らい
2022-02-25 20:04:50
26508文字
Public こはひめ
 

鍵を拾ったその時に

こはひめ ※オブリ前注意





4.


……『愛★スタ』とやらのプロデューサーが考えていることは、HiMERUにはさっぱりわかりません。
 あらゆる仕事に慣れているHiMERUはともかく、こういった収録が初めての桜河はさぞかし大変だったろうと推測します。ほら、桜河は『そっち方面にはとんと疎くてなあ』と話していたでしょう。
 それにしても、桜河にとってデートは、『手を繋ぐ』なのですね。……ふふ、HiMERUは、決して桜河を馬鹿にしているわけではありません。ただ、世の中には、そういった順序を飛ばしていきなりベッドに誘うような、下衆な男もいるのですよ。
 おっと、桜河にはこの話は早すぎましたか。要するにHiMERUが言いたいのは、桜河の考えるデートは上出来だったということです。もちろん、コーディネートの知識、デート場所の選定、有意義な一日を過ごすにあたっての理想のプラン……などなど、勉強すべきことは山ほどありますが。相手のために一生懸命に寄り添おうとする桜河は、多くの女性にモテるでしょうね。きっと素敵な女性に巡り会えると、HiMERUは思うのです。
 アイドルであるうちは、恋愛そのものが難しいかもしれませんが。気配り上手の桜河ならば、どのような女性もぴったりだと思います。
 最も似合うタイプは……そうですね。引っ込み思案で大人しい方も、行動力があって強気な方も、のんびり屋で風変わりな方も、とびきりの笑顔が魅力的な方も、猪突猛進に突っ走りがちな方も、ひたむきに努力する頑張り屋の方も……例を挙げていくと、キリがありませんが。桜河ならば、誰とでもしあわせな恋を成就できるでしょう。
 そんな運命の彼女たちと、どのような出会いを果たすのかは、さすがのHiMERUも推理できませんが……密かに予想しておくことにしましょう。答え合わせをしたいので、その時はHiMERUにこっそり教えてください。桜河、貴方が───」

 この世界のどこかにいる誰かと、恋をしたら。
 グラスに入った氷が、からんと音を響かせる。こはくは、生クリームが絡まったフォークをアップルパイに突き刺したまま、向かい席のHiMERUを一瞥した。半分ほど残っているローストビーフのサラダを咀嚼しながら、HiMERUは「それとも、内緒にしておきますか?」と微笑んでみせる。

……どうやろ」

 こはくは素っ気なく返事をすると、やや遅れてフォークを唇に運んだ。
 藍良も、HiMERUも、ふたりとも口を揃えて、きっと素敵な恋ができるだろうと信じて疑わない。こはくも思春期の少年であるからして、いつか訪れるであろう運命の出会いに興味がないといえば嘘になる。恋の実体はよくわからないが、心の底から大切にしたいと思えるひとに出会えたのなら、座敷牢に閉じこめられていたころの寂しさも、虚しさも、すこしは救われるというものだから。
 その一方で、どうしようもない感情にも突き当たる。この子が似合うんじゃないかな、そう提案される女の子たちをことごとく想像できず、一生恋なんてできやしないのではないかという疑問に苛まれるのだ。
 現場で出会ったアイドルの女の子、インターネットの海を泳いでたときに遭遇したビキニ姿の女の子、握手会に来てくれたファンの女の子。べっぴんさんじゃ、とか、メロンみたいな乳やな、とか、わしのために髪型をセットしてくれたんやね、とか、ひとりの男として当然の感情は抱くのだけれど。いざ、頭の中で想像しようとすると、可憐な女の子たちは皆のっぺらぼうに化けてしまうのだ。顔面に貼りついた白の仮面を剥がそうにも、執拗にくっついて離れない。無理やり追いかけようものなら、固く閉ざされた扉の向こうに逃げていくのだった。

「桜河。もう満腹なのですか?」

 ふと声を掛けられて、こはくはハッと我に返る。味が無くなるまでモグモグと噛み続けていたことに気が付いて、慌てて残りのアップルパイに着手した。せめて、藍良がいてくれたら、ここまで不自然に緊張しなくても済んだのに。「お誘いはとっても嬉しいんだけど、あとでまた打ち合わせがあって……。いったん仮眠とろうと思うんだァ……」と申し訳なさげに断る藍良を強制できず、現在に至る。巧みに交渉して同席を頼めばよかったかもしれないが、藍良だって連日の仕事で疲れている。これ以上の無理を強いることはできなかった。
 それに、葛藤したってもう遅い。こうなったら腹を括るしかないのだ。こはくは、成長ざかりのハムスターよろしく頬をいっぱいにして、もぐもぐと食べ続ける。

……いや、わしはもうちょいイケるわ。……たぶん」
「ふむ、なるほど。HiMERUは、少々ペースを落とそうかと」
「それでええよ。HiMERUはんは自分の胃袋だけ考えときや、わしに任せとき」
「ふふ、桜河は頼りがいがありますね。……ですが、本当に量が多いので、決して無理はしないでほしいのですよ。これだけの料理を用意してくれた椎名も、仕事でさっさと抜けてしまいましたし。HiMERUたちだけで粘るしかなさそうですから」
「せやな……

 店内のBGMに混じって、食器の音がカチャカチャと鳴り響く。角の対面席、グラスに注がれた水、テーブルに並んだ料理。これまでどおりの日常が、横たわっている。
 いつもと違うのは、大盛りの料理が乗った皿の数。そして、HiMERUに対するもどかしい距離感だった。

