「1618年か」
オスカは窓の外を眺めながら独りごちた。昼下がりの空はけだるく、窓からは乾いたそよ風が吹き込んでくる。
「3年も経っちまったんだな」
「納得できるのか?」
と、バルジェロは問う。
「まあ
……粉の中毒症状がまったくねえのはおかしいし、相当時間が経ってんのは認めざるを得ねえよ」
ヘルミニア邸で見た彼は、言葉を喋れなくなるほど粉漬けにされていた。当時のヴァローレには中毒者が何人も転がっていたが、あれほどひどい状態の者はいなかった。どれだけおぞましい拷問を受けたら、ああなってしまうのか。とっくに焦げついて冷えたはずのヘルミニアへの怒りが、苦く蘇る。だが、今のオスカは普通に言葉を話している。惨劇は過ぎ去ったのだから、気にしても仕方がない。
「あの後、魔女を倒したんだろ? そうでなきゃお前が生きてるわけねえし」
「ああ。ヴァローレは取り戻した」
「ファミリーもデカくなったか?」
「まあな。シマも広がった」
「俺がいなくてもうまくやれてんのな」
寂しげに笑うオスカに、バルジェロはありのままを伝える。
「お前がいなくてもやっていかなきゃならなかったからな」
そう告げると、目の前の男は照れくさそうにはにかんだ。
「
……じゃあ、俺もいたほうがいいか?」
「当たり前だろ」
「そうかあ」
くしゃくしゃの笑顔を向けてくるオスカに、バルジェロは喜びと戸惑いの両方を覚える。悪意の探り合いなら自信があるが、好意にはどうにも鈍感で、相手の言葉が本心なのかどうか判断がつかないことが多かった。かつてはティツィアーノの言動を疑ったことなどなかったが、今は、彼の言葉の裏に隠された真意を探り当てなければ、という思いが頭をもたげる。彼を信じると決めたのだから、そうしたいのに。
「で、その後はどうなったんだ? 魔女をぶっ倒してからの3年はよ」
「
……」
「どうした?」
「話していいのかわからん」
「あぁ?
……そうか、俺が自力で思い出すのを待った方がいいのか?」
「そういうことだ。薬師の判断を仰いでからだな」
「了解。ってことは、お前はその先の俺がどうなったか知ってんだな。俺がヴァローレじゃなくてこの町にいる理由もよ」
答えられない。
「だよな。だから俺をティツィアーノって呼ばねえんだろ」
彼はバルジェロから目を逸らして横になった。息が荒く、薄くなってしまった胸が激しく上下している。どうやら、上体を起こすだけでも相当苦しいらしい。
「早く戻ってこねえかな、薬師さん」
「
……そうだな」
「なんでこの町に戻って来ちまったんだろうな。ヴァローレにいるときにたまに思い出すくらいでちょうどよかったのによ
……」
そのひどく沈痛な声色は、本心としか思えないのに。バルジェロは、わずかに暮れ始めた窓の外を見やる。彼と過ごす時間を居心地悪く感じたのは初めてだった。
ソレイユが帰ってきたのは、空がすっかり茜色に染まった頃だった。彼女は大量の包帯と塗り薬を机に置くと、まずオスカに説明を始めた。
「記憶喪失は、辛い出来事から心身を守るための反応であることが多いです。ですから、無理に思い出そうとしたり、当時を知る人から聞き出したりしてはいけません
……すみません、これは先に言っておくべきでした。もう話をしてしまいましたか?」
バルジェロはソレイユに首を振る。
「いいや。どうすべきかあんたに聞いてからにしようと思ってたんでな」
「あなたは賢明ですね。助かりました。ではバルジェロさん、ティツィアーノさんに何があったのか伺いたいので、別室へ来ていただけますか?」
「ああ」
「ティツィアーノさんは絶対にベッドから出ないでください。気になるとは思いますが、回復が遅れるだけです。いいですね?」
「へーい」
横になったまま、オスカはひらひらと手を振った。
