史加
2026-03-18 11:03:19
24073文字
Public 原神(その他)
 

The Lightkeeper Does not Believe in XXXX.

フリンズ+ナド・クライキャラ中心本Web再録


かのライトキーパーは■■を信じない




「まいったな。迂回した方がいいか……?」
 荒々しく打ち寄せる白波の音に混じって若い男の声が響く。荷を背負う彼の目の前では、暮れゆく夕日が突如として現れた霧によって翳りを帯び、空が不気味な赤紫色に染まっていた。東からは夜闇が滲み出し、まるで幽霊でも出てきそうな空恐ろしい光景が広がりつつある。
 ほんの十分前まではすっきりと晴れていたはずなのに、急に霧が立ちこめてこうもおどろおどろしい雰囲気に変わることがあるのか。ナド・クライの地にはまだ慣れていない異国出身の男は、地図を片手に立ち尽くした。
 目的地はこの霧を越えた先にある。己の方向感覚を信じて真っ直ぐと進めば、そう時間はかからずに辿り着き、そこで待つひとと合流出来るだろう。
男には人目を避けてその場所へと向かわなければならない理由があった。故国よりナド・クライについて早々スリに遭い、所持金をすべて失ってしまったのである。路銀を稼ぐためやむなく男はファデュイと短期間契約を結び、物資の運び屋となることを選んだ。今日はその契約の満了日で、この荷を相手に引き渡せば仕事は終わり、恐ろしい組織から解放される予定だった。
 男は船乗りであり、冒険者だ。と言っても冒険者協会に所属するような身分ではなく、未知の財宝や稼ぎを求めてこの地を訪れた訳ではない。どちらかというと浪漫を重んじる船乗りの気質が強い男は、冒険者たちの楽園と呼ばれるこの地をただ純粋に旅してみたいと思い、何年もかけて資金を貯め、ようやくこの地を訪れるに至った。霧の向こうに長年の夢が待っているのだと思うと、このまま前へと進むのを躊躇っているのが馬鹿馬鹿しく感じられるくらいに、男はこの日を待ちに待っていた。
 しかしナド・クライは極めて危険な地でもある。あのファデュイですら男と契約を結ぶ際に、なるべく人目につかぬよう行動すること以外にもいくつかの「助言」を示してきた。
 人目を避けようとして深夜遅くに行動するのは控えること。
 各地に置かれている潮印石には安易に触れないこと。
 そして、何の前触れもなく霧が立ち込めてきたらすぐにその場から逃げること。
 それはこの地に蔓延るワイルドハントという厄災から身を守るための常識で、無法地帯と呼ばれるナド・クライであろうとも誰もが暗黙の了解としていることなのだとファデュイは語った。人道に背く行為を平然とおこなうことで知られているあの粗暴な組織に親切な人間がいるとは思えず、話半分に聞いていたが、街を歩いているとナド・クライの人々がワイルドハントを心の底から恐れていることも伝わってくる。ライトキーパーという自警団のような組織が日夜戦い、人々の安寧を守らんと奔走している話も耳にした。だが男はまだワイルドハントも、それと戦うライトキーパーの姿も見たことがない。要するに男の耳に届いた言葉の数々はまだ、机上に広げた本の上に綴られている物語に等しかった。
 男が迷っている間にも霧は濃くなり、赤黒い闇が大地を呑み込んでいっている。うかうかしていると辺りは完全に暗闇に覆われて、そのまま夜が訪れるだろう。
 ファデュイの「助言」に従い、迂回して目的地を目指すべきか。否、目的地までは距離として五キロも離れていない。ファデュイが異国人を必要以上に脅して、わざと待ち合わせの時間までに目的地に辿り着けないようにし、契約違反として罰金を科したり、荷運びを続けさせたりするために「助言」してきた可能性もある。彼らの言うことは信じるべきではない。だがこの足元から這い上がってくるような冷気とおぞましい闇の気配は、本当に足を踏み入れていいものなのだろうか。
 男は逡巡し、やがて顔を上げた。
 己は冒険のためにこの楽園を訪れた。危険を伴わぬ冒険などこの世には存在しない。ならば目の前に広がる暗澹へと一歩踏み出すのは、心躍る冒険譚の序章に相応しいのではないだろうか。
 じっとりと汗ばんだ手のひらを握り締め、男は意を決して片足を上げる。勇猛果敢に、あるいは無謀に、深い霧の中へその身を投じようとした。
 刹那、青白い光が男の視界の片隅で爆ぜる。
 ばち、ばち、と音を立てて散る火花は、けっして夜を照らす街灯のようにまばゆいものではない。しかし男ははっと我に返った。船乗りとしての経験と、幾度となく耳にした物語が蘇り、この先へ進むべきではないと生存本能が警鐘を打ち鳴らす。
 国を問わず船に乗り航海をする者たちの間では、青白い炎の物語が語り継がれている。
 海を旅するときに最も気をつけなければならないのが嵐だ。陸よりはるか遠い海洋では、嵐の気配をいち早く察知して適切に対処出来るかどうかが生存率に関わってくる。たとえ尽くせる手を尽くしたとしても自然の脅威は容赦がなく、船ともども海の底へと沈んでいった命の数は計り知れない。だから船乗りたちは海の上にいるとき、常に生存率の高い選択を取れるよう、先達の残した航海の知恵と伝承、そして慎重さを重んじるようにしている。
 航海に関する無数の言い伝えの中でも有名なもののひとつが、青い炎の話だ。航海の途中で天候が悪化し雷雲が近付くとき、船の帆先に青白い炎が現れることがあるという。故国の学者たちはそれに小難しく科学的な説明をつけて、これは超常現象でも何でもない、立証可能な現象なのだとつまらないことを言うが、船乗りたちはこれをセントエルモの火と呼び、吉兆とも、凶兆とも捉えていた。
 今しがた男の目の前で爆ぜた蒼炎は、まさにその火ではないだろうか。ここは海上ではないが、男が幾度となく船を出して旅をした海に近く、霧の向こうには薄ぼんやりとだが灯台の光が見えている。
 闇の中を揺蕩う炎が、男にこの先へ進むべきではないと警告するように音を立てて火花を散らした。今から迂回すると、目的地に着く頃には待ち合わせの時間を過ぎてしまっているだろう。罰則を科せられれば長年の夢も遠のいてしまうが、生きていれば必ず叶えられるときが来る。この世で最も大事なのは自分の命であり、それに勝る宝など存在しない。その宝を失ってしまっては、何も為すことが出来ないのだから。
 男は握り締めていた拳を開き、踵を返して歩き出した。
霧から離れた瞬間、背後から音が響き始める。雷が落ち、火花の爆ぜる音がして、おどろおどろしい何かの「声」が冷涼とした空を劈く。それが何であるのかは分からない。頭は理解することを拒み、全身の産毛が逆立って、心臓がばくばくと早鐘を打ち始める。冷たい汗が噴き出て額や背中を濡らし、男の身体をがたがたと震わせる。
 ――あの霧に足を踏み入れようなどと考えていた自分は、正気ではなかった。
 あれは海上における嵐であり、地上における地獄への入口だったのだ。
 男は荷を背負い直すと、必死になって頭の中に迂回するルートを浮かべ、足早にその場を離れた。



