mishiadd
2026-05-17 17:53:39
17724文字
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いおりひとり旅・日本紀行:光芒射す

【現パロ】記憶はないけど『倭建命』に縁がある一般大学生の宮本伊織さんがヤマトタケルゆかりの地を一人旅するシリーズ2作目。草薙剣を祀る街。【その他】
前作『いおりひとり旅・日本紀行:宮本伊織の歴史ミステリー・吾嬬はや』:https://privatter.me/page/69f81c31de2dc
次作『いおりひとり旅・日本紀行:宮本伊織の歴史ミステリー・燃ゆる海』:https://privatter.me/page/6a01fd6059b79


三、

早朝の東京駅は相変わらず混雑していたが、それが連休の中日なかびという日程のためであるかどうかは正直わかりかねた。伊織の経験上、この駅はたとえなにもない平日のど真ん中だったとしても人でごった返している。

駅の構内でコーヒーとおむすびを買って朝食代わりとし、新幹線に乗り込む。満席の筈だったが二列席の隣に人はいなかったので、鮭むすびをぱくつきながら日程を確認する。――なんの気兼ねもない、気ままな一人旅である。日程などあってないようなものだったが、一応ゆるりとした予定らしきものは引いていた。午前十時頃を目途にA駅に着いたら、私鉄に乗り換えて今回の最大の目的地であるA神宮まで。昼食を挟んだら再び電車を乗り継ぎ、江戸幕府の名を冠した美術館へ。……聞けば、江戸時代から伝わる刀剣を数多く所蔵しているとのことで、どのみち草薙剣目的でかの地に足を踏み入れるのだから、伊織のこの程度のミーハーは許されるだろう。刀剣三昧の一人旅だ。悪くない。

おむすびのラップを小さく畳んで鞄にしまい、ホットコーヒーを口にする。……その後はどこかで軽く夕食を取り、A駅に戻って新幹線で東京に戻る。無理のない、肩肘も張らない、気楽な一人旅だ。とはいえ、妹と妹の世話になっている屋敷への土産物だけは買い忘れのないようにしなければならない。駅で土産物を物色する時間を加味し、スマホにメモしている予定を微妙に引き直した。

距離の割に新幹線に乗っている時間は案外短く、旅中の暇潰しのために買った文庫本の半分も読み進めぬうちにA駅に着いてしまった。
構内の案内を見ながら私鉄に乗り込み、『神宮前』という極めてわかりやすい駅名に土地勘のない旅行者として内心感謝しつつ下車をする。そのまま、共に降りてきた人の流れを当てにして後を追う。

――境内に一歩足を踏み入れると、澄んだ空気があるような気がした。

あるいは、神宮全体が巨大な森の中にあるような造りであったからかもしれなかった。周囲をぐるりと深緑の深い森が囲い、見上げれば木漏れ日の向こうに澄み渡った抜けるような蒼い空ばかりが見える。深く息を吸えば葉と木々の香りがし、歩けば足元の砂利が音を立て、それが人の多さの割に静かに響き渡るようだった。

神域、というものは、おのずと気の引き締まるものだ。別段信心深いつもりのない伊織も、神格という存在の領域にこちらが足を踏み入れている――というただそれだけで、背筋が伸びる思いがする。伊織は養父によく躾けられて育った。ありていに言えば育ちがいい……誰かの屋敷にお邪魔している、という立場で、傍若無人に振る舞えるようには育てられていない。

どんなに身近に感じようとも、相手が相手であり――そしてすべては善意であることは百も承知であったとしても――それでも畏怖は残る。それは、「一歩間違えれば祟るから」などという保身のための打算ですらない。正直、伊織には『祟り』というものがあるのかどうかすらわからない。粗末に扱えば罰があるから丁重に扱うのではなく、丁重に扱うべき相手だと思うから丁重に扱うのだ。そう伊織に思わせるものこそが、あるいは神域に足を踏み入れた時のこの澄んだ空気であったり、あるいは――偶然、と言い切ってしまうにはほんの少しだけ説明のし難い、偶然らしきものの連続であったりする。



