バルジェロがスフラタルジャへやってきて十日が過ぎた。オスカは順調に回復している。短時間ならバルジェロの支えなしで歩けるようになり、着替えも自力でできるようになった。ソレイユからも、いつでも外出していいと許可を得た。退院はまだ先だとも言われたが。
今日はまず酒場に出向いて昼食を取り、その後は広く町を見て回る。何が記憶の回復に繋がるかわからないから、貧民街や砂金掘りの現場まで見てみたいとオスカは言った。
記憶を取り戻したいと語る彼にバルジェロは一抹の不安を覚え、そんな自分に腹が立った。バルジェロはかつて、サザントスに授けられた理想郷を振り切って現実へ帰ってきた。心の奥にしまい込んでいた願いを無理やり暴かれたように感じて、ひどく不愉快だったのを覚えている。
今のオスカと過ごす時間はあまりにも心地よい。これくらいの夢を見続けられたなら、きっと幸せなのだろう。だがそれは、あの時見せられたウィッシュベールと何が違うのか。
オスカはいずれ、バルジェロの助けを必要としなくなる。そのとき彼は〝ティツィアーノ〟としてバルジェロの隣にいるのか、〝オスカ〟としてバルジェロの前に立ちはだかるのか、そのどちらでもない選択をするのか。
記憶喪失が狂言である可能性を捨てたわけでもない。彼を信じると決めても、疑念は胸の奥底に沈んだままあり続ける。
「やっと出来たてのメシが食えるぜー」
バルジェロを苦悩させている当人は気楽な様子だ。もう彼は、杖なしでも歩けるくらいに回復している。念のためまだ杖を手にしてはいるものの、しっかりした足取りでバルジェロの少し前を歩き、酒場の扉も難なく開いてみせる。その途端、店内から、
「昼間っから飲む酒、サイコー!」
という大声が響いてきた。
「ん? お、おおっ!?」
その大声の主は、入ってきたオスカを見てまた声を上げた。
「ティツィアーノ!? 目ェ覚めたのか!? よかったなー! なあ、ちょっとこっち来いよ!」
明らかに泥酔している男はオスカに手招きをする。どうやら、同行しているバルジェロにも気がついたらしい。
「なんだよ、バルジェロもいるんじゃねーか! もしかしてヴァローレから迎えに来たのか!? 仲良いよなあ、お前ら
……」
この男の顔はどこかで見たことがある。思い出そうと怪訝な顔をしてしまっていたのか、オスカが耳打ちしてきた。
「ヴァローレの奴だよ。俺たちがよく行ってた酒場の常連だ。こいつがひいきにしてる店は繁盛するとか言われてる」
「そうだったか」
オスカ
――ティツィアーノは人の顔も名前もよく覚えていた。記憶力がいいだけでなく、他者を念入りに観察してもいたのだろう。ドン・タヴィアーニの下について働いていたとき、ティツィアーノは各派閥の構成員をすぐに全員把握して、その情報をバルジェロたちにもたらした。バルジェロが異例の早さで成り上がれたのは、与すべき相手を間違えなかったからだ。
「ヴァローレのワインは美味いっ!」
泥酔男のやかましい声が、バルジェロを思い出から酒場へと引き戻した。
「なあバルジェロ~、酒屋にツテねえか? ここの酒場でもシロブドウのワインが飲みてえんだよー」
ツテも何も、シロブドウ農園を経営しているバルジェロは、ワイナリーと組んでワインを作っている側だ。この酒場に卸すことももちろん可能だが、それを話し合う相手はこの酒浸りの男ではない。
「悪ぃな、オッサン」
オスカはヘラヘラした笑顔を男に向ける。
「俺らもメシ食いてえからよ。積もる話は
……まあ、特にねえな」
「なんだよティツィアーノ、つれねえなあ! ヴァローレで全然見かけなくなって、死んだって噂聞いて、でもなんでかソレイユさんトコにいてよぉ
……生きててよかったなあ
……」
酒浸りの男は泣き出した。絡み酒に付き合っていたらいつまでも昼食にありつけそうにない。オスカが目配せをしたので、バルジェロは先にバーカウンターの方へ向かった。
