スモロ|ひととせは潮騒とともにいづれにか巡る

旧名義で参加させていただいた、コピ本企画への寄稿作四篇を再掲します


✴︎Spring|はなせない理由

 執務室の隅に置かれた大きな鉢から、子どもの背丈ほどにまで幹や枝を伸ばしたそいつは、男がハァと紫煙を吐き出すと、青々とした葉をピクピクと揺らす。その奇妙な動きも、もはや見慣れたものだ。
「もう少しで咲きそうですね」
 珈琲を持って来たたしぎはそう言った。草花に詳しくないスモーカーだが、枝葉の先に付いた丸々とした白っぽい蕾を見やれば、開花が間近だと予想できる。
 それは同時に、春の訪れを意味していた。
「連絡、しなくていいんですか?」
 珈琲を受け取ろうとすると、女はそのように尋ねてきた。その言葉をきっかけに思い出すのは、その植木鉢を抱きかかえてやって来た男の顔。スモーカーの頭の中に住む彼は、小憎たらしい表情ばかりする。
 だがあの時は、どうだったか。
……そのうち勝手に来るだろう」
 持って来たときだってそうだった、と思いながら口にした珈琲がどろりと舌にへばり付いた。粉の量が多すぎるのだ。しかめ面のまま「たしぎ」と名前を呼ぶと、慌てたように「すみません」と謝罪されてしまう。こうなるとそれ以上の苦言も吐き出せないので、スモーカーは再び、葉巻を咥えるしかない。
 葉巻が消費されていくほど、葉っぱの奇妙なダンスは愉快さを増していく。

 事の始まりは半年以上は前のこと。季節は秋……だと言うのに依然として熱い日差しが照りつけていた。きのこが盛りを迎える前、浮かれたクリスマスはまだまだ遠い頃。男は連絡一つなしに、この執務室へとやって来た。
「ここで育ててほしい」と言ってローが持参したその木は、名を『スモーキー・ブルーム』という。煙を養分として取り込むことでより成長するという、変わった性質を持つらしい。その生態ゆえ、工場が盛んに稼働している国に植えられていることが多く、また、春になると咲く花には麻酔としての効能があるのだとか。
「麻酔薬用に栽培ができるのなら、より効果的なものの方がいいだろう? だから取り込む煙の種類や質によって、花弁がもつ麻酔効果に違いが現れるのか、知りたくてな」
 わざわざスモーカーの元に持ち込んだわけは、要は探究心からなのだった。重度の愛煙家は自宅よりも執務室にいる時間が長く、加えて面倒のよさそうな部下がいることも鑑みた結果、ここへと乗り込んで来たのだ、と。
 彼の目論見通り、とでも言うべきか。たしぎはローの言いつけを守り、週に一度の水やりをしたり外気にも触れるよう換気をしたりと、小まめに世話を焼いた。スモーカーは、船に乗らない時の大半は執務室で書類に向き合い、もくもくと煙を撒き散らしていた。普通の植物なら葉巻などによる多量の煙は害になる。しかし、スモーキー・ブルームは、煙を前にすればいつだって機嫌がいい。当初は苗木のように細く小さかったのが、寒い秋冬を越え、非常に大きく逞しく成長した。

