柚鈴
2024-02-28 13:01:32
14346文字
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でぃあぷろSeason2 精霊

解説
①プラトンのイデア論と洞窟の比喩、バークリーの「存在するとは知覚されることである」という考えを借りてきてます!idealの語源がイデアなの知ってにこにこしちゃった☺️
②前史Season2のラストをイメージしながら書いてます!
③知っちゃった共和国アイドル視点です!ノリが軽くて無責任な女子高生、をイメージして書きました。可哀想。
④Cogito, ergo sum.:デカルトの「我思う、故に我あり」です。序盤理屈っぽい話ばっかりでごめん…;;同一性の話とか過誤記憶の話とかは下調べしてから書いたつもりだけど、間違ってるところがあれば申し訳ないです!精霊パワーということで…
⑤ミザリーちゃん初出&精霊の分裂匂わせ回です。帝国精霊さん、湿度高くて可愛い。やってることは全然可愛くないですが。


 目に飛び込んでくる景色のすべてが信じられなくて、脳が理解を拒んだ。だって、そんなの、おかしいに決まっている。誰が見たって、間違ってるって言うに決まっている。さっきまで、目の前に聳え立っていたのは、紛れもなくサクリファイスだった。月夜の背後に蠢くような暗闇だった。宇宙の隅っこを掬ったみたいな色の化け物に向かって、私は刃を突き立てたのだ。なのに、なのに──どうして目の前に、人間が倒れているのだろう。自分よりもずっと幼く見える少女が、夥しい量の血液を流しながら倒れているのだろう。サクリファイスの弱点を狙って、攻撃を当てたはずだった。人だったら心臓にあたる部分を突けば、簡単に倒せるよ。指導役をしてくれたセンパイは、そう教えてくれたから。アイドルになっても分厚い眼鏡をかけた彼女の真面目腐った説明は、半分くらい適当に聞き流していたけれど。自分にとって有益なアドバイスだけは、要領よくメモして覚えていたから。サクリファイスの心臓めがけて、思いきり剣を突き立てた。やけに生々しい手触りを、はっきりと覚えている。薄くて軽い肉塊を貫いたような感覚。悪趣味な幻覚のようなそれが、本物だったとでもいうのだろうか。見下ろしたすぐ先の地面に倒れた小さな身体の、ちょうど左胸のあたりに。私の固有武器だった、オレンジのユリを模した長剣が、全身を貫くように深々と刺さっている。肋骨を折り、心臓を抉った剣先から、どくどくと止まることなく真っ赤な液体が溢れ出している。どう足掻いたところで言い逃れは出来ない。目の前に倒れた少女を殺したのは、間違いなく私自身だった。なんで。どうして。私はただ、アイドルとしての使命を果たしただけなのに。サクリファイスを倒しただけなのに。さっきまでは確かに、どこにも少女の姿は見当たらなかった。見慣れた闇色だけが、視界を覆っていた。あれはまったくの幻覚だったとでもいうのか。少女の姿が偽装されて、夜に染められていたとでもいうのか。ありえないだろう、そんなこと。だってアイドルは、正義のヒロインのはずなのだ。幼い頃からそう教えられてきた。両親も先生も、テレビだってそう言っていた。アイドルが、自分と同じ人間を殺すなんてこと、あるはずがない。あってはならない。なのに私は、人を殺してしまった。鮮血の匂いが鼻腔を突いて、喉元に胃液がせり上がってくる。頭の中がぐちゃぐちゃに掻き乱されて、正常な思考なんて出来るはずがなかった。
「あーあ、気付いちゃったかあ」
 頭上から突然降り注いだ声に、びくりと肩が跳ねた。人を殺してはいけない。幼稚園に通うような幼い子供だって知っているような、至極当然の社会規範。それを、私は破ってしまった。人を殺したら、どうなるんだろう。殺人犯が捕まったニュースなんて、これまでの人生で何度も見てきたはずなのに。あの人たちは、どうなっていたんだっけ。見つかって、警察に捕まって、それからどうなるんだっけ。私は悪くないって、何も知らないって、どうしたら信じてもらえるんだろう。助かる方法を必死に思い巡らせるけれど、必要な部分だけが黒塗りされているかのように、知りたいことがひとつも思い出せない。こんなことなら、公民の授業だけでも真面目に受けていればよかった。騒いでいないで、真面目に話を聞けよ。自分の生活に直結することだぞ。生徒指導も兼ねていた、嫌いな社会科教師の声が不意に蘇る。そんなの、今思い出したってどうしようもないよ。もっとちゃんと初めから、大切だって言っておいてよ。痙攣する瞼を懸命に持ち上げて、やっとのことで上を向く。弾むような幼い声の主が、私を覗き込んでいる。精霊だ。見つめていると吸い込まれそうな、漆黒の瞳と目が合った。お手本みたいに綺麗な二重に、長い睫毛。