もち粉
2026-05-28 00:00:00
9847文字
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最適解と不合理(後編)「不合理を君と」


カブミス
三十歳の誕生日(回答期限当日)



〈五月十五日 昼〉

正午前、カブルーは中庭の東屋に一人で座るミスルンを見つけた。

初夏の強い陽射しが、藤棚の隙間からまだらな影を落としている。その手の中の本の赤い表紙には見覚えがあった。今夜行われる授賞式で文化賞を受賞するハーフフットの小説家の代表作。

ミスルンは小説を読まない人だった。
たまに挑戦しては数頁ごとに虚空を見つめていた。架空の物語を知りたいという欲がないのかもしれなかった。

​だが、今の彼は違う。視線は等速で紙面を滑り、指先は淀みなく頁をめくる。その所作はあまりに優雅で、まるで絵画のようだった。

……面白いですか?」

カブルーの声に、ミスルンは顔を上げて柔らかく微笑んだ。

「やあ君か。面白いかといえば面白いかな。ハーフフットの目から見た世界はこのようなものかと興味深い」

そのあまりにも整った、他人行儀な笑みに背筋に冷たいものが走った。
まるで得体のしれない別人と話しているようだった。

しかし同時に、ミスルンのことをずっと見てきたカブルーの心が言う。

――これもきっと、ミスルンである。と。


……ミスルンさん、お昼食べましたか? 食堂行きません?」




「日替わりランチセットを」
「あいよー! 日替わり一丁!」

迷うことなく注文をしたミスルンは、愛想よく礼を述べ、当たり前のように盆を受け取っている。
その気さくな貴族が下働きに向けるような笑顔を呆然と見ていたカブルーに、食堂名物の威勢のいい女性陣の声が飛ぶ。

「カブルー様!? 後がつかえてんだから早くして!」


二人、向かい合わせの席に陣取った。
洗練された所作でナイフとフォークを使うミスルンを見ていると、ここは晩餐会の会場ではないかと錯覚しそうだ。だが窓から差し込む日差しは明るく、周囲は昼時特有の喧騒に満ちている。

「どうして日替わりにしたんですか?」

カブルーの声にミスルンは「うん?」と小首を傾げてみせた。

「貴方、いつも中々メニューを選べなくて……。結局俺に選ばせるか俺と同じものにするのがほとんどでしょう?」

「合理的だからだよ。どうせ『これを食べたい』という欲はないんだ。セットにすれば栄養は考えられてるし、日替わりなら同じ物を偏って食べることもないだろう?」

ミスルンは肩をすくめて笑った。

「納得がいかない? なら何故いつもそうしなかったんだと思っているね?」
「それはまあ………

「わからない」
「わからないって……

「知ってはいるよ」

左手の甲にあごを乗せたミスルンは右手のフォークでくるりと空中に円を描いた。

「ひとつは、『自分の欲で食べたいものを選んでみたい』という欲があるから」

そして軽くフォークの先でカブルーを指し示す。

「もうひとつは、それが『君とのコミュニケーションになるから』」
「俺と……?」
「そう、君と」

「何が食べたいかわからない」と眉を寄せ、「おまえは何にしたんだ」とこちらの盆をのぞき込んでくるミスルン。

――口実作って、俺と言葉を交わしたがってくれてたんだ。

ほわりとカブルーの胸に温かさが灯ったが、次のミスルンの声にカブルーはスプーンを握った手に力を込めた。

「全く不合理だね。食事による栄養摂取という目的に対してあまりに遠回りだ」

苛立ちが一瞬だけ走り、顔をあげた。ミスルンの底のしれない瞳と視線がぶつかる。

「最適解を選ばない理由なんて、〈私〉にはわからない」


〈五月十五日 夜〉

「おい、なんだあのエルフは? 西の閣下殿は一体どうした!?」
授賞式後の立食パーティーの会場。ドワーフの外交官が、髭を逆立ててカブルーに詰め寄ってきた。

彼とミスルンは、この新興国に及ぼすドワーフとエルフの影響力を巡ってパワーバランスの綱引きを常に行っている。
だがはたから見れば、彼がミスルンに突っかかってはあの独特な返しに翻弄されて頭から湯気を立てているだけだ。その姿は、けんか友達のようにも見えて、なんとなく周囲からは微笑ましく見られていた。

「東の閣下……、どうかされましたか?」

二国間の問題をメリニに持ち込まれても困るのだが、カブルーはどうしても親エルフ派と見なされているのでエルフ(特にミスルン)に対する苦情がカブルーに持ち込まれることはよくあった。

