「ここがあいつの故郷か」
その町は、バルジェロが生まれ育ったヴァローレとは、全てが違っていた。
高い塀の上からは、町が一望できる。きらめく白砂を石畳で縫い上げた美しいオアシスには、青みがかった石で造られた家々が所狭しと並んでいる。乾ききった空気からは砂の匂いしかしない。照りつける太陽の光を和らげる森はなく、人々は皆日差しを避けるための白装束を纏っている。
「本当にいるのか?」
バルジェロは突き刺さる日差しに目を細めながら、市街地へと続く長い階段を下る。
白銀の泉、スフラタルジャ。
死んだはずのティツィアーノ
――オスカらしき人物を見たという使いガラスがヴァローレへ来たのは、遡ること一月ほど前のことだった。
その日バルジェロはロッソから呼び出しを受けた。珍しいことだった。何か用がある場合、常ならばロッソの方からファミリーのアジトにやってくる。
「わざわざ来てもらってすまん」
「何かあったのか?」
スパイスくさいロッソのアジトには、彼の子飼いの部下数名に加え、レヴィーナがいた。
「子ウサギちゃんたちに聞かせる前に、まずはボスの意見を聞きたくてな」
差し出されたのは一通の手紙。ロッソの〝粉〟の材料を買い付けるためサンランドへ向かった部下が、使いガラスを寄越してきたらしい。
『スフラタルジャの治療院で、オスカにそっくりな奴を見かけた。治療院でずっと眠ってて目覚めないらしい。一応、報告まで。帰途につく』
手紙には、走り書きめいた汚い字でそう書かれている。
「にわかには信じがたい話だけれど」
レヴィーナが言う。
「オスカの遺体はボスが砂金の中に流したんでしょう?」
「ああ」
握りしめた手から力が抜けた瞬間を忘れることはできない。あの時、オスカは間違いなく死んだはずだ。
「
……ロッソ、よく知らせてくれた」
ピエロとフラに伝えなかった配慮に感謝したい。この話を聞いたら、二人は動揺するだろう。特にピエロはすぐに飛び出して行きかねない。
「で、どうするんだ?」
「事の真偽を確かめたい。他人の空似ならそれでいい」
「スカラベの手記には一人息子とあったけど、領主なら落とし子の一人や二人いてもおかしくないものね」
「そこでだ、ボス。ここは一つ提案なんだが」
ロッソがレヴィーナに目配せをする。レヴィーナは頷いた。
「働き過ぎのゴッドファザーには休暇が必要だ」
「
……何?」
「そう。異国の景勝地でバカンスとかどうかしら?」
「バカを言うな。俺にヴァローレを離れろと?」
「ああ。ヴァローレはマシな町になってきている。ボスがしばらく留守にしても問題ないくらいにはな」
「む
……」
「ボスが世界のお偉いさんたちといろいろやっている間も、ヴァローレは大丈夫だったでしょう? たまには羽根を伸ばしてほしいのよ」
働き過ぎという指摘には反論できない。当面の復興、その後の住民たちの働き口の確保、そのためのシロブドウ農園の経営、粉中毒者の治療、しつこく〝魔女の遺産〟を狙う他勢力の排除
――マフィアの仕事もそこから逸脱した仕事も山盛りで、バルジェロには休む暇などなかった。だが、忙しなく動き回っていれば悩んだり悔いたりする暇もなくなるからと、望んで多忙に身を置いているのは否定できない。
「バルジェロ、ひとつ聞くがな。仮に本人だったとしたらだ」
ロッソは鋭い目つきでバルジェロを見つめる。
「他人に奴を任せられるのか?」
問われた瞬間に、無数の思い出が脳裏をよぎって消えていった。幼い日にヴァローレで出会い、魔女の屋敷で否応なく別れ、ヴィクターホロウで望まぬ再会をして、そしてまた別れて
――
「それは、できない」
無意識に、そう答えていた。
「だろ? なら、あんたが自分で行くしかねえ」