 頭部と呼べるものの実体を持たぬ怪物たちの「声」が、ひとならざる者の耳に届く。その怨嗟は哀れで、救いようのないものだ。
 赤黒い霧の中より死者が蘇るように次々と現れるワンダラーを前に、ライトキーパーは蒼い炎の灯るランプを掲げる。
「今日の夜も長くなりそうですね。報告書が増えれば増えるほど面倒なことになるのですが、仕方ありません」
 炎の光に染まり青白い輝きを帯びる槍を手にライトキーパーは嘆息し、次の瞬間――その身は電光となって闇の中を駆け抜けた。
 侵蝕されゆく大地を蹴り飛ばす足のつま先から青白い炎が迸る。およそひとのものとは思えぬ滑らかな動きで痩躯が蠢く怪物たちの間を走り、その心の臓を貫き、死という名の眠りを与える。怪物たちの勢いも衰えることを知らず、ひとり、またひとりと塵へ還っても次々と湧いて出てくるが、骨と血を燃料に再び燃え盛った蒼炎の敵ではない。
 禍々しい闇の中でも槍の切っ先が輝く。横薙ぎに振るわれた刃が肉を断ち、常人の耳には耐え難い断末魔が響く。ライトキーパーは止まらない。四方八方より濁流のように押し寄せるワンダラーを目の当たりにしても、その雪白の頬が引き攣ることも、月色のひとみに焦燥が浮かぶこともない。
 夜を照らすようにランプが空へと浮かんだ。蒼き炎は依代へと身を移し、天より降り注ぐ雷と化す。
 古より稲光は神の鉄槌のひとつとして謳われるが、その蒼き光は神を信じない。
 死者は涙を流さないと知っているから、怪物たちの怨嗟に哀願の声が混じっていても、炎はその涙を信じない。
 儚き命に安らぎが訪れることはないという真実を見た蒼炎は、永遠を信じない。
 ただ、この世に生きる者たちの歩みが刹那のものであろうとも、火を絶やさぬようにと灯し続けることは徒労であるはずがないと信じている。
 深淵に蝕まれ生命力を失わんとする大地に、月光の紋が輝く。薄金の光が、蒼白の炎が、昏く寒々しい楽園の夜を照らす。
「夢なき眠りへようこそ――
 ランプを掲げたライトキーパーはその夜色の髪をなびかせ、闇より深く濃い漆黒の影となり、苛烈ながらも美しい子守唄を奏でた。
 霧の中に舞う蒼き火は、まるで妖精の羽ばたきとともに散る鱗粉のようだった。


