柚鈴
2024-06-18 11:08:58
28580文字
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Floruit

第1~2話:あかりん
第3~6話:柚鈴



第3話 HERO

◇レイラ・カーティス

 煤けた路傍に咲いた小さな花は、篠突く雨に打たれて萎れていた。眼前の景色をすっかり曇らせる、無慈悲な煙雨。激しさを増す風雨に嬲られる木々が、ひとかたまりの不気味な化け物のように轟々と蠢いている。濁った空を切り裂くように、刹那の閃光が頭上を抜けた。僅かに遅れて、鼓動を竦ませるような雷鳴が耳を劈く。途絶えることのない大粒の雫が、剥き出しの皮膚を容赦なく叩いた。濡れた髪が重く纏わりつき、瞼に滴る雨粒が視界を遮る。湿った透明な塊に、肺を圧迫されるようだった。上手く取り込めない空気が、幽霊のように逃げていく。溺れる直前の息苦しさに似た、言い知れない不快感。水底に、足が届かない。重力に抗うことが叶わずに、果てしない深みへと落ちていく。頭上に見えた微かな光は、水泡と共に遠ざかっては消えていく。雨に飲まれて深くへ沈んでしまいそうな、そんな錯覚が過った。浅い呼吸が誘発されて、レイピアを握る手が微かに震える。半透明に霞む景色の中で、今にも折れそうな花が揺れた。止まない雫を浴びて、窒息したように項垂れている。きっと昨日まで、健気に上を向いていたはずなのに。懸命に太陽を追いかけて、精一杯の命を咲かせていたはずなのに。今では屍のように俯いて、命が絶える瞬間を静かに待っている。千切れた花弁が、視界の端に落ちた。目の前を塞いでいく雨が、その存在を掻き消そうとする。僅かにも気を緩めれば、前を見据えることさえ困難だ。鼓膜を揺らしつづける雨音に被さるように、喧しい警報音が鳴り響いている。雨の隙間を縫うように、濡れた空気を泳ぐように、ぐわんぐわんと波状になって周囲を揺らす。近辺一帯を埋め尽くすような、特例警報のアラート。七重奏に響き渡って、薙ぎ倒すように周りの音を潰していく。途切れることなく耳を刺したそれは、徐々に聴覚を麻痺させていくかのようだった。それほど大仰に騒ぎ立てずとも、十分に分かっている。行く先に待ち受けているのは、目を覆いたくなる悪夢そのものだ。世界でもっとも死に近い、凄惨な夜だ。それでも、足を止めるわけにはいかなかった。進まなければならなかった。たとえその先に、生の終わりが待ち構えているとしても。為す術なく身を投げ出した花のように、覚悟を決めて、立ち向かわなければならない。レイラたちは、使命を背負ったアイドルだから。生への執着さえかなぐり捨てて、戦うことを選ばなければならないのだ。温度の奪われていく手のひらで、水滴の伝う瞼を強く擦った、その刹那。
 雨の拭われた視界の先に、泥濘が降り注いだ。恒星を失くした新月の夜が、刳り抜かれて落ちてきた。霹靂よりも突然だった。「それ」は雨の帷幕に隠されることなく、物言わぬ闇として佇んでいた──否、敷き詰められていた、と言い表す方が正しいかもしれない。眼前に広がる空間の一部が、抉られたように消失している。穴の空いたその部分に、代替品を詰めるかのように、一面の暗闇が広がっていた。黒洞々たる夜、といった体ではない。それはもはや、色ではなかった。空間ですらなかった。気味の悪い膨らみを帯びた、異質な何か。そう表するほかなかった。周囲の景色を侵食して、世界を壊す怪物。あれほど無情で残酷に見えた雨粒さえ、闇に触れた途端に跡形もなく消失した。じゅわり、と輪郭を滲ませて、あたかも蒸発するかのように。幾つも連なった夜の群れが、唸るように脈打つ。重なりあって判然としないが、数にするならばおよそ十数体だろうか。それぞれが巨大な延長を持ったサクリファイスが、ひとつに固まって群をなしている。雨を塗り潰すように、空間を占めている。想像していた以上に、それは悍ましい光景だった。吐き気を催すように、胃がきゅぅ、と縮こまる。短く刻まれた鼓動を焚き付けるように、背後で特例警報が鳴りつづけている。音を、初めて痛いと思った。ハレーションのように、目の前がチカチカと点滅する。