「いらっしゃい。まずは喉を潤して、それから注文をどうぞ」
席につくと、女マスターは氷水の入ったグラスを二つ置いた。この砂漠で氷を提供できるとは、繁盛店なのは確からしい。
「はあ、酔っ払いの相手は疲れるぜ。なんでこの町にあいつがいるんだ?」
酒浸りの男はうまくあしらえたようで、オスカはバルジェロの隣に座った。
「マスター、いつもメシありがとな」
そしていかにも女に向けるための笑顔を浮かべて、マスターに話しかけた。
「俺ら、近くの治療院で世話になってんだけどよ、何回もこの酒場からメシを配達してもらってさ。すげぇ助かったし、しかも美味い。その上マスターがこんな美人とはな。ちゃんと店に来られてよかったぜ」
「ふふ。口が上手いね、お兄さん」
「こんな体じゃなかったらちゃんと口説きたいところなんだがな。治るまで待っててもらうのも悪いしな」
「おい
……」
バルジェロはその瞬間、彼をどちらの名前で呼ぶか迷った。女マスターをナンパするその姿は、あまりにも〝ティツィアーノ〟だ。バルジェロには曖昧な態度を取りながら、外ではヴァローレにいたあの頃のように振る舞う。かつてオスカは、「ティツィアーノは死んだ」と言い張っていたのに。
「悪いけど、お兄さん自身よりもあなたたちの地元のワインに興味があるかな」
「ちぇ、秒でフラれちまったぜ。だってよ、バルジェロ」
「
……」
「バルジェロ、どうした?」
「あ、ああ
……」
マスターは「あなたたちの地元」と言った。それを彼はヴァローレのことだと受け取っている。ならば、今バルジェロの隣にいる彼は、ティツィアーノではないのか。彼はバルジェロとの決裂を宙に浮かせたまま、ティツィアーノに戻ろうとしているのだろうか。
「ワインは、あんたが望むなら卸せる」
湧き出した疑問を思考の外に追いやるため、バルジェロは口を開いた。
「俺は仲間とシロブドウ農園をやっているんでな」
「ほんと? じゃあ、試飲してから決めようかしら。うちの料理と合うかどうかも確かめたいし」
試飲という言葉にヴァローレから持参したワインのことがよぎったが、あれはオスカと飲むための一本だ。手をつけるわけにはいかない。
「それなら問題ないぜ。クスクスとは抜群に合うはずだ」
と、オスカは言う。
「へえ? あなたは異国の料理にも詳しいんだ」
「俺はこの町の生まれなんでね」
地元と言われてヴァローレを思い浮かべながら、故郷はこの町だとオスカは言った。それはやはり、〝ティツィアーノ〟ではないのか。
「なァ、バルジェロ。今日の昼メシはクスクスとレモンチキンにしようぜ。これならワインと合うはずだ」
どんどん話を進めていくオスカは、まるで仕事仲間のようだ。ティツィアーノだった頃は正しくそうだった。だが、今の彼は一体何者なのだろう。
「わかった」
バルジェロは戸惑っていることを悟られないよう、努めてきっぱりと応じる。
「よし。じゃあマスター、そいつを二つ頼むぜ」
「はーい」
オスカの注文を受け、マスターはキッチンに向かった。
昼食を終えて酒場を出ると、太陽が天頂でギラギラと輝いていた。じりじりと身を焼く日射しに、バルジェロは服と頭巾を買っておいてよかったと思う。
「だいぶ砂漠の味付けにも慣れたか?」
「ああ。今日のは美味かった」
「だよな。あれならきっとピエロも喜ぶぜ」
ここにいないピエロの名前を出して、オスカはニカッと笑う。ほとんど杖に頼らず自力で歩く彼の姿を見ていると、もうこれでいいと思うべきなのか、という思いが頭をもたげる。だがバルジェロ自身は、オスカとの決別を忘れないし、忘れたくない。彼がずっと隠していた激情と苦悩を、ちゃんと心に刻みつけておきたい。だが、目の前の男はそうではないのかもしれない。心のうちを晒す前の、気さくで仲間想いなティツィアーノに戻りたいのかもしれない。バルジェロは、彼が何をどう考えているのか掴みきれずにいる。
