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もち粉
2026-05-28 00:00:00
9847文字
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最適解と不合理(後編)「不合理を君と」
カブミス
三十歳の誕生日(回答期限当日)
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〈五月二十八日 夜〉
静寂が、部屋を深く包み込んでいた。
湿り気を帯びた空気が薄くまとわりつく夜だった。
明かりは灯っていない。窓から差し込む下弦の月の光だけが、青白く床を浸している。その光の境界線に、あの出窓のそばで立ち尽くすミスルンがいた。
黙ってこちらを見つめてくる黒い瞳に月光が反射して銀にも見える。
(これは
……
どっちだ?)
判別がつかないまま、音を立てないように、ゆっくりと歩み寄る。ミスルンはわずかに窓側を向いていた姿勢からカブルーに向き直る。
その小さな所作にさえ気品が宿っていた。今朝の資料庫で取り乱した様子など、微塵も感じさせない。
「カブルー
……
」
ミスルンの唇から小さな声がこぼれる。鈴を転がすような響き。きっと、若いときの彼はこんな声をしていた。
「私は君の人生を背負えない。
――
自分一人さえ持て余している、空っぽで、欠陥品の私だ。君に何ひとつ与えてやれないし、君の未来への責任をなんら果たすこともできない。だから
――
……
」
「ミスルンさん」
震える言葉を遮るように、カブルーはその唇にそっと人差し指を添えた。吸い付くような唇の感触。指先から、ミスルンの呼吸の乱れが直接伝わってくる。
「貴方、『ミスルンさん』でしょう?」
静かに離れた指を目で追って、叱られた子どものようにミスルンがじわりと目を潤ませた。
「ねえ、俺も今日で三十になりました。
自分の人生の責任くらい、自分で持てる歳ですよ。
……
それに言ったでしょう? 俺の好きな人を、欠陥品なんて言うのはやめてください」
「だが
――
」
「聞きません」
きっぱりと言い切ったカブルーにミスルンは耳を震わせた。
「俺が聞きたいのは、貴方が、俺を、どう思っているのかってことです。今日は
――
その返事を聞きに来たんですよ」
「
……
おまえの選択は
――
不合理だぞ」
「構いません。
最適解じゃなくていい。完璧な貴方なんて求めてない。
今ここにいる貴方と一緒に、たくさん迷って、一緒に選んでいきたいだけです」
ほっそりとした腕を優しく引いて抱き寄せた。ミスルンの心臓がとくとくと、早く、確かに鼓動を刻んでいるのが伝わってくる。
「
……
うん」
腕の中で俯いたミスルンの輪郭だけをふわりとなぞるようにカブルーが髪に触れた。
「返事
――
聞かせてもらえますか?」
ミスルンはカブルーの熱いほどの体温に包まれてひとつ息を吐く。
力を抜けば、常より速い己の心臓よりも、もっと早く、もっと力強い脈動が伝わってきた。その鼓動に揺らされるように、胸の奥で最後の何かが、ゆっくりと溶けてゆくのを感じた。
ミスルンの滑らかな喉が動くのを、カブルーがじっと見つめていた。
もう恋なんてしないはずだったのに。
あの日、迷宮の奥底で鏡を叩き割って山羊の悪魔の手を取った。あの時欲しかったものが彼女だったのか兄だったのか、今となってはもうわからない。
もう二度と愚かな真似を繰り返すまいと誓っていたのに。
ああ
――
恋に落ちる準備が、整ってしまった。
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