Reisi
14050文字
Public 小説
 

天涯に舞う

以前頒布した本の再掲
継承メギドの魂と始祖について、という感じの話です

 鳥の影がひとつ、蒼天に躍り出る。

 澄んだ朝方の空気が、空と山々の境目を鮮明に映し出している。ここ数日続いていた雨も、昨日の陽が沈む頃にはすっかり止んでいた。視界を遮る靄も、翼を濡らしてしまう雨粒もない。飛ぶには実に良い天気だ。
 吹き付ける風が広げた翼に切り裂かれ、鋭い音を立てながら流れていく。翼の縁の風切羽が、朝日の中で赤く鮮麗に輝いた。


 晴れ渡った青空がどこまでも広がっている。
 周囲には他の者はもとより、いつも引き連れている『羽組』の姿もない。こうして空をひとり飛んでいるとき、チューチャオは自分という存在がひどく孤独で、覚束ないものであるように思えることがあった。
 鋭く鳴り渡る風音、空の青さ、朝露をたたえた風の匂い……周りを取り巻く感覚すら朧げとなり、己が空の一部となったような心地がしてくる。そうしていると、強い衝動が不意に心を支配するのだ。
 より高く、遠くまで飛んで行きたいという衝動。それは何故だか、望郷と言い表すべき感情を胸に生じさせるものだった。その衝動に導かれるままに翼を広げ──

 ──ふと意識を引き戻す。そう、自分は何の目的もなく、今こうして飛んでいるのではないのだ。見下ろせば、草原の中に際立つ白い毛皮がひとつ。
 東方十二傑が一柱、共に四部衆に属する『白雪虎』バイフー。今回の戦闘訓練の相手である。


 チューチャオが今まで行っていた隠密としての訓練は、砦や森など遮蔽物の豊富な場所で行われるのが主だった。だが、十二傑としての主な任務……幻獣の討伐は、人里離れた広漠な場所が戦場となることが多い。カクリヨ東部に広がる草原は、幻獣との野戦を想定した訓練に最適であった。
 この草原のように平坦な戦場で主に物をいうのは、『雀家』の者として身に付けてきた隠密の術よりも、力の継承で得られる純粋な戦闘能力である。尚且つ、相手どるのは十二傑きっての逸足の持ち主。足を遮るものがない広々とした地形は、バイフーにとって得意中の得意だ。

 ちょっとした物見ほどの高さなら飛び掛かってしまえそうなバイフーの身体能力とはいえ、今の高度では流石に手出しできないようだ。この距離から表情は見えずとも、やきもきしている様子が容易に想像できる。
 だが、睨み合いのまま攻めあぐねているのはチューチャオも同じだ。攻撃のために高度を落とすことは、すなわち地上という彼女の間合いに自ら飛び込むことを意味する。その事実が、優位な上空から攻勢に出ることをチューチャオに躊躇わせていた。

 とはいえ、攻めにせよ守りにせよ、地上と空中では後者のほうが出来る動きの幅はずっと多い。
 闘諍の最中にあれど、空には常に戒心せよ──戦における基本の一つである。何処から攻撃を仕掛けてくるか分からず、こちらからの攻撃は容易に命中しない。そのような存在は、戦場において大きな脅威となりうる。逆に『空飛ぶ者』にとっては、自身の存在を如何に気取られないかが求められるのだ。


 ともかく、今は上空を陣取る自分のほうに分があることは確かである。これを活かさぬ手はない。翼による機動力をもって撹乱し、行動を許さぬままに間合いを詰める……それが、この膠着状態を打開するための最善手であろう。

 この国の上空──特に『壁』に近いところは、吹き下ろす風の影響で気流が荒い。耳元で唸る風音を意識の外に追いやり、翼の制御にのみ集中する。大きく円を描くような旋回を続けながら、上昇と下降、加速と減速を次々と織り混ぜる。

 チューチャオは隠密である。
 彼女がその翼を羽ばたかせる場所はなにも、広い空だけではない。建物や木々の狭い隙間を一切に触れず飛び抜ける飛行術。諜報の役目の中で得たそれが、このような複雑な飛行を可能としていた。

 今のチューチャオの高度から見て、バイフーの姿は草原に混じる白点ほどの大きさだ。それは向こうにとっても同じのはず。影すら紛れる夜闇の中ではないとはいえ、小さな点の複雑な動きを追い続けるのは至難の業である。
 陽の光に目を瞬かせた一瞬の内に、バイフーはついにその姿を見失う。


 その瞬間、チューチャオは広げていた両翼を一気に後方へ畳んだ。
 身体が重力に引かれ、放たれた矢の如き速度で降下する。この青空の中、姿を眩ましていられるのはほんの一瞬だ。空に何よりの警戒を向けているバイフーは、すぐに自分の姿を探し当てるだろう。 
 ならば、それを逆手に取るまで。空に意識を向けているのであれば、必然的に地上への警戒は薄れる。チューチャオは片翼のみを僅かに広げ、楕円を描くような軌道の滑空をもってバイフーの背後に迫った。狙うのは、頭上でなく足元。揚力を失う間際の高度を、地表とほぼ平行に飛ぶ。
 バイフーが振り向くより僅かに早かった。チューチャオは、翼に次ぐ己の武器──猛禽のごとき鉤爪を勢いよく蹴り出した。


