部屋には、二人のほかには誰もいなかった。 人払いがきわめて意図的に、かつ徹底して行われたことは、肌を刺すような空気の密度で理解できた。それは念入りに、一滴の雑音も混じらぬよう誂えられた、至高の静けさだった。
儀礼はすでに、すべてが終わっている。 これは公式の会見ではない。かといって、親密な私談でもなかった。そのどちらの定義からも零れ落ちた空白だけが、室内の重力となって横たわっている。 音はない。場は軽いわけでは決してなかった。何も起きていない停滞の時間ではなく、すでに起きてしまったすべての出来事を、否定も修正もせずに抱え込んだ、逃げ場のない沈黙だ。
新教皇
――ベネディクトゥス十四世となったランベルティーニは、机越しに、静かにコシアを見据えた。 その視線は穏やかだったが、相手を観察し、測るような色は、もはや微塵もなかった。測る必要など、もうどこにも残っていない。そこにあるのは、ただ、結論だけを受け入れた者の瞳だった。無言がその長さを引き延ばしてから。 ランベルティーニは、深く、静かな声で口を開いた。
「一つ、確認したいことがあります」
その声は低く、どこまでも平坦だった。 答えを請い願う問いかけではなく、すでに確信を得ている者が、その輪郭をなぞるためだけに発する調子だ。コシアは、応えずに待った。背筋を微動だにさせず、ただ重心の重みを踵へと戻す。
「コンクラーヴェの最中、あなたは、幾度となく私の視界にいた」
言葉に、責めるような響きは混じっていない。それを単なる偶然として聞き流すだけの余地を、彼は決して与えなかった。
「前にも出ない。退きもしない。だが、消えもしなかった。私の名が上がる前から、候補として浮上したときも、あるいは、一度は退けられたときでさえもだ」
一拍、刻が止まったような空白が置かれる。
「何らかの『目的』がなければ、あのような位置を、あえて選びはしない」
コシアは、視線を逸らさなかった。 ただ一度だけ、まばたきの回数が増える。それが肯定なのか、あるいは否定なのかを悟らせる隙すら、彼は自らに許さない。
「あなたが何をしたかは、すでに記録の外にあります」
ランベルティーニの言葉が、静かに、深く踏み込んでくる。
「ですが、何もしなかったふりをした理由までは、書かれていない」
そこで初めて、彼は声を落とした。儀礼の壁を一枚剥ぎ取り、一人の男として、その動機の核心に触れようとする。
「私の、ためですか」
問いは、驚くほど短かった。 そこには甘い好意も、あるいは歪んだ疑念さえも混じってはいない。ただ目の前にある事象の、不自然な整合性を裏付けるための、事実確認だった。
コシアは、すぐには答えなかった。視線を逸らすことはなかった。 代わりに、指先がカソックの縁を一度だけ、白くなるほど強く押さえつける。言葉を探しているのではない。まだ語らないことが許されるのかどうか、その限界値を身体で測っていた。 彼は、ランベルティーニを見据える。視線が正面からぶつかり合う。そこにあるのは、決して逃がさないという峻烈な意志を帯びた、新教皇の瞳だった。
その瞬間、コシアは理解した。
――秘匿し続けるという選択肢は、もはやこの場に存在しない。 顎を引き、深く息を止める。それは逡巡ではなく、吐き出す言葉に、事実としての重みを与えるための、短い祈りのような間だった。 やがて、彼は重い口を開いた。
「
……結果としては」
それだけを告げ、一度言葉を止める。 声は掠れていない。深淵から響くような低さを帯びていた。 ランベルティーニは、問いを重ねようとはしなかった。今、ここで理由を問えば、情緒という名の関係に変質してしまう。その一線を、彼は立場で理解し、踏みとどまっていた。 ただ、視線だけが動かない。それは先を促すというより
――黙って退くことは、断じて許さないという非情な判断だった。
