katakuruten
2026-06-02 00:45:42
12190文字
Public 演奏家パロ(仮)
 

音高パロ短編まとめ

音楽科高校パロ


きらきら光る



 年季の入ったアップライトピアノの前に、少年が座り込んでいた。
 私学特有の煌びやかな設備を誇るこの学校で、けれどどこか物寂しく、打ち捨てられたかのような一室だった。練習棟の片隅にあるその部屋は、窓の外の曇天も相まって、くすんだ灰色の空気に満たされいる。
 閉じ忘れた防音扉から漏れ聞こえる、ピアノとヴァイオリンと、その他の雑多な音が、放課後であることを告げていた。
 調律実習に用いられるピアノは傷みやすい。普通に扱われるピアノに比べて何倍も。だから、この学校で調律に使われるピアノは、どこかから引き取ってきた不要なピアノだったり、楽器の入れ替えで練習室を追い出されたピアノだったりする。
 今ミスラの目の前にある美しい黒漆を湛えるアップライトピアノも恐らくそういった来歴を持つのだろう。
 有名なピアノメーカーのロゴを撫で、上蓋についた傷に触れる。
 もう、調律専攻以外の誰も必要とせず、まともな曲など奏でられることもなく、褒められることもないピアノだ。
 上前板と鍵盤板を外し、持ってきた工具でさらに外装を開けばピアノの内部がずらりと露出した。
 ミスラはチューナーの電源を入れ、中央のラの音を軽く押した。四四二ヘルツ。一般的なラは四四〇ヘルツだから、それに比べると少し高い。
 チューニングピンを少し緩めてチューナーを再び確認する。四三八ヘルツ。丁度さっきのラより四ヘルツだけ低いピッチだ。
 ミスラはストップウォッチをセットする。
 調律を仕事にするなら目標は二十分程度で下律を行うようにできないといけないと、先生に言われたのを思い出す。調律を行う時は、各工程にかかった時間を測定するべきだとも。
 カウントアップが始まったストップウォッチを椅子に伏せて文字盤が見えないようにし、ミスラは再びピアノへと向き合った。
 下律は、ざっと音を合わせる調律のことだ。大きく——周波数で言うならば四ヘルツ以上が目安とされるピアノのピッチを変える時には、先にざっと音を合わせてから本調律でわずかな振動を調整していくのがピアノ調律の標準的な工程だ。
 さっき合わせたラの音と、五度上のレの音を左手で同時に押さえて響きに耳を傾け、右手に持ったチューニングハンマーでチューニングピンを回してレの音の響き方を聴く。

 違う。
 もう一度回す。
 押さえ直す。
 違う。 
 もう一度、今度は緩める。
 これだ。
 
 ミスラはため息を吐いた。
 一音合わせるだけでも、時間はかかる。これを八十八鍵。それをニ十分で。つまり、プロになるなら一本を十秒程度で合わせないといけない。
 そうなるように練習しないといけない。
 果てしない道のりだな、とほとほとミスラは思う。プロはさらに音を合わせた上で音色までつくるのだ。今の自分にはあまりにも遠い。思いながら、鍵盤を押さえていた左手をスライドする。
 次は今合わせたレの音とさらに五度上のソの音を同時に抑える。数回叩くように押さえて音を聴き、チューニングピンを回す。音を聴く。回す。
 下律をやって、本調律で音を合わせて。ユニゾンを聞いて。
 また微かにピッチを変えた基準のラを作って、音を合わせる。


 何度目かの調律の周回を終えたミスラは脇にチューニングハンマーを置いて伸びをした。身体からはやや不健康な音がして、ミスラは一人苦笑した。疲れた目を擦り、指先を揉む。
 流石に、少し疲れてしまった。
 ふと見上げた時計は十九時を指していた。もうすぐ完全下校時刻だ。
 採光窓を見てみれば外は真っ暗で、とっくに日が沈んでしまっていたらしい。
 閉じていた練習室の扉を一旦開けてみれば、先ほどまで聴こえていたはずの演奏の音はもう鳴りやんでしまっていた。
 生徒は皆帰宅してしまったようだった。
 自分も荷物をまとめて帰路につこうかと少し考えて、それからやっぱりやめた。
 まだ、時間がある。
 ミスラはチューニングハンマーを持ち直し、ピアノへと向き直った。これが今日の最後の一階だ。
 ずっとピアノを弾いてきた。もともと耳はいいのだ。チューナーがなくたって、ヘルツ単位は流石に無理だがラの音くらいは合わせられる。調律は基準音が命だから、音叉か、チューナーは必ず使うけれども。
 もう一度基準となるラの音を作り直し、ストップウォッチを押す。
 観客もおらず、拍手の一つさえない寂れた練習室が、何故か心地よかった。
 肩肘を貼る必要はない。自分の満足がいくまで、ピアノの音と向き合える。それは自分がいつか望んだ形とは全く別ではあるけれども。

