夏蜜柑
2026-05-18 02:39:22
16282文字
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逃避行はポケットの中で

lkがぬいの中に入ってamに拾われる話。
※136話以降。捏造しかない。頭を空っぽにして読んでください。

 鬱蒼と茂る木々が、傾きかけた西日を遮り、早くも底冷えのする影を落としている。
 エクシードが過去にばら撒き、いまだ森の奥に燻り続けている不穏な名残――ストロングスフィア。それを追って街外れの森まで足を延ばしたものの、周囲には冷たい白い霧が立ち込めていた。枯れ葉を踏む自分の足音だけが、やけに大きく響く。
……ん?」
 崖に沿った獣道を進んでいた時、濃い霧の向こうから、ひりつくような冷たい気配が漂ってくるのを感じた。ゴーストポケモン特有の、どす黒く淀んだ空気だ。
 足早に駆け抜け、視界が開けた場所に出た瞬間、俺は思わず息を呑んだ。
「ニャオォッ!」
 狂気に当てられ、我を忘れたゴーストポケモンたちが渦を巻くように群がっている。その中心で、マントのようなふさふさとした毛を逆立て、必死に立ち塞がっているのはマスカーニャだった。
 そして、その足元には――
「リコ……?」
 見間違えるはずもない。冷たい土の上に身を投げ出し、糸の切れた操り人形のように倒れ伏している少女の姿があった。
 考えるよりも先に、身体が動いていた。
「ソウブレイズ、むねんのつるぎ!」
 鋭く呼ぶと、赤紫の炎を纏った相棒が即座に前へ進み出る。迫る夕闇を焼き焦がすような熱を秘めた双剣が閃き、倒れた少女へ迫ろうとしていた影たちを容赦なく斬り裂き、大きく弾き飛ばした。
 突然のことに、マスカーニャが肩で息をしながらこちらを振り返る。幾度も刃を交え、共に戦った俺の姿を認めてほっとしたように息を吐き出すと、すぐに主の傍らへすり寄り、悲痛な鳴き声を上げた。
 周囲の影が散り散りになったのを見届け、俺は倒れた彼女のもとへ歩み寄った。目立った傷はない。ただ、眠っているかのように意識を手放しているだけだ。
 胸の奥でつかえていた息を細く吐き出しかけた時、視界の端で何かが転がっているのが見えた。土と緑しかない景色の中で、そこだけ浮き立ったような明るい水色。彼女のすぐそばの枯れ葉の上に、布製の小さなぬいぐるみが落ちていた。
 深い夜色の髪に、見慣れた水色のパーカーを模した作り。
……なぜ、こんなところに」
 最近、マイティGのグッズ展開に便乗して彼女たちライジングボルテッカーズのぬいぐるみも出回っているという話はジルたちから聞いていたが、現物を見るのは初めてだった。
 しゃがみ込み、黒い手袋越しにそれを拾い上げる。
 ただの布の感触。しかし、手のひらに乗せた瞬間、かすかな違和感が指先を掠めた。
……温かい?)
 森の冷たい空気に晒されていたはずなのに、持ち上げた布の奥から、じんわりとした熱が伝わってくる。ただの綿の詰まった塊ではない、小さな鼓動のような、柔らかな重みがそこにはあった。
……っ、アメジオ……!?』
 風の音のせいか。
 縫い付けられた水色の丸い瞳と視線が合った瞬間、声にならないかすかな吐息が聞こえた気がした。
 眉を寄せ、目の高さまで持ち上げる。
 気のせいかもしれない。だが、俺の手の中にある小さな水色の塊は、確かに、小刻みに震えているように見えた。
「おい……まさか」
 手の中の熱が、指の腹を通して静かに、けれど確かに伝わってくる。布の表面からは、ほんのりと花の香りがした。それは、足元で不安そうにこちらを見上げているマスカーニャと同じ匂い。
「君……なのか?」
 信じられない考えが頭をよぎるが、手の中に収まる小さな重みは、身を固くして、ほんのわずかな震えを繰り返している。その震えが、かつて刃を向けた時の彼女の戸惑いや、無茶をして立ち上がろうとする時の張り詰めた空気と似ていて、思わず指先の力が少しだけ抜けた。
……
 返事はない。ただ、見開かれたままのぬいぐるみの瞳が、すがるようにこちらを見つめ返している気がした。
 再び、冷たい風が木々を揺らした。散らばっていたゴーストポケモンたちが、刺さるような冷気を持って再びこちらへ這い寄ってくる。
……ソウブレイズ!」
 再び身構えた直後だった。
 手の中に収まる小さな水色の塊が、迫り来る冷気に呼応するように、びくっと大きく跳ねた。