誰もが羨む造形の中心に据えられた双眸には、一切の光が灯っていなかった。声だけが無闇に楽しそうなのに、その目は少しも笑っていない。蛇に睨まれた蛙のような、絶対的な捕食者を前にしたときのような、本能的な恐怖を覚えた。殺したことが、精霊にバレた? 否、違う。彼女はさっき、こう言った。気付いちゃった。きっと私は、禁忌を犯してしまったのだ。どうしてかは分からないけれど、知ってはいけないことを知ってしまった。だから。だから精霊は、口封じをしようとしている。背筋を伝う恐怖の理由を察して、手足が凍りついたように動かなくなった。全身が意思に反して震えて、逃げ出したいのに足が動かない。その場にいるだけで、自分を構成しているものが容赦なく削られていくような感覚。
「一回だけだったら、記憶を消すだけで許してあげたけど……覚えてるよ、おまえは二回目だもんね。二度あることは三度ある、って話を聞いたら、ちょっとめんどくさいなあって思っちゃうよね」
 遠足のお菓子を選ぶ子供みたいな笑顔を浮かべながら、精霊は訳の分からない言葉を紡ぎ出す。記憶を消す? 二回目? 何の話だ? 心当たりは一つもない。それでも、目の前の精霊が凄まじい怒りを纏っていることだけは、乾いた脳でも辛うじて分かった。
「アイドルになったとき、ちゃんと説明したよね? ちゃんと変身薬は毎日飲もうね、最悪の場合は死んじゃうよ〜って! なのに、どうして守らなかったの?」
 こちらを責めるような口調に、私の側にどうやら非があるらしいことを、ようやく理解した。だけど、何が悪いのかは分からない。理不尽に叱られることが多すぎて、相手の話をきちんと聞くことが不得手になっていたから。変身薬? 精霊の告げた言葉に、ようやく思い出す。アイドルに変身するために必要だと言われて、精霊から受け取っていた薬だ。毎日忘れずに飲むのは面倒だったけれど、アイドルではいたかったから、毎日欠かさずに摂取していた。だけど数ヶ月前、テスト勉強に忙しくて薬を飲み忘れてしまった日。変身薬を飲んでいなくても、これまでと変わらず変身出来ることに気付いてしまったのだ。わざわざ面倒な思いをしなくても、アイドルでいられる。そう知ってからは、薬を飲むのもサボりがちになった。最後に摂取したのはいつだったか、思い出せないほどに。
「飲まなくても変身出来るから、必要ないって思った? 何の意味もない薬を、わざわざ精霊さんがおまえに渡してると思った?」
 無邪気な笑顔を崩すことなく、精霊が淡々と告げる。図星だった。彼女の言うとおりだった。だって、この世の中には形骸化したルールが多すぎる。人の悪口を言っちゃいけません。信号はきちんと守りましょう。言いつけられた無数のルールをすべて守り通している人間が、いったいこの世界に何人いるだろうか? メイクや携帯禁止の校則だってあるけれど、真面目な一部の子しか守っていない。成績を気にする優等生様は、窮屈で可哀想。そんな風に思っていた。どれもこれも、大人の言うことを聞かせたいだけの無意味で無駄な慣習だ。アイドルに言いつけられた変身薬だって、それと同じだと思っていた。アイドルを従えるための、意味のないルールだと思っていた。
「最悪死んじゃうよ、って最初にちゃーんと警告してたんだから……本当に死んじゃっても、文句はないよね?」
 色濃く煮詰めた光のない黒と、アンバランスな幼い笑顔。どことなく感じた既視感の正体が、ふっと脳裏を掠めた。数年前の夏休みに会ったきりの、六歳年下の従弟。真夏の公園で懸命に蟻を潰そうと試みていた彼と、よく似た表情だった。弱者の命を摘み取る、悪意のない笑顔。全身から血の気が引いた。殺される。現実味のない言葉が、心臓を殴りつける。精霊は本気だ。僅かな躊躇いもなく、私の息の根を止めようとしている。私の人生を終わらせようとしている。
「ごめ、ごめんなさい……! もう忘れないから、ちゃんと、ちゃんと守るから、殺さないで……!」
 無意識のうちに握りしめていた手のひらから、ぬるい冷や汗が滴った。さっき知らずに少女を殺した瞬間の、生々しい手の感覚が蘇る。深く抉られた傷口が衣装ごと真っ赤に染まっていた、無惨な死体の様子が瞼に焼き付いている。私も、あんな悲惨な姿に変えられるのか? 何の抵抗もできずに、物言わぬ死体になってしまうのか? どうして、私だけ。些細なルール違反なんて、私だけがしていることじゃないのに。どうして私だけが、こんな理不尽に晒されているんだ。人を殺したから? 排水溝に平たく溜まった泥水みたいな、澱んだ堂々巡りの思考を遮るように。精霊がゆっくりと、真っ赤な唇を開く。
「それ、この間見たよ〜。もう、つまんない」
 被告人に判決を言い渡す女王陛下のように、精霊は私を真っ直ぐに指さして告げた。
「じゃあ、バイバイ」
 あまりに簡潔な別れの言葉を最後に、私の意識は途切れた。