二日酔いにはならなかった。
名前のある同僚くん
ワイワイガヤガヤと酒乱どもの楽し気な声の響く料亭の喧騒。煩わしいそれに盛大に溜息を吐きながら、火をつけようとした煙草が指の隙間から逃げ出していく様に腹立たし気に舌を打った。
長期に渡って打診していた大型の契約。日々の努力が実り、やっと相手方から判を押させることに成功したのだ。今はその、両社の幸先良い船出を祝うための宴席だった。
(契約は取れた。あとはこの宴会を乗り切ればいいだけだ)
上機嫌な相手方にしこたま飲まされ悲鳴を上げている胃を擦り、苦痛を訴える頭を押さえながら、落とした煙草を拾うこともできず、水木はどっしりと構えられた柱に身体を預けたままぼんやりと立ち竦んでいる。
二日酔いが確定している飲みの席程気が重いものはないが、はやく戻らなければ。共に馳せ参じた同僚たちは、水木のおこぼれに与ろうとするばかりで頼りにならないのだから。
「水木くん、大丈夫?」
抑揚のあまりない、茫洋とした声。
ふと気が付くと、立ち竦んでいる水木の前に屈み込み、取り落とした煙草を差し出しながら小首を傾げてこちらを見上げている男がいた。長身だろうに、隠れ鬼をする子どものように小さく身を縮こまらせているその男は
――会社では隣の席にいる同僚だった。
煙草を受け取りながら、名前は何だったか。確か
――。
「
……どうも。えーと
……篠原、さん?」
「篠田です」
騒々しい宴席の中で異様なほどに、ゆったりとした声が水木の誤りを訂正する。
感情の起伏が感じられない声は、しかしどこか柔らかさもあった。相手の名前などどうでもいいが、不思議な声だなアと酔いのまわる頭で考える。
「ああ、失敬。どうやら酔っているようだ」
「ずいぶんと飲まされていましたね」
名前の粗相は酔いを理由に流されたのか
――はたまた水木と同じように相手に興味がないのか
――篠田と名乗った同僚の茶褐色の瞳は、最初からずっと凪いでいる。
見ていたのなら助け船の一つでも出しやがれ
馬鹿野郎。思わず吐きそうになった悪態を、口元を笑みの形に歪めることで封殺した。
「お恥ずかしい。上手い断り方が思いつかんのです」
「酒豪で有名な方ですからね。ああいう手合いは相手が飲めるとなると際限がない」
――水木くんと飲むのが余程楽しかったのでしょう。
乏しい表情で言われても、何も嬉しくない。言外に「お前が中途半端に付き合うからそうなるんだ」とでも言われているようにさえ感じた。
「それで、篠田
――さんは、私に何かご用で?」
「ああ。いえ、辛そうだなと思いまして。明日に響くと良くないでしょう?」
――よかったら、どうぞ。
差し出されたものを、反射的に受け取る。手のひらにころころと散らばる色とりどりの可愛らしいセロファンが、この酒浸りの魔窟に不釣り合いで、思わず眉を顰めた。
「
……飴?」
「ラムネです。二日酔いの予防に効くんですよ」
「
……ラムネが?」
そんな話、聞いたことがない。
揶揄われているのかと胡乱な目で相手を見下ろすと、篠田は表情を変えることなく口を開いた。
「酒で下がった血糖値を上げるのに、ラムネを水で飲むのが一等吸収率が良いのだそうで」
――衣嚢に入れて、持ち歩いているんです。
そう言って水の入った
洋盃も手渡してくる同僚に、ずいぶんと甲斐甲斐しいことだと溜息を吐いた。馬鹿にされているわけではなさそうだが、どうにも何を考えているのかわからない。おそらく、善意、ではあるのだろうが。
善意で舗装された悪意の可能性も考えるが、
子どもの菓子から悪意を読み取るなどというのは、さすがに穿ちすぎだろう。そもそも善意や悪意以前に、目の前で無表情を貫いている男が、酒席に菓子を持ち込んでいる事実が可笑しかった。
「では、事実かどうか確かめてみましょうか」
挑発的に言うと「明日の結果が楽しみですね」とちっとも楽しくなさそうな声が返ってきた。なんだこいつと思わなくもないが、相手との会話を苦と思わない己に驚く。
声と同じように、気配も茫洋としているからだろうか。
などと、失礼極まりないことをつらつら考えていると、屈みこんでいた相手がぬるりと立ち上がった。やはり水木よりも随分と背が高い。
位置の高くなった茶褐色は水木を映さずに、先ほど逃げてきた酒宴の部屋を映している。一見ぼうとしているように見えるその目は、部屋の様子を観察しているようだった。
「宴席は、そろそろお開きなようだ」
「は? いや、社長は?」
抑揚のないで声で、やっと帰れますねと特に嬉しそうでもなく言う篠田に、水木は目を丸くした。
相手方の社長は二升五合をひとりで飲み切り、それでも水木や他の者に酌をさせ、まだ飲めるだろうとこちらにも飲ませてくる化け物だ。煙草と便所を理由に這う這うの体で抜け出してきただけで、今にも声がかけられるのではとヒヤヒヤしているというのに、お開きだと?
水木が訝し気に問うと、篠田はずっと真顔だった唇をほんの少しだけ上げ、盃を煽る仕草をする。
「潰しておきました」
相変わらず凪いだ目で事もなげに言ってのけた同僚は「それじゃ」とだけ言い残して、いつの間にか喧騒が落ち着いている部屋へとしっかりとした足取りで向かっていく。
とんでもない奴が隣にいたのだな。そう酒で回らない頭で思いつつ、青いセロファンを剥いて中身を口に頬り込み、舌で転がしながら水を含む。
すぐさま溶けていくその子どもっぽい甘さが、脳に染み渡るようだった。
24.08.22
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