柚鈴
2024-06-18 11:08:58
28580文字
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Floruit

第1~2話:あかりん
第3~6話:柚鈴


第5話 ワンスアポンアドリーム

◇レイラ・カーティス

 皮膚に当たる温い雫だけが、レイラと世界を繋ぐ撚り糸だった。小石が散らばるような、切れ切れの雨音。湿った空気を揺らすそれが、透明な被膜のように耳を塞ぐ。視界を染め上げた彩度の高い白が、見えない雨に打たれてぼろぼろと崩れていく。眩い閃光の残像。倒壊する瓦礫のように、雨音に呼応して砕けていく。壊れた光の破片が、瞼の裏に舞っては散っていく。風に吹かれた花弁のように。網膜を焼いた白い熱が、雨音に飲まれて止んでいく。マヤの魔法で奪われた視界が、徐々に取り戻される。煤けた空気が、泥濘んだ地面が、澱んだ天が、瞬きと同時に瞳に飛び込んでくる。鈍色の雨に霞む、色褪せた世界。目を向けた先には、何もなかった。周囲一帯を埋め尽くすようだったサクリファイスの群れも、その中心に飛び込んでいったマヤの姿も。神隠しに遭ったかのように、何もかもが消えていた。視線の先に映るのは、悪夢じみた夜闇の残滓のように、ただ一掴みほど残された灰だけ。積もったそれは無情な雨に溶け出して、すぐに見えなくなっていく。ひとを燃やしたあとの遺灰は、きっとこんな風なのだろう。風に吹かれて、雨に打たれて、呆気なく姿を消してしまう。命の跡と呼ぶにはあまりに脆くて拙くて、手のひらに掬うことさえ困難だ。他人事のように冷めきった感傷が、目の前を通り過ぎた。そこから導き出される事実を受け止めることを、脳が拒んでいるかのようだった。
「マヤ……?」
 微かに、エレナの唇が動いた。雨に零れた声が、虚しく掻き消える。身体を支えきれなくなったかのように、彼女は弱々しくその場にへたりこんだ。暗闇の消えた地平を見やるその先に、もう灰の残片は映らない。確かにマヤだったはずの何かは、無数に千切れた灰燼になって二度と戻らない。信じたくなかった。こんなにも容易く、命が散ってしまうこと。ひとは生きるのを止めてしまうこと。跡形もなく崩れ去って、土に還ってしまうこと。たった半日前まで、顔を見合わせて笑いあっていたはずなのに。当たり前みたいに言葉を交わして、何気なく目配せして。終わりの気配なんてそこにはひとつもなくて、続いていくことを疑わなかった。数年先には忘れてしまうみたいな一日を、ずっと繰り返していられるのだと信じていた。だけど、そんなことはなかった。当たり前のものなんて、ひとつも存在しなかった。サクリファイスの跋扈する世界に、永遠なんてない。知っていたはずの事実に、これまでどうして目を向けないでいられたのだろう。見過ごしていられたのだろう。失ってから気付いたところで、何もかも遅いのに。
 篠突く雨に打たれながら、エレナは呆然と座り込んでいる。燦めく白に塗られた先で、マヤに何が起きたのか。おそらく彼女は、まだ理解できずにいるのだろう。瞼を焼いた鮮烈な光が、視界のすべてを奪っていたから。ただ理不尽に、哀れな犠牲者のように、マヤは灰となった。彼女の目にはきっと、そんな風に映っているのだろう。だがそれが間違いであると、レイラは知っている。レイラの固有魔法である空間把握は、視覚に依らない──光が眼前を焼き尽くそうが、戦うマヤの一部始終を、捉えることができたからだ。煌めき綴る物語リベリー・メア。淡々と呪文を吐き出したマヤは、魔法を発動させて光を動かした。これまで見てきた彼女の魔法は、せいぜい一部の光源を縒り合わせるようなものだった。一時的な目眩しとして、魔法のステッキから光芒を放つ程度だった。だが、このときは違った。呪文が零れると同時に、視界が闇に閉ざされた。一切の光が途絶えた。息を呑むような、一瞬の静寂の直後。稲妻が直撃したような、凄まじい轟音と光が、レイラを襲ったのだ。今になってようやく、その原理を理解する。彼女は視界に映るすべての光をひとつに掻き集め、落雷にも似た熱と光を生み出したのだろう。ひとつひとつは取るに足らない小さな光でも、寄せ集めれば莫大なエネルギーを持つことになる。太陽の光を、虫眼鏡で集めるのと同じだ。細かな一点に集中した日光は、紙を焼き焦がすほどの熱になる。それと同じ原理を用いて、マヤは自分ごとサクリファイスを焼き切ったのだろう。彼女が魔法を発動した時点で、こうなることは決まっていた。彼女が最後に放った閃光は、意図して仕掛けられた自爆攻撃だったのだ。