黒竹
2022-06-05 01:27:15
22727文字
Public プロセカ
 

#5 BINGO!

【プロセカ】【しずあい】【花里先生パロ】みのはるも出ます。

 週が明けた月曜日。教室に入ると、小さな違和感が漂っていた。
 さして違うわけではない。教室のレイアウトが変わっているだとか、なにか大きなものが置かれているだとか、そういったひと目で分かるような変化ではなかった。
 桃井愛莉は小さく首をかしげる。ぐるりと教室を見回し、それから違和感の正体に気づいた。
「おはよう」
 自席の隣でお喋りをしていたクラスメイトたちに軽く声をかける。ファッション誌を囲んでなにやら話していた三人がこちらを振り向いた。
「おはよ、愛莉」
「ねえ、そのマスコット、どうしたの?」
 隣の子の通学バッグにつけられた小さなキーホルダーを指先で示す。違和感の正体はそれだった。デフォルメタッチのうさぎのマスコットがついたキーホルダーが、クラス中とまではいかないが、半分近くの生徒のバッグにぶら下がっている。フェルト地のそれはみんな同じデザインで、しかし色は何種類かあり、さらにリボンがついていたり表情がちょっと違うのもある。
 クラスメイトが愛莉の視線を追って「ああ、これ?」と応じてきた。
「土曜日のテレビでSHIZUKUが今ハマってるって話してたんだ。手作りマスコットのキットなんだけど、顔とかオプションパーツが色々あって自分だけのオリジナルを作れるんだよ」
 説明を聞いた愛莉は小さく肩をすくめる。「そういうことね」
「みんな好きよねー、SHIZUKU」
 納得だ。土曜日のテレビ番組で言っていたなら、みんな日曜にキットを購入して作ったんだろう。週明けに突如あらわれたうさぎの集団の理由が判明してすっきりする愛莉だ。
 モデルのSHIZUKUについては愛莉だって少しは知っている。元々はアイドルグループのセンターで、卒業してからはモデル事務所に所属してファッション誌の専属モデルや季節のコレクションに出演しているカリスマモデルだ。
 その見目麗しさと親しみやすい人柄で全国の女子高生の憧れであり、ひとたび彼女が何かを好きだと言えばこぞってそれを買い求めるという。
 よくよく見れば、彼女たちが見ていた雑誌もSHIZUKUが載っているページが開いていた。十代にはまだ少し早いような、フォーマルなジャケットを格好良く着こなした美女が微笑んでいる。愛莉は書かれている値段を見て目を剥いた。高級料亭で懐石が食べられるお値段だった。
「愛莉、SHIZUKUのこと好きじゃないんだっけ?」
「嫌いなわけでもないけど。ファッション自体詳しくないしね。第一、わたしが参考にしたって意味ないじゃない」
 スラリとした長身と長い手足。ひるがえってこちらはごくごく標準的な身長で、年齢だってそぐわない。そうでなくてもファッション誌を眺めるよりも出汁のとり方を研究しているほうが好きだし、どうもこういうのはよく分からなかった。
 もちろん、きれいな人だとは思う。こんなふうに服を着こなせたら素敵だろうなと思うこともあるし、華やかなモデルの世界に憧れるみんなの気持ちだって不思議ではない。ただ自分はそういう方面に目が向かないというだけだ。
 そういえば来月の文化祭ではみんなで作った刺繍を展示することになっていて、それもSHIZUKUの趣味が刺繍だったから話題に出たんだった、と思い出した。



 高校の文化祭なんて、そんな大したことができるわけではない。
 火を使う出店は学年につきひとクラスに限られているし、展示や他の出店も手作り感満載。
