mishiadd
2024-07-23 00:00:50
15876文字
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宮本伊織の「薔薇」トリロジー:薔薇を背負う

湊の夜、背中に斬り傷を刻まれ烙印を押されてしまった伊織くんと「誰にも見せてはいけない」と教えた師匠、兄の背中を誰にも見せないために手を尽くし続けてきたカヤちゃん、儀の最中に伊織殿の秘密を知るセイバー。【!】アレルギー表記:彌伊、モブ伊(未遂)
※『宮本伊織の「薔薇」トリロジー』は完全な言い掛かりで伊織くんの幼少期トラウマを捏造するシリーズです


六、「薔薇を背負う」



長屋に戻るとカヤが待っていた。「今日は特に何もなかった、もう遅いから小笠原の屋敷に帰りなさい」と伊織が告げると、一瞬なにか言いたげな顔をしたが義兄の言葉に従う。「何かがあった」ことと、「今は自分がいるべきではない」ことを両方察してのことだった。――つくづく、よくできた義妹だとセイバーは思う。

カヤが用意してくれていた夕餉を食し、膳を片付ける。
その後、カヤが中身を詰めておいてくれた薬箱を取り出し――伊織が、セイバーに声をかけた。

「さっき、俺は脇腹を打ったろう。……薬を塗るのを、手伝ってくれないか」

無論、それが本当の目的でないことは、セイバーにもわかっていた。

――ああ」

頷き、伊織から軟膏の小さな壺とさらしを受け取る。外はすっかり暗くなっていた。伊織が、畳の上に置かれた行燈に火を入れる。ぽう、と橙色をした灯りがともる。
その、揺らめく灯りに照らされた伊織の端正な横顔に濃い陰影が浮かび上がる。セイバーの見る限りでは、なんの感情も読み取れなかった。

セイバーと向かい合って畳の上に伊織が腰を下ろす。着物の合わせ目に手を掛ける。鮮やかな青緑色の着物が伊織の肩をするりと滑り落ちる。やがて、伊織の大きな手が襦袢の合わせ目にかかる。
その様子を眺めていたセイバーが、「イオリ」と声をかけた。襦袢に手を掛けたまま、伊織がセイバーを見る。

……無理は、しなくていい。見せたくないものは見せなくていいし、話したくないことは話さなくていい」
「いいんだ」

行燈の橙色の灯りが揺らめく。伊織がうっすらと、密やかに微笑んだように見えた。

「おまえになら、いいよ。セイバーになら、見せてもいい」

しゅる、と衣擦れの音がして、伊織の肩から襦袢がすべり落ちる。日に焼けていない白い肌が、橙色の灯りを受けてほんのりと暗がりに浮かび上がる。
伊織の左側の脇腹に、痣ができているのをセイバーが見つける。確かめるように、セイバーが伊織の顔を見る。伊織が頷く。
セイバーが壺から軟膏をすくい取り、伊織の脇腹に塗る。ふふ、と伊織が小さく笑い声をあげる。なんだ、とセイバーがべとべとの指先を真剣に見つめながら問う。

「くすぐったい」
「あのなあ、私は生前だって誰かに軟膏なぞ塗ってやったことはないぞ。……だから、多少下手でも我慢しろよ」
「わかったわかった」

とても均等にとは言えないまでもなんとか塗布し終わったセイバーが、「よし」とひと仕事やり切ったように息をつく。すると、「うん」と頷いた伊織が、おもむろに告げた。

「では――悪いが、背中にも、塗ってくれるか?」

セイバーはもう伊織に尋ねることはしなかった。ただ、「ああ」とだけ短く頷いた。
それを見て、伊織がほっとしたような顔をしたあと、気おくれしたように眉尻を下げる。ゆっくりと――時間をかけて、伊織はセイバーに背を向けた。あるいは、それは伊織が彼に背を向けるのをただ見つめていたセイバーが、その時間を永劫のように感じただけだったのかもしれなかった。

――初めて見る、伊織の背中。行燈の柔らかい灯りが、ちらちらと白い肌の上で揺らめいている。

「イオリ。――塗るよ」

うん、と伊織が頷く。
軟膏を指先に取り、セイバーが伊織の背中の腰のあたりに指先を滑らせる。また軟膏を壺からすくい、塗る。塗り広げる。
ぴちゃぴちゃと軟膏の立てる音とちりちりと火の灯る音だけが響く静寂の中、やがて「セイバー」と伊織が名を呼んだ。

「どうした? イオリ」
――何が、描いてある?」

セイバーが手を止める。密やかな、囁くような声で、伊織が繰り返した。

「何が、描いてあるんだ? ――俺の、背中」

セイバーが伊織の背中を見つめる。指先を滑らせる。
深く深く刻まれた、引き攣れた古い傷痕。斬られた箇所から周辺に向かって、赤黒く染みついた古い血痕のような色素。
そのひとつひとつをセイバーが指先でなぞる。やがて、言った。

「薔薇だよ」
……バラ?」
「うん。薔薇が描いてある。――綺麗な、大輪の深紅の薔薇だ」

「セイバー」と伊織が苦笑する。そんな筈はなかった。あの豊臣勢崩れの山賊にそんな教養があるとは思えなかった。
この背中を見た瞬間に、日中のごろつきたちも伊織がかつてどんな目にあったのかを察した。であれば、そういった類のものが刻まれているに決まっている。
他の何であったとしても、薔薇などという綺麗なものでは決してない。

「本当のことを言ってくれ。――おまえにしか訊けないし、俺も初めて誰かに訊くんだよ」

伊織の言葉には答えず、セイバーが上半身を屈める。そっと、伊織の背中に口づけた。塗ったばかりの軟膏の味がした。

「薔薇だよ。
誰も、きみに傷をつけることなんてできなかったんだ。だって、この傷は綺麗だ。私には綺麗に見える。――これは、きみがあの夜を耐えて生き抜いたという証左だ。きみが、今日も生きているという証左だ。
きみの体に、きみ以外が刻み込んだ傷なんてどこにもない。――これは、きみが頑張った傷。私が誇りに思う傷だ」

伊織が息を呑む。それから、穏やかな声で言った。

――おまえが俺にそう言うのなら、それが『本当』でいいよ」

うん、とセイバーが頷く。もう一度だけ伊織の背中を指先で撫でてから、さらしを充てた。
するすると、さらしの端を伊織に渡し、腹側を通して背中側のセイバーに渡し、ふたりで協力してさらしを巻きつけた。最後に伊織が腹側で留め、襦袢を羽織る。

……セイバー」と、背を向けたまま伊織が呼んだ。「うん?」とセイバーが優しい声でいらえを返す。

「いや。なんでもない。――ただ」
「うん」
「おまえに訊いて、よかった」

さ、寝ようか、と伊織が立ち上がる。

伊織が几帳面に布団を敷くのを横目で見ながら――今夜はきっと、自分も、伊織も、あの夢を見ないのではないかとセイバーは思った。



願わくば、この子に穏やかで楽しい夢を、と、祈った。