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katakuruten
2026-06-02 00:45:42
12190文字
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演奏家パロ(仮)
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音高パロ短編まとめ
音楽科高校パロ
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Berceuse
いつも通りに登校した、月曜日の朝のことであった。
週初めの朝早くだと言うのに音大附属の高等部と、併設された中等部の校舎は様々な音で満ち溢れている。
ピアノの繊細かつ高速のハノン。木管の美しいロングトーンに、打楽器の力強い躍動。
それらの音は中等部に入学してそれなりの月日が経ったパイロープには耳慣れたもので、混沌としながらもどこか秩序だった世界に耳を傾けながら彼女は自分の教室へと向かう階段へと向かった。
少し草臥れたスクールバッグを肩にかけ、それにつけられた彼女のトレードマークになりつつあるピンクのやけに丸い猫のマスコットを揺らしながら自分の教室がある階へと階段を登り切ったときだった。
耳馴染みのある、声変わりしたての、けれどまだどこか幼さの残した静謐がパイロープの耳に届いた。
「パイロープ、今日暇?」
目を向ければ、同級生の弦楽器科のラズワルドが立っていた。その腕には何かの楽譜が抱えられている。
おはよう、の挨拶もそこそこに彼はパイロープの傍へと近づいてきた。
その様子にパイロープは、ああ、と直感する。
「暇だけど、なに?」
「合わせの練習したいんだけど、相手が捕まらなくって」
思った通りだ。アンサンブルの練習のお誘い。音楽を専門とするこの学校では珍しくもないことだった。
他人の予定を拘束しようとしているというのに、申し訳なさ一つ感じさせない仏頂面でラズワルドは言う。
「昼休みでも放課後でもいいんだけどさ」
そう言って渡されたスコアはグリエールのヴァイオリンとチェロのための8つの小品。op.39。子守歌。
その譜面を見て、パイロープは微かに眉を下げた。
合わせを頼まれるのは別に良い。こちらの経験値にもなるし、パイロープも当日に突然合わせを頼むことはある。多少は持ちつ持たれつだ。
だが。しかし。
多少の不満を込めてパイロープは抗議する。
「わたし声楽科なんだけど」
そう。
オダマキ・パイロープは声楽科である。オペラや歌曲の歌唱を専門とする専攻であり、間違ってもバイオリンとチェロのデュオの当日の合わせを頼まれるような類の人間ではないはずだが。
しかしながら、そのパイロープの抗議には目もくれず、当然のような顔をしてラズワルドは言った。
「お前に頼んだ方が早いし、上手い」
あまりにも大真面目で、本気だという顔だった。
表情も声のトーンもろくに変えず、平然としてそんなことを言うのだからパイロープはいっそ呆気にとられる。
確かにパイロープはヴァイオリンも嗜んでいるし、同学年のヴァイオリン専攻の生徒と遜色ない程度には弾きこなすことができる。それは、音楽家家系に生まれて、ヴァイオリンの神童たる兄の背を追って生きてきたゆえのことである。そういう生き方をしてきたのだから、当然専攻楽器じゃなくてもある程度の実力で弾ける楽器はいくつかあるし、それが音楽家一家に生まれた自分に課せられた期待だとも分かっている。
だが、面と向かって褒められるとどこか面映ゆいものがあった。
居心地の悪さに目を逸らすようにして、パイロープは応じた。
「
……
駅前のクレープ奢りでどう?」
「乗った」
専攻ではない楽器での演奏に付き合うのだから、それ相応の対価は貰うべきではある。といっても、音大、ないし音大附属において伴奏や練習の合わせというのは基本的には手の空いた人間の無償の善意によるボランティアでしかないのだが。
だが、半ばふざけた提案をしてみれば、ラズワルドは提示された対価を二つ返事で承諾した。上々な取引である。
ちらりと譜面を読み流したが、パイロープにとって手が余るような、さして難しい曲ではない。試験の伴奏ならともかく、飛び入りの合わせくらいなら十分パイロープにも務まるだろう。
だが、それにしても。
パイロープは半眼になった。
「ラズさぁ、もうちょっと伴奏頼める友達増やしなよ」
「お前が断ったら考える」
「
……
つまりわたししか友達がいないってことね」
ラズワルドはバツが悪そうに少し黙った。
「
……
別にいない訳じゃない」
「はいはい」
捻り出された返答をひらりとパイロープは受け流す。
別に本気で心配しているわけでもないし、広げたい話題でもない。