 それなのにどうしてか心が浮つく。
 愛莉は保冷バッグに入れた二段重を提げながら廊下を歩いている。そろそろ約束していたお昼の時間なので、待ち合わせ場所にしていた空き教室へ向かうところだった。そこは文化祭の実行委員会だけが使える準備室にあてられており、近づくにつれてひと気が少なくなっていく。
 喧騒がやや遠くなったところで後ろからパタパタと忙しない足音がした。
「もっ、桃井先輩っ」
 振り返るとすっかり馴染みになった後輩が苦悩の色を浮かべながらこちらを追いかけてきている。愛莉は足を止めて彼女を待ち、会話ができる距離まで近づいたところで首を傾げた。
「どうしたの? 実行委員のお昼時間ってまだよね?」
 追いついた後輩はその整った鼻梁に軽くしわを寄せていた。それでも美形っぷりにいかほどの傷もつかないのだから大したものだ。
 文化祭の実行委員であり、お昼を一緒に食べる約束をしていた内の一人である桐谷遥が、呼吸を落ち着かせるためか一度大きく息を吐く。
「あの、すみません。思ったよりトラブルが多くてお昼の時間が取れそうになくて」
「え?」
「こちらから言い出したのに本当に申し訳ないんですけど」
 そうなのだ、文化祭で走り回る桐谷遥が、せめてひととき幸福を得たいと相談してきたのが発端だった。つまり、はっきり言ってしまえば愛莉をダシにして意中の人との時間を過ごしたいと。
 だから準備室がちょうどお昼に誰も使う予定がなくなるように調整したり、愛莉も二人の分を加えたお弁当を作ったりしていたのに、肝心の遥の身体が空かないとは。
「ええ? じゃ、どうするの? わたしとみのりセンセの二人で食べていい?」
…………
 あ、すっごく嫌そう。
 しかしそんな顔をされても、さすがに一人でこの量を食べきるのは無理というものだ。友人たちは食べ物系の出店を回っているし、そうでなくてもそれぞれみんな自分の弁当を持参している。
 食事管理をしている遥に合わせてヘルシー目な内容にしているとはいえ、今さら他の誰かとシェアするのも難しい。
「ああもう、分かったわよ。これはこっちでなんとかするから、もう戻んなさい」
 忙しいんでしょ。視線で語りかけながら、保冷バッグを開けてラップに包まれたおにぎりをひとつ取り出し、遥に押しつけた。
「とりあえずこれだけでも食べときなさいよ。お昼抜きじゃさすがに厳しいでしょうから」
「あ、ありがとうございます」
「麦飯と昆布のおにぎり。これならあんたの食事制限もクリアしてるでしょ」
 遥が困ったように見える風合いで笑った。甘える時の笑い方を忘れてしまった子供みたいな、下手くそな笑顔だった。たぶんそれは彼女の本質に近い笑みで、彼女自身はそんなふうに笑っていることに気づいていないんだろう。
「桃井先輩。私、本当に先輩とみのりさんの三人でご飯食べたかったんです」
「しょうがないじゃない。お弁当くらいまた作ってあげるわよ」
 彼女が言っているのはそういうことではないとは理解していたけれど、愛莉は苦笑じみてそう言った。
 先輩なので。



 みのりを探し出して小分けにした一人分の弁当を渡してから、さてどうしようかと頭をひねる。まだバッグのお重には二人前近い量が残っているが、みのりを探している間に昼時もすぎてしまって、友人たちはもうみんな食事を済ませてしまっていた。
 当て所もなく歩いて、結局校門の外まで出てしまう。仕方がないからどこか木陰でできるだけ食べて、あとは家庭科室の冷蔵庫を使えないか先生に交渉してみようか、と腹をくくった。冷やすと食感や味が落ちてしまうものもあるけれど、そこは諦めるしかない。
──ん?