「どうもこうもない! なんだあいつ、悪いものでも食ったのか?
まるであんな……普通のエルフのように……いや、まるで自動人形だ」
「自動人形?」

「トールマンは知らんか。ドワーフの伝説にある古代のからくり人形だ。判定基準を教え込めば、自動的に物事を判断して行動する」

「自動的に……?」

カブルーの中で何かが引っかかった。

「そうだ。『こんにちは』と言われたら『こんにちは』と返す。
夜なら『こんばんは』と返す――条件が変われば、答えも変わる」

視界の隅では、ミスルンが内務大臣の奥方と談笑している。彼女の話に絶妙な間で相槌を打ち、望むタイミングで称賛を差し出す。だがその微笑の奥には温度がなかった。

その様子をカブルーと共に見ていたドワーフは「けっ」と悪態をついた。
「ワシにもあんな風に接しおった。ワシだけじゃない、一律に同じように接してる。
……あんなエルフ、気味が悪いわい。さっさと妙な取り繕いは止めろと言っておけ」


「ミスルンさん」
次々と人を渡り歩くミスルンの談笑相手が途切れた隙にすかさず捕まえる。

人のいないバルコニーに出ると、新緑の香りが柔らかい空気の中漂っている。
カブルーはミスルンに向かい合うと、ゆっくりと口を開いた。

「ミスルンさん、今貴方……『考えて』話してますか?」

ミスルンはバルコニーの手すりに背を預け、出来のいい生徒を見る教師のような顔をした。

「なかなか理解が早いじゃないか」 

「ミスルンさん……本人なんですね?」

ミスルンは星を背負って微笑んだ。

「本人かといえば……まあ本人。ただ、核となる本体が眠ってる。だから過去の経験と知識でその場の最適解をはじき出して行動してるだけさ――自動的にね」

「俺が……原因ですか?」

「そりゃあね。お陰で〈私〉が出る羽目になった。でも私は余計な雑音なしで物事を判断できるし、間違った行動をしない。
――だからね。君に距離を取るのは、それが最適と判断しているからだよ」

見上げてくるミスルンの、室内からの明かりに浮かぶ白い額と月の糸のような髪を、こんな時なのに美しいと思った。

「ところで作家先生を紹介してくれないか? 今夜の主役にまだ挨拶出来ていないんだ。せっかく話題作りのために彼の著作も読んだんだから、無駄にしたくはないんだけど」


〈五月二十日〉

ミスルンの変貌ぶりはじわじわと広まっていった。

パッタドルが「最近の隊長は、お一人でなんでもこなされます。食事も休憩も、私がお声がけする必要もなくなって」と喜ばしげに語る。
「ミスルンに魔物のことで聞きたいことがあったんだけど、『では後日あらためて参内いたします』って言われちゃったよ。忙しかったのかな?」と首を傾げたライオスに「そうするのが普通なんですよ」とヤアドが苦笑する。

女官が「近ごろは私どもがお世話をする必要もなく、身だしなみが完璧なんですの」とやや寂しそうに頬に手を当てれば、「なんか愛想良くなったよな」と衛兵が頷きを交わす。

カブルーは城内の噂話をイライラと聞いていた。

――誰も気づかないのか? 明らかにいつものミスルンさんじゃないだろう?

廊下の向こうに見えた姿に目を眇める。雰囲気だけでもわかる。まだ戻ってない。

……こんにちは、ミスルンさん。今日は外務局ですか」
「三国間評議会の下準備があるんでね。ああそうだ、資料庫の特別解放をありがとう。君の計らいのおかげで助かった」
……。こちらも、その評議会の財務調整に追われてますよ。今朝、急に追加予算の申請が上がってきて」
「聞いているよ。例の御仁が暴れているみたいだね」

