思考せよ幸福定理 2/3
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勢いの良いいびきが扉の外からでもよく響いていたから、ノックの音は無駄とも思えた。けれど、地鳴りのようないびきの隙間で一言「誰だ」と問われる。
「私。マーガ。入っていい? 話したいんだけど」
「
……ダン様は寝ているが」
「そうでしょうね」
「
…………どうぞ」
扉を開けると、真正面のドレと目が合った。寝室とも言い難いスペースと出入口、その間で門番のように立ち尽くしていた。壁に背を預けているとはいえ、すぐにでも荒事のための踏み込みができそうな姿勢だ。仕事熱心なこと。
「悪いわね、夜遅くに」
「かまわない」
後ろ手でドアを閉める。私が一人と見て、ドレはようやくサーベルの柄から手を離した。護衛役としてその行動は正しい。
ダン様の高いびきの中では日常会話もままならなさそうだったので、ドレとの距離を詰める。
「ダン様も寝てることだし、単刀直入に訊くけど。夕食の時のあれについて訊こうと思って」
「
……見苦しくてすまなかった」
「そうじゃなくて。ドレは何か気になってることがあるのよね、推測だけど」
考え事をする時に共通して見られる仕草は手元を無為に弄ることだ。そんな慣れない推測は一応当たっていたらしい。ドレは眉を寄せ、ともすれば険しく睨みつけていると取れそうな表情で、ぽつりと零す。
「ある。前々から悩んでいたことで、隠すことでもないけど、その
…………ただ話す機会がなくて。とにかく悩んでいたんだ」
「何に?」
「ダン様に
……その。契約書、とか。そういった類のものを書いてもらうべきだろうかと」
契約書。
ドレの言った悩みは予想外をさらに超えて素っ頓狂で、私はぽかんと口を開けてしまった。
「それ、するなら旅を始める前にするべきじゃないの?」
「えっ
……マーガレットはもう何か交わしているのか?」
「してないけど。そんなものいくらでも破棄のしようがあるし、下手に公的なものを作っても管理と悪用に悩みそうだし」
「そ、そうなのか
……」
ドレは想定が崩れたとばかりに俯く。ディ・モルダーもドレも、もとよりダン様もわりとこの手の形式的なことには疎いらしい。
特に、見返りを口約束だけで済ませて飛び出していくダン様にはハラハラさせられることもしばしばだ。けれど、そのくらい勢いで動くほうが本当は人好きもするし実りも多いんだろう。後々の不審に耐えられるか否かという問題が起こるだけで。
ドレもどちらかと言えば勢いかダン様の言葉だけで動く側の人間だと思っていたから、契約なんてものに縛られたがるなんていうのは腑に落ちない。
「それで、何を誓わせるつもりだったの」
「誓わせっ
……いや、そこまで大袈裟なものじゃない
……」
「書面に残すことは大半が大袈裟なことだと思うけど?」
「いや、だから
……私、が。旅が」
「なに?」
「
……待ってくれ、自分でも整理がついていない
……」
言うなり、ドレは下を向いて黙り込んでしまった。軍帽の鍔と長髪に隠れて表情がほとんど見えない。
こういう時の空気はどうにも苦手なので、ダン様のいびきが場をぶち壊してくれていたのはせめてもの幸いだった。
静けさに救われる人と、騒がしさに救われる人がいる。私自身は前者の人間だと思っていたけれど、実のところは後者なのかもしれない。それを知れたのも、ダン様が騒々しい世界に私を遠慮なく放り込んでくれたおかげだ。
そんな思考の中でふと私の脳裏に浮かんだのはあの、真顔で無口でよくわからない王子候補のことだった。クーフィアさんと何度かこじれたことも併せて、指揮が下手だな、と思った覚えがある。一方ドレのほうは私と違って、別行動中にどういう心境の変化があったのかは知らないがずいぶんとあの人達に好意的らしい。
とすれば今日こうしてドレが悩んでいることも、あの王子候補様との出会いや側近の人達の態度がきっかけで増幅したのだろうか。
「義務や見返りを求めた関係は、なんだか嫌だという話は
……少ししたと思う」
「そーね。でもそれと契約の話って矛盾してない?」
「自覚は、している。が、どうすればいいのかわからないんだ」
ドレは弱り切った言葉を口にしてから、がばりと顔を上げた。人が何かを訴えるときのまなざしだ。鋭く険のある翆緑の瞳も切れ味が悪く、この時ばかりは鈍い私にも不安がありありと伝わるほどだった。
「ダン様は
……うまく言えないが、受け入れてくれる人、だと思う。至らなくても次を期待してくれる。だから期待に応えたいと思う。でも、だからこそ怖い。
『おまえはもう十分だ』と言われたら、どうしたらいいんだろう。
その先は? 私達の『これから』は取り止めになってしまうのか?