その後、二人は町の南側へ向かった。スフラタルジャは、北部が貴族街、中央部が繁華街、南部が貧民街となっている。目的地である砂金の採掘現場は、貧民街のさらに南にある。
貧民街は、町の中でも低いところに位置しているせいで、石積みの壁が作る影に囲まれていて、暗い。濃い影の中には、連れ立って歩く子供たちがいた。周囲に大人の姿はない。昔の自分たちのように、子供だけで身を寄せ合い生きているのだろうか。砂金を掘りに行くらしい彼らを、オスカは目を細めて見つめていた。
採掘現場へ向かう途中、二人の奴隷が日陰で休憩していた。彼らは土の上に敷いたボロ布に座り込んで噂話に興じている。オスカの歩幅に合わせてゆっくり歩いていることもあり、話が丸聞こえだった。
「二年経っても新しい領主が決まんねえなんてな」
男が言うと、水を飲んでいた女が答える。
「みんな後釜狙いたくても、前の領主の死に方がやばかったから尻込みしてんでしょ」
「なあ、やっぱあいつが殺したのかな」
「あいつ?」
「なんか『主を信じなさい』とか触れ回ってた黒髪の奴」
男がそう言った直後、オスカの杖の先がガリッと地面をえぐった。バランスを崩しふらついたオスカを、バルジェロはそっと支えた。
「大丈夫か?」
「
……ああ」
「どうかしたのか」
「いや
……なんでもねェ」
否定してはいるが、オスカは狼狽しているように見えた。
「チッ、お貴族様かよ」
物音に反応してか、奴隷の男がこちらを見て毒づいた。事実は違っても、高級店の服を着ているせいで貴族に見えるのだろう。
「お前ら、いつまで休んでる! 労働の時間だぞ!」
そこへ、現場監督らしき男が怒鳴りながら現れた。男はバルジェロとオスカに軽く頭を下げてから、奴隷たちを現場へと追い立てていった。
石壁が作る昼の影の中には、バルジェロとオスカしかいなかった。この時間、貧民たちはみな砂金を掘っているのだろう。
「二年経っても新しい領主がいない、か」
乾いた風が吹き抜け、頭巾からこぼれる金髪がオスカの横顔を隠す。
「どいつもこいつも、誰かがこの町を変えてくれるのを待ってるだけか」
オスカはゆっくり歩き出す。バルジェロは隣で歩調を合わせる。
「導き手についていきゃあそれでいいと思っていやがる。そいつが悪人だったらどうすんだ? 善人の皮を被ったクソだったら?」
皮肉っぽく口角をつり上げて、オスカはバルジェロを見た。
「トップがお前なら、今のヴァローレはさぞかしマシな町になってんだろうな。お前は他人を利用はするが、悪用はしねェ。相手が欲しがってる言葉を与えて心を操ったりはしねェだろ」
オスカの瞳には、バルジェロではない誰かが映っているように見えた。
「そうだな。できないからな」
「
……俺とは違う」
不意にオスカは足を止める。バルジェロも立ち止まり、オスカを見て言う。
「だからお前に頼り切りになってしまった」
「あァ?」
「今も仲間から、もう少し方便を使って無用な流血を避けろと言われている」
「
……そういうことじゃねぇんだがな」
「綺麗事だけでやっていけるほどこの世界は優しくない。手前のためなら盗みも殺しもやってきたし、これからだってそうだ。俺とお前でやり方が違うだけの話だ」
オスカは何も答えない。
「俺が気づかないうちにお前が先んじて裏で手を回していたことなんて、いくらでもあったんだろ?」
ティツィアーノを失ってからレヴィーナが仲間になるまでの間は、命の危機の連続だった。頭の切れる仲間がいないと、足元が浮ついて仕方がなかった。ティツィアーノの不在は、かえって彼の存在を際立たせた。
「いなくなってわかった。お前がどれだけ俺たちを助けてくれていたのか」
「けど
……」
バルジェロは目を背けようとするオスカの肩を掴み、無理やり自分の方を向かせた。
