看板が立てかけられている。
 建物のなかに入ると、ぽっかりと空いた穴のような急な階段の降り口があった。なんとなく無言で、三人おりていく。重たそうなガラスの扉を押し開けると、目の前がフロントになっていた。店内の光量は控えめだが、フロントまわりはルームパネルや料金表示板などの光があり、意外と明るい。
 フロントには若い男性の店員がいて、サブマスターが予約の名を告げると、すぐに部屋番号を伝えてくれた。それと、ラミネート加工されたメニューを取り出して、何やら話している。サブマスターが振り返った。
「ルームチャージにサービスドリンクが付くそうです。おすすめドリンクでいいですか?」
 指し示されたメニューを見る。カラフルなドリンクのうえに、週替わりおすすめ、と書かれていた。どれも似たような炭酸飲料で、これを飲むならももりんがいいな、と思ったけれど、口にすることはせず、おまかせしますとだけ答えた。サブマスターは頷いて、店員に今週のおすすめのやつで、と言った。
「部屋はもう一階下になるようです。そっちの階段から降りられるって」
「あ、はい」
 指差された方を振り返る。奥まった場所に、入ってきたものとは別の内階段があった。三人揃って回れ右をすることになり、自然、百瀬が先頭となる。背後を気にしつつ、階段を降りきって数歩。サブマスターが百瀬の前に出て、ドアのひとつを示した。
「ルームナンバー……ここだ」
 どっしりとした防音のドアだった。パスワードを設定して入室するテンキーロックが付いている。開錠し、サブマスター、百瀬、弟分の順番で部屋に入った。
 細長い、長方形の部屋だ。黒いフラットシートに靴を脱いで上がる。壁に寄せてロータイプのロングデスクが置かれ、机上にはPCとモニタがそれぞれ二台ずつ鎮座していた。カラオケもできるらしく、PCの奥にマイクを備えた機器とリモコンが置かれている。反対側の壁にはハイバックの黒い座椅子が立てかけてあり、クッションが三つほど転がっていた。
 座椅子を勧められて、恐縮しつつ腰を下ろす。あとのふたりはクッションを抱いたり、腰に当てたりして、くつろげるポジションを探している。と、ノックの音がして、店員がドリンクを運んできた。
「おすすめドリンクになります。今週はブルーレモネードです」
 茶色い髪をサイドで括った店員の青年が、ロングデスクの上にグラスを三つ置いた。鮮やかな青色の炭酸水に、レモンの輪切りがちょこんと載っている。
「とりあえず、乾杯でもしますか」
 サブマスターにそう言われ、グラスのひとつを手に取った。軽くグラスをぶつけあって、他のふたりが口をつけるのを確認し、百瀬も飲んだ。甘みの強い炭酸に、レモンが爽やかさを添えていて、意外な美味しさがある。繁華街を歩き、喉が渇いていたところだ。鼻にぶつかるレモンを除け、ぐっとグラスを傾けて飲んだ。
 幾度めかに喉を通りすぎたとき、飲み初めには無かったわずかな熱っぽさを感じ、あれ、と思った。
「これ、お酒ですか?」
「ええ? そうかな。特に書いていなかったと思うけれど」
 サブマスターがグラスの縁に口をつけて舐める。上目づかいで百瀬を見て、にこやかな笑みを浮かべた。
「大丈夫ですよ。アルコールじゃなくて、エフメトリン製剤との飲み合わせによる反応ですから」
「え……?」
 常用しているフェロモン抑制薬の名を言われて、混乱する。聞き返そうとしたが、口がうまく開かなかった。目の前がぐにゃりと曲がる。突然の、強烈な眩暈。額の奥に微かな疼痛があった。それを凌駕して、途方もない倦怠感が全身へと広がっていく。
 揺れ動く視界の中、サブマスターは相変わらず柔らかく笑っていた。その笑顔が、次第に、ぬめりを帯びたものへと塗り替わる。
 まさか、と思った。思いつつも、ほぼ確信し、動かすのも難しい手をパーカーのポケットにあてる。緊急時を考慮された発信機能の付いたスマホだ。画面を見て操作せずとも、ポケットのうえから小さなスイッチを押すだけでいい。高層ビルに囲まれた繁華街の、しかも地下二階。衛星通信はほぼ届かないだろう。けれどキャリア通信なら、店内でも通じる可能性はある。おぼつかない手でポケットを探っていると、弟分がすいと手を伸ばし、スマホを取り出して、画面をこちらに向けた。
 圏外だ。
「あー、残念。このキャリアの電波は通らないんだよね、ここの店。GPSジャマーもあるんで、どっちにしろ無理ゲ」
 もう一方の手に、モバイルWi-Fiと称していた機械を持ち、これ見よがしに振った。醒めた口調は変わらぬままに、声に酷薄そうな色が乗る。
 瞼が重い。頭がぐらぐらする。けれどここで目を閉じ、意識を手放したら、どうなるか。考えたくもなかった。
 何でもいい、何か喋ろうとして、やはり口は動かない。唇が小さく震える。
 怒りや悔しさ、恐れにも増して、ひたすらに悲しかった。半日をともに過ごして、同じゲームを楽しんでプレイしている仲間だという確信を得ていた。別にゲーマーみな性善説を信じているわけではない。けれど、同じものを好み、楽しみ、愛していても、人としての本性には何ら関わることはないのだということが、現実として突きつけられた気がした。
 ケーキと同じように、フォークも、それぞれの思惑を持って存在し生きている。そのことを実感として持ててはいなかった己の視野の狭さとともに。
 百瀬の抱いている感情とは対極の、うきうきとした話し声が耳に遠く響く。
「警戒心が強かったし、ゲーマーってやつはだいたいガジェットを持ちたがるからな。GPS対策しといて正解だった。しかし店に入ってきた瞬間にわかるくらい香りが強くてヤバかったよ。既食者には一発だろ。こんな状態で表を歩いていて、良く今まで五体満足でいられたもんだ」
「ああ。それでミルクレープっすか」
「そうそう。紛らわせるためにね。あれだけは、ほんのりと食感と味を思い出せるんだよ。どことなく似てるから」
 気配が近づくのを感じ、必死に瞼を持ち上げた。息が吹きかかるほど近い距離に、サブマスターの顔がある。百瀬と目を合わせると、頬を震わせて笑顔を作った。
 第一印象と変わらない、柔和な顔。やさしげな表情。なのに、そこに浮かぶ意味は、まるで違っている。
 獲物を見下ろす、我意に満ちた捕食者の顔。
「どっしりとした歯ごたえで、ふんわり、もっちり。皮膚と、脂肪と、肉。甘みが幾重にも層になって押し寄せる、ケーキの味と、ね」