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kaisou
2026-03-18 23:00:30
7904文字
Public
1740年コンクラーヴェ話
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Vidi quod videre nefas erat. 見てはならぬものを、私は見た
1740年コンクラーヴェ話・別視点6
1733年の話。自分の終わり方を渡すつもりはない / 見とれたのではない。奪われた
※歴史創作なので悪しからず
▼本篇まとめ
Aliquid est quod memoria mea non relinquit.
私の記憶を離れないものがある
https://privatter.me/user/kaisou_ja?category=110867
全7章/幕間含む
1740年コンクラーヴェ話の本篇その2
視点違いの2つの話のうちの1つ。
1
2
十年前の朝だった。
話は前夜のうちに届いていた。だから驚きはなかった。目を覚ましたとき、部屋はまだ暗かった。近習は何も言わなかった。言う必要のないことは、互いにわかっていた。手を伸ばし、椅子の背に掛けてあったガレロを取った。房のついた紐が、指のあいだからこぼれ落ちるように静かに垂れた。
近習が衣を持ってきた。ロシェだった。白いレースが、灯りの弱い部屋の中でも、わずかに光を返した。どれほどの手を経てここにあるかは知っている。着付けを手伝う近習の手が、一瞬だけ止まった。
「それでよい」
短く言った。それで十分だった。
右手を差し出した。指輪を持ってくる。金は冷たく、アメジストの紫は、朝の弱い光の底で沈んでいた。それを受け取り、自分ではめた。近習は、目を伏せたままだった。何も言わない。それでよかった。外す理由は、ない。その朝、自分から手放すものは一つもなかった。部屋を出ると、廊下は静かだった。人のいる気配はあるのに、声だけがない。そんな朝だった。
通されるままに回廊を進む。ガレロは手に持ったままだった。房のついた紐だけが、歩みに合わせてごくわずかに揺れた。途中で誰かが頭を下げた。誰だったかは見ていない。顔を確かめる必要はなかった。 石床は朝の冷えを残し、高窓から差す光は白く細かった。踏みしめるたび、靴音だけが乾いて返る。急かされることはなかった。それ自体が、すでに決まっている事柄の冷たさだった。
扉の前で一度だけ立ち止まる。近習が着衣の裾を整えた。カソックの上に落ちる白を、指先でごく軽く払う。その手つきは慎重だったが、震えてはいなかった。よく訓練された手だった。
「もうよい」
そう言うと、手はすぐに離れた。
中には、すでに人がいた。入った瞬間、視線が一斉に自分へ集まるのがわかった。誰も口を開かないぶん、沈黙の中で目だけが、はっきりとこちらへ向く。その数の多さより、揃い方の方が印象に残った。そこに驚きはなかった。人は落ちる者に相応しい乱れを期待する。期待が外れれば、その場の空気は少しだけ重くなる。
いつもの歩幅で歩いた。それ以上でも、それ以下でもなく。立つべき場所に立つ。そこでようやく、自分に向けられた視線の中に、ひとつだけ質の違うものがあると気づいた。射抜くようなまっすぐな視線。顔は見なかった。見る必要もなかった。
名を呼ばれ、確認される。形式は省かれない。そうでなければ、秩序は顔を保てない。
宣告が始まった。法の文言だった。聞き慣れた語彙。人を裁く言葉は、いつも驚くほど整っている。読み終えると、定められた問いが来た。何か言うことはあるか、と。問いの形までよくできていると思った。言葉を与えることで、秩序は自らの公正を保とうとする。答える必要はなかった。黙っていた。それで足りた。
そのあとで、当然のように手が伸びた。拘束するためだった。形式としては正しい。そうしなければならないと、その場の誰もが知っていた。指がこちらの手に触れかける。指輪のところで、わずかに止まった。そこで初めて顔を向けた。誰かの顔を見ようとしたのではない。ただ、自分に触れようとするその動きの方へ目をやっただけだった。声にはしなかった。その必要はないと思った。
触るな。
そう言ったつもりはない。だが、そう受け取られてもかまわなかった。指先は、もうこちらへは伸びなかった。それで十分だった。
もう一度、前を向く。ガレロの房だけが、手のかたわらで、かすかに揺れた。そのまま歩き出した。急ぐ必要はない。ためらいもいらない。歩幅を変える理由もなかった。
その朝、自分に残されているものは多くない。だからこそ、崩すものは一つもなかった。
誰かが、後ろで息を詰めた気配がした。だが、振り返らない。振り返ることで与える意味など、何もない。なおも背に残る視線がひとつだけあった。ほかのものよりまっすぐで、妙に静かな視線だった。すれ違う瞬間にだけ、そちらへ目をやる。ほんの一度、流しただけ。個を確かめるためではない。まだこちらを見ていることを知ったからだ。それで十分だった。
歩くたび、白は静かに揺れ、すぐに静まった。乱れは生まれなかった。人は、破滅の朝にはそれにふさわしい姿を期待する。
疲弊。狼狽。屈辱。
あるいは、取り繕おうとして取り繕いきれない滑稽さ。そのどれも渡すつもりはなかった。ただ、自分の歩幅で歩く。衣をまとい、名のままに、自分の終わり方を側に置いたままで。
それだけでよかった。
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