夏蜜柑
2026-05-18 02:39:22
16282文字
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逃避行はポケットの中で

lkがぬいの中に入ってamに拾われる話。
※136話以降。捏造しかない。頭を空っぽにして読んでください。



​『ロイ、ウルト! とにかくリコを安全な場所へ! 森の入り口付近まで戻ろう!』
 スマホロトムから響くドットの焦燥に満ちた声に、二人が力強く頷く気配がした。
「ぼくが背負うよ。ウルトとマスカーニャは、周りの警戒を頼んだ!」
 ロイがわたしの身体をそっと背に担ぎ上げる。ウルトが先頭に立ち、マスカーニャが背後へ鋭い視線を配りながら歩き出した。
 彼らが森の出口へ向かって歩を進めるのを、わたしは彼の懐にすっぽりと収まったまま、高い枝の上から見下ろしていた。
​ 下を進む足音を追うように、わたしの寄りかかっている胸元が、ふっと大きく持ち上がる。
音もなく、彼が枝から枝へと跳躍したのだ。
 風を切るたびに、分厚いジャケットの隙間から冷たい空気が忍び込んでくる。けれど、彼が外側からしっかりと左手で押さえてくれているおかげで、怖いという気持ちは少しも浮かばなかった。
 跳躍のたびにわずかに上がる息遣いと、早鐘を打つような胸の高鳴りだけが、柔らかな布地を通して、わたしの芯へと直接響いてくる。
 こんな風に彼のリズムに寄り添い、身を委ねる日が来るなんて。かつて刃を交え、互いの気配さえ遠く拒絶していた頃には、想像もできなかった。
​ どれくらいそうして進んだだろう。
 やがて、ひりつくような淀んだ気配が薄れ、木々の隙間から赤く染まった夕暮れの光が差し込んでくるようになった。
……よし、周囲の異常なデータも完全に消えた。そこならもう安全だ。一度リコを下ろして、態勢を整えよう』
 ドットの声で、二人が足を止める。
 ロイが慎重にわたしの身体を下ろし、太い木の根元にそっと寄りかからせた。
「オレ様が少し先の様子を見てきてやる。メガヤバイ奴が潜んでないか、確認しとくからな」
「ああ、任せた。ぼくはマスカーニャとリコのそばにいるよ」
 ウルトが枯れ葉を踏んで少し先へ歩き出し、ロイとマスカーニャも周囲の茂みへと警戒の視線を向ける。
​ 枝の上からその様子を見下ろしていた彼が、ふっと息を細く吐き出した。
 厚いジャケット越しに、彼の鼓動が少しだけ早くなったのがわかる。
 音もなく、彼が枝から跳躍した。風を切り、彼が降り立ったのは、ロイたちが背を向けている死角――わたしの身体がもたれかかっている、まさにその木の裏側だった。
​(えっ……?)
​ 仲間たちがすぐそばにいるのに。見つかれば騒ぎになるのは目に見えているのに、彼は気配を完全に殺したまま、そっと木の陰からわたしの身体へと近づいた。マスカーニャだけがわずかな空気の揺れに気づき、覆面越しの目を細めて影を鋭く見据えた。彼の姿を認めると、本来なら自分が陣取るはずの特等席――主のすぐそばを、今だけは彼に明け渡すのがどうしても気に食わないのか、ふいっとそっぽを向いて不服そうに喉の奥を鳴らす。それでも今の状況を察してか、渋々といった様子で前足を一度だけトンと土に打ち付け、小さく目を伏せて黙ってくれた。
​ 暗がりの中、彼の大きな手がゆっくりと懐へ差し込まれる。
 温かく、彼自身の落ち着いた香りに満ちた空間から引き上げられ、外の冷たい空気に触れた瞬間、わたしはぶるりと身体を震わせた。
 もうお別れだ。そう思って、まん丸に縫い付けられた瞳で彼を見上げる。
 いつもなら鋭く冷たいはずの切れ長な瞳が、今は夕暮れの光を反射して、ひどく柔らかく揺らいで見えた。
​ 彼はぬいぐるみわたしをすぐに手放すことはせず、両手でそっと包み込むように持ち上げた。
 そして、ゆっくりと、ごく自然な動作で――顔を近づけてきた。
(えっ……あ、……っ!? ま、待っ……
 彼の顔が目の前に迫る。端正な顔立ちが影を落とし、吐息が直接布地に触れるほど近い距離。
 次の瞬間、わたしの額のあたりに、柔らかくて温かいものが、そっと押し当てられた。
​『〜っ、!?』
​ 声にならない悲鳴が胸の奥で跳ねる。
 それは、間違いなく彼の唇だった。布越しなのに、触れられた場所から火がつくように熱が広がり、全身が粟立つような甘い痺れが走る。