コシアは、しばしのあいだ、口を噤んだ。言葉を探しているのではない。 どこまでを語れば、互いの間に決定的な繋がりを生じさせずに済むのか。その危うい境目を測っていた。
「理由をお求めなら」
そう前置きしてから、コシアは再び言葉を止めた。低く、胸の奥底に溜まった澱を吐き出すように息を吐き、視線を上げ直す。 逃げるためではない。これから口にする真実を、これ以上は一文字たりとも削らないと、己に誓うための、猶予。
「私は、あなたを推したことはありません。逃がそうとしたこともない」
一息置いて、喉の奥で、熱い塊を強引に飲み込んだ。 音は立てない。しかしその痛みを伴う動きだけは、自分自身の内側で酷く鮮明に響いた。 それから、彼はさらに声を落として、絞り出すように続けた。
「ただ
――忘れなかっただけです」
ランベルティーニの青い瞳が、湖面に走る波紋のように揺れた。コシアは肯定しなかった。射貫くようなその目から逸らすこともしなかった。
「自分を拾った教皇が、何を見て、人を選んだのかを」
言葉の途中で、呼吸が一瞬だけ浅く乱れる。彼は即座にそれを整え直し、鋼のような平坦さで続けた。
「その基準を、私は、片時も、忘れたことはありません」
声は淡々としていた。その無機質な平坦さを最後まで保とうとする強い意志が、かえって、言葉の質量を異常なまでに際立たせていた。
「私を拾ったのは、あの人でした」
その瞬間、コシアの視線が、ほんの一瞬だけ、耐えきれぬように揺れた。すぐに強固な意志で引き戻すが、一度生じた亀裂は、完全には消え去らない。
ランベルティーニは、それを見逃さなかった。あえて拾い上げることもしなかった。ここでその揺らぎを掬い取ってしまえば、この場は、統治ではなく、感情に堕する。彼は、ただ引かれた一線だけを見つめていた。見るように己を律していた。思い出しているのではない。思い出してしまうことを、断じて許していないだけだ。
「だから私は、あの人が拾った『もう一人』を、コンクラーヴェの中で、消耗させる気になれなかった」
それは弁解ではなく、ましてや正当化でもない。記憶の中で、ただ起きた事実をなぞっていただけだった。
「それだけです」
コシアは、そこで言葉を切った。これ以上を語れば私的な領域に入る。それを分かっていて、止めた。彼はその不可逆の境界線を、よく理解していた。ただ、放った言葉は、もう止められなかった。ここで終わりにしてしまえば、これまでの歳月や流した血のすべてが無意味になる。それだけは、違う 。逸る鼓動を、深く呼吸して落ち着かせた。
「愛していた、などとは言いません」
顎に、ごく僅かな力が入る。眼窩から零れ落ちようとする熱いものを、内側から必死に押しとどめるための微かな力だ。 その小さな、しかし確かな動きを、ランベルティーニは見逃さなかった。そこに踏み込む気はなかった。問い返せば、この部屋に満ちた閑寂は、ガラス細工が壊れるように音を立てて砕けてしまうだろう。
「ですが
――」
逡巡ではない。どこまでなら、まだ、言葉という形を保ったまま留めておけるのかを、彼は静かに測っていた。
「忘れないことは、できました」
呼吸を整え、遺言を刻むように付け足す。それは甘い告白などではなかった。いかなる情愛よりも残酷で重いものが、確かに二人の間に置かれた。コシアは視線を逸らさない。瞳の揺れは、もう完全に消えていた。 そこにあるのは、救済を差し出すための目ではなく、ただ一つの真実を手放さないと決めた者の目だった。声は低いままだが、抑えきれない感情が、滲む。
「そして、これからも」
拾われた記憶も、見送った沈黙も、オルシーニが遺した基準も
――もはや、外に出す必要はない。それが、彼にできた、たった一つの、すべてだった。
ランベルティーニは、それ以上を求めようとはしなかった。深く聞けば、そこに、関係という名の絆が生じてしまう。関係が生じれば、私情が混じる。私情が混じれば、ようやく完成を見た、正しい配置が、醜く歪んでしまう。
だが
——理由は、それだけではなかった。