「こんなことを言うのは癪ですが、トラファルガーのおかげでこの部屋に彩りができてよかったです。スモーカーさん、部屋に物を置きたがらないから」
 苦い一息つき終えて、上司の近くで書類整理を手伝いながらたしぎは言う。その表情が不本意そうなのはあの男のせいで、声音が明るいのは花のおかげだろう。
 彼女の言う通り、男の執務室にはほとんど物がない。最低限度の備品で誂えられた部屋はあまりにも殺風景である。植物の類いも興味がなかった。自宅と同じだ。
 そんな中贈られたスモーキー・ブルームが、数少ない彩りと言ってもいい。
 無言を返す。仕事をしろ、という意味を込めて。そして、その気まぐれにも思われるだろう行為の本音を飲み込むため。
 淡々と仕事を進めていくと、あっという間に日は傾いていった。完成した書類を各所へと持っていくために部下も部屋を後にし、残されたスモーカーは仕事終わりの一服を愉しむ。葉が揺れるのをぼうっと眺める静かな時間を、もう数え切れないほど過ごしてきた。
 ──しかしそれも、もうすぐ終わる。
 定時間際、久しぶりに外食にでも繰り出そうかと、短くなった葉巻を灰皿に置いたその瞬間、木が見たことのない揺れ方をした。まるで突風に煽られたかのように騒めく枝葉。次の瞬間、現れて鉢に重なる大きな影。夕焼けの逆光で顔は見えないが、そのシルエットで一目瞭然だった。
「しばらく見ないうちに、大きくなったなァ?」
 まるで親戚の子どもにでも投げかけるかのようなセリフだ。しかし、その対象はただの植木である。当たり前だが、答えない。けれど、彼が返事を求めていることは分かっていた。となると、返せるのは自分しかいない。
……置いていくだけ置いていって、しばらく顔を出さなければ、そういう感覚にもなるだろうな」
「随分冷たい言い方するじゃねェかよ。……なにか、怒ってるのか?」
 まさか、と返す。自分はただ煙をくれてやっていただけで、世話何ぞ欠片もしていない。怒る道理があるのは部下の方だろうが、彼女は満足しているようだった。スモーカーに、言うことなんてありはしない。
「別に。怒る理由もない」
 そんな意味を込めた短い返事に「ふぅん」と腑に落ちていなさそうな声を出したローだったが、視線をスモーキー・ブルームへと向け、しゃがみ込む。そして葉の表面を指でなぞり、いいなと呟いた。
「きれいな緑だ。他でも試してるが、黄色みが強いのが多くてな。こんなに青々としてるのは初めてだ」
 先ほどの話し方とは打って変わり、喜々とした声音で木を観察している姿はまさに子どものようだ。プチっと一枚もいだ葉を擦り、匂いを嗅ぐ。知っている香りだ、とスモーカーを見た。つまり、葉巻の匂いがするらしい。
 続いて、膨らんだ蕾をそっと指を向ける。爪先が一瞬だけ触れた。途端、白の滲んだ先端がふわりと綻んだ。え、っと小さな驚嘆が部屋の中に響く。白く、もこもことした肌触りの綿のような花弁が、あまりにもあっけなく咲いたのだ。
 ローはぽかんとした顔を、みるみると綻ばせる。まるで彼の目の前で咲いた花みたいに。
 それを見て、彼がこの木を持って来たときの様子をやっと思い出した。わくわくして堪らない、といった表情をしていた。
 それが、スモーカーが鉢を突き返さなかった一番の理由である。
「触り心地がいい。生育状態が申し分ない証拠だ。麻酔にするためには乾燥させるなきゃいけないから、」
……それを、摘むのか」
 花弁を撫でながらこれからのことを思案し、べらべらと舌を回す男に、スモーカーは尋ねていた。不意だった。自分でも想定していなかった。
 誤魔化すように、新しい葉巻を取り出して、わざわざ火を点け直す。ローは、そんな挙動不審をまじまじと見たあと、花を一瞥し、フッと笑った。
「きれいな花、だもんな」
 スモーカーの思いを勘違いしている気がするが、訂正しなかった。
……また今度にする。どうせ一輪だけじゃ、試せるほどにならないだろうし」
 立ち上がると、腹が減ったと言い出した。そこで外食しようとしていたことを思い出したが、忘れていたことを悟られないように自然な雰囲気を装って、誘う。
「なら食いに行くか」
「どこに?」
「クリスマスのときに行ったバル」
「嗚呼、あの次の日の。いいな、魚が食べたい気分だった」
 そう言うと、ローは執務室のドアへとすたすたと向かった。スモーカーもそれを追う。一瞬視界に入り込んだ花は、夕日に照らされ、まるで顔を赤く染めているようだった。
 春はまだ、終わらない。