​「……元の場所へ、帰れ」

​ 耳元で囁かれたその声は、ひどく掠れていて、不器用な祈りのようだった。
​ 心臓が壊れそうなほど大きく脈打つ中、彼はしゃがみ込み、眠り続けているわたしの身体の胸元へ、ぬいぐるみをそっと横たえた。
 布の背中越しに、自分の肉体の鼓動を感じる。
 けれど、それ以上にわたしの意識を縛り付けたのは、ぬいぐるみを置いた彼の手が、そのまま離れずに、わたしの本当の頬へとすべり降りたことだった。
​(あ……
​ 黒い手袋越しに伝わってくる、確かな体温。
 冷え切っていたわたしの頬を、彼の長い指先が愛おしむように、そっと撫でる。
 額に落された布越しの熱と、頬を撫でる直接の熱。
 二つの場所から注ぎ込まれるどうしようもないほどの温もりが、わたしの中でバチバチと火花を散らすように弾けた。
――ドクンッ!!
​ 背筋を突き抜けるような強い引力。
 ぐらりと視界が反転し、ぬいぐるみの視界がブラックアウトする。
 息が詰まるような浮遊感のあと、重い泥から引き上げられたように、全身の感覚が一気に押し寄せてきた。
​「ん……っ」
 冷たい森の空気。土の匂い。自分の喉から漏れた、かすかな声。
 重い瞼をゆっくりと押し上げると、そこには見慣れた人間の視界が広がっていた。
「リコ……!?」
 すぐそばで、ウルトの驚いた声が弾ける。ロイが振り返り、「リコ! 目が覚めたの!?」と弾かれたように駆け寄ってきた。
​「ロイ……ウルト……っ、わっ」
 自分の声が出た直後、二人の間をすり抜けるようにして、緑色の影が飛び込んできた。
「マーニャッ!」
 勢いよく胸元へすがりついてきたマスカーニャが、わたしの首元に細い腕をきゅっと巻きつけ、冷え切った頬へ自身の柔らかな頬を何度も、何度も擦り付けてくる。
 喉の奥から震えるような鳴き声を漏らすその姿から、ずっとわたしの身体のそばで守り続けてくれていた不安と、ようやく意識が戻ったことへの安堵がひしひしと伝わってきた。
​「心配かけて、ごめんね……もう、大丈夫だから」
 わたしはゆっくりと身を起こしながら、片手でマスカーニャの背中を優しく抱きしめ返し、もう片方の手で自分の胸元へ触れた。そこには、さっきまでわたしの意識が入っていた水色のぬいぐるみが乗っかっていた。
 ふと視線を上げると、木の裏側に広がる深い闇の奥で、紫の炎が小さく揺れ、翻るジャケットの裾が斜陽の影へと溶けていくのが見えた。
​「お、おいっ……急に起きんなよ! メガ心臓に悪いだろ……っ!」
 私と目が合った瞬間、ウルトが弾かれたように顔を逸らし、気まずそうに数歩だけ後ずさる。耳の端がうっすらと赤くなっているのは、強がっている言葉とは裏腹の、彼なりの不器用な安堵の証拠だった。
「よかったぁ……本当に心配したんだぞ、リコ! どこか痛いところはない? 大丈夫?」
 ロイがふっと大きく息を吐き出して顔をほころばせ、私の顔を覗き込んでくる。
 二人が安堵の声を上げる中、わたしは胸元のぬいぐるみを両手でぎゅっと抱きしめた。
……うん。大丈夫。すごく……温かかったから」
「温かかった……?」
 キョトンと目を丸くしたロイが、周囲に漂う底冷えのする白い霧へと視線を巡らせる。ウルトも怪訝そうに片眉を吊り上げ、私の顔を覗き込んできた。
「は? お前、寝ぼけてんじゃねーの。こんな冷凍庫みたいな場所のどこが……
​『――っ、リコ!?』
​ 呆れたようなウルトの声を掻き消すように、宙に浮くスマホロトムのスピーカーから、びりびりと音割れするほどの大声が唐突に弾けた。
『リコ、目を覚ましたのか!? 無事なのか!? よかったぁ……っ、ボク、お前のせいでマジで心臓止まるかと思ったんだからな!!』
 遅れて私の覚醒に気づいたらしいドットの叫びが、夕闇に飲み込まれゆく森にけたたましく響き渡る。そのあまりの勢いに、すぐ顔の横にスマホロトムを浮かせていたウルトが「うおっ!?」と肩を跳ねさせ、鼓膜を庇うように両手で耳を塞ぎながら慌てて距離を取った。
​「あはは……ごめんね、ドット。心配かけて」
 仲間たちの賑やかで騒がしいやり取りに、胸の奥で張り詰めていたこわばりが、ふっと解けていく。
​(言えないよね。このぬいぐるみが、誰の懐に入っていたかなんて)
​ 自分の頬にそっと片手を添える。
 手袋越しに撫でられたその場所は、マスカーニャの柔らかな毛並みに触れられてもなお、どうしようもなく熱かった。
 ぬいぐるみに残る彼の香りと、頬に焼き付いた感触。
 その二つの熱が、暴走しそうなくらい高鳴るわたしの胸の奥を、いつまでも甘く、激しく揺らしていた。