【再録】老桜は眠る

2021年11月発行の楊普アンソロ『42 僕たちの恋模様』に掲載していただいた楊戩と普賢のお話です。
たくさんの楊普を集めたすばらしいご本でした。ありがとうございました。

あとしまつ後の教主楊戩と普賢の話。いつも誰かを助けているだろう普賢が、誰かに助けられる側になったらどうだろうと考えて書いたお話です。

「理由がなければ、いけないかな」


かつて崑崙山があった所よりも北の位置に、件の山がある。一見なだらかな一本道は足を踏み入れ歩きはじめたが最後、逃げ水のように終わりが見えない。気がつけば同じ場所をぐるぐると迷っている不安に陥る。気候の変化は激しく、精神力のみならず体力も削られる。そんな噂も手伝って、今では近寄る人はめったにいない。そのどこかに一本の古い桜があるという。
「実は俺も会ったことないんだよね」と張奎は肩を竦めた。
それは、はるか昔からそこに鎮座する桜で、崑崙山にも金鏊島にも属さず孤高を貫き、それでも霊力、仙気は数多の仙道をかるく凌ぐほど。
「でもそれも大昔の話でさ。実際のところ、今どうなっているかだれも知らないんだ」
「仙人にはなっていないのかい」
「みたいだな。自分の意思でそうならなかったとか」
長い時間月日の光を浴び、妖精から妖孽へと変化を遂げ、さらに功夫を積むことでようやく仙人となる。妖怪仙人の多くが目指す道を、その桜は辿らず、ただそこにあり続けて今に至るということだった。
「普賢真人ももちろん、わかっていたはずだ。そういう相手なら説得のしがいがあると、話していたから」
だとしたら、思いのほか説得に手間取っているか、なにかに足止めされているか。すべての仙人道士が、人間とは交わらない世界を完結させるためには例外を認めるわけにはいかないが、やむを得ない事情があるなら、その処遇は教主である楊戩の判断にかかっている。
さて、あの普賢師弟でも手に負えない、もしくは動けなくさせているのはどんな妖怪だろう。(あるいは――
ふと小さな不安が心をよぎったが、それを頭の中で打ち消して、楊戩は山道をさくさくと進む。手渡された地図には、おそらくこのあたり、と丸を描いてあるが、示す範囲は恐ろしく広い。もうずいぶん時間が経ったはずだが山道は途切れることがない。すこしずつ坂が急になっていく。そうこうしているうちに太陽は上ってきたほうと反対のほうへと傾きはじめていた。
岩だらけの道と霧深い林、抜けた先に見える道はずっと上り坂で、目的地に向かっているはずなのに手掛かりとなるものはなにも見つけられない。これはもしや迷っているのでは。あるいは、まやかしか術でもかけられているのでは。こうして人は山に迷い深みから出られなくなるのか。哮天犬の足取りや方角は変わらないものの、さすがに焦りを感じはじめていたときだった。かたわらで彼の白い犬が立ち止まり、くんと鼻を鳴らした。
「あ……
ふいに視界が開けた。足を止めて息を飲む。木々は濃い緑だが、そこだけぽっかりと空が開けている。夕刻なのに、強い日の光が真上から差しこんでいる。帯状の日差しに照らされるのは一本の大樹。幹は楊戩が両腕で抱えても届かないほど太く、四方に伸びる枝ぶりは空をまるごと覆うようだった。葉は青々と茂り、鳥たちが止まってはまた飛び立っていく。周囲にある木々のすべてが、草の一本一本が、意志をもって守り囲んでいる。ここまでの疲れを一瞬忘れ、言葉も出ないまま見上げて思った。
(神だ)
だれかが意思を持ってそれと定めた神々とはちがう。文字通り、天そのものであり、天から下された者たる威厳。——神々しいとはこういうことをいうのだ。

「あれ、楊戩?」
呼ばれて、はっとわれに返った。見知ったその姿が、大木の陰からふらりと姿を現した。変わらない笑顔に、楊戩は深く安堵の息をついた。
「普賢師弟、ご無事でしたか」
おもわず駆け寄ると、大丈夫と笑ってみせる。
「笑いごとじゃない、心配していたんですよ」
「ごめんね。張奎くんには知らせたつもりだったけど」
「詳しい事情を言わないのは、知らせたとは言わないんです」
そうだった、と悪びれない様子を見る限り、囚われているとか、そういうことではないらしい。怪我や病気もなさそうだ。ともかく、話を聞かせてくださいと言いかけて、楊戩はぎくりと身をかたくする。どこからか視線、気配を感じる。悪意はないが、とてつもなく大きななにかが、様子をうかがっている。疑い、探る目——そう、とても近くから。
思わず目の前の人を両腕に抱えた。
「楊戩、楊戩、大丈夫だよ」
腕の中で、普賢が身を捩った。そして振り返り「それ」に話しかける。
「あなたも。彼は楊戩。新しい世界の教主なんだ」
大気にはりつめていた糸のようなものが、ゆるゆるとほどけていく。それが、目の前にそびえる大樹であることに、このとき楊戩はようやく気づいた。
「普賢師弟、もしやこのかたが……?」
「うん」
楊戩の腕からするりと抜け出て、普賢は木の幹に触れた。さながら友人の肩に手を置くような仕草だった。
「僕を心配して来てくれたんだよ」
「そうか」
どこからか聞こえるそれは、低く、腹に響く。
「あきらめるかと思うたが……その宝貝に助けられたか」
人を食ったような笑いは、たしかに年を重ねた者を思わせた。
「もしかして楊戩、道に迷った?」
「まあ、すこし。……でも、哮天犬がいたので」
「ほんとうに困った人だね」
普賢はぷいと頬を膨らませて木を見上げた。ざわざわと枝が揺れる。鳥や風のせいではなさそうだった。怒っているのか、笑っているのかはわからないが、この木がそうしているのだ。「ご挨拶させてくださいますか」と問うと、普賢はすこし考えて「明日にしようか」と言った。
「今日はもう日が暮れる。夜の間にちゃんと説明するよ」
ごう、と地鳴りのような音がした。桜が大きく欠伸をしたようだった。