mishiadd
2024-07-23 00:00:50
15876文字
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宮本伊織の「薔薇」トリロジー:薔薇を背負う

湊の夜、背中に斬り傷を刻まれ烙印を押されてしまった伊織くんと「誰にも見せてはいけない」と教えた師匠、兄の背中を誰にも見せないために手を尽くし続けてきたカヤちゃん、儀の最中に伊織殿の秘密を知るセイバー。【!】アレルギー表記:彌伊、モブ伊(未遂)
※『宮本伊織の「薔薇」トリロジー』は完全な言い掛かりで伊織くんの幼少期トラウマを捏造するシリーズです


四、「はじめて」



殊更にそう気を付けていたわけではない。ただ、セイバーは伊織の素肌を目にするような状況からはそれとなく身を遠ざけていた。
共に滝行をしたときは行衣を着たし、普段彼が着替えるそぶりを見せれば用事があるていを装って長屋の外へ出るなどした。

伊織本人が気にしているのかどうかを確かめたわけではない。ただ、そうすることが人として――友人として自然なことだと、セイバー自身がそう思っただけだ。



伊織が「湯浴みをする」というので、セイバーはただ「そうか」と頷いた。それから、「では、私は少し出掛けていようか」と提案する。セイバーとしてはごく自然な発想のつもりだった。
ところがそれは伊織にとっては少し意外だったようで、「? なぜ? なんのために?」と問われてしまった。――セイバーが面食らう。

「きみ、だって。……なぜって」
「ああ、俺が長屋で湯を使っている間、おまえは風呂屋で大きな湯舟に浸かりたいということか? すまんが俺は一緒に風呂屋には行けないから――そうだな、銭を渡しておこうか」
「いや、そういうわけではない」

咄嗟にそう答えてから、「しまった」とセイバーは思う。伊織はなぜセイバーがこんなことを言い出しているのか知らないのだ。伊織は、セイバーが知っていることを知らない。であれば、方便のひとつでも使える道を残しておくべきだった。
セイバーの正直な答えを受けて伊織が首を傾げる。「? なら」と不思議そうに言った。

「別におまえが無理して出掛けることはない。そのへんに居てくれて構わないし――俺はそこの隅で体を拭いているから、気にするな」
「私は、構わないが――

ちら、とセイバーが気遣わしげに伊織を見る。

「きみは、気にしないのか」
「なにをだ?」
――いや、その」

なんと言うべきか、どこまで言うべきか、そもそも何かを言うべきなのか逡巡していると、「ああ」と伊織がふと思い至ったように言った。

「もしかして、聞いていたのか。カヤが俺に言うのを」
「! ――あ、ああ」

渡りに船とばかりにセイバーが頷く。

「きみは、『見せてはいけない』のだろう。――私には理由はさっぱりわからないが、カヤがそう言うのならきっとそうなのだろう。
であれば、きみは従うべきだし、私もきみがカヤの言いつけを守ることに協力しよう」
「あれは気にするな。――カヤは少し、気にし過ぎなんだ。おまえまで付き合うことはないよ」
「イオリ」

こともなげに言う伊織に、セイバーが咎めるような声を出す。伊織がセイバーを見て肩を竦めた。

「カヤは少し――過保護なところがあるから。当の俺よりも余程気にしている。
深刻に考えすぎだよ。そりゃあ――仮にも剣士の端くれを名乗ろうというのに、背中に斬り傷があるなんて到底自慢できるものではないが――
「イオリ」
「この寒空の中、おまえを外に追い出さなきゃならないほどの大事ではないよ。たかが背中の傷なんて」
――イオリ」

ぽつり、と呟くように名を呼んだセイバーに、伊織がいたずらっぽく微笑んだ。

「おまえがカヤの顔を立ててくれようとするのはありがたいよ。かたじけない。――カヤには黙っておくから、おまえは気にしないでいい」

「そうではないのだ」と言ったところで、それ以上セイバーが伊織に何を言えるわけでもない。言えるわけがない。セイバーが、あの夜伊織が一体何をされたのかを知っているだなんて。

セイバーが口を噤んでいるのを是と受け取ったのか、伊織が竈で湯を沸かし始める。手拭いで体を拭いて清められるだけの湯を沸かして、小さな風呂桶に移し替えた。それを土間の隅に運び、板床の縁に腰かけた。どうやらそこが湯浴みをするときの定位置であるようだった。

セイバーが畳の縁に腰かける。なんとなく――なるべく「なんとなく」に見えるように努めて、セイバーが伊織から目を逸らす。

手拭いを風呂桶に浸し、伊織が青緑色の着物に手を掛ける。するりと肩を滑り落ちる衣擦れの音がする。それから、襦袢に手を掛け――伊織の手が止まる。「……あ、」とぽつりと声を漏らした。

セイバーが、火の消えた炊事場を眺めている。長い、長い沈黙のあと、絞り出すようなか細い声が聞こえた。

「セイバー。……すまん」

セイバーは目を逸らしたままだ。伊織の方を見ないまま、「……どうした?」と平静を装って問うた。

「思えば――家族以外に、この体を見られるのは初めてだったんだ。だから、今まで真剣に考えたこともなかった。――こうして、今、おまえに見られることを考えて――想像したら」

しゅる、と衣擦れの音がする。伊織が、脱ぎかけた襦袢の前を合わせる音だった。そのまま、まるで凍えるように伊織が前をきつく合わせたまま、身を縮こませる。

――やっぱり、だめだった。自分で思っていたよりも、俺はずっと弱かったようだ。
俺は――おまえに、見せられない。おまえに――知ってほしくないんだと、思う。俺は――おまえに、知られたく、ないのだと――思う」
……
「本当に、さっきのさっきまで平気だと思っていたんだ。――でも、違った。
声が、出てこないんだ。おまえに、なんでもないつもりで昔話をしようとして――さっきから、ずっと言えないでいる。おまえに言うのが怖い。おまえに知られるのが怖い。知ったおまえの顔を見るのが怖い。――これを、誰かに知られるのが、怖い」
「イオリ」
「初めて知った。――俺は、平気ではなかったんだな。なんだ、ずっとカヤが正しかったのか」
「イオリ。――いいんだ」

セイバーが立ち上がる。伊織を見ないまま、ひどく優しい声で言った。

「いいんだ。――大丈夫だよ。大丈夫だから」

「すまん」と伊織が繰り返す。「いいんだよ、イオリ」と宥めるような声音で言い、セイバーが長屋を出ていく。からからと後ろ手で引き戸を閉め、月を見上げる。