不破
2025-10-23 01:22:07
6071文字
Public 空戦
 

#26




「あらあら、誰かと思えばセラピーをすっぽかした悪い子さんがいるじゃな~い」

「げ……

 食堂で夕食を終え、隊の執務室へ戻ろうと廊下を歩いていた時だった。柔らかな声色だが、やや圧を含んだ声が聞こえた。その声にノーヴェは表情を強張らせたが、その時にはもう左腕をがっちり掴まれており、ぐいと力強く引っ張られたかと思えば、すぐ脇のドアの中へと引っ張り込まれてしまった。

「いやいや、手際が良すぎやしないか? ミス・クシナダ」

「そんなことないわよ~」

 自動で閉まるドアを背後に観念し、肩を竦めながら言うと、軽い調子の声が返ってきた。
 サヤコ・クシナダ。ウィンズレット軍に所属する軍医で、大半の仕事は負傷した兵士の手当だが、本来では精神的なセラピーを行う精神科医だ。優秀な軍医であり、これまで何度か手当を受けた事がある人物だ。
 引っ張り込まれた部屋は彼女の執務室兼カウンセリングルームであり、壁際に置かれたデスクの他に、応接用のテーブルとソファー、診察台などが見て取れた。

「セラピーは必要ないと言っただろ?」

 デスク脇の棚に置かれたポットを手に取るサヤコの白衣を着た後ろ姿に言うが、振り返った彼女はくすりと笑って首を横に振った。

「そうね~。まあ、それはいいの」

 言いながら、ティーカップに紅茶を注ぎ入れたサヤコがそれをテーブルに置き、ソファーを勧める。それを断る理由もなく、ノーヴェはため息混じりに問いを返しながらソファーに腰を下ろした。

「なら、俺になにか聞きたいことでも?」

「お茶菓子も要る~?」

「はぐらかすなー」

 クッキーの缶を顔の横に持ってこちらに見せながらにこやかな笑顔で問うサヤコを咎めるように言い、紅茶の入ったカップを手に取った。

「あらあら、雑談ぐらい楽しませてくれても良いじゃない? 大佐」

「美人からの誘いならいつでも、と言いたいけどな」

 困ったように茶化すサヤコに返してから、手に取ったカップを口へ運んだ。「もう。せっかちさんなんだから」と言いながら皿に盛り付けたクッキーをテーブルに置きながら、向かいのソファーに腰を下ろしたサヤコが皿からクッキーを1つ手に取り、口へ放り込んだ。

「あらありがと~。ところで大佐、メルゼブルクに工作員スパイを送ったって本当?」

「ぶっ!」

 と、おどけた調子で礼を言うサヤコが続けた言葉に思わず紅茶を吹き出しそうになったが、すんでのところで堪える。
 まったく、どこから聞きつけてくるのやら。メルゼブルクに工作員を送り込んだなど、一部の上官にしか報告していない。言ってはなんだが、優れた精神科医とはいえサヤコの立場は一介の軍医である。敵国にスパイを送り込んだというような機密事項を知らされるような人員ではないはずだ。

……だ、誰から聞いたんだ?」

「ふふ~ふ~。誰からかしら~?」

 ここまで取り乱してしまっては取り繕うことは出来ないと割り切り、情報の出どころを問うたが、変わらぬ調子でとぼけるサヤコに嘆息する。

「ま、あまり危ないことはさせないであげて。約束よ。大佐?」

 と、ペースを崩さずに笑むサヤコに、ノーヴェは自らの記憶の中に思い当たる節を見つけて自嘲気味に苦笑しながら、もう1度紅茶を口へ運んだ。