スモロ|ひととせは潮騒とともにいづれにか巡る

旧名義で参加させていただいた、コピ本企画への寄稿作四篇を再掲します


✴︎Summer|ひととせは潮騒とともにいづれにか巡る

「音が違う」
 愛車のエンジンをかけたスモーカーはそう言ったが、ローには分からない。特殊な形状の排気口から白煙が吹き出す轟々という音に、どんな違いがあるのだろうか。分からない、が、乗り慣れたスモーカーが言うならそうなのだろう。
 そして、その違いは良好なものであることは、彼の顔を見れば察せられた。眉間のしわが僅かに和らいでいる。それは、男が穏やかな気持ちでいるということだ──もとが厳めしい面構えなので、中々そのようには見えないことは不問にしてやるべきだろうが。
 心優しきローは今さらそんなことを指摘して揶揄うつもりはないので、気になっていたことを尋ねるだけである。
「それで? どこに行くつもりなんだ」
……海にでも行こうと思っていた。好きだろう、おまえ。こいつの調子を見るにもちょうどいい」
 バイクのハンドルを、大きな手のひらがするりと撫でた。詳しく聞けば先日この愛車を点検に出し、古い部品を交換したばかりだと言う。
 あぁ、だから。その答えに、ローもやっと納得がいった。
 彼にはエンジン音が違って聞こえる理由も、彼から珍しく自ら出かけに誘って来た理由も。点と点が水平線のごとく、ゆったりと繋がる。
 そもそも、外へと行楽に誘うのはいつもローの役割だった。それに対する非番の男の反応は、「面倒である」という感情を隠しもせず、しかしゆっくりと腰を上げるのが形態化していた。
 しかし、今日は違っていた。スモーカーは愛車の鍵を掲げて見せると、「出かけるぞ」と静かに声をかけてきたのだ。ローが連絡一つ寄越さず、白昼堂々と自宅に忍び込んで来たことになど、顔色ひとつ変えないで。
 スモーカーが公私共に愛用しているビローアバイクに乗せてもらうのは、何も初めてのことではない。だが、彼の方から誘ってきたということはこれまでにないことだった。
 黙って出ていこうとする背中を追いかけて、バイクの鍵を回して男がやっと独りごつまでの間、内心では動揺していたのだ。
 あっさりと自供されたことで、意識しないうちに強張っていた心からふぅと力を抜く。そして、ふと思うのだ。
 ──おまえは、調子がよくなった愛車に乗せる一番の相手に、おれを選ぶのか。
 ──おれがよく海に行きたがるから、海に連れて行こうとするのか。
 実のところ、ローがスモーカーをよく海に誘っていたのは、特別行きたい場所がなかっただけなのである。暇だけど、いいアイディアが浮かばなかったときに、『あの男のバイクに乗って海を駆けてみるのは面白そうだ』と思いつきをそのまま、溢したのが始まりだ。
 あの時、唐突な呟きをしかと拾ったスモーカーは、眉間に皺の数を増やした。彼の胸中は明白だった。
 別にどうしても、というわけではなかったので「ならいいよ」と諦観して返した。すると男は一瞬皺の形を歪め、ゆっくりと立ち上がり、ビローアバイクの鍵を手に取った。そして低くくぐもった声音で「行くんだろ」と言う。その態度は、あまりにもチグハグだった。それを不思議に思いながらも、乗せてもらったバイクで海を駆け抜けた爽快感と高揚感は明瞭なものとして残った。
 そうして、タンデムツーリングに味を占めたローは、スモーカーを「海に行こう」とよく誘うようになったのだ。
 あの日も、今日のように天気がよくて、海の上を駆け抜けるには絶好の日和だと思わされた日だった。あぁ、もう一年も経つんじゃないか。
 いろいろなことを思い起こし、考えていたのは、あまりにも一瞬のこと。ローはなんだか晴れ晴れとした気持ちだった。そうなると、一刻も早く出かけたくて仕方がない。放浪が趣味なので、出歩くことは好きなのだ。