「思うところがあるなら話してくれ、オスカ。俺はもうお前のことを知っている」
「
……お前に話すことなんざ、ねぇよ」
オスカはバルジェロを突き飛ばし、ひとりで採掘現場の方へ向かう。バルジェロは、手を伸ばせば届く距離を保ちながら、彼の後ろについていった。
採掘現場では、無数の奴隷たちが地面にへばりついていた。この炎天下だ、石灰混じりの白砂はひどく熱を持っているだろう。にもかかわらず、多くの奴隷は素手で地面を掻いていた。鞭を持った男が監視の目を光らせ、怒声を張り上げて奴隷たちをなじっている。ここの監督者は、先ほど奴隷を追い立てていったのとは別の男で、より悪辣に見えた。
「クソが
……」
オスカは舌打ちをした。バルジェロも同じ気持ちだった。ここはまるで、かつてのヴァローレだ。〝粉〟の収穫を命じられた奴隷たちは昼夜の別なく働かされ、死んだら森の魔物の餌にされた。命は粉より遥かに安かった。
「視察でございますか?」
怒声を上げていた砂金掘りの監督がこちらに気づき、卑しい笑顔ですり寄ってきた。オスカはすぐに真顔を作り、声を低めて穏やかに尋ねる。
「ああ。首尾はどうだ?」
「概ね良好ですが、近頃は怠ける者も多く、交換が必要な頃合いかと」
交換という言葉に、バルジェロは自分のこめかみが引きつるのを感じた。オスカは動じずに話を続ける。
「採掘道具はどこにある?」
「は?」
「ほとんどの労働者が素手で砂金を掘っているだろう。地面に近づけば体感温度は上がる。手が傷つくし効率も悪くなる」
オスカは、バルジェロと話すときとはまるで違う声色と語調で監督を問い詰める。それはまさしく上に立つ者として人を従える態度で、バルジェロが見たことのない、貴族としてのオスカの姿だった。
「はあ
……しかし、奴隷どもに道具などもったいないでしょう。怪我をしても取り替えればよいだけですし、道具を持たせたらそれを武器代わりに振りかざしてくるやもしれません」
「そうか。わかった」
オスカの声には何の感情も乗っていない
――そう聞こえるように抑えているのがバルジェロにはわかった。
「うう
……」
砂金を掘っていた子供がぐらりと体をよろめかせ、地面に倒れた。先ほど貧民街で見かけた子供たちの一人だろうか。
「おい、何やってる!」
監督は鞭をしならせながら、倒れた子供の方へ歩いて行く。子供はうずくまったまま監督を見上げる。顔が異常に赤く、暑さにやられているのだと一目でわかった。
「みず
……」
子供が息も絶え絶えに絞り出した声は、監督が鞭で地面を叩く音にかき消された。
「水だあ? そんな贅沢品、怠けるガキにはやれねえよ!」
監督の鞭が子供の背中を直に打った。子供が悲鳴を上げると、別の子供が「やめて!」と叫ぶ。すると監督は叫んだ子供の目の前で地面を打ち付け威嚇し、子供はビクッと身をすくめた。監督は倒れた子供の背を打ち続け、鞭が体を叩く音が採掘現場に何度も響いた。
オスカはその光景をじっと見つめていた。杖を握りしめる彼の手は震え、見開かれた瞳には憎悪の炎が激しく燃えている。
「
……オスカ」
バルジェロは子供と監督の方を見据えたままオスカを呼んだ。
「お前は子供の方を頼む」
「あァ?」
バルジェロは、ひとり監督に近づいて、その肩を掴んだ。
「おい」
振り向いた監督は気色の悪い笑顔を浮かべ、
「見苦しくて申し訳ありません。ちゃんと躾けますので
……」
などと言ったので、バルジェロはその顔に向かって迷わずに拳をぶち込んだ。
「がぁっ?!」
尻餅をついた監督の鼻からは、だらだらと血が流れている。
「見苦しいのはお前だ」
異変に気づいた用心棒たちが剣を抜き、バルジェロを取り囲む。相手は四人だ。
「ったく、しょうがねえな!」
オスカは呆れたような口ぶりとは裏腹に、不敵に笑っていた。そして杖を放り出すと、背中を打たれた子供を抱きかかえてその場を離れるべく走り出した。
「待てっ!」