その答えをわかっていたのだろうロッソは、ニヤリと笑う。レヴィーナも微笑んでいた。
「ピエロ・デッラとフラにはあたしからうまく言っておくから安心して」
「ああ、頼む」
悩む時間など無駄だ。バルジェロは路銀とシロブドウのワイン一瓶を手に即日ヴァローレを発った。
そして今日、ようやくスフラタルジャへとたどり着いた。
この町の風土は何もかもがヴァローレと違うのに、一部の富豪が貧民を食い物にしているところだけは同じだ。
帰ってきたオスカは、故郷であるこの町をマシにしたいとは思わなかったのだろうか。
ヴァローレのために命を賭けて戦い、暴力にも粉にも屈しなかった彼を思う。バルジェロは、あれが演技だったとは思っていない。思っていないが、真実は本人しか知り得ない。
一人でいると次々に疑問が湧き、嫌な想像に絡め取られそうになる。だが、悩んでいても歩みが鈍くなるだけで、何も前進しない。バルジェロは無理やりに歩幅を広げ、治療院へ向かった。
治療院に着くと、香ばしい匂いに空腹が刺激された。
「おや」
待合にいた薬師の女性が昼食を中断し、バルジェロに声をかけてきた。
「患者ではなさそうですね。面会ですか?」
「人を探している。ここにいるかもしれないと聞いてやってきた」
「尋ね人のお名前は?」
バルジェロは答えに詰まった。彼をなんと呼ぶべきなのだろう。答えないバルジェロを、薬師は訝しげな目で見る。
「では、名前以外でわかることは?」
「
……金髪の男がここにいると聞いた。そいつは俺の探している奴かもしれない。確かめてもいいか」
「ああ
……では、あなたはヴァローレの方?」
バルジェロが「なぜわかった」と問うのを待たず、薬師は言葉を続けた。
「先日ひどい二日酔いでやってきた方が、その患者さんをヴァローレで見たことがあると言っていたのです。だから彼の知り合いが来るならヴァローレの方だろうと思ったのです」
「そうか
……それで、あいつはどこに?」
「こちらです」
薬師は治療院の一番奥にある個室の扉を叩いた。
「失礼します。ご老人、ヴァローレからお見舞いの方がいらしたわ。少しいいでしょうか」
ベッドサイドの椅子に座っていた先客が振り返る。皺の深い老爺だ。いかにも砂漠の住民らしく、頭巾と丈の長い白装束を纏っている。
「ソレイユさん、ヴァローレとは?」
「ウッドランドの町です」
「ほう、ウッドランドとは。またずいぶん遠くからいらしたものだ」
「じいさん。すまないが、そこで眠っている奴の顔が見たい。俺の仲間かもしれないんだ」
「ああ、構わんよ」
バルジェロはベッドへと一歩ずつ近づく。歩みに合わせ、靴底が硬質な音を響かせる。開け放たれた窓から乾いた風が吹き込み、薄絹のカーテンが大きく揺れる。
指先がチリチリと熱い。身体の中で脈打つ血の音が聞こえる。心臓が胸を乱暴に殴りつけてくる。ただ、顔を見るだけ。たったそれだけ。確認するだけだ。大したことではないと自分に言い聞かせる。掌に爪が食い込むほど強く拳を握り、バルジェロは眠ったまま目覚めない男の顔を覗き込み、そして
――
「
……ティツィアーノ」
その名が口をついて出た。
「お知り合いで間違いありませんか?」
ソレイユと呼ばれた薬師に問われたが、喉が焼けるように熱くて声が出ず、ただ頷くことしかできなかった。
「知り合いが来てくれたなら安心じゃが
……」
見舞いに来ていた老人は言葉尻を濁してバルジェロを見上げた。静かな瞳で、じっとバルジェロを値踏みしている。
「ソレイユさん、すまんがこの青年と二人で話がしたい。席を外してもらってもいいかの?」
「わかりました。私も昼食の途中でしたから。ごゆっくりどうぞ」