 中庭のベンチが空いていないか探していると、なにやら校舎の外でウロウロしている人影があった。スラリとした長身の大人みたいだが、帽子にサングラスにマスクで人相を完全に隠しておりいかにも怪しい。しかも女子校の文化祭を覗いている。これは先生を呼んだほうがいいだろうか。
 中庭もグラウンドも生徒でごった返しているし、中には無防備に制服を翻して物を運んでいる子がいたり、動きやすいように体操着に着替えて手足を晒している子もいる。よからぬことをされたら一大事だ。
 しばし観察していると、ついに怪しい輩がポケットからスマートフォンを取り出して校舎のほうにかざし始めた。
「──ちょっと! あなた、そこでなにしてるの!」
「え?」
 つかつかと歩み寄ってスマートフォンを構えている腕を掴む。思ったより華奢な腕だった。というか、筋肉がついているのかと思わせるほど細い。それなのに反射的に引いた腕の力が存外強く、愛莉はバランスを崩して引き倒されそうになる。
「わあ! こら、逃げるんじゃないわよ変質者!」
「え、ええ?」
「盗撮しようとしてたでしょう!」
 無理やりスマートフォンを奪って画面を確認する。真っ暗だった。自分が持っているものとは機種が違うが、そうはいっても使い方にそうそう差はない。側面の電源ボタンを押してみる。
……あら?」
 表示されたのはバッテリー切れを示すマーク。これでは盗撮なんてしようがない。
「あの……急に携帯が動かなくなっちゃって、電波が取れないのかと思って高いところに上げてみたんだけれど」
「いやこんな街なかで電波がないわけ……っていうか、ただの充電切れだし……
 とんだ勘違いだったようだ。愛莉がバツの悪い顔で端末を相手に返す。危ない、これでは逆にこっちが強盗になってしまう。
「早合点してごめんなさい。そんな格好だし、てっきりうちの学校を覗きに来たのかと……
「え? ああ、これは日焼けしないようにってマネージャーさんに言われて。そうよね、これじゃ失礼ね」
 言いながら帽子を脱ぎ、サングラスを外して、マスクを取る。
 現れた素顔に愛莉が目を丸くした。
「って、し、SHIZUKU!?」
「あ、はい。はじめまして、日野森雫です」
 丁寧にぺこりと頭を下げてくるカリスマモデル。「も、桃井愛莉です」これはご丁寧に、と愛莉も思わず両手を揃えて頭を下げた。それから我に返って首を大きく振る。
「じゃなくて! ど、どうしてモデルのSHIZUKUがこんなところに!?」
 確かにこのへんは繁華街も近く、都心の中心でもあるのでタレントなどの目撃情報も多い。愛莉だってこれまでに一度や二度は芸能人を見かけたことがあった。
 しかしこんな、自分の通っている学校の前で、しかも挨拶まで交わすなんて思ってもみない。
 雫はほんわりと笑ったまま、両手を合わせて説明し始めた。
「妹がこの学校に通っているの。しぃちゃんっていって、二年生でね、お友達とバンドを組んでいて、今日は文化祭のステージで演奏するって言っていたからちょっと見に来たんだけど。中には招待券がないと入れないみたいで」
「あ、ああ、そうですね。でも生徒の家族なら招待券くらい持ってるんじゃ?」
「今日はこの先の公園で撮影だったし、『お姉ちゃんには見られたくない』ってしぃちゃんが券をくれなかったの。ちょうど演奏する時間と撮影の休憩時間が重なったから、少しだけでも見られないかと思って来てみたんだけど」
 ちょっと不満そうに唇を尖らせて雫が言う。そんな子供っぽい仕草すら絵になるのだからすごい。
 日野森という生徒に心当たりはないが、いくらなんでも口からでまかせということはないだろう。ポケットにねじ込んでいたプログラムを確認してみると、たしかに体育館の特設ステージでバンド演奏がされると書いてある。
「この、Leo/needってバンドですか? 出番まであと五分くらいか……
 寸時黙考し、「こっち」雫に手招きをしてから歩き出した。
「中には入れないけど、体育館のドアは全部開けられてるはずだから、裏に回れば少しは見えるんじゃないかしら」
「あ、ありがとう。えぇと、愛莉ちゃん?」
「一応さっきのサングラスとマスクはしといてください。もし誰かに見つかったら大騒ぎになっちゃう」
 雫はのんきな表情で「そう?」と首を傾げた。彼女、あの教室の至るところでバッグにぶら下がっていたうさぎを見たらどう思うんだろう。
