らい
2022-02-25 20:04:50
26508文字
Public こはひめ
 

鍵を拾ったその時に

こはひめ ※オブリ前注意




5.


「それではHiMERUさん、こはくさん、ご馳走様でした」
「あ、ありがとうございましたァ~……

『愛★スタ』の慰労会と化した食事を終えて、ESビル一階のカフェシナモンを出る。
 巽とマヨイは、これから上階の会議室にてALKALOIDの打ち合わせに参加するらしい。せっかくの空き時間もミーティングで埋まるほど、多忙を極めているのだ。最近の食事もロケ弁がほとんどだと聞くし、今が稼ぎ時といえども、少しばかり同情してしまう。
 そういえば、藍良はぐっすり眠れただろうか。別れ際、まぶたをとろんと伏せながら寮に戻っていったから、うっかり寝過ごしてしないか心配になる。疲労困憊の友人を案じつつ、こはくはエレベーターに乗り込むふたりを見送った。

「ラブはんの体調、気ぃ遣ったってや」
「ええ、気に留めておきます」

 さりげなく伝えると、巽は「ありがとうございます」と頭を下げる。完全に扉が閉まるその瞬間まで、優美な笑みを携えていた。紫陽花の瞳は穏やかに灯り、巽をよく知らないこはくですら、底知れぬ安堵に包まれてしまう。かつての玲明学園では多くの生徒に慕われていたらしく、現在のALKALOIDでも絶大な信頼を寄せられているのも納得がいく包容力である。
 巽に寄りかかっていたHiMERUも、果たしてそうだったんだろうか。エレベーターの階数が2F、3Fと点滅するのを確認しながら、そんなことを考える。だが、眉間にとつぜん眠気の重力が押しよせた。今日は撮影の仕事をこなして、シナモンで食事をしただけなのに。いかんせん考えることが多かったせいで、ひどく疲れた。
 こはくはふあぁ、と欠伸をこぼしながら、うんと腕を伸ばす。すると、指の関節がHiMERUの肩にとん、と当たった。寝ぼけた瞳で振り返れば、HiMERUがきょとんとしている。眠りかけていた意識が覚めて、こはくは慌てて詫びた。

「ぶつかってもうた。痛ない……?」
「HiMERUは、問題ありませんよ。桜河は小柄ですし、扉をノックする程度の愛らしい衝撃です。HiMERUがよろめくことはありません」
「む……。それもそれで、複雑やけど……まぁ、えぇか」

 HiMERUの認識はまったく腑に落ちないが、これ以上の追及はさほど意味があるまい。愛らしいと評価されているのなら、たくましいと称されるまでたゆまぬ努力を重ねるだけだ。頭のなかで「こはくさんを高いたか~いできなくなるのは、淋しいなあ!」と豪快に笑ってのける斑を押しのけて、苦し紛れに腕をぐるぐる回してみせる。同室のジュンに、筋肉トレーニングを教わらなければ。
 こはくの子どもっぽい仕草が面白かったのか、HiMERUは「ふふ」を笑いを堪えて、口元を手の甲で隠す。瞳の輪郭が細くなっても、本来の美しさは変わらない。長いまつ毛が影をつくることで、かえって優雅に映えている。男が、男に抱く感情としては不当かもしれないけれど、まるで月夜の湖畔に咲く花のように、きれいだった。なんの変哲のないエレベーターホールでさえも、とくべつな場所になる。性別も、場所も、これまでの想いも、なにもかも忘れてぼうっと見惚れるひとときが、こはくには大切な宝物に思えた。

「桜河?」

 もう一つのエレベーターが到着し、開扉を知らせる鐘の音がちんと鳴り響く。こはくはハッと我に返って、苦笑いをこぼした。
 考えごとに気をとられるなんて、最近は本当にどうかしている。潜入捜査の最中じゃなくてよかった。背後に立たれていたら、あっという間に心臓を貫かれていただろうから。

「HiMERUはんは、この後どうするん?」

 こはくは話題を変えて、HiMERUに問いかけた。淡々と座った目元はそのままに、HiMERUが答える。

「HiMERUは、寮に戻ります。ファンの皆さんからいただいたファンレターのお返事を書きたいので」
「そか。……わしも眠なってきたし、今日のところはさっさと風呂にでも入って、店じまいするわ。っちゅうわけでHiMERUはん、寮まで一緒に帰ろ?」
「ええ。そうしましょうか」