診察室に案内されたバルジェロは、用意された椅子には座らず、立ったままソレイユの話を聞いていた。オスカと二人だけの病室はあんなに居心地が悪かったのに、今はすぐにでも戻りたいと思う。
彼のためにバルジェロができることは、ストレスの少ない環境を整えること、食事とリハビリの介助、加えて薬を塗って包帯を替えることだという。
「ティツィアーノさんの全身には火傷の跡があります。それと、脇腹には切り傷があります。こちらは鋭利な刃物によるものだと思われます。いずれも致命傷にしか見えないものでした。しかし目を覚ましたティツィアーノさんの様子を見るに、痛みはなさそうです。なにかご存じありませんか?」
火傷はおそらく、3年前
――ヘルミニア邸の火事に巻き込まれたときのものだろう。あの時彼がどうやって正気を取り戻し、燃え落ちる屋敷から脱出したのか、詳細はわからない。おそらく彼が持っていた紳商伯の指輪が関係しているのだろうが、ソレイユに指輪のことは話せない。
脇腹の切り傷は、他ならぬバルジェロがつけたものだ。指輪の力で〝化け物チキン〟になったオスカを止めるため、バルジェロは彼にナイフを突き立てた。互いの主張を曲げられなかった果ての決着だった。
「話しづらい事情があるようですが、今後の治療のために必要なのでなるべく包み隠さず話してもらえますか?」
ソレイユはバルジェロの沈黙を許さない。彼女にそんなつもりはなくとも、その率直さはバルジェロの古傷をえぐる。痛むわけでもうずくわけでもないのに、バルジェロは腹に残る傷跡を押さえた
――ヴィクターホロウで再会したとき、オスカに斬りつけられたあの傷を。
「
……大丈夫ですか?」
ソレイユの声音には労るような響きがあった。彼女はバルジェロのことも患者とみなすつもりだろうか。確かに調子は狂いっぱなしだが、それはごめんだ。オスカがこの先どうするにしても、約束通り彼と一杯やるまでは最善を尽くしたい。バルジェロはソレイユの用意した椅子に座った。
「ああ。可能な範囲で説明する」
ソレイユは「お願いします」と頷いた。
話を聞き終えたソレイユは、露骨に疲れた顔をしていた。
「つまり、ティツィアーノさんは3年前に大火事に巻き込まれ、死んだと思われていた
……のに、実は生きていて、お二人はその後対立し
……2年前、ほかでもないバルジェロさんが、ティツィアーノさんをナイフで刺し殺したはずだと?」
「そうだ」
ソレイユは指で眉間を押さえて俯き、盛大なため息をついた。
「あなたは嘘をつくような人には見えませんから、本当なのでしょうが
……」
ふう、と再び息をつき、ソレイユはカルテにバルジェロの話を書き込んでいく。
「では、バルジェロさんがティツィアーノさんに会うのは2年ぶり、ということですね?」
「そうなるな」
「とすれば、ティツィアーノさんが眠っていた
……あるいは、死んでいた期間は約2年ということになりますが
……」
ソレイユは天を仰いだ。
「そんなことは、あり得ません」
「そうだろ? だからヴァローレから飛んできたんだ。確かめるために」
「間違いなく本人ですか?」
「そう思う」
ソレイユは姿勢を正し、バルジェロの目をまっすぐ見た。
「なぜ彼が生きているのかを追求しても無駄でしょう。私は患者を健康体に戻すことだけを考えます。あなたは
……」
強い眼光がバルジェロを射る。
「彼を殺すつもりですか?」
「いいや」
「本当ですか?」
「俺たちが戦うことになったのは、あいつが俺たちに牙を剥いたからだ。だが今のあいつからは牙が抜け落ちている」
「回復したら?」
「その時考える」
ソレイユは渋面を作る。バルジェロを患者のそばに置くのは危険だと思っているのだろう。薬師としては正しい判断だが、譲れるはずもない。
「あいつは仲間だ。俺はそう信じている」
薬師は再びため息をつき、頭を振った。