踏切の、遮断機の前に立ったときと似た感覚がした。短く警報灯が光る。音は止まない。近付いて、遠のいて、カンカンカンと鳴り響く。周囲を包み込むように。あの音に背を押されるように、飛び込んでやろうかと思ったことがある。夏期講習の帰りだった。耳障りな蝉の声も、子供たちのざわめきも、何も聞こえなくなったから。錆びた線路と陽炎の熱が、焦点の合わない視界を満たした。街から切り離された世界に、たった一人で残されたような気がした。全部、終わりにしてしまおう。そんな選択を迫られている錯覚を抱いた。鳴り止まない音が、レイラを駆り立てていた。同じだった、今も。鼓膜を刺す特例警報の音が、否応なく眼前に選択を突きつける。アイドルとして、何をすべきなのか。脳に焼き付いた使命感が、真っ先に意識を支配した。レイラたちが、倒さなければ。これが市街地まで押し寄せたなら、甚大な被害が出ることは免れない。過去最大規模の惨劇が待ち受けているのは確実だろう。それだけは、何としてでも避けなければならない。ならば、残された道は一つだけだった──レイラたちが、食い止めるしかないのだ。この数のサクリファイスを、たった七人で。警戒を切らすことなくミアの様子を窺えば、意外にも落ち着いた様子をしていた。震えを閉じ込めるように手のひらを握りしめて、真っ直ぐ前に視線を向けている。戦闘慣れしたマヤとエレナ、それからシノも、冷静に敵を見据えているようだった。滅多にない特例警報が発令された時点で、ある程度の覚悟はできていたのだろう。無意味に騒ぎ立てることなく、静かに気持ちを落ち着けているように見えた。対照的なのはハレリだ。彼女は過剰なまでの攻撃性を露わにして、怯えるフウカを庇うように立っていた。無理もないことだが、危うい印象が拭えない。だが彼女を前線に出さないという判断ができるほど、こちらの戦力に余裕があるわけでもなかった。前史の時代なら軍隊が出動していたような、十数体の大群を相手にたったの七人だ。改めてその事実を認識し、冷静であろうとする心とは裏腹に身が竦む。首筋を嫌な汗が伝って、雨と混ざり合って落ちていく。この戦いでは、失敗が許されないのだ。うねり波立つように、目の前の暗闇が不気味に蠢いた。これほどのサクリファイスが野放しになれば、想像もつかないほどの犠牲が出るだろう。ここで食い止める以外に、選択肢はないのだ。相討ちも玉砕も覚悟の上で、一体でも多く仕留めなければならない。それが、レイラたちが果たすべきアイドルとしての役目だ。そう自分に言い聞かせようとして、心臓が悲鳴を上げた。まるで石を投げられているかのように、痛みを訴えて強く脈打つ。捥がれた心臓が、足元まで落下したかのような浮遊感に襲われた。声を持たない鼓動が、懸命に叫んでいる。死にたくない。死にたくない! 本能みたいな切なる祈りの正体に行き着いて、喉の奥が短く震えた。死にたくない。世界を守るためには、アイドルとしてここで殉ずるべきなのかもしれない。それが正しいとされる行為なのかもしれない。人々を守る英雄として、いつまでも讃えられるのが偶像アイドルという存在だから。だけど、それでも──レイラは、死にたくなかった。誰にも死んでほしくなかった。敵を道連れに命を投げ打つことを、正義だなんて呼びたくなかった。世界か、命か──そんな二者択一なんて、間違っていると思った。選びたくなかった。こんなのはきっと、どうしようもない我儘だ。与えられた役割を果たすことだけが、かつてのレイラの生き方だったのに。誰かの望みに沿うことでしか、自分を保てないと思っていたのに。死にたくない。誰も死なせたくない。確かに芽吹いた願いは、紛れもなくレイラ自身の意志だった。レイラは生まれて初めて、自分の手で己の形を選ぼうとしていた。迷うことはなかった。誰のことも死なせない。レイラ自身も、ミアたちも、街の人々も、この世界も。何も犠牲にせずとも、レイラがこの手で守ってみせる。それは、レイラ・カーティスとしての矜持だった。ひたむきに生きたこれまでの道程が、レイラの背筋を伸ばした。簡単な日々じゃなかった。両親に振り向いてほしくて、些細な願いのすべてを踏み躙ってきた。与えられることのなかった愛を諦めきれずに、無意味な努力を重ねてきた。笑われるほど真面目に、懸命に、何にも手を抜くことなく励んできた。それらが正しく実を結ぶことなんて、きっとありはしないと思っていたけれど。弛まぬ研鑽を積み重ねた過去が、今のレイラを形作る材料になるのなら。この戦いで、誰も死なせない──そんな決断を叶えることができたなら。レイラは初めて、これまでの自分を肯定してあげられる。決して無駄じゃなかったと、過去を笑わずに生きていける。だから──だから、どうか、叶えてくれ。