 シートに座り、バンバンと手前を叩き、早くしろ、と無言で急かした。スモーカーは相変わらず「仕方がないな」という雰囲気を醸し出し、白煙をもかもかと吐き出している。だが、ここまでの言動の裏にある真意が理解できていれば、そんな無愛想だって気にならなかった。
 不意に脳裏に浮かんだのは、東の海に伝わる言葉──恋はいつでもハリケーン。海賊泣かせの仏頂面には到底不似合いな言葉だ。
 しかし、スモーカーが自分の提案を飲み込む様子を幾度となく見続けてきたローとしては、しっくりくるものだった。植木鉢を押し付けた時も、きのこ狩りに引っ張り出した時も、アドヴェントをやらせた時だって。この男はめんどくさそうにしながらも、最終的にローの我が儘を受け入れるのだ。海賊嫌いをあけすけに豪語していたのに。
 フハ、と笑うと「なんだ」と訝しむような声が降り注ぐ。ローは答えた。
「いや……、あんたが存外かわいくてな」
 薄い眉を片方だけ上げて、不審なものを見るような眼差しを向けられたが、それも気にならない。
 怒る素振りも見せず、愉快そうな様子のローには、何を言っても無駄だと判断したらしいスモーカーは「好きに言ってろ」と溜め息交じりに返す。ローを押しやるようにして座席の後方に座った。大男の大きな体躯が無理やり捻じ込まれるということは、いやでも身体がぶつかるということである。そのせいでつんのめりそうになり、その乱暴さに腹が立ったローは振り返り、グッと睨んだ。
「おい、押すな」
「おまえのケツが邪魔で座れねェんだよ」
「はぁ? 自分の図体のデカさを棚に上げて、こっちに文句つけてんじゃねェぞ」
 どうでもいい罵り合い。
 スモーカーはハンドルを硬く握って回し、有無を言わさずバイクを発進させた。風の音が鼓膜をビリビリと震わせる。こうなると互いの声が聞こえにくくなるので、罵声は意味を持たなくなる。
 何度も乗っていてそれを分かっているローは唇を引き縛り、腕を組んで、当てつけのように男の身体に自分の背中をぶつけた。背もたれ扱いしてやれば、背後からぶわりと濃い煙が逆巻く。強烈な香りが無音の文句を返してくるが、ローも有無を言わせなかった。
 バイクだけが機嫌いい声を上げて進む。スモーカーの自宅は街の外れにあり、海に近い。下り坂を道なりに行けば、目的地はすぐそこだ。
 徐々に速度は上がり、温い風が頬を撫で付けた。潮の香りがじわじわと迫り来る。太陽の光を乱反射させ、宝箱の中のように輝く海面が見えた頃には、苛立ちなど瑣末なものとなっていた。
「飛沫に気をつけろよ」
 浜辺に突入し、波打ち際まで残り数メートルというところで、後ろから鋭い声が飛んでくる。「んなことは分かってる!」と強く返した瞬間、バシャンと前輪に巻き上げられた波が宙高く弾け飛んだ。帽子のつばを引き下げて、顔を隠す。腕に少し飛んだが気にしない。顔を上げる。青く、輝いて眩い世界がどこまでも続いていた。
「はは、気持ちいいな、白猟屋ァ!」
 言葉にすると、より快活な気分に広がる。小さくだが「そうだな」と同意が返って来た。それもまたローの心を踊らせた。
 身体を横に傾け、バイクの後方を見やる。白い泡の道がくっきりと浮かんでいて、二人が進んだ道がよく分かった。いいな、と思った。
「今度は、おれが運転する!」
 ローが叫ぶと、スモーカーは数拍置いてから「まずは空き地で練習してからだ」と言った。その答えがあまりにも満点で、おかしくて、ローは笑う。
 きっとスモーカーにこの愉快さは分からないだろう。今はまだそれでいい、と男は思った。

(寄稿当時と作品名を変更して掲載しております)