戸倉
2024-05-07 21:20:05
19130文字
Public 終わらない牧台シリーズ
 

終わらない牧台③

【ともだちって、キスしてもいいんだっけ?編】
・現パロ W23歳 会社員× V23歳 売れない役者
・高校時代からのともだち
・4年前に失踪したVと再会して同居してる
・付き合ってない、付き合ってない




 寝床の問題が解決し二か月が経った今、ウルフウッドとヴァッシュの生活はそれなりに上手く進んでいた。休日があまり被らないこともあり家事はきっちり半分に分担とはいかないが、互いの予定を確認しながら助け合って暮らしている。まさに順調そのもの。
 平日の朝、ウルフウッドは静かに行動するようになった。朝食を作るためフライパンを棚から出す時の音、食器を片づける時に鳴るカチャカチャ音、ベランダに出る時の窓を開ける音。リビングと寝室を隔てる薄い扉の向こうでだらしない顔をして眠る男を起こさぬように、そうした音をなるべく抑えるよう心がけていた。
 しかし、どんなに音を出さないようにしてもヴァッシュは数回に一回はちゃんとウルフウッドの出勤前に起きてきて、目をしょぼつかせながら「いってらっしゃい」と見送ってくれる。
 無理して起きてこなくてもいいと伝えた時、たまには自分がネクタイを選んでやらないと会社でダサイというレッテルを貼られるぜ、とヴァッシュは呆れ笑いを浮かべた。それ以来、素直に厚意を受け入れネクタイ選びを任せている。ついでに結んでくれと頼めば二回に一回くらいは承諾してくれる。つくづく押しに弱い男。
 ふたりとも綺麗好きとまではいかないが、自分の身の回りのことをこなす能力は充分に備えており不自由はない。加えて問題点があればすぐに相手にこうしてほしいと伝えているので、今のところ大きな不満も発生していない。男同士のふたり暮らしは意外にも穏やかに続いていくものと思われた――

 その日、珍しく定時ちょうどに仕事を終えたウルフウッドが帰宅すると、いるはずの男の姿がなかった。リビングの壁に新しく掛けられた長方形のホワイトボードには、ヴァッシュの予定の欄に「休み」の文字。メッセージアプリにも何も連絡はなかったから、てっきり家にいるはずと思って急ぎ足で帰ってきたというのに。
 カーテンが風にそよそよと揺られるのが見え、窓を開けっぱなしで出かけたらしいヴァッシュの不用心さに溜息を吐く。だが、そんな苛つきよりも落胆した気持ちの方が強かった。スーツのジャケットをハンガーにかけ、洗面所に手を洗いに行こうと踵を返した時、外から聞き慣れた声が飛んできた。
「どうしてダメなの⁉」
 明らかに誰かへ宛てた台詞。鬼気迫るヴァッシュの声にウルフウッドは慌てて窓へ駆け寄り、ベランダの網戸を勢いよく開けた。
「うわっ! う、ウルフウッド………おかえり」
――ただいま、おんどれ一人か?」
 どう見ても一人だが、念のため聞いてみた。狭いベランダに一脚だけ置かれた丸椅子。ウルフウッドが長時間煙草を吸う時用のそこへ腰かけたヴァッシュが目を白黒させている。黒い瞳の興味が自分の手元に集まっていることに気づいた途端、ヴァッシュはさっと頬を染めて冊子のようなものを後ろに隠した。
――もしかして、台本?」
「っ、う、……はぁ」
 ぐったりと項垂れて、ヴァッシュは頷く。
「おどれなぁ、お隣さんも日中は仕事やろうけど、事と場合によってはビックリするやろ。練習なら家の中でやったらええやんけ」
「うん……そうだね。ていうか君、今日は帰ってくるの早くない?」
「こんな日があってもええやろ。それに今日はおどれが家におるん知っとったし」
「僕が家にいると、早く帰ってくるの?」
「ん? いや、なんちうか、あんまり休日も被らんから、ゆっくり話せる平日なんて滅多にないしな。そんなことより飯まだ用意してへんやろ? たまには一緒に作ろうや」
 柔く目尻を下げた男が洗面所へ手を洗いに行く背を見送り、ヴァッシュはのろのろとした動きで室内に戻る。
 互いの予定をホワイトボードに書くというルールを決めた時、正直なところ面倒でしょうがなかった。規則正しい生活リズムのウルフウッドにとっては書くのが簡単でも、ヴァッシュはそうはいかない。かといって適当なことを書けば、ウルフウッドが不機嫌になるのは目に見えている。だが、今日のようにヴァッシュが家にいると知って急いで帰ってきてくれるなら、このルールをそこまで窮屈に思う必要はないのかもしれない。ヴァッシュは手を洗うため、軽い足取りでウルフウッドの後を追った。