 自分を叱咤するように、剣の柄を握りしめて、サクリファイスを睨めつける。この数を相手取るのなら、囲まれたら詰みだ。波間に浚われるように、押し流されて灰と化す。一定の距離を保ちながら、確実に一体ずつ倒していかなければならない。レイピアを用いた近接戦を得意とするレイラが、苦戦を強いられる戦法を取るしかない。思考が纏まるよりも先に、マヤとエレナが武器を手にして駆け出した。アイドルとして先輩である彼女たちは、戦いの場数がレイラたちよりずっと多い。何度も苦境を切り抜けてきたのだろう、いざというときの判断も速かった。
天翔ける流れ星コメーテース・アエスターティス!」
 止まない雨と警報の音を掻き消すように、エレナが声を張り上げる。天に向けられた呪文に呼応するように、くすんだ曇天が微かに煌めいた。雨上がりの太陽に似た、眩い光の破片が降り注ぐ。砂塵のように細かな粒となって落ちてきたそれは、定位置につくかのように徐々に一つの形を結び始めた。大鷲に似た巨大な鳥が、鈍色の空を切り裂くように顕現していく。彼女の固有魔法──天翔ける流れ星コメーテース・アエスターティスは、光によって編み上げられた巨大な鳥を、自在に操ることができるというものだ。手慣れた様子でひらりと鳥に飛び乗ったエレナは、ロングソードを片手にサクリファイスに接近していく。訓練のときと同様、上から攻撃を仕掛けるつもりだろう。エレナの後を追うように、マヤが固有武器である魔法のステッキを空へと掲げた。まるで如意棒のように、ステッキが天高く伸ばされていく。先端が見えなくなるまで高度を上げたそれを手にしたマヤは──大人の身長二人分ほどの長さはあった──そのまま棒高跳びの要領で、鮮やかに宙を舞った。常人からかけ離れたアイドルの身体能力によって、その身体が空高く飛翔する。手慣れた一連の動作は、まるでサーカスの演目のようだった。地面から離れたステッキが、みるみるうちに短くなっていく。照準を定めるように、マヤは真っ直ぐにサクリファイスを睨み据えた。滞空したままで体勢を整え、元のサイズに戻した己の武器を向ける。
煌めき綴る物語リベリー・メア!」
 空を切り裂く叫び声が、暗闇を揺らすように響く。瞬きひとつを置いて、閃光が駆けた。凛と伸びた手に握られたステッキから、視界を染め上げるような光が迸る。マヤの固有魔法である煌めき綴る物語リベリー・メアは、目に映る光を操ることができる。武器である魔法のステッキを媒介にして、光の束を練り上げ放ったのだろう。サクリファイスにも視覚はあるらしく、一定の目眩し効果があるようだった。真っ先に動いた二人に続くように、ハレリも群れをなす暗闇に向かって駆け出していく。
決意を焼き付けてフラマー・テゴー!」
 高らかに唱えられた呪文を着火点に、彼女の固有武器である斧に帯状の炎が灯された。何もかもを燃やし尽くす熱を纏わせて、ハレリは果敢にサクリファイスへと斬りかかっていく。相変わらず向こう見ずで危なっかしい戦い方だが、レイラ自身にも余裕がない。彼女を援護するように、力強く泥濘んだ地面を蹴った。
「フウカとミアは後方支援! シノさんだけは絶対守って!」
 後ろの三人に向けて、ありったけの声を張り上げる。こちら側の要は、間違いなくシノだ。彼女が魔法を使える限り、いくらダメージを負ったとしても回復することができる。
「「はい!」」