どうして。もう何度目かも分からなくなった疑問が浮かぶ。どうしてマヤは、進んで命を投げ打つような作戦を取ったのか。片足が千切れた彼女の、茫洋とした瞳が蘇る。あのときのマヤは、自分が傷付くことを微塵も恐れていないように見えた。それは、ありふれた勇気や無謀ではない。彼女は、意志の力で恐怖に打ち勝ったのではない。自らの命が危険に晒されることに対する防衛本能としての恐れを、初めから持ち合わせていないかのようだった。眼下に蠢く死の象徴への怯えも、自分の足が灰と化したときの痛みも、何ひとつ抱いていないように見えた。痛覚が遮断されたから、恐怖を覚えずにいられたのか。それとも、正常な痛みの感覚は覚えていたものの、それに対して心が動くようなことがなかったのか。どちらにしたって、それは生物としては致命的な欠陥で──アイドルとしては、この上なく理想の状態だった。サクリファイスと対峙して、芽生えた感情が蘇る。自らの命を投げ打ってでも、多くの敵を道連れにすること。それがきっと、アイドルとして正しい行いだ。だがレイラは、その道を選ばなかった。自分の命を優先する戦い方を選び、結果として苦境に陥った。もしもレイラが決死の覚悟で──文字通り、サクリファイスを巻き添えにして死ぬことも辞さない戦法で戦っていれば、もっと早くサクリファイスを壊滅させられたかもしれない。『満開システム』を使わずとも、敵を撃破できていたかもしれない。だが、レイラはそうしなかった。死にたくなかったからだ。誰にも死んでほしくなかったからだ。振り払えない感情が枷となって、レイラの足を踏みとどまらせた。そこまで思案したところで、最悪の事実に思い至る。マヤは、サクリファイスの群れを道連れにして自爆した。何を犠牲にしてでも、世界の敵であるサクリファイスを殺すべき。そんなアイドルとしての理想を遂行してみせた。それはすなわち、裏を返せば──マヤには、「死にたくない」という感情の枷が存在しなかったことになるのではないか。だから躊躇なく夜闇の中に身を投げて、サクリファイスを巻き添えに自害したのではないか。出会ったときからずっと、彼女は慎重に戦うアイドルだった。自分や仲間の安全を第一にして、決して無茶な戦法を取らないアイドルだった。そんな彼女が迷いなく、自爆という道を選ぶだろうか。どうしたって違和感が拭えない。いつものマヤなら絶対に、最後まで諦めることなく他の道を探したはずだ。こんな風に、自分の命を犠牲にするような真似はしなかったはずだ。彼女は、明らかにいつも通りじゃなかった。彼女の眼差しからは、あらゆる感情が消失していた。まるでサクリファイスを殺すためだけに作られた、感情のない機械人形のようだった。何が、彼女をそうさせた? 誰に訊ねなくとも、答えは明らかだった。
「どういう、ことですか」
 宙に浮いたままで、レイラたちを見下ろしている精霊に向き直る。勝手に震えていく喉奥から、掠れた声を振り絞った。止まない強雨は器用に、精霊が占める空間を避けるようにして降っている。
「なにが?」
 現れたときと同じ無垢な笑みを崩さないまま、精霊が首を傾げる。しらばくれているというより、本気で質問の意図を理解していない様子だった。
「マヤは……あんな、無茶な戦い方をするアイドルじゃなかった! 『満開』って、何ですか。マヤに、何が起こったんですか」
 感情任せに吐き出した言葉が、みっともなく震えた。降り続ける雫に打たれて、視界が重苦しく滲んでいく。張り詰めた涙腺が熱を持って、鈍い頭痛がした。ミアとエレナの啜り泣きが聞こえる。怒りとも悲しみともやるせなさともつかない感情が、胸の最奥で燃えている。どうして。たった四文字でしか形容できない炎が、隈なく全身を支配している。
「なるほど、満開システムについて知りたいんだね! いいよ、教えてあげる! まず、アイドルが満開するためには、何かを願わなくちゃいけないんだ! マヤ・アミカの場合だと『サクリファイスを倒すこと』だったよね! 願いを精霊さんが聞き届けると、契約状態が成立します! そうやって契約が結ばれた状態のことを『満開』っていうんだけど──満開したアイドルは、願いを叶えるのに必要のない機能を失った状態になるんだ!」
  晴れやかな笑顔で、精霊は朗々と言葉を繋いでいく。必要のない機能が失われる。推論を裏付けるような言葉に、嫌な予感が冷たい汗となって背筋を伝った。願いを叶えるために、必要のないもの。レイラの場合は、どうだった? アイドルとしての理想を体現するために、邪魔となったのは何だった?
