もち粉
2025-09-13 00:54:32
28473文字
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〈さとり〉の庭


カブミス 微ライシル
メリニ極秘事件簿 カブミスを添えて
※名前のあるモブがいます

1.

それは、醜い姿だった。

全身は黒くざらついた毛に覆われ、骨ばった四肢は猿のように長い。特に腕は異様に伸びて地を這うように垂れており、その先には場違いなほど滑らかで白い手が一対、ぶらさがっていた。

カビ臭い迷宮の中、異形そのものの存在を前にして、ノームの男は、うっとりとした面持ちで膝をついた。

声は掠れ、ひどく乾いていた。
徐々に収束する魔法陣の光が、男の血走った目と、口元を歪ませた笑みを照らしていた。

蝋燭の炎がちらちらと揺れていた。彼の目に映っていたのは、長年にわたる試行錯誤の果てに、自らが創り出した『理想の女性』だった。

彼女は、すべてを理解してくれるはずだった。どんな言い訳もいらない。言葉を尽くさなくても、誤解もすれ違いも起きず、最初から最後までただ『わかってくれる』――完璧な関係が、そこにあるはずだった。

「あぁ……

ノームはうっとりと声を漏らし、ほとんど呆けたような目で彼女を見つめた。
夢が、現実に降り立ったかのようだった。

「わかってくれるね、私の全てを……

そっと両腕を差しのべる。
それに応えるように、〈彼女〉もまた、長い腕をこちらへ伸ばす――

白く細い指が、ゆっくりと、彼を指さした。

そして、たった一言囁いた。

その声は、確かに黒い毛に埋もれた彼女の唇から発せられたのに、まるで自分の声のように聞こえた。
彼女は目の前にいるはずなのに、まるで耳元で囁かれたようだった。


ノームのまなざしに、わずかな揺らぎが走った。
戸惑うように呟く。

……なんだって……?」

〈彼女〉は、もう一度、同じことを繰り返した。
その声が脳に届いた瞬間、ノームの瞳は大きく見開かれた。動揺、反発、そして――恐怖。

「嘘だ……! それは、違う……そんなこと……私が、そんな――っ!」

声が裏返る。足元がふらつく。男は後ずさり、水を踏んだような音が足元に響く。

「嘘だ! 嘘だ!! 作り事を抜かすな!」

「私を、」ノームは燭台を掴み上げた。「否定……、するなっ!!」そう叫び、〈彼女〉に投げつけた。

〈彼女〉に当たって足元に落ちた蝋燭は、一瞬だけ炎を燃え上がらせた。あとには闇が濃くなるばかり。

そして。
暗闇の中で、何かが跳ねた。

びちゃり、と濡れた音とともに、男の身体が崩れ落ちる。砂袋が落ちたかのような重い音が響いた。
石床を染める血はゆっくりと広がり、魔法陣を覆い隠してゆく。

〈彼女〉は一歩、男の亡骸に近づいた。

かがみ込み、じっと見下ろす。
その指が、死者の頬に触れ――そして、静かに口を開いた。

ゴリ、ゴリ。
ぴちゃ……ぴちゃ……

あまりに異様な静けさの中、感情のこもらない咀嚼音だけが、永遠のように続いていた。


*****
2.

最初は、女の子たちの間での噂話だった。

――迷宮の奥深く、自分の心の声を聞かせる魔物が出る。
――満月の夜、恋人とふたりで迷宮の跡地に行くと、彼の本心がわかる。
――けれど、それを聞いた時、決して返事をしてはいけない。

やがて、それは学舎の教師たちの耳に入り、酒場では酔った男たちが語り草にし、路地裏では子供たちが怯えながらごっこ遊びにしていた。

時が経つにつれて噂はふくらみ、近頃は城下のあちこちでささやかれはじめた。

満月の夜、街には猿のようなものが現れて、心の奥を暴かれる──言い当てられて、動揺すると、〈そいつ〉に心を喰われてしまう。

夜道でプロポーズを後悔したと叫んで破局した恋人たち。
長年の親友が突然決裂したという話。
誰のものとも知れぬ《心の声》をきっかけに、商会で仲間割れが起きたという話。
噂の数は、枚挙にいとまがない。