用心棒のひとりがオスカを追おうとしたので、バルジェロはまずその用心棒に狙いを定め、脇腹をしたたかに蹴りつけた。
「ぐあっ!」
用心棒はあっさりと地面に転がった。オスカの背中が市街地の方へ消えたのを見届け、バルジェロはナイフを抜いた。
「さて、暴れるか」
掌を上に向け、指を曲げてみせる。用心棒たちは一斉に襲いかかってきた。
「何事ですか!?」
騒ぎを聞きつけてか、数日前に会った衛兵が仲間を引き連れて走ってきた。
「こ、これは
……」
用心棒たちは、すでにバルジェロが全員倒した。大した相手ではなかったが、白いローブには返り血がべっとりとついてしまった。
「こいつが子供に鞭を打っていてな。見過ごせなくて止めたら襲われたんで、返り討ちにした」
バルジェロは、地面に転がした監督が動けないようその背を踏みつけ、砂の上に縫い止めている。
「本当ですか?」
「ほ、ほんとだよ!」
訝しむ衛兵のそばに子供が走ってきて、監督を指さして訴える。
「そいつがぼくの友達を鞭でぶったんだ! 何回も何回も! そこにお兄さんたちが来て助けてくれたんだ!」
衛兵は踏まれている監督の顔を確認すると、眉間に深く皺を寄せた。
「その男を詰所に連行します」
「なっ! 俺は被害者だぞ! 怠けていたガキを躾けてただけだ!」
「黙れっ! 貴様の横暴を知らんとでも思ってるのか!?」
衛兵は持っていた荒縄で監督を縛り付けると、別の衛兵に「連れて行け」と命じた。
そこへ、オスカがよろめきながら戻ってきた。杖なしで、しかも子供を抱いて移動したからか、ひどく息が上がっている。バルジェロは落ちていた杖を拾ってオスカに手渡し、彼に肩を貸した。
「無理をさせたな」
「仕方ねえさ。しかしずいぶん派手にやったな」
オスカは血塗れのローブを顎で指す。
「戦意を失わせるには血を見せるのが手っ取り早いだろう。そんなに大怪我はさせてない」
「おー、怖い怖い」
「お前から教わったことだぞ」
「そうだったか?」
「あの、あなた方はいったい
……?」
衛兵が二人に声をかける。オスカは衛兵の肩を叩いた。
「助かったぜ。後先考えずにやっちまったからよ」
「いいえ、こちらこそありがとうございました。あの男の横暴は目に余っていたのでよい機会でした」
「俺はこの町の貴族にどう思われようと構わない。よそ者だしな」
と、バルジェロは言った。〝俺たち〟とは言えなかった。オスカがどう考えているかわからないからだ。
「あなたのお名前は?」
「バルジェロだ」
「なぜこの町に?」
「こいつを探すためだ」
そう言ってオスカを示すと、衛兵の顔にわずかに影が差した。
「ティツィアーノさん、でしたな。あの子供はどうされましたか?」
「あんたに声をかけた後、治療院に預けてきた。あそこの薬師は腕がいいからなんとかなるだろ」
「そうですね。ソレイユさんを信じましょう」
「
……なあ」
オスカはためらう様子を見せながらも、衛兵に言う。
「そのソレイユに聞いたんだが、あんた、俺の見舞いに来てくれてたんだよな?」
「それは
……あなたを先代のご子息だと早合点していたからで
……」
「俺はあんたが思ったとおりの人間だ。ごまかして悪かった」
「えっ
……!?」
「だからここを見に来たんだ」
「本当に、オスカ様なのですか?」
「ああ」
衛兵は困惑を隠しきれないようだったが、兜を脱ぎ、深く頭を下げた。
「お久しゅうございます。どうか、先日の無礼をお許しください」
「顔を上げてくれ。まさか二年も領主が不在とは思わなくてよ。そりゃあ、俺に領主になれって言うわけだ。だが
……」
言葉を詰まらせつつも、オスカは衛兵の顔を見てはっきり言った。
「悪いな。俺はもうこの町の人間じゃねぇ」
「
……そうですか」
この町の人間じゃない
――ならば今、彼の心は、ヴァローレにあるのだろうか。ヴァローレを滅ぼそうとまでしたのに?