 こはくは、HiMERUと肩を並べてビルの出口に向かった。資料とスマートフォンを持って、忙しなく移動するES社員に会釈しながら、他愛のない会話とともに歩み始める。
 これでいい。今までどおりに、なんてことのない話を延々と繰り返して、のんびりと帰路に着く。HiMERUとは、そんな関係を築くべきなのだ。一歩ずつ足を進めながら、こはくは必死に言い聞かせる。
 ほんとうは───辛いとき、悲しいとき、負の感情を秘めないで、どうか打ち明けてほしい。できることなら、その相手は桜河こはくであれと、密かに願ってしまうけれど。
 酒なんて飲まなくたって、グラス一杯分の水で永遠に粘りたい。お洒落なコーディネートを考えるのは下手くそだけれど、ほんとうに好きなものが見つかるまで、片っ端から探したい。
 けれども、座敷牢に幽閉されているだけの子どもじゃない。外の世界に飛びだした立派な大人だ。心の奥にひた隠しにしているありのままの自分を、HiMERUが誰かに晒けだせるなら、今はそれで充分なのだ。
 自分じゃなくたっていい。巽であってもいい。それで構わない。
 何度も、なんども胸に刻みこんで、こはくは笑ってみせる。たとえ口角が引きつったとしても。

「それにしてもニキはんの料理は、絶品やったなあ」
「ええ。HiMERUもそう思います。……量は、規格外でしたが」
「わしらのために張り切ってくれたんは、嬉しいけどな。何はともあれ、巽はんとマヨイはんが来てくれて助かったわ」
「はい。HiMERUと桜河だけでは、到底食べきれなかったのですよ。……まあ、『第二弾』とかいう、最悪な置き土産を持ってこられたのは余計でしたが」
……ああ、ジューンブライドの……

 例のプロデューサーは、HiMERUと巽のペアを絶賛しているらしい。ユーザーからも好評の声が寄せられているようで、第二弾の企画が進行していると、巽が話していた。
 遠ざかろうとしているのに、どうしたって近づいてくる。こはくは唇をぎゅっと結んで、深々と息を吸った。己の尻を叩いて持ち直していた気分が、ふたたび泥沼に降下しそうになり───HiMERUが急に立ち止まる。率先して話題を振っておいて、まさか自爆でもしたのか。いささか捻くれながら、こはくは振り返る。
 HiMERUは眉間にしわを寄せながら、まるで呪詛でも吐きかけるかのように、こはくを睨みつけていた。滅多に披露したがらない、負の感情がふんだんに含まれた顔面。こはくは、ひゅっと喉を鳴らして、後ずさる。

「ひ、HiMERUはん……?」
……思い出すだけで、苛々するのですよ」
「急になに怒っとるん……?奇天烈なプロデューサーはともかく、巽はんに罪はないやろがい」
「奇特なプロデューサー。そして脳内一面花畑の巽には、当然ながら腹が立っていますが。……桜河、貴方もです」
……あ?」

 ふたりのあいだに沈黙が流れる。三秒ほど経ったのち、こはくの頬が急激にしぼんだ。両手いっぱいに鷲掴みにされたのである。

……HiMERUの『旦那はん』と。……巽のことを、そう呼びましたね」

 穏やかなトーンで語りかけてくるくせに、目はちっとも笑っていない。美しく整った眉をいびつに吊りあげ、唇をわなわなと震わせている。まるで物語の終盤で豹変する、サスペンス映画の黒幕のようだった。
 こはくは額に汗を滲ませながら、シナモンでの出来事を思い返す。そういえば巽を『旦那はん』と呼んだとき、怒りの炎を静かに燃やしていた。あれから時間が経っているのに、まだ気にしていたのか。
 こはくはHiMERUの手首をどうどうと撫でながら、困り顔で弁明する。

「あれは……ちゃうやん?流れ的にあの呼び名が、正解やったっちゅうか……
「はい?」
……まだ、根に持っとるん……?」
……『まだ』?」

 どうやら地雷を踏んでしまったらしい。こはくの頬はぎゅっと掴まれ、縦横無尽にこねられる。燐音に『かわいいでちゅね~、よちよち』と赤ちゃんのように遊ばれることはあっても、HiMERUに制裁を受けるのは初めてのことだった。
 ちゃうやん、ちゃうねん、ちゃうやろ、ちゃうって!『ちゃうちゃう』を何度も繰り返しているが、HiMERUの襲撃は終わらない。むぎゅ、と頬を押し潰され、こはくは無抵抗の弱者となる。