 布の表面から伝わってくるのは、ひりつくような怯えと、身を固くする気配。
 ただの作られた物であるはずがない。その事実が、理屈よりも先に俺の身体を動かしていた。
 とっさに、その小さな塊を自身のジャケットの懐へと滑り込ませる。冷たい外気を遠ざけるように胸元で庇うと、布越しに、小さくて乱れた震えが直接肌に伝わってきた。
……じっとしていろ」
 誰に向けて言ったのか、自分でも分からない。ただ、低く抑えた声に合わせるように、懐の中の震えがほんの少しだけ弱まり、代わりにじんわりとした温もりが寄り添ってくる感覚があった。
 倒れた彼女の身体は、マスカーニャがしっかりと守っている。俺は懐の熱を庇うように立ち回り、ソウブレイズと共に襲い来る冷気を散らしていった。
 しばらくして、黒い淀みがすっかりと晴れ、森に本来の静けさが戻る。
 深く息を吐き出し、周囲の気配が消えたことを確かめる。足元では、マスカーニャが倒れたリコにすり寄りながら、不思議そうに俺の胸元を見上げていた。相棒の感覚で、そこに主の気配があると察しているのかもしれない。
 胸元に当てていた左手をゆっくりと離し、ジャケットの隙間から中を覗き込んだ。

 水色のぬいぐるみが、少しだけ前屈みになって、じっとこちらを見上げている。縫い付けられた表情が変わるはずもないのに、その視線からは、張り詰めていた糸が切れたような、言葉にならない熱が確かに伝わってきた。
……怪我は、してないな」
 呟きながら、少し乱れたフードの形を指先で直してやる。
 遠くの森の入り口の方から、聞き覚えのある騒がしい声が響いてきた。「リコ!」「どこ行ったんだよ!」という、彼女の仲間たちの声だ。
……迎えが来たようだな」
 少しだけ、胸の奥に冷たい風が吹き込む気がした。
 この不思議で小さな熱を手放す時が来た。懐から水色の塊を取り出し、手のひらの上に乗せる。身体がそばにあるのだから、側に置いておけばいずれ元に戻るはずだ。
……早く、元の姿に戻れ」
 その短い言葉に、不器用なほど真っ直ぐな想いを乗せて。
 俺は倒れている彼女と、それを守るマスカーニャのすぐそばに、その小さな水色の熱をそっと横たえようとした。
 だが、黒い手袋の先が布から離れるよりも早く、かすかな抵抗が引き留める。
 視線を落とすと、短い布の腕が、俺の指先を不器用に、けれど必死に抱え込んでいた。
……っ、おい」
 ただの布切れとは思えないほどの、すがるような強さがこもっていた。振り解こうと思えば簡単に解けるはずの力だ。しかし、指の腹に密着した布地から、じんわりとした熱と、小刻みで乱れた震えが伝わってきて、どうしても手を引くことができない。
「リコー! どこだー!」
「おい! いるなら返事しろって!」
 木々の向こうから、少年たちの声が近づいてくる。枯れ葉を踏む足音も、もうすぐそこまで迫っていた。マスカーニャが、仲間たちの気配に気づいて短く鳴き声を上げる。
「離せ。……仲間がすぐそこまで来ている」
 低く抑えた声で諭すように言う。今はかつてのように刃を交える関係ではないが、だからといってこの状況をすぐに説明できるわけがない。彼女の身体は無事だ。俺は一刻も早く姿を消すべきだった。
 しかし、指先を抱え込む短い腕は、さらにきゅっと力を強めた。丸い頭が、俺の指の腹へすり寄るように何度も小さく揺れる。まるで「行かないで」と、言葉にならない熱で必死に訴えかけているようだった。

 布越しに伝わる、逃げ場のない温もり。彼女がどんな事情でこんな姿になったのかは分からないが、俺が背を向けて立ち去ることを、この小さな熱ははっきりと拒んでいる。
 足音が、すぐ隣の茂みまで近づいた。
 もう迷っている時間はない。
​「……相変わらず、強情なやつだ」
​ 長く細い吐息を漏らし、俺は手の中の縫いぐるみを素早く掴み上げた。厄介なことになると分かっていて、それでも手放すことはできず、再びジャケットの懐へ滑り込ませる。マスカーニャが一瞬目を丸くしてこちらを見たが、俺はソウブレイズに目配せをし、音もなく木々の高い枝へと跳躍した。
 直後、ガサリと茂みを掻き分けて、少年たちが空き地へと飛び出してきた。
「リコ! 無事!?」
「なんだ、マスカーニャも一緒じゃねぇか……って、やべぇ! 倒れてるぞ!」
 足元の真下で、彼らが倒れた彼女に駆け寄り、必死に声をかけている。
 息を潜め、太い枝の上に身を屈めながら、俺は胸元へそっと左手を当てた。
 厚い布地の奥で、小さな水色の塊が、先ほどまでの激しい震えをピタリと止めている。代わりに、俺の身体の芯に寄り添うような、静かで柔らかな熱がそこにあった。仲間たちの声がすぐ下に聞こえているというのに、胸元にしがみつくようなかすかな重みは、離れようとする気配を少しも見せない。
(君の帰る場所は、あそこだろうに……
 どうしようもない戸惑いが胸をよぎる。
 だが、胸元からじんわりと溶け込んでくる彼女の温もりは、冷え込み始めた夕暮れの森の中で、不釣り合いなほど柔らかく、確かな存在として息づいていた。