「あなたが何を考えているのか、まったく理解できません」
「理解してもらおうとは思わないさ」
「
……治療には協力してもらえるのですね?」
「ああ。なんでも言ってくれ」
「わかりました。では、やってもらいたいことと、予想される経過について詳しく説明します」
「戻ったぞ」
「おー」
ソレイユの説明は多岐に渡り量も多かったため、病室に戻ってきたときにはもう夜になっていた。病室は真っ暗だった。動けないオスカは燭台に火を灯すこともできない。明かりをつけながら、バルジェロは机の上に置かれた塗り薬と包帯を確認する。
「お前は全身に火傷を負っているそうだ。それと、脇腹にもデカい傷跡があると」
「痛くはねえんだよな」
「この塗り薬は痛み止めじゃない。傷跡を目立たなくするものだそうだ」
「へえ。俺、この包帯の下がどうなってんのかまだ見てねえんだよな
……」
「薬師さんはほかにも患者を抱えてるから、お前に薬を塗って包帯を替えるのは俺がやるように頼まれた」
「げえっ、マジかよ!」
「なんだその反応は」
「いや
……ちょっと布団めくって、見てくれねえか?」
言われるままに布団をめくると、オスカが痛々しいほどに痩せ細っているのがよくわかった。包帯はほとんど全身を覆っていて、露わなのは爪先だけという有様だった。
「やべえだろ? ×××にまで巻いてあるんだぜ」
オスカの口調は軽い。だが彼の状態は相当に深刻で、本当に回復が望めるのか疑わしく感じてしまうほどだった。しかしバルジェロは感じた不安をおくびにも出さず、軽口に応じてみせる。
「そこは自分でやってほしいところだが」
「ったりめーだろ! しかし、一体どんな目に遭ったらこんな状態になるんだか」
彼は、バルジェロがボロを出して語るのを望んでいるのかもしれない。情報収集はいつもティツィアーノの仕事だった。何気ない言葉に罠を仕掛けるのが得意な彼は、知りたい情報をすぐに得てファミリーにもたらしてくれていた。だからこそ、探られる側になるのはごめんだった。
「
……なァ、バルジェロ」
「なんだ」
「んな顔すんなよ。お前がそんな弱ってんの初めて見るぜ」
弱っている
――そうかもしれない。今まではまっすぐ前だけを向いて突き進めばそれでよかった。しかし今は、過去が迫ってきている。〝ティツィアーノ〟が
――自分だけ過去に戻ったオスカが、無理やりバルジェロの頭を掴んで振り返らせている。
「お前のせいだろ」
だからバルジェロは、はっきりそう言った。自嘲の笑みが同時に漏れた。目の前にいる男に、バルジェロの心は揺さぶられている
――それだけが、確かな〝今〟だった。
オスカは目を丸くした。それから口を尖らせて、拗ねた調子で言った。
「そりゃあ、悪いなとは思うけどよォ
……どうしようもねえだろ」
「悪いと思うなら思い出せ。自力でな」
「へいへい」
バルジェロはとにかく手を動かすことにした。オスカの手を取り、まずは右腕の包帯をほどいていく。しゅる、と、乾いた布がこすれ合う音が夜の静寂に響く。
「
……ひどいな」
包帯をほどき露わになったオスカの腕には、赤黒く引き攣れたケロイドが縦横無尽に走っていた。
「このデザインじゃあ、刺青って言い張るのはキツいな」
「本当に痛まないのか?」
「ああ、痛みはねえよ」
薬瓶の蓋を開け、少し固めの軟膏を指先にとる。原料の匂いだろうか、部屋の中に香ばしい油のような匂いが漂った。薬を掌で温めてのばすと、とろりとした手触りに変わった。その手で、バルジェロはオスカの腕に触れる。ケロイドの凹凸をなぞると、またしても、陵虐を受け無惨な姿にされたあの日のティツィアーノを思い出してしまう。バルジェロは手を止めないように、力を込めないように努める。敗れたヘルミニアが去った後、ティツィアーノを連れて屋敷を脱出しようと思った。だが火の回りがあまりにも速く、バルジェロたちと倒れたティツィアーノの間に柱が倒れ込んできて、彼を助ける道は閉ざされてしまった。考えるな、思い出すなと自分に言い聞かせ、わずかに熱を帯びた火傷の痕に薬を塗り込めていく。だが、無慈悲な一撃で階段を転がり落ちたティツィアーノが、残された力で拳を掲げたあの瞬間が、まぶたの裏に蘇る。