「叶えたい願いがあっても、この世界はままならないことばっかりでしょ? 痩せたい!って思ってるのに、ついついお菓子の誘惑に負けちゃったり、愛してほしい!って思ってるのに、相手がこっちを見てくれなかったり。そういう悲しい事態を無くすために生み出されたのが、アイドルのための満開システムだよ! 願いを叶えるために邪魔なものって、目には見えないだけでいっぱいあって──感情とか、意識とか、思考の枠とか。そういう構造的な限界を、アイドルとしての欠陥を、満開システムは消してくれるんだよね! 精霊さんから力をもらって脳のリミッターが外れたアイドルは、何も考えなくても願いを叶えるためのベストを尽くせるようになるんだ! あ、失うって言っても、そういうものが永遠に戻らないわけじゃないから、そこは安心してね! なんて言えばいいのかな……そうだ、スイッチをオフにするみたいな感じ!」
 100点のテストを教室中に自慢するみたいな無邪気さで、つゆほども悪びれることなく、精霊は滔々と言ってのけた。レイラの推察通りだった。死にたくない。そんな感情を抱くことを、マヤは奪われていた。「サクリファイスを残らず倒す」という願いを叶えるために、必要ないとされたすべてを失っていた。精霊の望む理想のアイドルにさせられていた。十数体のサクリファイスを全滅させるには、自爆攻撃を仕掛けるのがおそらく最善だった。街に被害を出さないためには、人身御供が必要な状況だった。そう理解していながら、レイラはその選択肢を棄却した。理想のアイドルになることを拒んだ。だが、マヤは違った──精霊と契約を取り交わした瞬間に、その道を選ぶことを強いられた。マヤ自身の意志や価値判断をさし挟むことなく。精霊から力を授かれば、脳のリミッターが外れる。その話はおそらく本当なのだろう。自分の魔法は目眩しくらいにしか使えないと言っていたマヤが、手慣れた様子でサクリファイスに雷撃を浴びせたのだから。「光を操る魔法」を使って稲妻を生み出すことは、あの状況でサクリファイスを葬るための最適解だった。これまで試したことがない魔法の使い道を、マヤはあの場面で瞬時に見出してみせた。まさに理想のアイドルと呼ぶに相応しい機転だった。だがそこに、彼女自身の意志や思考は介在していなかったのだ。満開によって得た力が、マヤに魔法を使わせた──その果てに、彼女を殺したのだ。「サクリファイスを倒す」という願いにとっては、マヤの命なんて些事でしかなかったから。マヤは満開システムに意識と自我を奪われ、死へと続く道を歩まされたのだ。
「満開システムがあれば、これからサクリファイスがいっぱい出てきても安心だね! 精霊さんを呼んでくれたら、いつでも駆けつけるからね〜!!」
 にこにこと満面の笑みを浮かべて、精霊が告げる。どうして、笑っていられるんだろう。屈託なく細められた精霊の黒い双眸に、夜闇の影が過ったようで怖気が走った。サクリファイスとよく似た色だと、今更になってふと気付いた。人間には到底表しえないような、どこまでも深い影の色。人間じゃ、ないんだ。知っていたはずの事実を、眼前に突きつけられたような心地だった。邪気なく笑う精霊と、ばちり、目が合う。狼狽えることなどないはずなのに、心拍が跳ね上がるのを感じた。蛇に睨まれた蛙のように、肺がぎゅっと縮こまる。人智を超えた存在に、人間のことが分かるはずがないのだ。たとえ似た様相の容れ物に入っていても、その中身はまったく違う生き物なのだから。地面を這う蟻の生き様を、人間が体感できないのと同じこと。収集して、観察して、実験して──どれだけ理解を深めた気になっても、ほんとうに蟻のことを分かることなどできない。