 吹き荒ぶ嵐のような警報音の向こうで、二人の声が重なった。シノとフウカの武器は遠距離型だ。標的から距離が離れていても、敵を狙うことができる。それならばわざわざ、サクリファイスの群れる危険地帯に突っ込んでいく理由はない。治療を担えるシノを守りつつ、遠くから攻撃するのが最善だろう。剣使いであるミアは、二人と違って遠距離での戦いには不向きなのだが──彼女はまだ、レイラやハレリに比べて戦闘に不慣れだ。初めの頃に比べればかなり戦えるようになったとはいえ、何体ものサクリファイスを同時に相手取れるほどではない。普段の戦いでならいざ知らず、今は特例警報の発令された緊急事態だ。日頃は指導役としてミアを見守っているレイラ自身にも余裕がない。一手でも間違えば命を落としかねない危険な戦闘で、ミアを前線に立たせたくはなかった。
一人きりの夜アウローラム・スペーロー
 無数の細波みたいに寄せては返す鼓動を鎮めようと、深く息を吐き出すように呪文を唱える。五感を使わずとも、周囲の空間を把握することができる──それが、レイラの固有魔法だ。変身している間は常時発動されているに近しい状態なのだが、呪文を唱えることで感覚がより研ぎ澄まされる。目の前に広がる空間を掴むことに、あらゆる神経を集中させた状態になる。眼前に広がる空間のすべてを、手探りに触れて確かめているような心地がする。互いに重なりあって茫漠と続いた暗闇も、呪文に応えて明瞭な輪郭を結んでいく。それと同時に、ちり、と首筋が焦げた。錯覚。本能が告げた危険信号。反射的に背を逸らして、回避の構えを取る。瞬きにも満たないコンマ数秒の後、先程までレイラがいた空間を、夜を纏った弾丸が掠めた。サクリファイスの腕にあたる部分が、まるで武器のような形に凹んでいる。レイラたちアイドルが使っているのに似た、ごく普通の拳銃のようだ。拳銃? サクリファイスが、そんなものを手にするのか? 飛び込んできたシルエットに引っ掛かりを覚えて、思わず目を瞬かせる。魔法を使ったところで、視界における変化はない。新月の夜に浸した筆で塗りたくったような、境界線のない暗闇だけが果てしなく続いている。だが魔法によって知覚される縁取りは確かに、人体に似た構造と拳銃の形を描いていた。サクリファイスって、何なんだろう。いつの日か、ミアにふと零した言葉が蘇る。同じ違和を抱くのは、初めてのことではない。サクリファイスは時折、人間を模した形に蠢くことがあった。視界に表れる暗闇の形と、魔法を使って読み取る輪郭に、誤差が生じることがあった。その事実が、何を意味しているのか──考えを巡らす余裕は、今のレイラにはない。次々と飛来する銃弾を避けながら距離を縮め、手にしたレイピアを暗闇の心臓部へと突き立てる。びしゃり、と濁った音。肉を裂くような、生々しい感触。地を揺るがす、悲鳴のような咆哮。どこまでが幻なのか、判別がつかなかった。まるで生身の人間を相手取っているような錯覚が芽生えて、背筋がぞわりと粟立つ。何度繰り返したところで、サクリファイスを倒すときの悍ましい感覚には慣れそうになかった。引き攣った手から、レイピアが離れる。重力に沿って落ちていくそれを足場に、レイラは跳躍した。着地地点を見極めようと、滞空しながら思案する。一度距離を取るべきだろうか。固有武器以外にも使える武器があるとはいえ、レイピアを手放すことになったのは痛い。ミアたちは無事だろうか。マヤとエレナは、どれほど消耗しているだろうか。轟々と音を立てながら、大粒の雨が頬を打ちつづけている。考えるべきことが多すぎて、上手く思考がまとまらない。焦燥に駆られて、僅かに姿勢が乱れた。身体の重心がブレる。サクリファイスのひしめく落下地点を目前に、バランスが崩れる。
「レイラ!」
 天を飛翔する巨大な翼が、速度を上げて視界を横切った。腕を掴まれ、ぐっと引き寄せられる。無様に転げ落ちるはずだったレイラの身体が、大きく広げられた翼に着地する。魔法で編みあげた鳥を操って、エレナがレイラを助けてくれたらしい。
「ありがとう、ございます」