「バルジェロ」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
灯火が、オスカの顔を照らしている。今、彼は目の前にいる。喋っているし、息もしている。仲間の思いを無駄にすまいと、「背後には何もない」と己を奮い立たせて戦ったあの日は、もう過ぎ去った。それなのに、今を受け止めようとすると過去が迫ってくる。この先も生きていく者にできるのは、後悔を抱えながらも先に進んでいくことだけだというのに。
「俺のせいなんだろ?」
オスカの瞳に映り込んだ燭台の火が、赤く揺らめく。
「昔話、いるか?」
「何?」
「俺がお前らと出会う前の話さ」
「いいのか?」
「別に話すほどのことでもねえと思ってたけど、俺とお前がこの町にいるってことは、話しとくべき状況になっちまってんだろ? 失った記憶とは関係ねえ話だし、俺からお前に話すのは薬師さんからも止められてねえからな」
「聞かせてくれ」
オスカはスフラタルジャで暮らしていた頃の話を始めた。領主家の息子として生まれ、何不自由なく暮らしていたことも、それゆえに悪人に目をつけられ財産と地位を奪われたことも、ごく軽い調子で語った。伏せられたのは、彼が二つの呪われた指輪を受け継いだことと、授富の砂宮に隠された莫大な砂金のことだけだった。
夜の病室に響く懐かしい声にお喋りなティツィアーノを思い出して、バルジェロの手から余計な力が抜けていく。
「んっ
……」
やさしく薬を塗り広げていると、不意に、オスカが声をこらえる様子を見せた。
「痛むのか?」
「あー
……いやあ
……」
オスカはばつの悪そうな、それでいて照れたような顔をして目を逸らす。
「なんだ、はっきり言え」
「お前の触り方、なんか、やらしくねえか?」
「は?」
「なんか変な声出そうになるんだよな
……」
痛むのではないかと心配したのが馬鹿らしくなり、バルジェロは眉間に思いっきり皺を寄せた。
「仕方ねえだろ! 俺、くすぐりに弱えんだ
……って、ちょっ、あっ、はぁっ
……」
わざと指先を立ててつうっとなぞってやると、オスカは吐息混じりの声を上げた。
「ああっ、お、おやめくださいまし
……」
「ははは」
いつかに戻ったような下世話な軽口に、自然と笑いがこぼれた。ピエロがここにいたら囃し立てただろうし、フラなら、バルジェロの緊張をほぐそうとするティツィアーノを「クールだ」と言っただろうか。
しかし同時に、これは夢だとも思う。
バルジェロはもう知ってしまっている
――オスカの中には、自分への激しい憎しみがあると。今の彼が見せる夢に身を委ねてはならないと自分を律し、バルジェロはオスカの右腕に包帯を巻き直しながら、しかし彼の思惑に乗ったふりをしてみせる。
「旦那様、×××にも薬をお塗りいたしましょうか?」
「おい、やめろって! お前がそういうジョーク言うとマジでビビる!」
「薬はともかく、包帯は俺が巻かざるを得ないだろ。粥も自力で食えないお前には無理だ」
「う
……」
オスカはがっくりと肩を落とした。
左腕、両足と順に薬を塗り、包帯を替えていった。ケロイドはどの部位もひどく、痛みがなくとも皮膚が引きつる感覚はあるだろう。性器にも少し火傷の痕があり、「治療なのだから諦めろ」と説得してバルジェロが処置した。
残るは胴だ。
「起こすぞ」
バルジェロはオスカの体を起こして向きを変えさせ、彼の足を床に下ろさせた。
「包帯を取るぞ」
