柚鈴
2024-06-18 11:08:58
28580文字
Public
 

Floruit

第1~2話:あかりん
第3~6話:柚鈴


第6話 Little Traveler

◇エレナ・ソラリス

 命を包む身体の輪郭が、滲んで溶けだすような夜だった。瞼の淵で、まだ暗闇が蠢いている。思考を苛むような幻影が、波打つように揺れている。水で湿らせた絵筆で、形象の縁を暈していくように。闇夜に同化した身体の、境界線を見失った。私が私である感覚。息を吸い、吐くこと。胸の最奥で鼓動する心臓。生きているということ。すべてが曖昧にぼやけて、ぐずぐずと朽ちていく。あらゆる祈りに見放された、たったひとつを置き去りにして。霧雨に擦れる、微かな葉の音が耳朶を濡らす。幹のほとんどが灰と化した、虚ろな樹木の跡。枯れ落ちた枝の隙間に夜風がそよいで、微細な水滴が頬を掠めた。乾いた涙痕を溶かすように。力なく垂れた両腕が、鉛のように重い。全身を虚脱感が支配する。魔法を使いすぎたせいだろうか。肺が竦んで、上手く酸素を取り込めない。重力に圧されて、心臓ごと潰れてしまいそうだった。空っぽの質量が、月をも引っ張る見えない力に重さを持たされている。違う星に行きたかった。そうすれば、身体もずっと軽くなるはずだから。鳥の翼がなくたって、どこまでも飛んでいけるはずだから。宇宙に瞬く無数の星の、唯一無二。そこに小さな王子さまがいるのだと、教えてくれたのはマヤだった。砂漠に見上げた星の一粒に、還っていった王子さま。ひとは死んだら、星になるってこと? そう尋ねたエレナに向かって、マヤは微笑んで頷いた。もしもそうなら、素敵だよね。嬉しそうな笑みを咲かせて、期待みたいな声が跳ねる。本の話をするときに、マヤが声音を弾ませるのが好きだった。マヤの愛する物語を、窓越しに覗くような気分になれたから。活字を追うだけで眠くなるエレナとは対照的に、幼い頃からマヤは無類の本好きだった。「本の虫」という言葉は、彼女のために作られたのではないかと思えるほど。読書にのめりこめば時間を忘れるマヤの隣で、世話を焼くのがずっとエレナの役目だった。そうじゃない自分を想像できないほどに、マヤの存在はエレナにとって当たり前のものだった。これから先もずっと一緒だと、何の根拠もなく信じていた。お互いが結婚しても、おばあちゃんになっても、そばにいることを疑わなかった。別れがやってくる可能性なんて、頭の片隅に過ったことさえなかったのだ。
「大切なものは、目に見えないんだって」
「なにそれ、昔のことわざ?」
「ううん。昨日読んだ本に出てきたの。目には見えないものが、一番大事なんだなあって」
 ひとつひとつの言葉を抱きしめるように、丁寧に話す彼女が好きだった。夢見がちで、ほんの少し抜けたところがあって、誰に対しても優しい彼女が好きだった。大切なものは、目には見えない。まるで残像のように、いつかの光景が脳裏を掠める。薄明に染まる空を見上げて、一番星を探していた。王子さまがいるはずの場所。誰かの魂が向かう場所。空に向かって翳された、エレナより少しだけ小さな手を覚えている。子供みたいに瞳を輝かせて、彼女は物語の欠片を探していた。エレナがその隣に立つことは、もう二度とない。不変の事実に塗り潰されて、追想が霞んでいく。本の世界を語る弾んだ声も、ページに目を落とす横顔も。目を細めた無邪気な笑みも、繋いだ手のぬくもりも。この星から、永遠に失われてしまった。また読書に没頭してる、と呆れたエレナに向けられた、誤魔化すような照れ笑い。先輩らしく頑張ろう、と意気込んで訓練に打ち込む姿。記憶の中にいるマヤは、こんなにも鮮明なのに。もう二度と、エレナは彼女に会うことができない。
 ──死んだのだ。マヤは。
 理解を拒んでいた事実が、呆気なく喉の奥に転がった。気道を塞ぐ飴玉のように、放っておけば窒息しそうで、飲み下すことを強いられる。苦くて痛くて、ざらりと砂の味がする。王子様を失った、孤独な飛行士みたいだ。マヤは死んだ。殺された。サクリファイスに。磨りガラスの先に曇った何かが、鮮烈に浮きあがる。不可逆の死。崩れた灰になること。その過程さえ見えない場所で、マヤは戻らぬ人となった。ひとつの痕跡も残さず、雨に眩んで溶けだす塵になった。死は決して、遠くに霞む星ではなかった。指先ひとつの間隙に潜む、命を裏返した影だった。大切なものは、目に見えない。いつかの記憶が蘇る。隣にいること。言葉を交わすこと。当たり前だと思っていたこと。当たり前ではなかったこと。目には見えないすべてが、後悔に変わって瞼を焼いた。溢れる熱が液体になって滴り落ちる。変わらない日々は、傲慢な思い上がりだった。都合のいい空想だった。滅びかけた世界だと知りながら、疑うことなく無邪気な夢を見ていた。浅い呼吸が不規則に震えて、目頭が滲む。雨が落ちていく。緩く視線を上げれば、鈍い灰色だけが目に映った。僅かな星明かりさえ、どこにも見つからない。どれだけ小さくても構わないから、星に迎えてほしかった。どこかにマヤがいるはずだと、信じることができたから。無数に瞬く星から、たったひとつを信じて、特別にして。心の拠り所にできたなら、救われるかもしれないと思った。嘘だ。そんな御伽話で、慰めになるはずがない。マヤが死んだ。例えるならそれは、熱気球に空いた巨大な穴隙だ。どれだけ進路を変えたところで、どれだけ燃料を投下したところで、墜落を止められるはずがない。倒れ伏すように膝をついて、エレナの身体がその場に崩れる。痛みを訴える足が、まるで他人事のようだった。