ソレイユは老人とバルジェロに軽く頭を下げると、すぐに部屋を出て行った。
「お主、名前は?」
「バルジェロ・ギベルティだ」
「そうか。バルジェロくん、君ははるばるウッドランドからこの方を探しに来たのかな?」
「ああ」
老人はティツィアーノを
――オスカを〝この方〟と呼んだ。
「あんたはヒュセイノフ家の元執事かなにかか?」
老人はゆるく首を振る。
「わしはしがない庭師じゃ。雇われて宮殿の庭の世話をしていただけのな。だからこうして生きながらえておる」
言い換えれば、ヒュセイノフ家に仕えていた者は皆殺しにされた、ということか。
「お主は事情を知っておるようじゃな」
「まあな。じいさんこそ、こいつが
……オスカ・ヒュセイノフだと?」
「うむ。若き日のジュリアン様に似ておられるでな」
ジュリアン
――オスカの父の名前だ。彼がクソだと唾棄した父親。ジュリアンは善人の皮の下に強欲な本性を隠していた、と彼は言った。だが、目の前の老人はただ在りし日を懐かしみ惜しんでいる。老いた庭師にそんな顔をさせるジュリアンがただ強欲なだけの人間だったとは、バルジェロには思えなかった。
「お主が来てくれたならわしは去ろう」
庭師は悲しげに言う。
「ヒュセイノフ家が滅ぼされても、我が身可愛さにスカラベの下で働いとったわしに、この方を見舞う資格などない」
「見舞いたい気持ちに資格なんていらないだろ」
「
……ありがとうよ。坊ちゃんは異郷の地で良き友に恵まれたのじゃな」
庭師は静かに立ち上がり、部屋の扉に手をかける。
「バルジェロくん。オスカ坊ちゃんをよろしく頼む」
そう言い残して、振り返りもせずに出ていった。
「坊ちゃん、か」
バルジェロはベッドに横たわる彼を見つめた。薄い掛け布団の下で、胸が規則正しく上下している。息をしている。生きている。辺獄で見た亡者たちとは明らかに違う。頬には赤みが差しているし、ただ穏やかに眠っているようにしか見えない。
バルジェロは空いた椅子に座ると、布団の下に隠れていた彼の手を取って両手で握った。
「こんなに俺を悩ませるのはお前だけだ」
握る手に力を込めるが、反応はない。
「せっかく冥土から帰ってきたんなら、少しくらい応えてくれてもいいだろ?」
悩みも迷いも戸惑いも、人を弱くするものでしかない。だからバルジェロはまっすぐ前だけを見据えて生きてきた。足元が不安なときや、振り返りたくなったときは、仲間の顔を見た。そうすればいつだって、仲間が背中を押してくれた。
だが、今バルジェロはひとりだ。
「俺が単独行動しようとすると、お前はいつも諫めてくれてたな」
ピエロとフラを置いて、ひとりで来てしまった。
「俺は仲間がいないとなにもできない」
バルジェロは掛け布団をめくり、彼のもう一方の手を確かめた。
その指に巻き付いているのは、包帯だけ。バルジェロが握る手にも、包帯だけが巻かれている。
「
……話したい、指輪をしていないお前と」
その名前を呼ぶのは、少し勇気がいる。
「オスカ」
握っていた手が、わずかに動いた気がした。その感触に心臓が跳ね、思わず強く手を握る。
閉じたまぶたがピクリと動き、ゆっくりと開いていく。
うつろな青い瞳と、目が合った。
「
……バル、ジェロ?」
「ティ
……ッ」
慣れ親しんだ名で呼ぼうとして、思いとどまった。オスカと呼ばれて目を覚ました彼を、ティツィアーノと呼んでいいのか。
「何が
……どうなってる? 俺は、ヴァローレで
……」
「ここはヴァローレじゃない。スフラタルジャだ。わかるか?」
彼は頭をゆっくりと動かし、まぶしそうに目を細めてバルジェロを見た。
「
……悪い、バルジェロ」