床に膝をつき、胴に巻き付いた包帯に触れる。この下には火傷だけではなく、刃物による切り傷の痕が残っているとソレイユは言っていた。その傷は、人ならざる姿に変貌したオスカに、バルジェロが突き立てたナイフの傷に違いない。
あの時、オスカは死んでいなかったのか? そんなはずはない。握った手から力が抜け、心臓の鼓動が止まったのを、バルジェロは確かに覚えているのだから。
前から背中側に手を回すのを繰り返して、少しずつ包帯をほどいていく。衣擦れにも似た音が緊張を誘う。
「確か脇腹にデカい傷があるんだったよな?」
とオスカは言った。
「そう聞いている」
大量の包帯を取り終えて、ようやく上半身が露わになった。胸と背中には大きな火傷の痕があった。そして左の脇腹には、細く長い傷跡が盛り上がっていた。明らかに火傷とは違うその傷は、刃物で斬りつけられた跡に間違いなかった。
「俺が下手打ったのはこれか?」
オスカは脇腹の傷跡をそっと撫でる。
「痛くはねえな」
「薬師が言うには、傷はほとんど癒えているらしい。その割には痕だけが異常なほど残っていると」
「はあ
……もう女を抱けそうにねえな。こんなん気色悪いぜ」
「だから傷跡を薄くするための薬が処方されたんだろう。それに、お前は傷にビビるような女は抱かない」
「
……へえ?」
「そもそもお前はヴァローレで女に一切手をつけていないだろう」
オスカの眉がピクリと動いた。だがバルジェロは気づかなかったふりをして、薬瓶から軟膏をすくい取って伸ばした。
「女を見たら口説かないとヴァローレの男じゃねえって言われてるだろ」
オスカはぽつり、ぽつりと口を開く。
「
……俺も、ヴァローレの人間になろうとしたんだ」
「そのために違う名前を名乗ったのか?」
オスカは押し黙り、何も答えなかった。
バルジェロはベッドに上がってオスカの長い髪を肩にかけ、背中から薬を塗り始めた。
「
……この町を出てからお前らに会うまでにあったこと、全部封じ込めちまいたかったんだ」
消え入りそうな小声だった。
頼れる者もなくひとりさまよう浮浪児がどうなるか想像できないバルジェロではない。泥水を啜って命を繋いだことすらあったとオスカは言っていた。それにオスカは、ヴァローレに来るより前に、ヘルミニアと出会っている。同じく富を失い、持たざる者へと追い落とされ、娼婦に身をやつした女と。幼いオスカがそんな女といったいどこで出会うというのか。
バルジェロは淡々と薬を塗り続けた。どうにもならない過去の苦しみより、今治せる傷のほうが重要だ。
「背中は塗り終わった。胸と腹に塗るぞ」
「おう」
バルジェロはオスカの右隣に陣取り、左の脇腹を避けて薬を塗り広げていく。掌にたっぷりと薬を取り、できうる限り優しく体を撫でた。赤黒いケロイドとオスカ本来の白い肌のコントラストにもようやく慣れてきた。
処置の間、オスカは声を上げはしなかったが、時折身を震わせた。治療のためとはいえ、バルジェロはその肌に触れることを許されている。心の底に憎悪を抱えているとしても、今のオスカはバルジェロの手を許している。バルジェロも臆するわけにはいかない。オスカの左隣に移動して、脇腹に刻まれた傷跡と向き合う。
授富の砂宮は、見渡す限りが金色だった。ヒュセイノフ家が隠していた砂金は、国どころか大陸をもひっくり返せる量だった。ヘルミニアの財産全てとエドラスの国庫を足しても、あの場所にあった富には遠く及ばないだろう。目の前の富よりも、遥か彼方のマシな未来を信じられる者は、そう多くはない。ヴァローレはそう信じられたが、そうでない七つの国と町は滅んだ。バルジェロは少しずつマシな方向へ進んでいく世界を信じているが、目の前の現実が見えないほど愚かではない。あれは誰の目からも隠すべきものだ。バルジェロはただ、あの砂金の海をオスカ・ヒュセイノフの墓標とし、共にあの場所に向かった仲間たち以外の誰にも明かさなかった。
