清流行き違い、船望む

治安の悪い冨岡義勇と、なかなか再会できない皆さん(転生)

【零】胡蝶医院

 その男は、胡蝶医院の院長である男にとって、忘れられようもない患者の一人であった。代々医師になる者が多い胡蝶家で、胡蝶も同じように医師を目指した。戦後に空き家であり、元来医療施設としてあったであろう建物を備えた、近隣の者に『蝶屋敷』と呼ばれていたらしい場所で診療所を構えた先祖から続く胡蝶医院。そこを継ぐ前に働いていた総合病院で担当医を務めた中の一人だった。
 胡蝶の二人の娘が学校に行っている時間帯、そして胡蝶医院が休診日となっている日を見計らってやって来たその男は、一人の青年を連れていた。胡蝶の娘と同じような年頃らしい彼は、淡々と儀礼的な挨拶をする。曰く少し前に男の養子として迎え入れられ、ゆくゆくは男の後を継ぐのだと言う。男の家業を知る胡蝶は、何とも言えない表情のままで青年を見る。
 厳しい面立ちの男と並ぶと、整った顔をしていた。けれども、男の家業を、そして病を知った上で養子入りの話を受けた程には訳ありなのだろう。そう思うほど、青年はにこりともせずにじっと男の側に佇んでいた。
「養子とはいえお子さんが出来たのだし、やはり改めて治療を受けた方が良いのでは」
 胡蝶のその言葉は、医師として出た言葉だった。かつて出来る限りに手を尽くした治療で一度は助かった命だ。転移による再発を、その当時から可能性として男に告げたのは、紛れもなく担当医であった胡蝶である。先生の言う通りだったと手紙が届いたのは数年前だ。まだ手を尽くせる、なんなら今だからこそできる治療もあると返したのは記憶に新しい。
 ある意味で世を捨てたような家業の男であるが、それでも生きる望みがあるのなら、家族が出来たのなら、生きようとしても良いのではないかと。けれども男はそれを一笑するだけだった。
「良いんだよ、老いぼれのこんな男の命」
 いよいよとなったら大人しく沙汰を待つ、その前に散々買った恨みつらみで死ぬかもしれない。それで良いのだと男は笑った。その間も、青年は表情をぴくりとも変えずに黙っている。彼は男の状態を知っていて、それで男の意思を優先させるつもりのようだった。何を思っているのかまで、胡蝶が悟ることはできそうもない。
「くたばったら一報くらいは入れてやるさ」
 男はその言葉を残し、来た時と同じように青年を伴って帰っていった。帰り際、青年はぺこりと頭を下げてから、男の後を追っていく。その後姿は、どういうわけだかこの屋敷にひどく馴染んでいた。

 程なく帰って来た胡蝶の二人の娘は、ちょうど去っていく車を見たのだろう。玄関先に立つ胡蝶を見、客が来ていたのかと問いながら家に入っていく。
「ああ、昔の患者さんだ。ちょうどお前たちの年頃の息子さんの顔を見せに来たよ」
 嘘ではないが、本当でもない。あの男の死で、関わりは切れるだろうと言う知らせのようなものだ。きっと死の一報はあの青年が書くのだろう。男を看取ったその手で。その時に青年は泣くのだろうか。胡蝶はそれが気になった。けれども確かめようもないだろう。
「ああそうだ。おかえり、カナエ、しのぶ」
 自室に向かうために階段へ向かう二人の背に胡蝶が声をかけると、二人は花が咲くように笑って「ただいま」と返してくれる。その幸いを重ねる中で、あの男と青年の姿は、どこまで記憶に残るだろうか。胡蝶はせんなきことを考えながら、玄関の扉を閉めた。