――そこに、る。



あるいは、古事記に語られる神話の時代と学校の教科書で暗記した歴史とが、まるで一枚の絵巻物のように地続きであるように。水平線の向こうの常世と足元の海辺の現世が、まるで一枚の絹織物のように地続きであるように。その境界線など、きっと一本の蜘蛛の糸よりも細く、光の加減ですぐに周囲に溶けいってしまうほどに、頼りないようなものなのだ。

本宮に向かうにつれて、人がまばらになっていく。やがて道がぱっと開けると、目の前に巨大な拝殿が広がった。
石段を上がって拝殿の前に立てば、遥か向こうに重厚な門構えが見える。ここからはもはや見ることもできないが、更にその向こうにもうひとつ門があり、その最奥にようやく本殿があると聞いていた。

静かだった。静寂といってもよかった。周囲でさわさわと深緑の木々がそよぎ、空は高く澄んでいた。二礼二拍手をし、心の中で今日ここに来られたことの謝辞を伝える。……』に呼ばれたか、ということはほぼ明確ではあったが、A神宮はヤマトタケル以外にも御祭神がおり、というよりむしろヤマトタケルは主祭神ではなく相殿神である。――からして、祀られている神格全員に挨拶をする。なにもヤマトタケルが『気安い――ということはなかったが、それに比べても伊織個人としての親しみのなさから人見知りはし、いつもよりやや緊張感のある挨拶となった。
深く一礼をし、踵を返す。――どっ、と急に周囲に音が戻ってきた。

見渡せば、あれほど誰もいなかった拝殿の周辺に参拝客が溢れていた。腕時計を見れば十時半を回ったようなところで、別段急に人が増える理由もない。たまたま今この瞬間だけ周囲に誰もいなかった
人々の楽しげな笑い声や感嘆の声にかき消され、もはや木々のさえずりのような些細な音などなにも聞こえない。一拍のうちに、まるですべてが切り替わってしまったかのようだった。

参拝客――あるいは観光客――の人の群れの合間を、白い小袖に緋袴の巫女が足早に歩いていく。どこもかしこも賑わっている。喧騒と呼ぶに相応しかった。

こうなってくると、あの一瞬の静寂の方が夢幻であったかのような気さえしてくる。ふるふると伊織は頭を軽く振り、本殿の裏側を通る小径こみちに入る。美しい太鼓橋や社を巡りながら、やがて本殿の真後ろを通る道に出る。
拝殿よりも、こちらの方が余程御神体との距離が近い――との奇妙な状況に、身の引き締まる思いがする。伊織は姿勢を正し、柵越しに見える本殿の裏に向かって一礼した。



――すう、と一条の光芒が、空から射し込んできた。



白みがかった靄の中、まるでそのさなかを割るように射し込んだ光が、ぼんやりと周囲の深緑を切り取り、遠くを歩く参拝客の姿を浮かび上がらせている。
そんな筈がなかった。今朝はずっと快晴で、この抜けるような青空のどこにも雲などなかったし、今は正午も近いような頃合いで、朝靄という刻限でも決してなかった。
季節は冬も始まりかけた秋で、空気は乾燥していた。――にも関わらず、まるで神秘的な太古の森のようにあたりにはうっすらと靄が満ち、そこに射し込む可視化された眩い日光の筋が、空間そのものを幻想的に照らし出している。

それは神域と呼ぶに相応しい光景だった。あるいはこういった自然現象を起こすように設計されているのが神宮という建築であるのかもしれなかったし、伊織がそれを目にしていること自体は、度重なる偶然の産物に過ぎないのかもしれなかった。

――静謐であった。

伊織はもう一度だけ深く一礼をし、その場を辞した。