上体を起こそうとする彼を、バルジェロは優しく押しとどめる。
「まだ横になってろ。お前はひと月以上昏睡していたんだ」
「ひと月
……? そうか」
彼は息も絶え絶えに言葉を紡ぐ。
「目が覚めて、口がきけてるだけで、御の字か。クソッ
……あの女執事、めちゃくちゃやりやがって
……」
「女執事?」
「モンテッロは、もう魔女に買われてた。奴は始末したが、俺も手傷を負っちまって
……そこにあの女が来て、とんでもねえ量の粉を嗅がされて
……」
理解した瞬間、背筋が冷えた。彼が話そうとしているのは、今から三年も前のこと
――ヘルミニア邸に突入する前日の出来事だ。
「その後
……その後は
……」
「思い出さなくていい。今、お前を看病していた薬師を呼んでくる。起き上がるなよ」
「
……わかった」
考えるのは後だ。バルジェロはソレイユのもとへ走った。
「あなたのお名前は何ですか?」
「ティツィアーノだ」
診察に来たソレイユに、彼はそう即答した。
「ではティツィアーノさん、今日が何年何月何日かわかりますか?」
「あー
……多分、わかんねえ」
「多分わからない、とは?」
「どうもここ最近の記憶がぶっ飛んじまってるっぽいからよ。髪もすげえ伸びてるし」
「ティツィアーノさんとしては、今は何年だと思いますか?」
「俺の感覚では、1615年だな」
「今年は1618年です」
「はあ!? 薬師さん、いくらなんでもジョークきついぜ」
「この状況で冗談を言うはずがないでしょう」
「
……まあ、それもそうか」
「では、喪失している記憶は三年ぶん
……」
ソレイユが書き込んでいるカルテには、はっきり〝ティツィアーノ〟という名前が書かれている。
それでいいのだろうか。ここはスフラタルジャで、庭師の老人は〝オスカ〟の見舞いに来ていたのに。
「ところで、ティツィアーノさん。あなたを見舞った方はバルジェロさん以外にも二人おられました。そのお二人はあなたのことをオスカと呼んでいましたが、それがどういうことかはおわかりになりますか?」
バルジェロは息を呑んだ。ソレイユの率直な問いは、薬師としては至極当然のものだろう。しかし、バルジェロはまだ心の準備ができていなかった。
「あー
……っとぉ
……」
ティツィアーノにとっても不意打ちだったのだろう、目が泳いでいる。ティツィアーノはちらちらとこちらを窺っているが、バルジェロはだんまりを決め込んだ。
「えーっと、薬師さん。その、見舞いに来た二人ってのは誰だ?」
ティツィアーノはヘラヘラと軽薄な笑みを浮かべてソレイユに問い返す。だが、ソレイユはピシャリと言い返した。
「質問に答えてください」
「うっ
……」
ソレイユという薬師は曖昧を許さないらしい。その厳しい態度に、ここにいるのがシャナだったらどうしただろうかなどと考えてしまった。
「
……薬師さんよ。すまねえが、その質問に答えるにはちょいとばかし時間がいる」
ティツィアーノは暗い顔でバルジェロを見た。その表情にソレイユも気がついたらしい。
「では、話せるようになったらお願いします。庭師のおじいさまと衛兵のおじさまは、あなたを毎日見舞っておられました」
「庭師のじいさんと衛兵のオッサンか。ありがとな」
ティツィアーノはソレイユにウインクしてみせたが、彼女が意に介する様子はなかった。
「ところでよ、腹が減ってかなわねえんだが
……」
「粥なら用意できます。バルジェロさん、昼食がまだならあなたの分も近くの酒場に頼みましょうか?」
「そうしてくれると助かる。金は
……」
「お金はもうもらっています」
ソレイユは、壁際のハンガーに掛けられたボロ布を指さした。