「あなたが長じ、よき友人を得て幸せに過ごされているのなら、ジュリアン様もお喜びになるのでしょう」
オスカは何も答えない。
「オスカ様、バルジェロ様。狼藉者を成敗してくださったこと、感謝申し上げます」
では、と衛兵は兜を被り直して去っていった。
「大丈夫か、オスカ」
バルジェロはどうしてか、そう尋ねてしまった。目の前の男が何を考えているのかはわからないのに、彼がひどく無理をしているように見えたのだ。
「ああ
……」
バルジェロはオスカに肩を貸してはいるが、彼は体重のほとんどを杖に預けていて、バルジェロの力を借りようとはしていなかった。
「あ、あの
……!」
二人のもとへ、子供たちが走ってきた。
「友達を助けてくれて、ありがとうございました」
「物騒なものを見せて悪かったな」
バルジェロの言葉に、子供たちはみんな首を振った。
「これは迷惑料だ」
バルジェロはポケットから硬貨を数枚取り出して、一番近くの子供に握らせた。
「パンでも買って、みんなで分け合って食え」
子供たちは全員、ひどく痩せていた。酷暑のサンランドで鞭に怯えて暮らす子供たちは、かつての自分たちよりも劣悪な環境で生きているのかもしれない。
バルジェロは尋ねる。
「今日の仕事はもう終わったのか?」
「うん。終わりでいいって、あの人が」
子供が指さした先には別の監督がいた。遠くから子供たちを見ている。採掘現場に来る前に見かけた、休憩していた奴隷二人を追い立てていった男だ。そのまなざしに厳しさはなく、ただ子供たちを見守っているようだった。
「なら、もう行け。金を奪われないよう気をつけろよ」
「あ、ありがとう
……本当にありがとう!」
子供たちは市街地へと去り、こちらを見張っていた監督の男も自分の持ち場へと戻った。
採掘現場が静かになった。先ほどの騒ぎなどまるでなかったかのようで、奴隷たちは黙々と作業を続けている。
「こうしたかったんだろ?」
バルジェロの言葉に、オスカは目を背けた。
「お前が勝手にやったんだろ」
「そう思うなら、それでもいいさ」
二人は採掘現場を後にし、治療院への帰途についた。子供を抱えて走ったせいで、オスカの足元は覚束ない。杖をつき、バルジェロに支えられてもなおふらついている。
バルジェロは血塗れだ。オスカの服の袖にも血がついている
――背中を鞭に打たれた子供の血だ。二人を見た町人たちは怪訝な目を向け、何事かささやきあっている。だが、誰に遠慮することもない。バルジェロは自分が正しいと思うことをしただけだ。
治療院に帰り着くと、ソレイユは診療中で出てこなかった。別の患者が言うには、オスカが運んできた子供にかかりきりらしい。
「暑さでやられてる上にひでえ出血だった。死んでもおかしくねえ」
とオスカは言った。鞭で打たれていた子供は完全に意識を失っていて、破けた服の背からは裂けた皮膚が覗いていたという。
病室へ戻るなり、オスカは激しい怒りを露わにし、「クソがッ!」と壁を殴りつけた。
「昔はあんなんじゃなかった。仕事にはちゃんと対価を払ってたし、道具なしで砂金掘りなんてありえねえ。あんなガキを働かせたりしねェ。ましてあんなふうに
……!」
オスカは二年前、奴隷たちを扇動し、圧政を敷いていた領主スカラベを殺害している。だが、巨悪が消えても、この町は変わらなかった。ヒュセイノフ家が統治していた頃のような、平和で豊かな町は戻ってこなかった。
「貧民にはクソを舐めさせときゃいいって価値観がこびりついちまってんだ。領民の暮らしに責任を負わないんなら、そりゃあ貴族の豚どもは楽だろうさ」
バルジェロには、オスカの言葉の意味が身に沁みてわかった。「ヴァローレはマフィアが治める町だ」と、誰もが当たり前に思っている。バルジェロが生まれる前からずっとそうだ。バルジェロ自身、マフィアとして成り上がる以外の選択肢を持っていなかった。マフィアが治めるのが当たり前だという価値観は異常だし、そもそも、マフィアなどない方がいいとわかっているはずなのに。
人々の暮らしへの責任もそうだ。バルジェロが休みなく働いているのは、ヴァローレの人々の暮らしを少しでもマシにするためだ。それをスフラタルジャの貴族たちはしていない。
「テメェの都合で、そこに暮らしてる奴らの生活をメチャクチャにしやがってッ
……!」
それはスカラベを、そしてヘルミニアを否定する言葉だ。オスカは富を得ながら、富に溺れた愚者を責めている。だがバルジェロには、その言葉が違った意味にも聞こえた。
「
……オスカ」
「あァ!?」
