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mishiadd
2024-07-23 00:00:50
15876文字
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宮本伊織の「薔薇」トリロジー:薔薇を背負う
湊の夜、背中に斬り傷を刻まれ烙印を押されてしまった伊織くんと「誰にも見せてはいけない」と教えた師匠、兄の背中を誰にも見せないために手を尽くし続けてきたカヤちゃん、儀の最中に伊織殿の秘密を知るセイバー。【!】アレルギー表記:彌伊、モブ伊(未遂)
※『宮本伊織の「薔薇」トリロジー』は完全な言い掛かりで伊織くんの幼少期トラウマを捏造するシリーズです
1
2
3
4
5
一、「最初の教え」
伊織が養父である師匠に一番最初に教わったのは、剣術ではなかった。
大きめの風呂桶に湯を張って、幼い伊織を風呂に入れてくれた。
着流した着物の裾をまくり上げ、片方の肩をはだけて大汗をかきながら湯を沸かし、伊織の泥だらけの着物を洗濯桶の中に突っ込んで伊織自身のことは風呂桶に放り入れる。頭まですっかりお湯に沈んだ後ぶくぶくと頭を出した伊織は、やがて冷え切っていた体にじんわりと熱が巡るのを感じた。あてもなく海辺を歩き回っていたところを通りかかった師匠に拾われたのは今日の昼のことだった。急にぽかぽかと気持ちがよくなってすっかり眠くなり、瞼が重たくなってしまう。
桶の縁に顎をつき、そのままうとうとしていると養父に「こら、溺れるぞ」と叱られる。慌てて顔をあげたが、なかなか睡魔に勝てないでいる。
風呂桶から引っ張り上げられ、手拭いでごしごしと体を擦られた。腕を擦り、腹を擦り、くるりと背を向けさせられ
――
養父の手が止まった。
「
……
?」
まだ、この命の恩人をなんと呼んでいいかも定まっていない伊織が、不安げに振り返ろうとする。それを養父が制した。
伊織自身には見ることのできない、伊織の背中側の腰のあたりを、じっと見下ろしている。やがて、そっと手拭いを当てる。ちり、とした痛みを感じ、思わず伊織が身を捩る。
「伊織」
養父の声が沈んでいることを感じ取れる程度には、伊織の精神は育っていた。
「約束しなさい。
――
背中を
、
誰にも見せてはいけない
。よいな。この教えを必ず守りなさい」
「?
……
はい」
その教えは伊織に刻み込まれた。
やがて養父から教わった剣術や善く生きるための
五輪
おしえ
が伊織に深く刻まれると共に、それらすべてを伊織は律儀に継承し、従い、遵守しようとした。
剣術や
五輪
おしえ
についてはその意義や利点を理解し、納得ずくの上で実践していたものの
――
養父から課されたもっとも古い
教え
については、その意味を理解するまでに少しだけ時間がかかってしまった。
なにしろ伊織自身は一体自分の背中に何があるのか、決して目にすることはできないのだ。
やがて養父がこの世を去り、伊織の背中の秘密を直接目にしたことがある者はこの世にたったひとりきりとなった。
その者は、養父に代わり
――
養父に言われるまでもなく
――
義兄の背中を
誰の目にも触れさせない
ことをこそ自分自身の絶対の使命とした。寝ることを忘れ、食べることを忘れて剣の稽古に夢中になってしまう義兄の世話を焼きながら
――
その背中が誰にも暴かれることのないよう、細心の注意を払って、義兄を取り巻く環境を警戒し続けていた。
二、「義妹」
カヤはとてもよくできた義妹であった。
おっとりしていてお人好しで浮世離れしているが優しい、血のつながらない義兄のことを昔から大切に思っていた。小笠原家の養女となり苗字が異なってしまってからも、義兄の様子を頻繁に見に来てはなにくれとなく面倒を見ていた。傍から見ればもはやどちらが兄姉かわかったものではなかったが、伊織にとってはカヤは可愛い義妹であったし、カヤにとっては伊織はなにかと手のかかる優しい義兄であった。
――
手のかかる、カヤが何をおいても絶対に護らなければならないカヤの義兄である。
「兄ちゃん、お風呂もう済んだの」
夕刻頃に抜き打ち的に来てみれば、「ああ、カヤ」とどこかさっぱりとした顔をした伊織が長屋の前でカヤを出迎えた。どうやら、カヤに言われる前にきちんと入浴を済ませたらしい。
睡眠を忘れ、食事を忘れる伊織であったが、不思議と清潔さを保つことに関しては几帳面なところがあった。恐らくそれは「善く生きる」ことに直結しているからかもしれなかったし
――
であるならば、『五輪の書』に寝ることと食べることについても書いておいてくれればよかったのに、などと鬼籍の養父に対して益体のないことをカヤは思う。
「兄ちゃん、お湯にちゃんと浸かった?」
「
――
……
」