「ティツィアーノさんが救助されたときに着ていた外套に、大量の砂金が付着していました。そこから入院費も治療代もいただいています。何年か入院しても問題ないくらいの量でした」
「
……砂金」
ソレイユは外套と言ったが、あれはただの破れたボロ布だ。忘れられるはずもない
――〝持たざる者〟が身に纏っていた、服とは到底呼べない汚れた布きれ。あれに砂金が付着していたのなら、やはり彼は一度砂金の海に沈んだのだ。
「では、いったん失礼」
ソレイユは早足で部屋を辞した。
彼女がいなくなると、部屋が急に広くなった気がした。
「メシ食うんなら、起きねえとな」
バルジェロは、自力で起き上がろうとするティツィアーノの背を支え起こした。ティツィアーノの身体は首から腰まで、見える部分は顔以外すべて包帯に覆われている。その上、寝たきりだったせいか、記憶の中の彼よりもずいぶんと痩せていた。
「あー動きづれぇ。こりゃ相当弱ってんな」
「無理はするな」
ティツィアーノは、はあ、と深いため息をついてから、じっとバルジェロを見つめた。
「なァ、バルジェロ」
「なんだ?」
「お前、もう知ってるんだろ?」
「何をだ」
「俺のことさ。そうじゃなきゃこの町になんか来ねえだろ。こんな乾いた砂漠によ」
「
……お前がここにいると聞いたから来ただけだ」
「ピエロとフラはいねえのか?」
「ああ、俺ひとりだ」
「単独行動は感心しねえな。狙われるぜ? ボス」
「
……」
お前にか、と返したら、彼はなんと答えるのだろう。
だが、藪をつついて蛇を出すわけにはいかない。バルジェロは慎重に言葉を探す。
「
……オスカ、というのは」
その名を口にした瞬間、ティツィアーノの青い瞳に、金色の光がひらめいたように見えた。
「お前のことなのか?」
「
……ああ。俺が親からもらった名前はオスカ。この町は俺の故郷だ」
彼は窓の外を見やる。その視線の先、抜けるような青空の下に、ヘルミニアの屋敷よりも巨大な宮殿が鎮座している。
「で、あれが俺の元実家。すげえだろ?」
バルジェロは何も言わない。知っていると正直に明かすべきなのか、知らないふりをして彼に話を合わせるべきなのか判断がつかないからだ。
「んだよ、反応薄いな。ジョークじゃねえぞ」
「
……」
「何も聞かねえのか?」
「お前が話したいなら、聞く。だがまずはメシだ」
廊下から香ばしい匂いが漂ってきている。ドアがノックされ、ソレイユが「失礼します」と、食事を持って入ってきた。彼女は机に料理の載ったトレイを置くと、事もなげに言った。
「バルジェロさん、ティツィアーノさんに粥を食べさせてあげてください」
「んなっ!? 赤ん坊じゃあるまいし、自分で
……」
「あなたは馬鹿ですか」
ソレイユに眼光鋭く睨みつけられ、ティツィアーノの肩が跳ねた。
「あなたはずっと眠っていたせいで、筋力が著しく衰えています。手を自在に動かせるのなら自分で食べても結構ですが、できますか?」
ティツィアーノは掌をグーパーと動かしたが、その動きはひどくぎこちなかった。
「いいですか? 今のあなたは要介護者、赤ん坊以下です」
「容赦ねえ言い草だな
……」
「事実ですから。ではバルジェロさん、お願いします」
「ああ」
「私は薬の材料を買ってこなければならないので、夕方まで留守にします。バルジェロさんは宿を取っておられますか?」
「いや、まだだ」
「それなら本日はここに泊まってください。では、失礼します」
「おい、ちょっと
……」
バルジェロの声は届かず、ソレイユは言うだけ言って慌ただしく出ていった。
「ずいぶんと強引な薬師だ」
「だな。シャナとはずいぶん毛色が違うぜ。しかしなあ
……」
ティツィアーノは机の上に置き去られた粥と鍋を見てため息をつく。