君も苦労するねと言いたげに、軽く肩をすくめて苦笑してみせる。陰口の嫌みはなく、こちらの心情に寄り添ってくるようなからりとした笑顔。
しかしあまりにも空虚だった。

違うよ、俺が見たいのは――ふんわりと、心の底から湧き出るようにそっと笑う、あの人の――

軽く挨拶して立ち去ろうとするミスルンを呼び止めてにらみ据える。

それ、いつまで続くんですか?」
「本体が起きるまで」

あっさりと答えたミスルンは、やれやれとばかりに腕を組んだ。

「そんなに敵視される謂れはないと思うがね。君が本体を追い詰めた結果、私が代行をしているだけなんだから」

「なら――どうしたら、ミスルンさんの本体は起きてくれるんですか?」

「さあね、それは本体に聞いてくれ。
でも――今更起こすこともないんじゃないか?」

「はあ!?」

「〈私〉はかなり上手くやっていると思うよ? 不合理ばかりの本体よりね。現に私の評判は上がりこそすれ下がってはいないはずだ」

「でも! 俺の会いたい『ミスルンさん』じゃありません」

言ってから、しまったと思うほど強い語調だった。
ミスルンが一瞬だけ目を細める。その反応すら芝居がかって見えて、カブルーの胸に小さな苛立ちが宿った。

「最適解を選んで、誰にも波風を立てない。誰の世話も必要としない。
今のあなたは完璧です。外交官としても、貴族としても、模範的だ」

でも。

「でも――俺が会いたいのは、食べたいものも選べなくて。
小説がちっとも読み進められないからって、俺のところに読み聞かせをねだりに来て。
ぼーっとしてるかと思えば、意外に短気で手が早くて……

一瞬の震えに、まつ毛が光を返した。
五月の光溢れる廊下の中で、ミスルンはいっそ切ないように微笑んだ。


「不合理だね、カブルー」


〈五月二十一日〉

……どういう風の吹き回しだい?」

口元に突き出された匙から遠ざかるように顎を引いたミスルンが眉をひそめてカブルーをにらむ。
評議会の準備も大詰めで連日登城するミスルンを食堂前で待ち構えていたカブルーは、彼を見つけるなり声をかけて強引に腕を引いた。今のミスルンは食堂の混雑が一段落した十二時四十五分ぴったりに現れるので見つけやすい。

日替わりを注文しようとしたミスルンを遮って、勝手に豆のトマトチリ煮込みを二人前注文する。
「これね、今週からの新メニューなんですが昨日食べたらうまかったんですよ。あなたにも食べて欲しいと思って」
「私が食べたら、君の腹が膨れるわけでもないだろうに」

「無意味だ」と言いかけたミスルンを遮るようにカブルーが口を開く。

「あなたもこれを気に入ってくれたら、俺は嬉しいですよ。そういうの、別に理屈じゃないでしょう」
……

カブルーは二人分の盆を運んで、椅子を引き、ミスルンを座らせると「はいっ、あーん」と豆をすくった匙を差し出す。
それに対して冒頭のミスルンのセリフである。

「だから、俺の好きなものを貴方とも共有したいんです」
「いや、だから!」

「代行」のミスルンが声を荒げたのは初めてだった。

「〈私〉は君の会いたいミスルンじゃないんだろう? 無益な行動だ」
「返事の期限まであと七日です。まだ振られてないんだし、足掻いたっていいでしょう?」
「最適解ならもう出てる。
年若く未来のあるトールマンの宰相補佐殿、君は同族の花嫁を迎えて短い生を謳歌するべきだ。……欠陥品のエルフを選ぶのはやめなさい」

「やめません」

きっぱりとした声だった。

「俺が欲しいのは、花嫁じゃなくてミスルンさんですから。俺は彼の欠落ごと愛してる。
――あと、俺の好きな人のことを『欠陥品』なんていうのはやめてください」

混雑のピークは過ぎたとはいえ、まだ人の多い食堂である。白昼堂々の痴話喧嘩かと、周囲のテーブルの者たちが重鎮たちの会話に息を呑んで聞き耳を立てている。

――っ こんな、真っ昼間の食堂でするには適切な話ではないね」

「俺は不合理な男ですので。時には不適切な行動も取りますよ」

若いときはこんなに図太くはなれなかった。むしろ無意識に爆弾発言をするミスルンの口を慌てて押さえたりごまかしたりしたものだ。カブルーはしれっとした顔で、どこか悔しげな顔のミスルンに再び匙を突き出した。

「はい、あーんして?」

……自分で食べられる! 私の身体機能に問題はないのだから、余計な世話を焼くな! 不合理だ!!」

カブルーから匙をひったくって、ぱくりと口に入れたミスルンの動きが一瞬止まる。
もぐもぐと咀嚼してごくりと飲み込んだあと、恨めしげにカブルーをにらんだ。

……これ、辛いやつじゃないか」

「代行」のすました顔を初めて揺るがせたカブルーは、上機嫌に微笑んだ。

「辛いけどおいしいでしょう? 半分食べられたらデザートも奢ってあげますよ」