「自分を責めるのはよせ」
「
……ッ!」
オスカは目をカッと見開いてバルジェロを見つめた。その目にはやはり、怒りだけでなく後悔が揺らいでいた。
指輪を嵌めていたとき、彼は己の理想の正しさを証明すべく、富を利用して人々の心と生活を破壊した。ヴァローレも彼の凶行によって深い傷を負った。彼もまた、自分の都合でそこに暮らしている人々の生活をメチャクチャにした者の一人だ。
バルジェロはオスカの背に語りかける。
「お前はあの子を助けたいと思った。そうだろ?」
「
……」
「俺もだ。だからお前の怒りに乗らせてもらった」
オスカは答えない。ただ、拳を下ろし、杖で体を支えながらベッドの縁に腰掛けた。窓の外に見える空の赤さに、もうすぐ日が暮れると気づいた。
バルジェロはオスカの前に膝をつき、努めて穏やかに話した。
「ヘルミニアの屋敷のパーティーに行っただろ。あの時も、奴隷を助けたよな」
「
……そうだったな」
オスカは細く長く息を吐いた。
ティツィアーノは飄々としてつかみ所がないように見えても、心のうちに激情を秘めている男だった。バルジェロの目には、今のオスカと、かつてのティツィアーノの姿が重なって見えた。
「落ち着いたか?」
「
……ああ。悪かった」
「構わないさ。さて
……」
立ち上がったバルジェロにオスカが尋ねる。
「どっか出かけんのか?」
「服を洗ってくる。血を落とさないと使い物にならなくなるだろう。暗くなる前に済ませたい」
「ああ、その方がいいな」
バルジェロは血にまみれたローブの裾を掴んでまくり上げる。丈が長いせいもあり、脱ぐのはなかなか面倒だ。
「俺もそうすっかな。確か裏手に洗い場
……が
……」
どうしてか、オスカの言葉は半端に途切れた。
「オスカ?」
頭を引き抜こうとしたとき、ちょうどオスカの顔が視界に入った。オスカは呆然とどこか一点を見つめている。バルジェロに話しかけていたのに、バルジェロの目を見てはいない。
彼が手にしていた杖が、カランと音を立てて床に倒れた。
オスカの視線を追って、気づいた。彼が見ていたのは、バルジェロの腹部
――そこに残る刀傷の痕。彼が自らバルジェロに刻んだ、あの傷痕だと。
「うぷっ
……」
オスカは口元を押さえ、前のめりになった。
「っぐ、うぅ
……はっ、うぐっ
……」
オスカはベッドから落ち、背中を震わせ、呼吸を詰まらせ、床に手をつく。バルジェロは着替える手を止めてしゃがみこみ、オスカの背を撫でる。数度撫でると、背中がビクンと跳ね、直後、オスカは胃の中のものを吐き出した。
「げほっ
……はぁっ、はあっ
……! ぐ
……うぅ
……!」
「こらえるな、全部吐き出せ」
三回吐いて、ようやく体の震えが収まった。苦しげな息が、少しずつ規則正しくなっていく。波が去ったのが見て取れたところで、バルジェロは声をかけた。
「大丈夫か」
だが、オスカはバルジェロの手を払った。
「触んなっ!」
オスカはバルジェロを睨みつけた。その目には、苦しみに伴う涙と、金色の炎の両方が浮かんでいる
――いつか見た〝持たざる者〟の目だ。
「そうはいかない。助けが必要だろ」
バルジェロが助けようとしても、オスカは身をよじって抵抗する。
「構うなって言ってんだろ
……っ!?」
「嫌だ」
「
……っ!」
バルジェロは真正面からオスカを抱きしめた。それ以上彼が抵抗できないよう、ぎゅっと力を込めて。
「おいっ、離れろ! クソッ
……!」
オスカはきっと、この傷をつけたのが自分自身だとわかっている。だからこそ、どれだけ抵抗されても、罵倒されても、バルジェロは絶対に力を緩めない
――それがバルジェロの、オスカへの答えだ。
「
……なんでだよ。なんで
……」
オスカは観念したのか、抵抗をやめた。バルジェロは何も言わず、ただ彼を抱きしめ、その背中を優しく撫でる。
沈黙が降り、病室に夕日が差し込む。
「
……汚ェだろ」
ぽつりとこぼすオスカに、バルジェロは応える。
「どうせ血塗れだ」
「
……そうかよ」
オスカは、バルジェロの肩口に顔を伏せると、もう何も言わなかった。
ローブの肩が、静かに濡れた。
第五話→
https://privatter.me/page/6a363de731e34
ご感想等ありましたらぜひ→
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返信はXにてお知らせします→
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