彼は一度だけ、視線を机の上へと落とし、即座に、教皇の目へと戻す。微かに指先が震え、それも瞬時に凍りついたように止まった。 胸の奥で、吸い込んだ息が一度、鋭く引っかかった。無意識のうちに、彼は胸元の十字架
——その冷たい金属の感触に触れていた。祈りを捧げるためではない。ただ、その指先に伝わる現実の冷たさによって、己の内に湧き上がった名もなき衝動を、形にさせないために。肺の奥を入れ替えるように吸い直す。
「
……なら、十分です」
その声は低く、どこまでも平坦だった。それは冷淡に切り捨てる響きではない。すべてを正しい終わりへと導くための、祈りのような結語だった。
「あなたが何をしたかではなく、ここに至った経緯が、破綻していないことが重要だった」
そう言ってから、ランベルティーニは間を置く。わずかに目元が柔らぐ。それは情を示すためではない。最後に決定的な線を引く前に、相手の胸の内に余計な棘を残さないための、理知的な動きだった。
「あなたが、すべてを説明しないことも含めて」
その言葉が置かれた瞬間、コシアは、はじめてランベルティーニを正面から見た。問いを探す視線ではない。量ろうとする目でもない。ただ、そこに一線が引かれたことを、あるがままに受け取るための視線だった。
彼は、そこで初めて、息を吐いた。肩が下がるほどではない。長い年月、胸の奥底に溜め込み続けてきた熱い空気が、静かに、形をなさずに抜けていった。 それ以上、彼は何も足さなかった。足せばこの均衡は崩れる。それを、誰よりも理解していた。
「あなたに関する件は、すべて整理されています。異議は、残っていません」
淡々とした言葉だった。赦免でも、恩赦でもない。許すという高位者の態度を、彼は取ろうとしなかった。 ランベルティーニは、姿勢を崩さずに続けた。静寂が置かれる。その短い合間に、彼は自分の胸の奥を一度だけ、強く押さえ込んだ。 喉元まで迫った揺れが、言葉として形を持ってしまう前に。
「私は、あなたを必要としていません」
その言葉は、決して冷たくはなかった。曖昧さも一切排除されていた。 言い終えた瞬間、ランベルティーニの息が、浅くなる。誰にも、そして対峙するコシアにさえ悟らせないほどの、微かな揺らぎ。 一瞬、コシアの指先が、肩衣の縫い目をなぞる。それは、長年、影として生きてきた男が、無意識のうちに己を繋ぎ止めようとした唯一の動きだった。
「だから、ここには置かない」
瞬きが遅れた。 言葉が場に落ち、静寂が戻ったあとの、ほんの一瞬。 コシアの瞼が、静かに伏せられる。それは拒絶への畏怖ではない。理不尽への抗議でもない。ただ、下された判断を、そのまま厳かに、胸の奥へと手向けるための、短い儀式のような動きだった。
その言葉の真意を、コシアは瞬時に理解した。 これは拒絶ではない。これ以上、この男を、その魂を、政治の歯車として『摩耗させない』という、峻厳な慈悲だった。 ランベルティーニの目には、もはや亡き教皇の影はなかった。一人の男が、自らの足で立った証だった。コシアは視線を逸らさなかった。詰め寄るでもなく、相手を試すでもない。ただ、差し出された真実を、その最後の一滴まで受け取るための目だった。
彼は、一度だけ礼をした。深くもなく、浅くもない。ただ、正確な角度で。扉へ向かう足取りは、来たときと何ら変わらなかった。靴底が床を踏む音も、肩衣の揺れも、すべてが平常だった。扉の外へ出た瞬間、回廊の冷気が、肺の奥まで一息に流れ込んできた。彼はそこで初めて、自分がずっと息を止めていたことに気づいた。
――これで、終わった。
Benedictus(ベネディクトゥス)の名の教皇が拾い、今また、同じ名をもつ教皇が、何も持たせずに返した。持ち出させないこと自体が、餞だった。
それで、すべてが揃った。
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