 顔を隠した雫を連れて体育館の裏手に回る。そこにはベンチ代わりになりそうな石材がいくつか並んでおり、運動部の子が時々座って休んでいるのを見かけていた。そのうちのひとつに腰かけると、ちょうどステージをドアの向こうから見ることができる。ステージはもう始まっていて、ポップな曲が少しだけ割れて聞こえてきていた。
 雫と並んで座って、愛莉はどうですかというふうに目線を送った。
「ちょっと遠いし、音も良くないけど」
「いいえ、しぃちゃんがよく見えるし充分よ。ありがとう」
 幸いにしてあたりに人の目はなかった。敷地のはずれだし、体育館裏なんて特別用がなければ訪れることもない。
「しぃちゃん、かっこいいわ……!」
「ベースの子ですか? 音楽は詳しくないけど、上手ですね」
「そうなの。バンドの仲間とみんなでプロを目指してるのよ」
 へえ、と感心する愛莉。姉がアイドルからモデルになり、妹はバンドを組んでプロデビューを目指すとは、なんとも華やかな家庭だ。そういう一族なんだろうか。
 愛莉が渡したプログラムを眺めて雫が目を細める。
「三曲もあるのね。どうしようかしら、全部見たいけど、それだとご飯を食べる時間が……
「あ、そっか。撮影の休憩中でしたっけ」
 少しだけ覗いて帰るつもりが、思いがけずゆっくりステージを見られる幸運に恵まれて欲が出たのか、雫が顔を曇らせながら小さく唸った。
 その様子を横目で見つつ、愛莉は脇に置いているバッグをこっそり引き寄せた。
 ここなら人の目もないし、マスクくらいは外しても大丈夫なんじゃないだろうか。
……あの。良かったら食べます?」
「え?」
 おずおずとバッグを開けて重箱を取り出す。雫が軽く目を瞠った。高校生のお弁当にしては豪華すぎる塗りの器を見下ろして、それから愛莉を見つめる。
「友達、と一緒に食べるはずだったんですけど、向こうの都合が悪くなっちゃって。一人じゃ食べ切れないし困ってたんです」
「まあ、そうなのね。それじゃあ、お言葉に甘えていただこうかしら」
「油ものはないし、モデルさんでも食べられるものもあるとは思うんですけど……
 言い出してから思い至ったが、話に聞くモデル業界といえばストイックすぎる食事制限がつきものだ。もしかしたら彼女もそんな感じなのかもしれない。無農薬有機栽培の野菜だけを使ったスムージーしかとらないとか。
 内心で焦る愛莉そっちのけで、雫は蓋を開けられた重箱の中身に目を輝かせた。
「すごいわ、彩りも綺麗だし、お出汁の沁みた煮物もとってもおいしそう」
「まあ一応、家庭科部の部長だったので」
「愛莉ちゃんが作ったの?」
「ええまあ」
 瞳を煌めかせたまま雫がこちらを見つめてくる。すごい。顔が良い。顔が良いとしか言えない。眩しすぎて直視できない。これはもう暴力と言っていい。麗しすぎる顔に殴られて膝をつかざるを得ない。
 重箱の位置を直すふりで誤魔化しながら「どうぞ」と促す。
「いただきます」
 それから二人、バンド演奏を聴きながら黙々と食事を口に運んだ。愛莉は雫が演奏を聴きたいだろうからと遠慮していて、雫は何を考えているのかはよく分からなかったがずっとニコニコしていた。雫の箸の使い方が上手で、所作もきれいだったから、そういう人に自分の作ったご飯を食べてもらえるのは嬉しかった。
 雫は愛莉と同じくらいのペースで食事をした。そのスタイルからなんらかの制限をしているのでは、と愛莉は思ったのだけれど、実はそうでもないのかもしれない。
 バンドの出番が終わってから、残ったおかずをつまみつつ、とりとめもなく話す。
「愛莉ちゃん、すごいのねえ。私はお料理ってあんまり得意じゃないから尊敬しちゃうわ。前にお月見のお団子を作ろうとしたんだけどね、どうしてかおはぎができちゃったの。それから、プリンを作ろうとしたのに茶碗蒸しになっちゃうし」
 それは得意不得意という次元の話ではない気がする。
 友達が読んでいたファッション誌では、いかにもできる大人の女というような写真が多かったけれど、本人はけっこう天然なのだろうか。出会った時もスマートフォンを使えなくて困っていたし。
「そうだSHI……日野森さん、時間大丈夫ですか?」
「雫でいいよ。呼びにくいよね」
 軽く苦笑しながら言われる。愛莉も同じように苦笑いでうなずいた。ローマ字表記の芸名とは言え、ずっと呼び捨てで友人たちと話していたからどうも慣れない。
 まあどうせこの場限りの関係だ。わりあい人懐こいタイプだとは自覚しているし、遠慮なく名前で呼ばせてもらう。