指先が傷跡に触れる。この傷は、信じたバルジェロと信じ切れなかったオスカの決裂の証だ。それでも、もう一度オスカを
――彼との絆を信じると決めたからには、ほかでもないバルジェロ自身の手で、この傷に薬を塗り込めなければならない。
意を決して、掌を押しつけた。細く鋭い傷跡は、周辺の火傷よりも鮮やかに赤く、固く盛り上がっている。その傷を優しく撫でて、白い軟膏で覆っていく。その奥にある痛みと血に思いを馳せながら。傷が消えても、流した血は消えないと己に言い聞かせながら。
薬を塗り終え、包帯を巻き直していく。オスカはずっとされるがままで、全く抵抗しなかった。病室にはただ静寂だけが満ちていた。
「終わったぞ」
「ありがとよ」
オスカは人懐っこい笑顔を向けてくる。その表情は、かつてのティツィアーノそのものだった。
「ついでと言っちゃなんだけどよ、髪も切ってくれねえか? 長すぎて邪魔だろ? 前と同じくらいの長さにしてくれよ」
確かに、包帯で髪を巻き込みそうになったり、薬が髪についてしまったりと不便ではあった。
貧民なりにではあるが、ティツィアーノは身だしなみには気を遣っていた。髪も、自分に似合う長さに整えていた。彼が〝持たざる者〟として目の前に現れたとき、髪にも服にもまるで頓着していないその姿が、一瞬、記憶の中の彼と結びつかなかったのを思い出す。
「
……わかった」
傷に薬を塗るのも、髪を切って元の長さに戻すのも、〝持たざる者〟の痕跡を消すことに繋がっている。だが見た目がどうなろうとも、過去は変わらない。バルジェロの心と記憶には、バルジェロを激しく憎み否定しようとしたオスカが住み着いている。それはもはや、オスカ本人にさえどうにもできない強い呪いだ。
バルジェロは腰に携えているナイフを手にした。二年前、オスカの望みと命を断ったのと同じナイフで、今度は「髪を切ってほしい」という彼の他愛ない願いを叶える。ティツィアーノの後ろ髪は肩甲骨に届かないくらいの長さだった。
――今、このナイフで背中から心臓をひと突きにすれば、ヴァローレの憂いを断てる。
ヴァローレを守ることだけを考えるなら、それが正しい選択のはずだ。だが、その可能性を想像するだけで、あの言葉が炎となってバルジェロの心を焦がす。「そんなお前が
……だった」と。
「切るぞ。動くなよ」
「おう」
切った髪がベッドに散らばらないよう、切り落とす方の毛を握りしめて、刃を髪に当てる。さくっ、と軽くて小気味よい音がした。
「サンキュー。何もかもやってもらっちまって悪いな」
「貸しにしておく。あとで返せよ」
「もちろん」
かつての姿を取り戻そうとするオスカに手を貸しても、バルジェロの心に焼き付いた〝持たざる者〟の姿は消えないし、恐るべき欲望に赤く輝いていた瞳の光も消えない
――消させない。そのためにバルジェロは、
「オスカ」
と、静かに、しかししっかりとその名で呼びかける。呼びかけに応え、オスカはちゃんとバルジェロの目を見た。
「もう寝ろ。明日から歩行訓練だ」
「おう」
オスカは姿勢を変えようと体をひねってベッドに手をついたが、力が入らないのか動けずにいる。見かねたバルジェロはオスカを抱きかかえてそっとベッドに寝かせ、布団をかけてやった。
「へへ。じゃあ、おとなしく寝るとするか」
「ああ、それがいい」
オスカが目を閉じたのを見届けて、バルジェロは燭台の火を消した。
窓の外には、ヴァローレとはまったく違う星空が広がっている。
第三話→
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ご感想等ありましたら→
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