「───あぁ、平穏な日常とは素晴らしいものですね」

 HiMERUにとっては、『いつもどおり』の風景なのだろう。だが、路地裏でのワンシーンを目撃してしまったせいで、こはくにとっては妙に落ち着かない場所になりつつある。慣れ親しんだ溜まり場であるのに、遠いとおい異世界に招かれたような気さえした。高級レストランでも何でもないのだが、背筋をぴっと伸ばして、行儀よく食事をしてしまう。

「う、うん……。そやね」
「おや桜河。どうして微妙にHiMERUから距離を取るのでしょう」

 濃厚なデートを見せつけられたあとで、動揺しないほうがおかしいに決まっている。しかし、HiMERUは好感度がどうとか、恋愛ゲームとやらは非常に馬鹿馬鹿しいとか、涼しげな目元を光らせながら語り続ける。ため息をつきたいのはわしのほうじゃ。そう反撃したくなったが、HiMERUはこはくの心情を知るよしもない。事情を知らない相手に拗ねるのは身勝手な子どものように思えて、こはくは柄にもなく言葉をひっこめた。
 これ以上、先日の一件を深く考えたくない。割れそうで割れない、ヒビの入ったガラス細工のような不安感。そして、熱く煮えたぎる溶岩のごとく焦燥感がすべて綯い交ぜになって、心臓を締めつけるからだ。
 しかも、最悪なのは───これらの感情が生じる理由がさっぱり理解できないことだった。

「あの日、路地裏でHiMERUが巽に寄り添って求婚などをしていたのも、すべては『愛★スタ』の収録のためでした」

 HiMERUは容赦なく会話を続ける。相槌を打つだけでは間が持たなくて、とっさに水を飲んだが、喉を鳴らしたのは一回きりで、急いたくちびるに氷がぶつかるだけだった。どうやら随分と飲み呆けていたらしい。店員はレジで接客、電話応対と手が空かず、しばらく察してくれそうにない。こはくは悩んだ末に、もう一度、アップルパイを突き刺した。
 ふたりが路地裏に姿を消して、長いこと戻ってこない。もしかすると喧嘩でもしてるんじゃないかと心配して、駆けつけたのだ。今になって思えば、様子なんて覗きにいかなければよかった。そうすれば、正体不明の感情に苦しむことなんてなかったのに。後悔しても手遅れだが、それでも過去を振り返らずにはいられない。

「何や、いやらしい感じで密着して、愛を囁きあっとるHiMERUはんを───」
「いやらしくはありませんし、愛も囁いていません」

 HiMERUが首を振って、いとも簡単に否定してみせる。こはくは「う、うん」と動揺をぶり返しつつ、いっそ清々しいまでの一刀両断に少しばかり安堵しかけたが、「おや、嫉妬ですか桜河。ESにおいてHiMERUの好感度が最も高いのは桜河です」なんて呑気な台詞を並べるものだから、いよいよ呆れてしまう。恋人同士であると誤解するほどのデート現場を見せつけられたのだ。被害者の立場を、わかっちゃいない。
 そもそも嫉妬ってなんだろう。こはくは、頭のなかで反芻する。己よりも秀でた人物を羨んだり、妬むこと。あるいは、好いている人物が、他の誰かと一緒になるのを許せない幼稚な感情───恋人をとられた男でもあるまいし、やきもちを妬くなんてありえない。そもそもの大前提として、HiMERUに恋をしていなければ『とられた』は成り立たないのだ。そう、恋をしていなければ。
 あれ?恋?───釈然としない感情に、わずかに指先が触れた気がして、こはくは困惑した。生まれてこの方、一度たりとも恋をしたことがないのに、既に『知っている』感覚にとらわれたのだ。驚くほど円滑に、胸にすとんと着地したものだから、訳がわからなくなる。

「わしはてっきり、恋愛ごっこをしとるうちに本気になってしもたんやないかと……
「そんな可能性は皆無なのです」

 はっきりと断言するHiMERUに、こはくは心の底からホッとする。安堵にもたらされた鼓動は、緩やかにトクトクと脈を刻んで、これまた違和感を覚えてしまうのだった。HiMERUが誰とどう恋愛しようと自由だし、彼が幸せならばこはくもまた嬉しいはずなのだが、風早巽限定の特等席ではなく、桜河こはくの席はまだ残されている。そんな可能性が、雪雲の去ったあとの春日のように光り輝くのを感じるのだ。
 席って、なんやねん。椅子とりゲームしとる場合ちゃうで!───もぐもぐと食事しながら自問自答していると、なにやら聞き覚えのある声が響き渡った。

「HiMERUさ~ん♪」

 渦中の人物が、満を持して登場である。邪気のない爽やかなまなざしで手を振る巽に、HiMERUは眉間にしわを寄せている。なんだかんだと否定しても、やはりHiMERUにとって巽は、あらゆる負の感情をあらわにできる特別な存在なのだ。恋人というよりは、長いあいだ連れ添った夫婦のような間柄なのかもしれない。

「おっ、『旦那はん』が迎えにきたで」

 だから、なんとなく呼んでみたのだ。他人から見ても容易く解釈できるのだから、HiMERUだって心のどこかではそう認識しているに違いない。これほどまでに適切な表現はないと思われた。
 しかしながら、HiMERUは眉をつり上げ、こめかみを震わせながら、勢いよくグラスを置いた。水面に揺らめく波紋のように静かな瞳が、怒りの炎で燃えている。ゴゴゴゴゴ、と大地を揺るがす、そんな幻聴がシナモン全体に響き渡る。

「冗談でも許さないのですよ、桜河」
「怖っ……

 極道の妻よろしくテーブルを叩かれることはなかったが、美しい風貌の男が凄むと恐ろしい。どんと構えるこはくの尻が、椅子からふわっと浮いた。