 胡蝶カナエと胡蝶しのぶは、今世の己の生家である胡蝶医院がかつて『蝶屋敷』と呼ばれた場所であることに気付いている。設備や内装こそ新しくなっているし、道場だった場所はリハビリ用の設備が整えられているが、間違いようがなかった。かつての鬼殺の頃を経た今の世に、かつて蝶屋敷であった場所で、かつてと同じ胡蝶の名で、かつての記憶を持って生まれたのだ。
 互いが『そう』だと気付いた時、カナエとしのぶは夜通し己の心情と、そうして辿った道を語り合った。今の世に鬼はいないようだから、きっとあの時に残った皆が鬼舞辻無惨を討ち果たしたのだろう。しのぶとて上弦の弐が死んだことまでしか知らない。その先のことは、二人だけでは知りようがなかった。
「他のみんなも、同じように生きていたら、話が聞けるのかもしれないわね」
 カナエはそう言って微笑んでいたが、しのぶはそう上手くいくかと半信半疑であった。ただ、二人に共通していた関心事は、あの『蝶屋敷』で共に暮らしていた栗花落カナヲ、神崎アオイ。そしてすみ、なほ、きよの三人のことであった。隊士として戦っていたカナヲすら、まだ庇護を受けるべきだったと二人は思っていた。そんな彼女たちを遺して逝ってしまったのは、二人にとっての心残りであった。
 だから、もしも記憶を持っていなくとも、今の世にまた生まれ落ちていたのなら、今度は鬼に脅かされることなく、家族に手酷く扱われることなく、幸せに笑っていて欲しい。或いは彼女たちの子孫が生きているのかもしれないが、どちらでも構わなかった。幸せに生きていたのであれば。
 歳の近いカナエとしのぶは、同じ女子校に進学していた。カナエは教師になりたいのだと言う。そして、しのぶは医師を志していた。かつての記憶がその選択肢を浮かび上がらせたのもあるが、しのぶは父親の跡を継ぐことを目標にして勉学に精を出している。そんな日常を送っていた矢先のことだった。
「父さんに来ていたお客様、昔の患者さんって言ってたけどうちに通っていたの?」
 家族揃った食卓で、しのぶが何気なくそう問いかけた。しのぶが物心ついた時にはもう、父は胡蝶医院の医師であったものだから、てっきり彼の言う客もそうだったのかと思っただけのことだ。
「そうね、しのぶが生まれる前にはお父さんもここで働いていたものね」
「カナエが生まれる頃までは、父さんは総合病院で働いていたんだ。今日のお客さんは、その頃の患者だった人だよ」
 研修医として入った病院だったと言う。しかしそれは、随分と昔の話に思えた。その頃に担当した患者のことを今でも覚えている父も、担当医がいわゆる町医者になったことまで知っていて、訪問してくる客も、よほど互いに印象深かったのだろうかと、しのぶは思う。
 かつて『蝶屋敷』で治療した隊士たちを、しのぶはどのくらい覚えていただろうか。カナエはどのくらい覚えていただろうか。世の医師のようにそれだけに時間を割いていた訳ではなかったせいか、今の記憶に残っているのは特に印象深い隊士たちだけだ。今世では、もっと多くの患者を覚えていられるだろうか。
「父さんは記憶力が良いのね、私は覚えていられる自信がないわ」
「そうしなきゃいけない訳じゃない、気負わなくてもいいんだよ、しのぶ」
「母さんだって誰でも覚えているわけじゃないのよ」
 けれどもどうしても、記憶に根付くような患者がいることもあるだけだと、母は微笑んだ。しのぶはそんな両親の言葉と、そしてカナエに頭を優しく撫でられたことで、落ち込みかけていた心が上向いた。かつての姉を喪った己ならば、笑みを貼り付けて心の底に沈殿させていたかもしれない感情の揺らぎを、しのぶは家族の、カナエの前ではあまり繕わない。
 なんだか成績が思うように伸びていない気がしているのだと溢せば、両親もカナエも親身になってくれる。優しいのだ、かつての姉と、そして両親のように。寄り添ってくれる。
「ところで、お客様が連れて来ていた子って、私たちと同じくらいの歳なのよね。お友達になれたかもしれないのに、会えなくて残念だったわ」
 カナエの言葉に、父はなんと言ったものか考えあぐねていた。姉妹に前世の記憶、それも血に塗れたようなものがあるなどとは知りもしないからこそ、あの青年が身を置くこととなった男の家業を告げるのは憚られた。いずれそういう世界を知るかもしれない、既に何かで見聞きしているかもしれない。けれども親として、好んで関わらせたいものではないのだ。
「もしまた来たら、義勇くん本人に聞いてみようか」
 そんな日は来ないと思いながら、それでも。あの静かすぎる目の青年を思い起こして、父はそっと微笑んだ。その裏側で、カナエとしのぶがその名に動揺していたことを知るのは、当の姉妹ばかりである。