​「……君が戻るまでの間だ」

​ 誰に聞かせるでもなく、唇の端だけで小さく呟く。倒れた身体に意識が戻るまで、この不思議な状況に付き合ってやるしかない。素直に守ってやると口にできない俺なりの、不器用な言い訳だった。
 懐の中の重みが、それに応えるように一度だけ、ぽすんと胸板を叩いたような気がした。

​◇

……リコ? お願いだ、目を覚まして!」
「くそっ、なんで……外傷はないのに。おい、リコ!」
 ​眼下のひらけた場所から、少年の震える声と、切羽詰まった叫びが、冷え込み始めた夕暮れの空気を揺らして上へと立ち上ってくる。それに重なるように、宙に浮く端末越しに息を呑む気配や、マスカーニャの喉の奥から絞り出すような鳴き声がかすかに鼓膜を打った。
 すぐ下の枯れ葉の上で、彼女の仲間たちが、動かない身体を囲んで必死に手を伸ばしている。
 太い枝の上に身を潜め、俺はその騒ぎをじっと見下ろしながら、微動だにしなかった。
 ただ、ジャケットの懐の奥深く――分厚い布地と俺の胸板に挟まれた狭い空間で、小さな水色の塊が、彼らの声に呼応するように、もどかしく身をよじるのが伝わってくる。

 ここにいると、叫びたくてたまらないのだろう。けれど、布で作られた短い腕は空を切るだけで、かすかな吐息すら紡ぐことはできない。
 やり場のない焦りに小刻みに震えるその重みを、俺はジャケットの上からそっと左手で押さえた。
 決して彼女の動きを縛り付けるためではない。冷たい風や、下から這い上がってくる張り詰めた空気から、この不釣り合いなほど柔らかな熱を切り離して守るためだ。
 少しだけ力を込めると、懐の中の震えがぴたりと止まり、俺自身の身体の芯から響く規則正しい鼓動に、耳を澄ますように静かになった。
 夕闇の迫る森の淀んだ匂いとは違う、ほんのりと甘い花の香りが、襟元の隙間からふわりと立ち上ってくる。かつて刃を交え、互いの気配さえ遠く拒絶していた頃には、絶対に知るはずもなかった香り。
 俺の胸の奥で早鐘を打つ命の音が、彼女の小さな身体へ直接響いている。その事実に、ひやりとした夜気の中で、俺自身の血の巡りまでがおかしくなっていくような錯覚を覚えた。
 ふと、胸の奥につかえていた息を細く吐き出す。
 その拍子に俺の身体がわずかに沈み込み、開いた襟元の隙間から、ひやりとした夕風が滑り込んだ。

 直接肌に触れたわけでもないのに。懐の中の小さな塊が、冷気にびくっと身を縮め、短い布の腕で俺のシャツ越しに、身体の芯へすがりつくように力を込めてきたのがわかった。
 その、あまりにも無防備で頼り切った重みに、俺は思わずぴくりと肩を揺らす。
 暗い懐の中で、彼女がどんな瞳をしてこちらを見上げているのかは見えない。ただ、肌を伝うわずかな震えと、逃げ場を探すような温もりだけが、痛いほど鮮明に伝わってくる。
 俺は無言のまま少しだけ前かがみになり、左手でジャケットの合わせ目をきゅっと引き寄せた。冷たい風の入り口を完全に塞ぎ、手袋越しの手のひらで、彼女の背中側を覆うようにじんわりとした体温を移していく。

​「……すぐに戻る」

​ 誰に聞かせるでもない、唇の端からこぼれ落ちたような低い声が、夕闇の空気に溶けた。
 それは、眼下で必死に名前を呼ぶ仲間たちに向けたものだったのか。それとも、懐の中で怯えるように身を固くしている、この小さな熱に向けたものだったのか。
 俺自身にも、よく分からない。
 けれど、その不器用でひりつくような響きに、懐の中の重みが、こつんと、丸い頭を俺の胸板へすり寄せるように押し当ててきた。

 言葉を持たない、けれど確かな温もり。
 少しだけ目を伏せ、俺は彼女をかばうように添えた長い指先で、上着の上からぽん、と一度だけ、そのかすかな重みを優しく叩き返した。