ただの意趣返しだ。
とりあえず、とラズワルドはパイロープのことを見つめた。
「練習室はこっちで取っておくから、昼休みによろしく」
◇
昼休み、約束通りにラズワルドが押さえていたのは比較的人気のある練習室だった。練習室は基本的にどの部屋も似たような設備ではあるけれども、やはり部屋によって多少の間取りや配置は異なる。ラズワルドが持っていた鍵は、天井が高く、音がよく響くと奪い合いになりやすい部屋のものだった。
他の部屋も決して悪くはない響き方をする。けれど、パイロープの知る練習室で、この部屋はいっとう響きが良い。
ふふん、と自分が押さえた訳ではないにしろ、少し上機嫌な鼻歌が漏れた。
この部屋を使えるなんて、運がいい。滅多に使えないが、お気に入りの部屋だ。
それだけでラズワルドの依頼を受けてよかったとも、少しだけ思う。
それにしても。
音大附属とはいえ、パイロープらが所属する中等部は義務教育の範囲内であるから、課される音楽教育も高等部や大学の専攻科ほど厳しいものではない。
パイロープが知る限り、ラズワルドは不真面目ではあるものの課題考査前でもないのに突然の音合わせを必要とするほど演奏が下手というわけでもない。
それがいったいどういう風の吹き回しか。
パイロープは預かった楽譜を譜面台に置き、借りてきたヴァイオリンをケースから取り出す。専攻が声楽であるパイロープは普段自分の楽器を持ち歩かないので、こういう突然の依頼は学校が貸し出してくれる楽器で対応することが多々あるのだ。
顎宛てにヴァイオリンを添え、開放弦を軽く鳴らして調弦を確かめる。自分の楽器ではないのだから仕方がないが、音に狂いはないがやはり違和感はある。スケールを何回か行き来して、その違和感に自分の耳を慣らした。
向かいでは、ラズワルドが弓へ松脂を塗っていた。彼のすぐ足元に横たえられたフルサイズのチェロは、ラズワルドがそのサイズを扱うのに十分な身長があるにしても、やはりいまだ成長期の少年が抱えるには少し大きい。だが取り回しには慣れているのだろう。弓の準備を終えた彼は、相棒のチェロを苦も無く抱え上げ、エンドピンを床へと据えた。
ヴァイオリンとチェロの音が調和して響く。
いくらかの間そうやってお互いの呼吸を、間を確かめ合い、どちらからともなく演奏を止める。
黒塗りの椅子に腰かけ、左手にチェロを、右手に弓を構えたラズワルドが静かに告げた。
「始めるぞ」
その声と同時に、曲が始まる。
ラズワルドの奏でるチェロの音は、例えるのなら深海そのものだった。
陽光の届かない海の底で、孤独に奏でられる低音。
聴衆を誰彼構わず惹きつけるような派手な音色ではない。だが、か細いわけでも地味なわけでもない。
腹に落ちるような心地の良い響きは、人の立ち入らぬ仄暗い深海を想起させた。
藍く昏く。陽の光はなく。生体が発する微かな灯りだけが光源となる世界で、群れも成さずにただ一匹で泳ぐ鯨。
彼のチェロの音色は、そういう景色を幻視させる。
寡黙なラズワルドに相反するように、彼のチェロは驚くほど雄弁なのだ。
技巧だけならば彼を上回る人間なんていくらでもいる。パイロープの兄のように、望むままに空想上の世界を聴衆に見せつけるような天才さえいる世界で。
けれど、パイロープは彼の奏でる深海が好ましかった。
たった一匹で泳ぐ鯨のいる深海の景色を、パイロープは確かに見ていた。
昼休みの終了を告げる予鈴が校舎に響き渡る。
反射的に顔を上げてスピーカーを見たラズワルドは、小さく、やっべ、と呟いた。
「次、移動教室だったの忘れてた」
彼はいそいそとチェロを片付けはじめ、練習室の鍵をパイロープに投げて寄越した。返却しておけ、ということなのだろう。急いでいるのはわかるが、高価な楽器が手元にある場所で金属製の鍵を投げるのは、楽器を傷付けかねないからやめた方がいい。危なげなく鍵を受け取って、パイロープはそう思う。
それを指摘している時間は今はなさそうだけれど。
チェロケースを担いでドアノブに手を伸ばしたラズワルドが、何かを思い出したかのように振り返った。
「練習付き合ってくれてサンキュ」
「
……
クレープ忘れないでよ」
「分かってる。また今度奢るから」
そう言って急ぎ足で部屋を出て行ったラズワルドの背中を、パイロープは見送った。
まだ、彼の奏でる深海が耳の中で残響している気がする。
初めて彼の音を聴いた時、深海から音がするとしたらきっとこんな音なのだろうと思った。今でもそのことを覚えている。
今日もやっぱりそう思った。明日も、高等部に進んでも、大学生になっても。
きっと、彼のチェロの音を聴くたびにそう思うのだろう。
(2026.06.11)
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