それだけが、とても、こわい」
ドレの声は悲壮に満ちていて、でも、中身は馴染んだものだった。
だってそんなことは、誰もが。
ダン様を慕い、ダン様の手に引きずり上げられて、あの人の力になりたいと思った誰もが。
一度と言わず、おそらく一生は!
私と同じところで躓いているドレを引っ張り起こすために、私はさらに声を冷たくする。
「なおさら契約なんて愚の骨頂じゃない。期間が終わればハイ終了、条件が満たせなければサヨウナラ。それが一番嫌だっていう話なんじゃないの?」
「いっ、嫌だ! 嫌だ、嫌だが
……」
ドレはまるで子どものように首をぶんぶんと横に振った。そして乱れた髪もそのままに、力なく言う。
「いっそこの嫌な予感が現実になっていれば、もう悩まずに済むかもしれないと思う時があるのだ」
深く。
深く深く深くため息が漏れた。
ドレは疲れているんだと思う。自分で思っているよりもきっとずっと深刻に悩んでいるんだと思う。でも、思考の放棄は一番の愚策だ。
吐いた分だけ息を吸い込む。向こうで寝ているダン様のことも、いったん脇に置いておく。どうせ起きないということにさせてもらおう。ここでドレが折れてしまったら、ダン様だって損をするだろうから。
吸い込んだ息を、目いっぱいの声に。
「バーカ!!!」
こんなもんは一言で一蹴できる話だった。
「はっ
……ば、馬鹿!?」
「バカよ。認めてあげるわ、どうしよもないバカよ。バーカバーカ。ふん」
らしくもなく知性の欠片もない罵倒を浴びせる。内心、気を損ねるか冷や冷やしたけど、ドレはむしろ困惑しているらしかった。相手が手を止めているなら追撃するに限る。私はさらに口を開いて、一番の痛いところに切り込む覚悟をする。
「それで、嫌な予感を自分で現実にしておいて、なったらなったでガッカリするんでしょ。それでも、事前に覚悟できる分、いきなり見捨てられるよりマシだものね。
でも、思考の放棄は進歩の放棄よ。ドレは、ダン様と
……私達との関係を、終わらせたいって言ってるようなも」
「それは違う!!!」
思いのほか、返ってきた声は大きかった。それに密やかに安堵する、私が一番の卑怯者である。
「違う、もうわからないんだ、どうしたらいいのか、このままでほんとうに大丈夫なのか、わからないだけなんだ
……」
「
…………知ってる」
このままずっと永遠に旅を続けることはもちろん叶わない。一生同じものを見続けて、同じ人と付き合い続けることはとても不可能だ。この長いようで短い旅の間で、私は何度も考えて、何度も結論を確かめた。
不可能だ。
だから、違う形を見つけ出さなければいけない。一時離れたとしても、まったく別の方向を見つめることになったとしても、つながる何かを編み出さないといけない。私のとてつもなく不得意な、答案用紙が無い分野において。
「それでも、そんな馬鹿げた事は止めなさい」
「じゃあどうしろと言うのだ! 私は、私はきっと、ダン様の傍でないと駄目だ。力になるならあの人のためが良い。あの人以外のために振るう剣は、持っていない」
「それでいいじゃない」
私はきっぱりと言い切る。これが答えなのだとはったりをかます。
「ダン様のために動きたいんでしょ。じゃあそれでいいのよ。それだけでいいの。余計なリスクを負う必要なんてない」
「でも、それでは」
「日々の食事に毒が盛られてる可能性を本気で検証したことはある?」
「
…………は?」
流れがぴたりと止まった。
「王になるためにてっとり早い方法はね、他の候補者全員を殺してしまうことよ。でも皆それをしない。側近がいるからというのもあるでしょうけど
……世の中に短絡的な人間は実に多い。生き残りが怪しまれるのは当然のこと。世の中に感情的な人間はもっと多い。疑心の上で国は成り立たない」
「おい、なんの話を」