「桜河。この頬を、もちもちのパン生地にされたいのですか?」
「ひ、ひめゆひゃん、じょうだんやって。かんにんな、いたい、いたたたたたた」
「今後、巽を『旦那はん』と呼ぼうものなら、HiMERUとて容赦しませんよ。痛みをもって反省するのです、桜河」
「わかった、わかったから離してや、HiMERUはん」
「何がどうわかったのですか?説明してみてください」
「HiMERUはん、気を確かに!な!」
「HiMERUは、いつでも正常なのですよ!」
「う、うう、むう、ふぐ、わ、わし、まさか、そこまで怒るっち思ってなくて───」

 そこで、こはくは目を見開いた。
 HiMERUはんは普段、ちぃともそういう悩みとかを表に出さへんから。悩みっちか、怒りとか嫉妬とかの負の感情を───やわらかな頬を弄ばれている今だけじゃない。「冗談でも許さないのですよ、桜河」とコップを置いたあのときも、HiMERUは不満をあけすけにぶち撒けていた。そういった感情を遠慮なしにぶつけるのは、巽だけだと信じこんでいたけれど、こはくにだって晒してくれている。その事実に、やっと気が付いたからだった。
 Crazy:Bのように、ありのままに生きること。ファンシーショップで語り掛けたとき、HiMERUにはその場で強制できなかった。だってこはくは、HiMERUのことをなにも知らないのだ。好きなものも、嫌いなものも、HiMERUがHiMERUでいる理由さえも、不透明によどんでいた。なんの事情も知らない以上、家柄から解き放たれた己の生き方を、一切の忖度をしない彼らの自由を、HiMERUに押しつけるわけにはいかなかったから。
 わし、HiMERUはんのこと、なんも知らんもん。
 固く閉ざされた扉の奥に、ひっそりと語りかけた言葉。HiMERUの心に、ちゃんと届いたのだろうか。ずっと胸の内に秘めてきた、負のかたまり。その一部を、HiMERUなりに解き放ってくれているのだとしたら───僅かに開かれた扉のすきまから、ほんの少しだけ、まばゆい光がこぼれたような気がした。夏空に燃える太陽ほどの勢いはないけれど、こはくの頭を覆い尽くす霧が晴らすには、じゅうぶんの眩しさだった。

……HiMERUはん」

 頬をいじめ抜いていたHiMERUの手を取って、ぎゅっと握りしめる。こはくの手の平よりも、すこしばかり大きいそれ。ゆっくりと輪郭を重ねあわせて、温もりを確かめる。涼しげな容姿とはうらはらに、春の夜に吹く風のような生温かさがそこにあった。
 知らなかったことが、また増えた。こはくはひとしれず嬉しくなって、頭一個分の高さにいるHiMERUを見つめる。気だるげに息を吐いて呆れ返っていたけれど、これまで包み隠していた表情を見せてくれたことが喜ばしくて、胸の奥がぽっと温かくなる。
 閉じられたドアノブに触れたとき、扉の先には一体なにが待っているのだろう。もっと知りたい。もっと見せてほしい。もっと、教えてほしかった。透き通る春の陽ざしに包まれたこころは、花と舞う蝶のようにひらりと羽ばたいていく。
 ちょっぴり内気で、自己主張がニガテな子。
 はっきりと物を言っちゃうぐらい、気が強い子。
 なァんにも考えてなくて、マイペースに生きてるような子。
 真面目で暴走しがちな子。
 ドジだけど笑顔がラブ~い子。
 ネガティブだけど努力を怠らない子。
 のっぺらぼうの女の子たちが一斉に道を開ける。ずっと持て余していた感情が、ひとつの鍵となって光り輝いた。

「急に、なにをするのかと思えば」
「あかん?」
「あかんも何も、デートの収録はもう終わったのですよ」
「ちゃうよ。わしにとっては、今からようやっと本番や」
「それはどういう意味ですか、桜河?」
「コッコッコッ。当ててみい?」
「はい?」
「得意やろ、推理するんは」
「意味がわからないのですよ」
「ほな帰ろか」
「桜河!」

 こはくは軽快に笑いながら、HiMERUの手をぐいっと引っ張った。

「今日の桜河は、ちっとも可愛くないのですよ」

 ぶつぶつ文句を並べるHiMERUを愛おしく眺めながら、自動ドアの前に立つ。願わくば、扉の向こうにたくさんの答えが待っていることを信じて、こはくは一歩、踏みだした。
 恋って、なんだろう。
 言語化するのは難しいし、正確な定義はきっと答えられない。それでも誰かを想うとき、深いふかい海の底に沈んだ鍵が、春風の吹く地上をめがけてキラキラと浮かぶ。
 落ち込んだって、傷ついたって、ぬしはんのことをもっと知りたい。
 恋とは多分、そういうことなのだ。