「撮影ってどこでしてるんですか?」
「近くの公園で次の新作のスチール撮りをしているの。そうね、そろそろ戻ったほうがいいかもしれないわ」
 手首を返して腕時計の時間を確認しつつ雫が言う。それから、あ、と何かに気づいた様子で顔を曇らせた。
「そうだわ、携帯が壊れちゃってるんだった。ちゃんと帰れるかしら」
 なんだかやけに不安そうな顔をする雫。その公園なら愛莉も知っているが、そんなに離れてはいないし、迷うような細かい道順でもない。不思議がって首を傾げていると、雫が気まずそうに笑った。
「そのぉ……私、方向感覚があまりなくて。いつもマネージャーさんに電話で道を聞いたり、迎えに来てもらったりしていたんだけれど」
「スマホが使えないとどっちも無理ってことね」
 あいにく愛莉もモバイルバッテリーなどは持っていない。教室に戻ればバッグに入っているが、なにせ学校の外れにある体育館のさらに裏手だ。往復していては時間がかかりすぎる。
 まあ、ここまで乗りかかった船だ。空になった重箱をしまって立ち上がる。
「案内しますよ。どうせ文化祭の仕事もないし」
「え、でも、悪いわ」
「そんなこと言っても、雫、帰れないと困るでしょ?」
 雫がうう、と喉の奥で唸り、指先をこすり合わせながら迷い、きょろりと無意味にあたりを見回してから、結局、お願いしますと頭を下げた。
 確か雑誌のプロフィールによれば彼女は二十代の半ばのはずだ。年上のしかも超絶きれいなお姉さんに頭を下げられて、愛莉はなんともいえない気持ちになった。
 公園の池のほとりはちょっとした騒ぎになっていた。休憩時間の終わりが迫っても雫が戻ってこないし、連絡もつかないのでマネージャーが大慌てで探し回っていたようだ。そんなさなかに愛莉が連れてきた雫を見つけると、壮年のマネージャーは気が抜けたのかその場に崩れ落ちた。
 さて、無事に雫も戻れたことだし、これで自分はお役御免だろう。誰へともなく軽く会釈をして去ろうとしたら、雫に引き止められた。
「良かったら連絡先を教えてもらえないかしら? 愛莉ちゃんのおかげでしぃちゃんのバンドを見られたし、ご飯までごちそうになって、しかもここまで送ってもらったんだもの。なにかお礼をしたいわ」
「ええ? いいですよ別に。生徒だからあの場所を知ってただけだし、お弁当も余ってたから食べてもらってこっちも助かったし」
……じゃあ、送ってくれたお礼だけ。一度お茶をごちそうさせて」
 なんだか潤んでいるように見える瞳で見つめられて息が詰まる。ひええ、と心のなかで悲鳴を上げつつ、愛莉は根負けして小さくうなずいた。



 二週間ほどしてかかってきた電話は話が弾まなかった。挨拶と待ち合わせ場所を決めるくらいの短い会話だけで、愛莉はやや気が重くなる。
 あれからなんとなく、SHIZUKUが載っている雑誌を何冊か買ってみたり、トーク番組のゲストに出ているのを見たりしてみたけれど、やっぱりなんの実感もない。女子高生の憧れのカリスマモデルにお弁当をごちそうして公園まで二人で歩いたのだ、なんて、誰に言ってもきっと信じてもらえない。
「にしても、ほんときれいよね。こんな顔に生まれたら、きっとなんの苦労もないわ」
 最も美しい顔というのは、国じゅうの顔の各パーツを平均位置に置いた顔らしい。きっと彼女がそうだ。最も良い位置からひとつのズレもない配置。特徴といえば口元のほくろくらいで、それだって神様が考えに考えて打った画竜点睛だとさえ思える。
 料理が得意じゃなくても機械に弱くても、方向音痴でも。
 きっと彼女の周りにはそれを補ってくれる人がたくさんいて、彼女もそれを当たり前にして生きているんだろう。


 雫がごちそうしてくれたカフェは、愛莉ひとりではとても入れないようなホテルのラウンジにあった。周辺はジャストサイズのスーツを着こなしたビジネスマンとかフォーマルな格好の女性とかばかりで、よそ行きとはいえ深く考えずカジュアルめの服装で来てしまった自分を内心で恥じる。なるほどなるほど、彼女はこういう世界の人なのだ。ひとつ勉強になった。
 雫もある程度カジュアルな装いだが、それでも年齢相応に落ち着いた雰囲気で、対面に座っている彼女を愛莉はまっすぐ見られない。
「ここのアフタヌーンティーのスコーンがおいしいのよ」