「お前にあーんしてもらうのはどうにもな」
「嫌か?」
「なんか気恥ずかしいだろが」
「俺は別に」
「へいへい。じゃあさっさと自分の分を食べて、病人にあーんしてくれよ。やさしく、な」
「そうしよう」
正直なところ、空腹を感じる余裕などない。だが、食事をしながらなら、目の前のティツィアーノへの対応に悩まずに考えを巡らすことができる。ふうと一息ついて、ようやく、バルジェロは自分に用意された食器が見慣れない形をしていることに気がついた。
「これは
……」
「ヴァローレにはねえよな。タジンって言ってな、サンランドでは割とポピュラーな鍋だ。皿に載ってる円錐形の奴は、蓋だ」
まだ少し熱い蓋を開けると、湯気と共に嗅ぎ慣れない強い香りが立ち上った。ロッソのアジトに漂っている匂いと似ている気がする。
この料理はトマトチキン煮込みのようだが、ヴァローレのものとはまるで見た目が違う。ヴァローレではトマトソースで煮込んで作るものだが、この鍋には切ったトマトがそのまま入っていて、その上に鶏肉が載っている。よく見ると、トマト以外にもじゃがいもやレモンなどさまざまな野菜が肉の下敷きになっていた。どうやらソースではなく、野菜から出た水分で煮ているらしい。
まずバルジェロは、トマトから食べてみた。辛そうな匂いの割に刺激は少なく、こってりしている。マイルドな辛みと言えばいいのだろうか。食べ慣れない味なせいで、味の良し悪しが判断できない。
「どうだ?」
「
……初めて食べる味だ」
「ははっ! それ、まずいもん食べたときの常套句じゃねえか」
ティツィアーノはなぜか嬉しそうに笑った。
よくわからないまま食べ進めていく。遠くで鳥の鳴く声が、妙に鋭く聞こえた。
ふいに、ティツィアーノが言った。
「あー、粥なんかじゃなくてパスタ食いてえな」
「
……体調を整えれば、そのうち食べられるさ」
この鍋を食べればわかる。スフラタルジャとヴァローレの食文化はあまりにも違っている。ここで生まれ育ったオスカは、きっとヴァローレの食に違和感を覚えたはずだ。だが、彼は今、ヴァローレの味が恋しいと言う。
チキンの下に隠れていた野菜を食べながら、バルジェロは考える。
――こいつは今も、嘘をついている。
本当に記憶を失っているなら、彼が〝皮〟と称する〝ティツィアーノ〟の下に隠しているオスカもまた、バルジェロたちに敗れた記憶を失っているはずだ。とすれば、目の前のティツィアーノは、その胸の内に恐るべき欲を抱いているはずで
――まだ、彼はバルジェロに嘘をついていることになる。
もう一つの可能性を考える
――本当は記憶を失ってなどいなくて、忘れたふりをしているだけなのではないか。彼は今、衰弱しきっている。バルジェロが〝ティツィアーノ〟に手を出すことはないと考え、身を守るため記憶喪失のフリをしているのかもしれない。共に生きた十余年、彼は自分の欲望を毛ほども見せなかった。今この瞬間だけバルジェロを騙すのなど造作もないだろう。
嘘をついているという事実はわかっても、バルジェロには彼の嘘の内容までを見抜くことはできない。
「なあ、腹減ったー」
バルジェロの思いをよそに、彼はは口を尖らせて「ばぶー」などとふざけている。
「仕方ない奴だ」
バルジェロは急いで自分の食事をかき込んだ。そしてフォークをスプーンに持ち替えて、粥を一口ぶん掬った。
「ほら、あーんしろ」
「あーん」
無防備に開かれた口。そこから繋がる腹の奥には、まだ業火のごとき憎悪が渦巻いているのだろうか。それとも、この口で嘘をついているのだろうか。今バルジェロの目の前にいる彼は、ヴァローレで共に輝く日々を過ごしていたあの頃の彼だという、甘すぎる嘘を。