「大丈夫ですか?」
 雨音に混じって、ふと声が降ってくる。マヤ。乾いた唇が、微かに形を結んだ。違う。マヤは、もういないのに。諦めの悪い心に苛立って、受け入れられない感情が渦を巻く。茫洋とした瞳を上向かせた先に、立っていたのは一人の少女だった。新月の夜を嵌め込んだような眼窩が、エレナを見下ろしている。雨を凪がせるように、細い絹糸のような銀髪が揺れた。精霊によく似ているが、エレナの知っている精霊ではなかった。鏡に写したように、纏う雰囲気が正反対だ。溌剌とした無邪気さの一切が、目の前の彼女からは削ぎ落とされている。僅かな冷たさを帯びた、作為的な微笑。それでも彼女の双眸から、不思議と目が離せなかった。靄に侵されたように、思考が鈍っているのを自覚する。声が出なくて、曖昧に首を振った。それが、彼女の問いかけの答えなのかさえ、もう分からなくなっていた。
「辛かったですね。だけど、もう大丈夫です。私が、貴方の願いを叶えて差し上げますから」
 透き通った声が、緩やかに耳朶を撫でる。大丈夫。そんなはずがなかった。だって、マヤが死んだ。大丈夫でいられるわけがなかったし、大丈夫でいたくもなかった。それでも、目の前の少女は、エレナを大丈夫にしてくれるのだという。耐えきれない荷重を背負った心が、誘惑に傾いていく。はやく、楽になりたい。安楽死を待つ患者のようだ、なんてことを思った。
「さあ──教えてください。貴方の願いは、何ですか?」
 哀れな犠牲者に救いを齎すように、少女が目を細める。眼差しに混ざる確かな慈しみに、見たこともない神様を想起した。尽きることのない無償の愛を授けるように、願いが問われる。エレナが、叶えてほしいこと。そんなの、ひとつしかなかった。
……マヤに、会いたい。会わせて、ください」
 震える喉が、か細い声を鳴らした。切れ切れの頼りない願いが、風に飲まれて消える。瞼を下ろすように、陶器のような少女の腕が伸びてくる。皮膚を撫でる刹那の知覚と、柔らかな雨音。インクを溢したように、視界が端から黒く染まっていく。明けない夜の帳が下りていく。瞼の裏で、小さな星が瞬く。還るのかもしれない。マヤのいる場所に。そんな直観を最後に、エレナの意識は途切れた。