 無邪気に言っているけれど、そのアフタヌーンティーセットとやら、こちらがいつも友人と学校帰りに寄っているカフェでコーヒーが二十杯は飲めてしまう。いや、そういうふうに考えること自体、彼女に失礼だろうか。
「愛莉ちゃん? あ、スコーンとかあんまり好きじゃなかったかしら?」
「いえ、大丈夫です。こういうところに来たことがなかったからちょっと緊張してて」
「勝手にお店を決めてごめんなさい。その……どうしても注目を集めてしまうから入れるお店が限られちゃうの」
 それはまあそうだろう。人気モデルがチェーンのコーヒーショップなんかにいたら騒ぎになってしまうだろうし、この時代、許可も取らずに写真を撮ったりする手合いがいくらでもいる。こういった店でなければ落ち着いてお茶もできないのだろう。
「それに、慣れてるところじゃないと私がひとりで来れなくて」
「ふふっ」
 ややしょんぼりしながら言われた言葉に思わず吹き出す。確かに、女子高生とお茶をするのにマネージャー同伴というのは格好がつかない。
「大変ですね」
「でも、最近はちょっとマシになってきたのよ? 携帯もメッセージを送れるようになったし、地図のアプリも自分で出せるようになったもの」
 「……地図を見るのは、まだちょっと難しいんだけど」肩を落として言う雫。それはアプリを起動できても意味がないのでは。突っ込みたいのを必死に堪える。
 運ばれてきたアフタヌーンティーセットと紅茶を手にしつつ、二人はなごやかに時を過ごす。
「愛莉ちゃんのご飯、本当においしかったわ」
「今は趣味みたいなもんですけどね」
「高三よね? 卒業したらどうするの?」
「料理の専門学校。親の影響もあるけどやっぱり作るのが好きだから、それを仕事にしたいなって」
「えらいわねえ」
 慈しむように微笑まれた。うわ。うっかり見とれて、直後、急激な喉の乾きを覚える。紅茶が冷めていて良かった。喉が鳴らないように紅茶を流し込む。
 あの時も思ったけれど、雫は紅茶を飲む時もティーセットのセイボリーをつまむ時も実に優雅だ。話を聞くと、実家が琴の教室をしているという。それで礼儀作法は小さい頃から教え込まれたのだと雫が笑った。
 ああ、いいな。
 こういう人が自分の作ったご飯を食べて笑ってくれたら嬉しい。
 まあさすがに人気モデルが通うような小料理屋を開くにはまだまだ時間がかかるけれど。
「私も料理にチャレンジしてみようかしら」
「それならお味噌汁とかいいですよ。毎日作っても具材を変えたら飽きないし、身体にもいいし」
「あ、そうね! 明日から作ってみるわね」
「出汁から取るとけっこう勉強になるし、わたしも料理を習い始めた頃は毎日作ってたわ」
 ふんふんと感心したようにうなずく雫があまりにも素直で面映い。
 プリンが茶碗蒸しになる腕前でも、味噌汁がポトフになったりはするまい。頑張って、とエールを送ると、彼女は両手で拳を作ってガッツポーズしてみせた。
 紅茶を飲み終わり、ティースタンドも空になったので席を立つ。こういうところでは会計は店員さんを呼んで席でするのだということを初めて知った。
「ごちそうさまでした。すごくおいしかった」
「気に入ってもらえて良かった。私も久しぶりにゆっくりできて楽しかったわ」
 ラウンジを出る前にサングラスとマスクを装着した雫と並んで、都会の喧騒に舞い戻る。
「けど、愛莉ちゃんの好きなお店も聞いておけば良かったわね。どんなお店が好き?」
「お店っていうか、和菓子がけっこう好きですね。高校でも家庭科部にするか、お茶菓子が食べられる茶道部にするか悩んだし」
「そうなのね。じゃあ今度は和菓子屋さんに……
 言いかけた言葉が尻すぼみに消える。一度だけ、と約束したのを思い出したのだろう、雫が目を伏せて口を閉ざした。
 ごまかすようにサングラスの位置を直す雫を眺めながら、愛莉はふと気の抜けた息を吐いた。
「お味噌汁」
「え?」
「うまく作れなかったらアドバイスくらいしますよ」
……えっと……?」
 婉曲すぎて伝わらなかった。愛莉の肩がかくりと落ち、「だから」ポケットから出したスマートフォンを差し出す。
「メッセージアプリのID、交換しましょってこと」
「っ、う、うん!」
 幸い、その日は雫のスマートフォンも充電切れを起こしてはおらず、無事にIDを交換できた二人はそれからメッセージをやり取りしたり、気になるカフェに出かけたりするようになる。
 その付き合いは愛莉が高校を卒業して三ヶ月が経った今でもゆるやかに続いていた。