 響きが違う。もう一回。
 まだだ、まだ違う。
 もう一度、今度は高すぎる。
 これだ。

 八十八鍵盤、満足のいくまで音を合わせ終わった丁度その時だった。
 練習室の扉が叩かれた。
 こんな時間にこんな練習棟の僻地にまで訪れるなんてまさか幽霊か。前に聞いた学校七不思議が思考に過って、びくり、とミスラは肩を震わせた。
 だが、扉から顔を覗かせたのは見知った少年だった。

「まだやっとたんかミスラ。精が出るなぁ」
……クロバ」

 君だってこんな時間まで残ってるくせに。そう言外に問えば、クロバは肩を竦めた。
 どうせ彼も、実習室で楽器の修理だか作成だかその手のことをしていたのだろう。
 彼は器用で、楽器のメンテナンスが大好きだから、すぐに時間を忘れて没頭する。
 お互いに、あまり人の事は言えないのだ。

……にしても、ようやりよるな。ひたすら調律なんて。調律専攻とはいえ、別にわざわざ高校の間に調律の資格取る必要もないんやろ」
「僕は不器用だから。これくらいやっとかないと専門学校行っても留年するよ」
「左様でございますか」

 クロバは目をすがめて、けれどふざけた口調で茶化した。
 調律師の資格は、専門学校で取るのが一般的だ。一部の音楽大学だったり、高卒で職人として雇われながら実地経験を積みながらで調律師の資格を取ったりする場合もあるが、それはごく稀だ。
 ミスラの属する音大附属高校は調律専攻と呼ばれながらも、ピアノ以外の調律や楽器のメンテナンスも学ぶ。必ずしもピアノ調律師になる必要はないのだ。
 だがミスラは既に決めていた。自分は、必ずピアノ調律師になるのだと。そう決めて、ピアノ科から転科したのだ。

「相変わらずの自己肯定感の低さやなぁ」

 自覚はある。だが、指摘されたところで治るものではないのだ。
 それに、この世界に化け物は幾人もいる。才能がものをいう世界で、例え演奏家の道から外れたとはいえ、音楽について月並みな才能しか持たないミスラがこの世界で生き残りたいのならば、それこそ血反吐を吐くような、寝る間を惜しむような、蛍の光で練習するようなそういう努力が必要になるのだ。
 特別な才能がない自分がそれでも音楽家でいたいと願うのならば、努力することしか残されていていない。
 足掻くために、調律専攻へと転科したから、あとは徹底的に足掻くしかない。
 すっと練習室に身体を滑り込ませたクロバは、ミスラが今しがた調律しなおしたばかりのピアノに指を置いた。
 奏でられたのはきらきら星。ピアノ科の生徒ならだいたい弾いたことのあるモーツァルトの変奏曲の方ではなく、その主題となっている童謡の方だ。
 小学生が音楽の授業で習うような簡単なフレーズ。
 ——ねえ、言わせて母さん。僕が今何に悩んでいるか。
 なんて。クロバの上手くはないが下手ではない程度の演奏に、聞きかじっただけのカロス語の歌詞を思い出された。
 ミスラの調律の出来を確かめるかのように鍵盤の上で踊っていたクロバの指が止まる。
 
「ほんとに、ろくに曲も弾かずに鍵盤を叩き続けるなんて、正気じゃやってられんな」
「大好きだからね、ピアノの音」

 恋焦がれるほどに、思い慕うほどに。
 ピアノなしでは生きれないくらいに。
 演奏家を目指すのを辞めると決めて、それでもピアノを人生から切り離せないくらいに。
 ミスラはピアノの音が大好きなのだ。

「はは、情熱的やなあ」

 クロバは鍵盤から手を離した。帰ろうぜ、とミスラの肩を小突いた。

「ちょっと待って、今片づけるから!」
「急げ、完全下校や」
「分かってる!」

 大急ぎでピアノを元に戻し、部屋の隅に放り投げたままのスクールバッグを回収してミスラは急いでクロバを追う。
 灯りの消えた練習室の並ぶ練習棟を二人並んで歩きながら、ミスラは思った。
 また、明日もあのピアノの音を合わせに来よう。 


(2026.06.13)