黒竹
2022-05-30 21:16:19
13769文字
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アンダンテでは遅すぎる

【ルカミク】
「フォルテッシモじゃ強すぎる」の続編。
嘘はどこまで嘘なのかなっていうお話。



「機嫌悪いな」
 苦笑まじりに言われてミクが譜面から顔を上げる。「そうですか?」にこやかに応じるがプロデューサは軽く肩をすくめただけだった。
「また友達と喧嘩でもしたか?」
「してないですー」
「じゃあなんだよ。デコにぶっといしわ寄せて」
 ぐりぐりとミクの眉間を親指で押しながら言う。痛くはないが多少不快だったので、ミクは身体を反らして逃げた。
 別に不機嫌だった自覚はない。ただちょっと、そういえばそろそろ同窓会が始まる時間だな、と思っただけだ。ルカは楽しくピアノを弾いてくればいいし、自分はここで新曲の練習を進めるだけである。
 からっぽの曲を、彼女はどんなふうに奏でるのだろう。
 恋か、望郷か、感謝か、幸運か。
 聴いてみたいなと思ったけれど、なんにでもなれるその旋律は、きっと聴いてもからっぽのままだろう。ミクがからっぽだとしか思えないのだから当たり前だ。
 ミクはデビュー曲を理解していない。まったく判らない。なにひとつ解きほぐせない。
 判らないまま歌ったからミク以外の誰もが理解した。オリジナルにどんな思いも込めてないからこそ、誰の解釈も正しくて、それは百万人のための歌になった。
 ずっとその繰り返しだ。メロディや歌詞がどう変わろうと、ミクが歌うものに『オリジナル』はない。
 それでいいとプロデューサは言い、それこそがミクの持つ最大の特性だと褒めそやした。
 だから、これでいいのだと思う。
「ちょっとぼーっとしてただけです」
「あっそ。ならいいけど。ちょっとリリースのペース速いか?」
 デビューして年をまたぐことなくアルバムまでリリースするというのは、なくはないがソロアーティストとしてはずいぶん速い。
 しかしミクは首を横に振った。歌を背負わない歌姫はどれだけ駆けても疲れない。
「あーでも、ちょっとおなかすいたかも」
「お、そうだな。朝からカンヅメだもんな。なに食いたい? このへんだと寿司か、イタリアンか……
「お寿司がいいですっ」
 子どもを気遣う大人に頼る子どもを望む大人のために、大して覚えていない空腹を訴え、寿司を食べたがっているプロデューサのために寿司が食べたいと訴える。
 ずっとその繰り返しだ。
「ルカさんも今頃おいしいもの食べてるかなー。なんかね、黒毛和牛のコースらしいんですよっ。黒毛和牛! 黒毛和牛ってなにがいいんですか?」
「いや俺も知らないけど……高いんだから美味いんだろ、そりゃ」
 つーかなんの話よ? 訝しげに眉を上げるプロデューサに同窓会のことを説明すると、ようやく納得の表情になった。
「それで今日は連絡つかないって言ってたのか。同窓会ねー。十年くらい前にやったっきりだな」
「なんかピアノ弾くって」
「ああ、まあそうなるよな。俺もやらされたけどきついぜー。ただのBGM状態で誰も聴いてねえし、こっちのこと見もしねえ。頼まれたからやったっつーのにひでえよ」
 ガリガリと頭をかきながら口を曲げるプロデューサ。ミクはポカンとする。
「誰も?」
「みんな久しぶりに会うだろ。話に夢中で聴きやしねえ。ああでも、あの曲やるなら大丈夫かもな」
 はは、と、プロデューサは気楽に笑う。
 百万の姿を持つメロディはきっと、その場にいる全員の心をつかむだろう。
 誰もが旋律に心奪われるだろう。
 けれど。
 それを奏でている人のことは?
 歌がなく、旋律が主役になるのなら、生み出している指先は、リズムを取る腕は、譜面を追う視線は誰が見るのだろう。
 ミクは目を閉じて情景を思い浮かべる。ただの想像のビジョン。けれども今のミクにとっては真実だ。
 その光景をつぶさに思い描いて、絶望した。
 それは。
 
 
 そんなのは。
 
 
 椅子を蹴倒す勢いで立ち上がる。「うぉっ!?」剣幕に押されたプロデューサがのけぞった。
「ど、どうした?」
「ちょっと出かけてきます」
「え、寿司は?」
「一人で食べてて!」
 バッグをひっかけて飛び出した。会場は知っている。ここからならそう遠くない。
 タクシーをつかまえようかと考えたが、そのために足を止めるのが苦痛だった。走るよりずっと早く到着すると判っているのに止まりたくない。



 走る。スニーカでよかったと思う。変装用の眼鏡は置いてきた。誰でもない初音ミクは誰になろうともしなければ誰でもないままで、息を切らせて走る少女Aと化す。だから誰にも見つからない。
 空腹は感じないながらも確かにあったようでエネルギーが足りない。空気が粘ついてうまく肺に入らない。バッグが揺れて身体を持って行かれそうになる。それでも走る。走らなければならない。
 景色が流れる。彼女が耳たぶを触っていませんように。願う。



 頭のなかで歌は響かない。