からだの構造。種としての生態。巣の中の社会的な仕組み。そんなことについての知識をどれだけ得たところで、自分たち人間に類比する形でしか考えることができない。砂糖をあげたら喜んだ。行き先に石を置いたら困った。そんな風に、自分と同じ感情を想定することでしか理解できない。きっと、精霊も同じだ。悪意はない。精霊は精霊の価値観で、最善の方策を用意しただけなのだ。精霊がアイドルに望むことは、この世界を守るためにサクリファイスを倒すこと。それを基準に考えれば、満開は正しい思想に基づいて作られたシステムと言えるだろう。不完全な人間の頭脳を補う形で、満開システムが勝手に最適解を導き出してくれるのだから。邪魔で不出来な理性や感情がブレーキをかけることもなく、満開したアイドルは一直線に理想に向かってくれるのだから。精霊にとってはこの上なく都合のいい、完璧なシステムと呼べるものだろう。
……っ、ふざけるな!」
 激昂したハレリが、今にも掴みかからんばかりの勢いで地を蹴る。それをひらりと躱した精霊は、肩を竦めて溶けるように消えた。なんで怒ってるの? そう言いたげな表情が、雨に霞んで消えていく。振るう先を失ったハレリの拳が、力なくだらりと垂れた。彼女が怒るのは当然だった。いくら精霊にとって合理的なシステムとはいえ、それが適用される人間にとってはたまったものではない。願いを叶えるために、自我を手放すこと──それはほとんど、人間を辞めるに等しい。自分が自分であるという根拠を失ってしまうに等しい。夢遊病のように、意識がないまま勝手に身体が動き回るのだ。それも、容易く命を落としうるような状況で。精霊や世界にとっては特効薬でも、戦うアイドルの身には致死性の毒だ。精霊に縋ったが最後、切なる願いと引き換えに自己を手放すことになる。いつ殺されてもおかしくない状況下で、仮死の薬を飲むようなものだ。二度と目覚めない可能性が、どうしたって付き纏う。自らの命の保障を願いに含めない限り、満開システムは容赦なくアイドルの命を願いの対価に捧げることだろう。満開したアイドルは、己の願い以外への執着を失う。満開したアイドルを止めようとすれば、たとえ仲間であっても殺される可能性が高い。精霊との契約において、失いたくないものをひとつも漏らさず列挙することなど不可能だろう。精霊にとって、アイドルは消耗品なのだ。世界を守るために必要だが、いくらでも代えのきく部品のひとつ。「アイドルをサポートする」とは、アイドル一個人の幸福のために手を貸すことではない。「アイドル」と呼ばれる偶像的総体が、世界を守るという務めを果たすための手助けを意味している。その目的に適うのであれば、アイドル一人一人の命など、掃いて捨てるような些事なのだろう。そんな存在が提示した救いの糸なんて、掴むべきではなかった。満開システムは、使ってはならなかったのだ。今更後悔したところで、灰燼と化したマヤが戻ってくることはない。打ちつける雨に飲まれるように、身体が頼りなくふらついた。頭蓋を内側から殴られるような痛みと、濡れた視界を暈していく目眩に襲われる。放心したように座りこむエレナと、肩を震わせて嗚咽するミアが歪んだ視界に映った。手のひらが異様な熱を帯びて、酸素を吸えば奇妙な浮遊感が伴った。風邪を引いた日のように、息が浅くて全身が重い。それはきっと、雨のせいではなかった。視界を覆う悍ましい夜の群れは、もうどこにも見当たらない。悪い夢は、過ぎ去ったのか。それとも、幕を開けたのか。一塊の灰が滲みゆく地面は、仄暗い曇天を映して静かに凪いでいた。