「同様に毒殺というのは存外現実的じゃない。仮に料理に仕込むとして自分が調理者なら自分が真っ先に疑われるし配膳者なら人の目に留まるリスクや想定外の者に当たるリスクを天秤にかけないといけない。人を雇うのも得策じゃない。協力者を作るというのは弱みを握られるということ。計画は中心から遠ざかれば遠ざかるほど人任せになり、人任せになればなるほど不確定要素が多くなる。だから私達は毒見を最小限にしかしない。日々の食事に毒が盛られている可能性は、心配症の宰相達が思うよりもずっと低い。少なくとも、確率上においては」
穴のある理論であったとしてもかまわない。捲し立てることが肝要だった。勢いで流される人が一定数いるということは、ダン様の動きと、そんな彼に揺らがされた自分の実体験からわかっていることだった。
「ドレが思ってる不安だって。リスクを考えれば起こる可能性は微々たるものなのよ。
いい、まずドレが戦闘で使い物にならなくなったとしましょう。それでダン様がドレを手放した場合、周囲の人間はこう考えるでしょうね。『あれだけ尽くしたドレが捨てられるなんてひどい、ダン様は損得勘定で物事を考える人だ。』そんなの当たり前のことだけど、それだけで毛嫌いしちゃう人もいるみたいなのよね、不思議なことに。
とにかく人望で首の皮を繋いでるダン様にとって失望は致命的よ。ダン様自体は言っちゃなんだけど、頭もそう良くはないし、訓練で部隊長に負ける程度には弱いわ。周りの人間の手を借りれる、という一点のみがダン様の強みでもあると言える。私達が集まってるのもダン様が中心にいるからだもの。
そんな人が、自ら悪評や部下の不審を買うような真似、すると思う?」
「いや
……その、というか、マーガレットが思う理由とは違う形でだが、ダン様は人を見捨てるような方ではないと思う。そこは確信している」
「なら話は早いじゃない。ドレのその考えは杞憂。私達は今まで通り、ダン様の力になってればいいのよ」
「
……そうできないから困っている
……」
「じゃあ、杞憂に悩むしかないんじゃないの。仕方ないわよ、それがダン様と一緒にいるっていうメリットを取ったうえでのデメリットなんだから」
「仕方ないのか」
「仕方ないわよ。人付き合いなんて、利害の一致と『仕方ない』の妥協でなりたってるんだから」
「
…………」
これまた私のらしからぬ感情的な括りに、ドレはそれなりに思うところがあるらしかった。延々と不安を示していた瞳はようやく正面で、私の顔を直視して留まる。本当にそうか、と無言で確かめるようなその目を、私は黙って見つめ返す。
ドレの奇行の原因も“わかった”。それならもうここにいる理由はない。
「言い分は納得したわ、」と最後に告げて退室しようとする。するとドレが「待て、」とひときわ重い口調で言った。足を止めた私に、ドレは一言、呟く。
「
……ありがとう」
「それは何に対してのお礼?」
「私の話を、訊こうと思ってくれて。聞かせてくれて。嬉しかった。
考えてもどうしようもないけれど、どうしようもないとわかったうえで、悩むことにする」
解決に至らないとしても、向き合うことはやめない。それはドレにとって、本人が思っている以上の重荷になるだろう。
でもなんだかその結論は、武骨なドレらしかった。
頬が緩む。“らしい”なんて言葉も理論的じゃないのに、なんで気づくと嬉しい響きなんだろう。“らしい”を把握できるだけの関係。こうやって夜分に部屋へ割入って、一方的に言うだけ言った私のことも、ドレは“らしい”と思ってくれるだろうか。
そうだったら、少し、うん。けっこう嬉しい。
「
……そう。じゃ、遅くまでありがと。おやすみ。ダン様も」
「ああ。良い夢を」
ダン様のほうの返事はいびきだった。思わず漏れる笑い声をそのままに戸を閉める。
私も、寝ないと。
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