 
 パハ島の北東部にある夜明かしの墓には、かつてライトキーパーたちがキャンプを設営して駐屯し、近海を往く船に航路を示したり、危険を知らせたりするために使っていた灯台がある。しかし過去に起きた凄惨な出来事を機に付近を訪れる人はいなくなり、造船・航行技術の発展に伴ってより安全な航路も拓かれたため、灯台の光が必要とされることはなくなった。過去の遺産と化した灯台は、今では亡霊と墓守のみが暮らす地にひっそりと佇む墓標のようになっている。
 彼の地で起こった悲劇の詳細と真相を知る者はほとんどいないが、夜明かしの墓という名が示すように、そこが戦士たちの眠る地であり、地脈へと還ることの出来なかった彼らの思念、あるいは記憶の残留する墓所であるということは誰もが耳にすることだ。しかもあの灯台へと続くパハ島東部の沿岸や海上は、しばしば霧が深く立ち込めるため、慣れている者でも道に迷いやすい。ワイルドハントの発生頻度も高く危険な領域であることを、ナド・クライに長く住む者は皆知っている。
 無法地帯と呼ばれるナド・クライにおいて、職も立場も異なる人々から同じようにもたらされる「忠告」がどれほどの重みを持つものなのか。それは語るまでもないことであるが、人間の好奇心は底無しで、悪意と共鳴しやすいものだ。特にナド・クライに蔓延る脅威の恐ろしさを知らぬ者ほど魔に魅入られやすく、ライトキーパーの奮闘も虚しく犠牲となることも少なくはない。残る人命の存続を優先とする彼らの高潔な誓いは命知らずの愚者の魂だけを軽く見積もることもなく、迷い込んだ人間だけが生き延び、誉れ高き戦士が犠牲となってしまうことだってある。
 そういった悲劇にフリンズが胸を痛めた回数はもう数えきれない。絶望を抱いたこともある。だがそれでも冬国の妖精は、そんな人間の愚かさも儚さも哀れみ、悼み、永遠の安寧など存在しないという真実を幾度となくなぞった上で、戦士たちの高潔な誓いを尊んでいる。
 人間はこのような妖精の生き方を一体どのように思うのだろうか?
 フリンズは異国の神々のように人間を愛しているわけではない。慈しみ、庇護しようとしているわけでもない。この心に浮かぶ数多の感情の中には好奇心も諦念も同時に存在しており、それらは決して愛などという美しい名で語って良いものではないと理解している。この本性を知られぬよう線引きをするために、自らの容姿と言葉を巧みに利用して同情を誘い、人々が安易に己へと踏み込まぬよう惑わせる方法を知り尽くしている。そんな存在が彼らに向ける感情は、神々の無私の愛と比べていいものであるはずがない。
 ただ、フリンズは知っている。
 古銭や宝石に刻まれている、己の目と心を惹き付けてやまない物語は、刹那を生きる者たちの歩みによって紡がれている。灯りが消えぬよう命を賭してきた名も無き英雄たちの犠牲の上に築かれた今日があるから、古きものたちには物語が宿っている。
 ――骨と血を燃料に、死よりも壮大な生を生きよう。
 この炎も一度は眠りという名の死につき、血と骨を燃料に再び燃え上がったものだ。
 ならば彼らと同じ誓いを胸に生きて、いつか未来に物語を残す存在となるのも悪くはないのかもしれない。
 それもまた永遠ではなくいつか朽ちるものであるが、儚いものであるからこそその一瞬の煌めきが何よりもまばゆく、鮮烈であるように感じられるのだ。その美しさに魂が震える経験を無駄だと嘲笑うことなど、たとえこの世の創造神だとしても許されるはずがない。
 キリル・チュードミロヴィッチ・フリンズはライトキーパーとして、今日もナド・クライの夜を照らす灯りを守る。
 永遠など信じない。この想いが愛であるとも思わない。この世界が涙を流すとも信じない。ただ、この刹那を作り上げてきたものを美しいと思うからこそ、そのすべてを侵蝕し穢そうとするものを許してはならないと、蒼き炎を燃やすのだ。