 直後、草原に鋭い音が響く。
 バイフーの棍が、全速力の一撃を受け止めていた。寸前で高度を見切り、振り向きざまに迎撃したのだ。並外れた俊敏さと膂力の成せるわざである。

 だが、今やバイフーは背後からの攻撃を受け止めるので手一杯だ。彼女の膂力を相手に、こうして競り合いまで持ち込めているのがその証左である。この機を逃せばもう同じ手は通用しないだろう、続けて攻撃を加えるか否か……チューチャオがそう思考を巡らせたのも一瞬だった。

 バイフーが一度棍を引き、片足を強く踏み込むのを視界に捉えたチューチャオは、咄嗟に翼を打ち下ろして再び上昇する。
 風すら置き去りにする一薙ぎ。チューチャオが先ほどまで居た所を、緩やかな軌道で棍が薙いだ。


 バイフーの手に握られたそれは、普段愛用している棘付きの金棒ではなく、訓練用の棍である。それに、彼女も戦闘に長けた四部衆の一人。相手を叩き伏せるための戦い方だけでなく、訓練を目的とした立ち回りも心得ていた。
 対するチューチャオの鉤爪も、抜き身そのものではなく革の覆いを付けている。命のやり取りではないとは分かっていたが、さりとて互いに手加減をするつもりもない。あそこで深追いしなくてよかった、とチューチャオは内心で息をつく。

 チューチャオが先程まで旋回していた高度に戻ろうとしたその時、風の中に肌を刺すような冷気の存在を感じる。無論、戦いの緊張感による錯覚ではない。それを裏付けるかのように、バイフーの周囲をきらきらと細氷が舞っていた。
 彼女が継承した『白雪虎バイフー』の力──周囲のフォトンを冷気に変換し、たちどころに氷を作り出す術だ。得物による接近戦を何よりも好むバイフー自身の性格上、普段の戦闘においてメギドの力を使う事は少ない。だが、彼女の性急な性分は、勝負を無駄に長引かせることも好まない。再び飛び立たれる前に、ここで一気にかたを付けるつもりらしい。

 たちまちの内にバイフーの足元に現れた氷塊は、チューチャオの飛ぶ高度には遠く及ばない。
 しかし、『カクリヨの白い虎』にとってはそれだけで十分だった。
 氷の頂点を力強く蹴り上げ、バイフーが一足飛びに跳躍した。勢いで砕けた氷が破片となって朝日に煌く。


 はためく毛皮としなやかに伸びる尻尾が、逆光の中で頭上に射す影となる。今や、高度の利はバイフーのほうにあった。上下左右のどこに飛んでも、彼女の間合いからは逃れられない。それならば──考えるより先に身体が動く。チューチャオは正面に向けて強く羽ばたき、その反動で後ろに退くことを試みた。

 はたして、その試みは上手くいった。一撃を寸前で躱されたバイフーが、元どおり地上に着地する。だが、焦りに身を任せた回避は、チューチャオ自身の体勢を崩す結果となった。

 翼を羽ばたかせて空を飛ぶ。言葉にすれば単純なことだ。しかし身体を安定して浮かび上がらせる程の揚力を得るには、翼の角度や羽ばたきの強さ、重心の位置……それらを風向きや高度に応じて緻密に制御する必要がある。その均衡が崩れれば、身体は直ちに落下を始める。どうにか気流を捉えようと、数度羽ばたかせた翼が虚しく空を切った。
 
 取り乱すな、集中しろ──チューチャオは自分にそう言い聞かせるが、この高さから墜落することを想像すると、どうしても体がすくむ。幸いにも高度を上げ切っていなかったとはいえ、負傷は免れないだろう。

 次第に近づいてゆく草原の緑の中、白い毛皮が駆け寄るのが見えた。バイフーがこちらに向けて再び跳び上がる。いつの間にか武器は何処かに放り出しており、その動きは猫のように身軽だ。
 滑空の時に感じるものにも似た、一瞬の浮遊感。次いで、全身に軽い衝撃を感じた。


「あ、危なかったわ……!」
 バイフーがその身体を草の上に降ろしたことで、チューチャオはようやく、自分が彼女に抱え上げられていたことに気づいた。バイフー自身も一安心したように、転がっていた武器を回収して傍に置いた後、草の上に寝転ぶ。
 頭上には、雲一つ見られない晴天が広がっていた。若葉の青々とした匂いを感じながら、ふたりして呼吸を整える。荒々しい風が吹きつける上空の様子とはうって変わって、地表を吹く風は草原のおもてを細やかに揺らすのみだった。