 絶え絶えになる呼吸を、必死に整えながらそう告げた。地上を見下ろせば、空間一帯を刳り抜いたような影の群れが氾濫している。縦横無尽に跳ね回りながら、マヤが敵を翻弄しているのが見えた。その反対側では、ハレリが一人で数体のサクリファイスを相手取っている。炎を纏わせた斧を懸命に振るいながらも、その右足は不自然に引き摺られていた。負傷したのだろうか。普段ならレイラが助けに入って、シノの治療を受けさせる場面だ。だがこうも敵の数が多くては、立ち位置を入れ替えることさえ容易でない。一丸に集ったサクリファイスを、四方から押し留めている状態にあるのだ。レイラがハレリのフォローに回れば、反対側が手薄になる。治療を受けようにも、持ち場から離れることが簡単ではないのだ。幸運なことに、ミアたちのもとまで流れついたサクリファイスはまだいないようだった。だが今の状態が続けば、レイラたちの包囲網を抜けられるのも時間の問題だろう。これほど多くのサクリファイスを相手にしたのは、アイドルになって初めてのことだった。以前に四体のサクリファイスと対峙したときでさえ、随分と苦戦を強いられたのに。今回立ちはだかったのは、その数倍以上だ。それがどれほど危険なことなのか、はっきり目の前にしてもなお、想像すらつかなかった。唇をぎゅっと引き結んだエレナの表情が、小さく安堵に緩む。よかった、無事で。そう告げるエレナ自身も、ぜえぜえと肩で息をしている。過呼吸を起こす寸前のように、不規則に喉が鳴っている。よく見れば、彼女の肩口には、刃物で貫かれたような大きな切り傷が走っていた。雨に混じって真っ赤な液体が滴り落ち、身体を支える翼を濡らしている。
 「あは、あたしも……そろそろ、ヤバいかも」
 サクリファイスから視線を外さないままで、エレナが苦しげに言葉を漏らす。
「あたしの魔法、さ……使う分だけ、体力、消耗するのね。ちょっと、休まなきゃ、」
「無理に話さないで。まずは、シノさんから治療を受けてください」
 想定していた以上の苦境に、思わず唇を噛んだ。倒したサクリファイスの数は、せいぜいまだ片手で数えられるほどだろう。エレナとハレリは、かなりの重傷を負っている。だが彼女たちが戦線から離れれば、戦力の大部分が一時的に削られるのは避けられない。マヤとレイラの二人だけで、十数体のサクリファイスを足止めするのは不可能だ。ミアとフウカの支援があっても、おそらくは厳しいだろう。動きを止めきれなかったサクリファイスは、包囲網を抜けてシノたちに接近する──そうなれば、待ち受ける結末は必至だ。シノの負傷と、戦線の瓦解。何体ものサクリファイスが街へと雪崩れこみ、目を覆うような惨劇が幕を開ける。それだけは、何としてでも避けなければならない。だが、だからといって、このまま二人を戦わせていいものか。シノの固有魔法では、失われた命を蘇らせることはできない。治療を後回しにしつづければ、取り返しのつかない事態になるかもしれない。
天翔ける流れ星コメーテース・アエスターティス!」
 エレナが再び、高らかに呪文を唱えた。体力を犠牲にして、光の粒に鳥の影を結ばせる。血が止まらないほどの怪我を負いながら、持続的に体力を削っている。この状態が続けば、確実のエレナの身が持たないだろう。まずは、エレナに治療を受けさせるべきだろうか。どうすればいい。どうすれば、この窮状を切り抜けられる? みんなを救うことができる? じわじわと心臓を蝕むように、絶望が胸の内を巣食っていく。単調に繰り返される警報音が、思慮を奪っていくようだった。脳が空回る。考えがまとまらないで、呼吸が揺らいで浅くなる。湿った空気に肺が縮んで、酸素が枯渇する。低く澱んだ曇天に、押し潰されてしまいそうだった。己の無力さを責めるように、心臓が激しく体内を叩く。引き攣った喉が痛みを零し、震える指先が冷たくなっていく。そんなときだった。底抜けに明るい声が、耳朶を打ったのは。
「助けが欲しいみたいだね!」
 得意げに胸を反らした、幼い顔立ちと目が合った。光の射さない夜のような、漆黒の瞳が細められる。濁った曇り空の下、精霊が宙に浮いていた。どうして、ここに。浮かんだ疑問の答えは、すぐに見つかった。精霊は、アイドルを助けるのが仕事だからね。常日頃から口癖のように、彼女はそう告げていた。前例のないこの異常事態に、レイラたちを助けにきてくれたのだろう。よかった。これで、きっと大丈夫だ。そんな安堵を見透かしたように、精霊が無邪気に微笑んで口を開く。止まない雨さえ、傲慢に振り払うみたいに。
「今日はアイドルのみんなに、特別な力を授けにきてあげたんだよ!」