きらきら
名前のある同僚くん
篠田一二三はぼんやりとした子どもであった。
何をするでもなく縁側にじっと座り込んでいたり、雨の日には田んぼの前に屈み込んだまま微動だにしない。声を掛ければきちんと反応を返すし、人付き合いを苦手としている素振りもなく、学業の成績もさほど悪くない。
しかし如何せんぼんやりとしている。
運動神経は壊滅的で、頻繁に躓き、転び、柱にぶつかる。即座に「痛い」と主張することもなく、本人が訴える頃には大変な流血沙汰になっていたり腫れあがったりしていて、母親は気が気ではなかったそうだ。
まさか発達の遅れでもあるのかと心配した母親が医者に見せたところ、白髭をたっぷりと蓄えた老医師は「心配ない」と快活に笑いながら、母の心配など素知らぬ顔で明後日の方向を向いている子どもの頭を撫で繰り回しながら、不安げな表情の母親に言い放った。
「『この子は特別にのんびり屋なだけですよ』ってさ」
「あっはっはっは!」
膝を叩いて笑う水木の頬が随分と紅い。相当酔っているのかもしれないなアと篠田は中身の温くなったぐい呑みをあおった。
「おまえ、ガキの頃から『そう』なのかよ」
「成人して『こう』なったら怖いでしょ」
「わはは! 違ェねえや!」
上機嫌に笑い転げる水木の手から猪口を取り上げ、残りを飲み干してやる。「おれのさけだぞ」と抗議の声を上げる酔っぱらいをはいはいと往なして、通りがかった店員に勘定を頼んだ。
「おれはまだ飲めるぞっ」
「俺はもう飲めないからなあ」
「む
……、ならしかたねェかあ」
篠田が酒に強いのは、同じ職場で勤めている者にとっては周知の事実なのだが、そんなことさえ忘れてしまうほど酔いが回っているらしい。
名残惜し気にしながらも、いそいそと素直に帰り支度をはじめる水木をそれとなく手伝いながら、伝票を手にする。機嫌よく表情筋を緩ませている水木を凝視して、頬を染めた女性店員にさっさと勘定を払い、篠田はおぼつかない足取りで歩く水木
――酔っていても金銭感覚はしっかりしていたようできっちり半分払ってくれた
――の腰を抱いた。
「なんだよぉ、くっつくなよ」
暑いぞ、と文句を言う酔っぱらいが、どすどすと横腹に拳を入れてくる。地味に痛いからやめてほしい。
「また躓いたらヤだから、人助けだと思って」
「ほーんとに、おまえはしかたねェやつだなア」
横腹を殴っていた手が頭に伸びて、篠田の短い髪をわしわしとかき混ぜる。いつかの老医師より大きく、骨太でがっしりとした健康的な手は、力加減などどこかに置いてきたらしい。頭皮がめくれ上がりそうな摩擦は痛いとしか言いようがなかったが、悪い気はしなかった。
「おまえの」
夜の喧騒にかき消されそうな、寝言のような小さな声は、しかし篠田の耳にははっきりと届いた。
「おまえのどんくさいとこも、おれはきらいじゃないぜ」
医師に『特別にのんびり屋』と言われるまで、両親以外には可笑しな子だと気味悪がられていた。
篠田は、自分の見ている世界が、人の言うように目まぐるしく変化するものだと思っていなかったので、自分のどこが可笑しいのかわからなかった。わからなかったから訊いてみても、わからない篠田の方が可笑しいというような対応だったので、そのうち訊くのをやめてしまった。
縁側でじっとしていたのは、庭で円陣を組んでいた雀たちが可愛くて驚かせたくなかったから。
雨の日に田んぼの前にいたのは、泥の中でせわしなく動くアメンボやオタマジャクシを見ながら、雨の音と共に鳴く蛙の合唱を聴くのが楽しかったから。
明後日の方向を見ていたのは
――その時々で内容は変わっていたが
――空想に精を出していたから。
怪我が多いのは、足を下ろした先に花があったとか、塀の上でじゃれ合う猫が可愛かったとか、すれ違った子どもの風船が綺麗だとか、そういった篠田にとって素敵なものに目を奪われていたから。
言葉にするとこんなにも簡単なことなのに、両親以外は誰も理解しようとせずに、篠田を可笑しな子だと嗤った。
篠田は、自分の見ている世界が素敵なもので溢れていたから、そんなに急いでいたらもったいないのになあと、自分を気味悪がり笑いものにする人たちこそが篠田にとって可笑しな存在だった。
戦争に行って、酷い世界を見て、自分も酷いことをした罰のように唯一理解してくれた大切な家族を喪って、独りぼっちになっても、篠田の世界には素敵なものがまだ残っていたから。
――お前、どんくせェなあ。
そう言って下手くそな顔で笑った人が、隣にいてくれたから。
篠田は今日も、特別にのんびり屋でいられるのだ。
24.09.14
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