「秋口は冷えちゃうからちゃんとお湯張ってねって言ったでしょ」
バツの悪そうに目を逸らした伊織の視線の先に回り込み、「もう」と頬を膨らませる。やがて伊織が、「
……
すまん」と謝った。
「兄ちゃんはお風呂屋さんには行けないから湯舟に浸かるの面倒なのはわかるけど、ちゃんとあったまらないとダメだよ。お風呂って『汚れを擦って綺麗になったから終わり』、じゃないんだから」
「わかったわかった。次はちゃんとそうするよ。
……
それか、いっそ秋冬の間だけでも風呂屋に行くか
――
」
「だめ」
急に冷え切った声が出る。伊織がカヤを見遣る。真っ直ぐに伊織の目を見返したカヤが、噛んで含めるように繰り返した。「だめだよ、兄ちゃん。それはだめ」。
ぽり、と頭を掻いた伊織が、「
――
すまん」とまた謝った。冷え切った、滔々と諭すような口調のまま、カヤが続けた。
「背中、誰にも絶対見せないでねっていつも言ってるよね。お風呂屋さんなんて絶対だめだって、兄ちゃんわかってるよね」
「悪かった。
……
考えなしだった。軽い気持ちで言うべきではなかった」
「もう絶対言わないでね。そんなこと考えることすらしないで。
――
まさかと思うけど、表で着物脱ぐのもだめだからね。稽古して暑いからはだけたりとか、絶対だめ」
「大丈夫、していないよ」
カヤがじっと義兄の目を見上げる。ん、と優しげな月夜の色をした瞳が細められ、見つめ返される。
――
はあ、とカヤが溜息をついた。
「本当に約束してね。
――
兄ちゃん、中入って。背中に馬油塗るから」
カヤに促されて伊織が長屋の中へと入る。続いてカヤが中に入り、戸を閉めた。
外は既に暗くなりかけており、伊織が行燈に火をともす。ほんのりと柔らかい橙色の灯りが、部屋の中に満ちる。
「兄ちゃん」
畳の上に腰を降ろした伊織が、カヤに促されるままするりと着物を脱ぎ、襦袢に手を掛ける。しゅる、と衣擦れの音と共に布が伊織の肌を滑り落ちた。
――
伊織の、背中の腰のあたり。ほんのりと行燈に照らし出されたそこを見て、カヤは眉を顰める。何度見ても慣れることはない。何千、何万回と見たとしても、きっと決して慣れることなどなかった。
「
……
カヤ?」
黙りこくってしまった義妹に伊織が声をかけると、努めて明るい声でカヤが返事をする。「塗るね」、と持参した瓶から脂をすくい上げて伊織の肌の上に滑らせた。
まるで儀式のように、そうやって伊織の背中にさまざまなものを塗りつけてきた。「斬り傷に効く」という噂を聞けば、小笠原の伝手を辿ってカヤがすぐに取り寄せた。
ガマの油であることもあったし、著名な薬屋の軟膏であることもあった。「効いてるね」とカヤはいつも伊織に声をかけていたが、カヤの目にそれらの薬効が認められた試しは一度たりとてなかった。
むしろ、伊織が歳を追うごとに
――
まるで彼の魂に刻まれた
傷
のように、年々鮮やかになっていくようにすら、カヤは錯覚する。
「
――
兄ちゃん」
「うん?」
「これ
――
これを
受けた
ときのことは、兄ちゃんは覚えているの」
「
……
」
伊織は言葉を選んでいるようだった。カヤに聞かせるべきことなのかどうか逡巡したのだ。それだけでカヤには充分だった。であるならば、
伊織は覚えているのだ
。
「ごめんなさい。
――
答えないで」
「カヤ」
「嫌なこと訊いてごめんなさい。答えなくていい。
――
誰にも答えなくていい。言わなくていい。誰にも見せなくていいからね、兄ちゃん」
「
――
カヤ」
「あたしが絶対に、誰の目にだって触れさせやしないから。絶対に護ってあげる」
瓶のふたを閉め、カヤが伊織の襦袢を肩にかけてやる。前を合わせた伊織が振り向いてカヤを見る。何かを言いかけて口を開き、結局噤んだ。「そんなことはしなくていい」と以前不用意に口に出したときのカヤの顔を、伊織は覚えていた。
「また来るからね」と戸を引いてカヤが出ていく。
伊織の背中を見た日は、カヤは伊織に屋敷まで付き添わせてくれない。護られるべきは伊織で、カヤを送ってからひとりで夜道を帰宅するのでは本末転倒だとでも言いたいようだった。
決してそんなことはないと伊織は思いながら
――
それでもカヤの好きにさせている。できた義妹だった。本当なら、きっとこの背中を見せるべき相手ではないのだろう。あんな負担を強いてしまうような、この背中を見せるべきでは。
――
ふと、一体この背中には何があるのだろう、と伊織は思う。
養父も教えてくれなかった。カヤも、教えてくれることなどない。伊織が知るべきではないのだ、ということなのだろう。
義妹に脂を塗られたあたりを指でなぞってみる。痛みはない。ただ、深く抉られたなんらかの引き攣れた痕のようなものを、指先に感じた。
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