「
……なあ、ここで『待て』なのか?」
「
……」
「ったく、しゃあねえな」
彼は眉間に皺を寄せると、自分からがぶりと粥に食いつき、少し噛んでから嚥下した。
「薄い
……まあ、食わねえよりはマシか。つーかバルジェロよォ、ちゃんと口に入れてくれよ」
「ああ」
気のない返事をしてしまった。すると彼は、訝しむような顔でバルジェロを見た。
「らしくねえぜ。いつもなら、今この瞬間にどうするかだけを考えてるくせによ。この三年で何があったにせよ、今お前にできるのは、その味気ない粥を俺の口に放り込むことだけだ。違うか?」
はっとした。今、彼は、ひとりで悩んでいたバルジェロの背中を押してくれなかったか。それこそ、かつてと同じように。
「
……そうだな」
嘘をつかれていようが構わない。彼が生きていて、こうしてまた同じ時間を過ごすことができているのだから。
「腹減ってんだ、頼むぜ」
彼は人好きのする笑顔を浮かべ、そしてわずかに目を伏せて、言った。
「あとで、話すからよ。この町のことも、俺のことも」
「
……わかった」
バルジェロは次の一口を掬った。
「お前を信じる」
「ん」
再び開かれた口にスプーンをそっと差し入れると、彼はつるりと粥を飲み込んだ。
やがて、器が空になった。
「食った食った。しかしこれだけで腹いっぱいとは、やべえな」
「そうだな。何をするにしても、まずは体を元に戻さなければ始まらない。俺も協力する」
そう言うと、彼は目を丸くした。
「
……ありがとな」
ゆるい微笑みと共に発されたのは、照れくさそうな、それでいて申し訳なさそうな小声だった。
彼に聞きたいことは、それこそ無数にある。だが彼を信じると決めた以上、暴こうとは思わない。共に過ごす中で少しずつわかっていけばそれでよく、わからなくてもいいとさえ思う。
そう決めても、ひとつだけ、どうしても明らかにしておきたいことがあった。
「なんて呼べばいい?」
「あァ?」
「ティツィアーノか、それともオスカか」
「今更偽名だったとか言われても困るだろ」
「なら、お前が呼ばれたい方で呼ぶ」
「まあ、お前が呼びたい方で呼んでいいぜ」
二人はほとんど同時にそう言った。
数秒間、顔を見合わせる。
「
……んじゃ、ティ」
「それならオスカと呼ぶ」
言い切ったのはバルジェロの方が早かった。
「この町にいた頃はオスカだったんだろ。見舞いに来てたじいさんもお前のことをオスカ坊ちゃんと呼んでいた」
目の前の男は「げえ」と言わんばかりの顔をしてみせた。
「なんだその顔は。お前の言うとおり、俺が呼びたい方で呼んだんだぞ」
「いや
……まあ
……いいけどよ? でも坊ちゃんはやめてくれ」
「あーん、ってメシを食わせてもらってる赤ん坊のくせにか?」
「おいおい、お前そんなこと言うタイプだったか? ったく、ジョークきついぜ」
やれやれ、とオスカは腕を上げてみせたが、不健康に細いその腕は震えていて、動かすのもやっとのようだった。
「オスカ」
「んだよ」
「本調子に戻ったら一杯やろう」
バルジェロは荷物の中からシロブドウのワインを出してみせた。
「うほっ、いいモン持って来てんじゃねえか!」
オスカの青い目がキラキラと輝く。これは、ティツィアーノが一番気に入っていた銘柄だ。
――呼び方を変えても、やはり彼は彼でしかない。
「仕方ねえ。あの厳しい薬師さんの言うこと聞いて、リハビリに励むとするか」
「それがいい」
こうして、遥か遠き白砂の町での休暇が始まった。二人だけで長い時間を過ごす、初めての日々が。
第二話→
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