 ✧

 シャワーを済ませたウルフウッドがリビングへ戻ると、ソファで胡座をかいたヴァッシュが台本に向き合っていた。ぶつぶつと念仏を唱えるかのように頭へ台詞を叩き込んでいる姿は異様に映る。
「なぁ、そないな小声でやっても意味ないんちゃう? さっきはジャマしてしまったし、相手役なったるから練習するか?」
「はぁ? いやいや大丈夫」
 ヴァッシュは拒絶を剥き出しにし、両脚を抱え込みながらソファの端の方へと身体を寄せる。
「まぁワイは演技なんぞできひんから、読むだけやけど」
――ほんとに、ダイジョーブ。練習は一人でいいんだ」
 すいっと視線を逸らし、ヴァッシュは口を噤む。当然、ウルフウッドは演技に関しては素人も甚だしく、各々役者によって覚え方にこだわりもあるのだろうと思う。だが、ヴァッシュにしては強めの拒み方や余所余所しい態度がどうにも引っかかる。
「ちょお見せてみ」
「あっ、ダメ、部外者に見せちゃダメなんだって! 返せ!」
「ダイジョーブやて、口堅いし」
 ヴァッシュの手元からクリーム色の台本を引ったくり、伸びてくる手に奪われないようリビングを逃げ回る。ほとんど身長は変わらないが、腕を高く上げてしまうとヴァッシュにも届かない。やがて無駄だと判断したヴァッシュは肩を落としてソファへと沈み込み、不貞腐れた顔でヘッドレストに頭を預けた。
「ふーん、おどれ年下の嬢ちゃんにフラれる役なんか。台詞覚えとるん? 言うてみ?」
 眉を八の字にしたヴァッシュの横に腰かけ、ウルフウッドは促す。面白がっているだけならば殴ってやろうかとヴァッシュは拳を握ったが、黒い瞳は真剣で、純粋にヴァッシュの練習に付き合いたいと思っていることが伝わってくる。純度百パーセント。余計に性質が悪い。ヴァッシュは姿勢を正し、観念して腰を上げる。こんな茶番は早く済ませてしまう方がいい。

――僕じゃダメかな?」
 切なげに眉を寄せ、相手役のことを思い浮かべながらヴァッシュは台詞を紡ぐ。ウルフウッドは台本にある通りに、無表情で小さく首を振った。切実な告白が無残に散っていくシーン。それでも諦めず、縋るように相手に気持ちを伝えるというのがヴァッシュの役。
 正直なところ、台本を読んでいるだけでヴァッシュは心が千切れそうな思いだった。これまでの人生で誰かにこんなに強く想いを伝えたことはない。そんな自分がこの役をできるのかと不安な気持ちはもちろんあったが、断られても諦めきれないほど好きな人がいるというのは少し羨ましくて、それを役として表現できたらどんなに素晴らしいことだろう――そんな気持ちで今回の仕事に臨んでいた。

「君がアイツを好きなのは知ってる。でもこれだけは伝えさせてほしいんだ――
 熱の込められた演技に対しウルフウッドはまるで氷のような冷たさを秘めた瞳でヴァッシュを見上げる。これは演技。ウルフウッドは律儀にも台本のト書きにある通りに表情をつくっているだけ。それなのに、ヴァッシュの首筋にはじわりと嫌な汗が滲み、喉の奥が圧迫されたように苦しくなる。
「他の誰よりも君のこと――、す、す、き、な自信があ、……るよ」
――噛み噛みやんけ」
 ウルフウッドはくしゃりと表情を崩し、台本をくるくると丸めて膝を叩く。ヴァッシュはアイボリー色のクッションに顔を埋め声にならない声で呻いた。
「もう一回やろか」
……いや、そもそも君が相手役の女の子に見えないよ!」
「見えへんのやったらなおさら恥ずかしがる必要もないやろ?」
「屁理屈ヤロウ」
 本番でもないのに完全に火照った顔をヴァッシュは手で仰ぎ冷まそうとする。ウルフウッドは特にツッコミを入れることもなく、退屈そうにその様子を眺めていた。
 本音を言えば、ヴァッシュはこの台詞が苦手だった。誰よりも君のことを好きな自信があるなんて、どんな生き方をしていたらそんな自信が生まれてくるのだろうか。一人で練習をしている時にはスラスラ言えた台詞だというのに、ウルフウッドを目の前にするだけで言えなくなるだなんて本番が思いやられて頭を抱えたくなる。昔からの自分を知るともだちの前だから妙な恥ずかしさが出てしまっているのだと思い込もうとしたが、何度練習しても、結局同じところで台詞を噛んでしまい、やがて練習はお開きとなった。