もち粉
2026-05-28 00:00:00
9847文字
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最適解と不合理(後編)「不合理を君と」


カブミス
三十歳の誕生日(回答期限当日)



〈五月二十八日 朝〉

五月の末。カブルーの三十歳の誕生日は、どんよりとした雨上がりの湿った空気の中で明けた。

「カブルー様、私がお取りしますから」
「大丈夫だよ、押さえてて」

外務局の資料庫は、昼間でも薄暗い。
天井近くまで届く造り付けの書架が幾列も並び、古い羊皮紙とインクの匂いが混じり合っている。
二階の高さに張り出した、階下を見下ろす狭い通路。そこに立てた不安定な脚立の上に、カブルーは身軽に飛び乗った。

評議会に向けての参考資料を探してパラパラとページをめくっては戻し、使えそうな資料は脚立の下で待つ部下に渡していく。

そのうち脚立に乗ったまま資料を読みふけり始めてしまったカブルーに部下がためらいがちに声をかけた。

……噂になってますよ」
「何が?」
「近頃カブルー様が、公然とミスルン閣下を口説いてるって」
「まあね」
「しかも振られてるって」
……振られてない!」

思わず資料から顔を上げたカブルーに部下がため息をつく。

「一体どうしちゃったんですか? 貴方はもっと……公私を弁えた方でしょう?」

その声音に、心配されているのだと気が付いたカブルーはきまり悪げに微笑んだ。

この一週間、なりふり構わず彼を揺さぶり続けた。自分は正しいと言い張るあの「代行」の涼しい顔を崩したくて。どこかにいつものミスルンが顔を覗かせるんじゃないかと思って。人目のある場所ほど「不適切」に彼の言う「不合理」な愛を囁いた。

「人って年を取るごとに、恥ずかしげとか可愛げってものを失っていくよね」
……そういえば今日お誕生日でしたよね、三十歳おめでとうございます。とうとう中年の仲間入りですね」

なにか言いたげに口をもごもごとさせたが、結局憎まれ口を叩いた部下に、カブルーは話を打ち切るように声を張った。

「まあ、不適切な行動も今日までだから見逃してくれ。さ、次はどれ?」
――一番上の棚のやつです。カブルー様じゃ届かないですね、代わりましょう」
「届くって」

意地を張って手を伸ばしたものの、最上段に積まれた巻物達にあと数センチ届かない。
普段ミスルンと過ごしていると忘れがちだが、自分がトールマンとしては平均より小さい方であることを久々に思い知らされながら、カブルーは脚立の上に立ち上がった。

その時、ガラリと資料庫の引き戸が開く音がした。

「あ、ミスルン閣下」
「えっ?」

部下の声に心臓が跳ねた。
今日は――約束の期限だ。
返事はせめて、いつもの彼の口から聞きたい。

思わず振り返る。
吹き抜けから階下を見下ろせば、部下の声に顔を上げたミスルンと目が合った。返却するらしい資料を抱えて入口に立っている。

「特別閲覧許可資料のご返却ですね、少々お待ちください。今そちらへ参ります」

視界が彼だけで満たされた、その瞬間。

ぐらり。

部下の押さえを失った脚立の重心が後ろにかかって前脚が浮く。

咄嗟に書棚を掴んで身体を引き戻そうと腕を伸ばすが、棚板に指をぶつけてかえってバランスを崩す。
脚立が手すりにぶつかり、カブルーは背中から宙へ放りだされた。

「カブルー様!!」

部下の悲鳴が聞こえる。

ヤバい。
体勢が悪くて受け身も取れそうにない。このまま一階の床か机に叩きつけられることを瞬時に覚悟する。せめて、ミスルンを巻き添えにしないといい。
少しでも頭を守ろうと首を動かしたその時。ふっと周りの音の一切が遠のいた。

次の瞬間には木と木が激しくぶつかるようなけたたましい音ともに、ぐいっと襟首をつかまれて身体を引っ張られた。

ガシャン!!
一瞬前までカブルーのいた場所の床に勢いよく椅子が飛んできて跳ね返り、部屋の奥へと滑っていく。

床? いつの間にかカブルーは床に足を投げ出しており、背中には人の体の感触があった。恐る恐る後ろを振り向けば、至近距離にミスルンの顔があった。

――転移術だ。椅子と自分が入れ替わったのだと理解した。
気がつけば、ミスルンの足の間に仰向けに転がり込んでいた。


数拍遅れて、今更心臓が大きく跳ねた。

……っ、ありがとうございます」

ミスルンは完璧に手入れをされた髪を乱し、隻眼を驚愕に見張ったまま固まっていた。
腕はまだ、離れていない。

……ミスルンさん?」

呼びかけて、ようやく我に返ったように、彼は手を放した。

「カブルー様!!」

部下が階段を駆け下りてくる音が聞こえる。カブルーは、さっと身を離そうとしたミスルンの手を逆に捕らえた。びくりとミスルンの手が跳ねる。

……今、『考えて』動きましたか?」

一瞬、答えを探すようにミスルンの目が泳ぐ。
しかし返ってきた声は、必要最低限の機能だけで動いているような静けさだった。

……駐在国の高官の命を助けて恩を売る。私は最適な行動をした」

「嘘だ。今、考えるより先に、体が動いたでしょう?」

……

冷静さを保とうとするその沈黙の奥で、ほんの一瞬だけ感情が顔を出した。

「ねえ、人生は合理と最適解だけでは動いてないでしょう? 衝動と欲求と本能で、不合理で理屈に合わない行動をすることだってあるでしょう?
俺を、貴方の不合理の中に……貴方の『欲』の中に、入れてくださいよ」

ミスルンの瞳が揺れる。
この目は、この揺らぎは、カブルーのよく知るミスルンの――

「返事……聞かせて下さい」

握っていたミスルンの手を強く引く。胸に倒れ込んでくる彼を抱きとめようとした瞬間、細い身体が掻き消えた。
空振った上半身を慌てて上げれば、ミスルンはドアに背をつけ、肩を震わせながら怯えた目でこちらを見ていた。

ミスルンの喉が鳴る。乱れた呼吸の中でなんとか言葉を絞り出す。

「わ、私……、私は……誰かを選んでいいような人間では……

そのままドアを開けて無言で走り去る。その背中にカブルーは追いすがるように叫んだ。

「夜に伺いますから!」

遠ざかるミスルンのブーツの音を聞きながら、ふうと身体の力を抜いたカブルーに部下の声が降ってくる。

「振られましたね」
……振られてない!」

「ていうか仕事中に堂々いちゃつかないでもらえます? こっちの心配返してくださいよ」
「中年の臆面のなさ舐めんなよ。人生かかってるんだよこっちは」

カブルーは不敵な顔で言い返したが、床に座り込んだままではいまいち感銘は与えられなかったらしい。まだちょっと落下のショックが抜けきらない。
あと三年若かったら、跳ね起きて追いかけられたはずだった。

――決着は、今夜だ。