その頃、城下で発生した数件の犯人不明の傷害事件は、当初通り魔のしわざと目されたが、奇妙なことに被害者たちは一様に口をつぐみ、事件の詳細を語ろうとはしなかった。

不安の広がる街の中、誰もが恐ろしげに口々に語り合う。

猿に返事をしてはいけない。
――殺されてしまうよ。

そして、誰ともなく呼び始めた──〈さとり〉と。


*****
3.

夜半、コツコツと靴音を鳴らしながら、黒い巻き毛の青年が路地を歩いていた。その足がぴたり、と止まる。

街のざわめきが遠のき、風が止んだ。
月はまだ、上りきってもいない。なのに、足元の影だけが不自然に濃くなった気がした。
 

すぐそこに、気配がある。
懐に隠した短剣にそっと手を伸ばす。

……誰だ?」

押し殺した声で問うが、返事はない。
だが、ぬうっと路地の陰から現れたのは、猿にも似た異形の姿――

――こいつか。

近頃の街は、こいつの噂でもちきりだ。

人の言葉を話す。
人の心を、読む。

それが、〈さとり〉。
毛むくじゃらの異形が、カブルーを指差す。その指だけが、ほっそりと白く、美しかった。

……あの人が、いっそ何もできなければ、自分の側にずっといてくれるのに》

――それは、確かにカブルー自身の声だった。

……!」

鼓動が跳ね上がる。息が、詰まる。
誰のことだなどと考えるまでもない。脳裏をよぎったあの人の顔。時に幼子のような寄る辺ない瞳をする、あの人の。
もしあの人が、何もできない存在ならば。違う、そんなことは考えてない。彼の回復は、喜ばしいことだ。

だけど。
もしも。
……留まるだろうか、自分のそばに。
 

《誰にも、渡したくないのに》

 
今度は、耳のすぐ傍で囁かれたように錯覚した。
けれど〈さとり〉は、動いてなどいない。

ただ、じっとカブルーを見ていた。笑うでも、嘲るでもなく。ただ、淡々と。

……俺は……

懐の短剣を抜こうと震える手に力を籠める。カチャリと鳴った鞘の音に驚いたように、〈さとり〉はザッと暗闇へと飛び去った。
何も言えないまま、カブルーは立ち尽くしていた。

あたりにはただ、月影だけが落ちていた。

この出来事は、四日後、彼が〈さとり〉捜査の指揮を命じられるよりも前のことだった。
彼は、自らの遭遇を、誰にも話さなかった。


*****
4.

「〈さとり〉?」

ミスルンは、スプーンを差し入れようとしていた手を止めて、わずかに首を傾げた。
木製の盆に乗せられた熱々のグラタンからは、焼けたチーズとホワイトソースの香りがふわりと立ちのぼっている。向かいに座るカブルーは、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに、思わず目を細めた。

「ええ、そうなんですよ。最近、城下で〈人の心を読む魔物〉が出るなんて噂が立ってましてね。魔物の出ない国っていうのが売りのメリニで、しかも悪食王のお膝元たる王都でそんな話を広められたら、困るんですよ」

「なるほどな。だから魔物嫌いのお前が、自ら調査しているわけか」

「ええまあ、魔物ではない、という前提で調査してますのでね。通り魔事件との関連も……って、ああちょっと! ちゃんとふーふーしてください!!」

カブルーが慌てて叫ぶ。
聞き込み調査の最中に偶然会ったミスルンは、彼の話を聞きながら、ひょいと煮えたぎったグラタンを口に入れていた。

火傷を負いたくないという欲がない彼は、食べ物を適温にしてから口に入れるということをしなかった。

カブルーが慌てて声を上げる横で、ミスルンは口を閉じ、静かに咀嚼を続けている。

……大丈夫なんですか? ミスルンさん、熱いもの平気なタイプなんですね」

カブルーがほっと息を吐くと、ミスルンは無言で口の中のものをごくりと飲み込み、小さな舌を突き出した。

……口の中がぐちゃぐちゃになった」
「ほら、言わんこっちゃない……

ため息をつきながら、グラスから氷のかけらを一つつまんで、その口に放り込んでやる。ミスルンが氷を口の中で転がしている間に、カブルーはグラタン皿を自分の方に引き寄せて、丁寧に息を吹きかけた。

「ん、はい。そろそろいいですよ」

皿を返そうとすると、ミスルンがひな鳥のように口を開けてくる。
仕方なく、一匙すくって食べさせてやってから、皿を返す。
今度はおとなしく自分で食べ始めた彼を見て、カブルーもようやく自分の食事を再開した。
 

「それで、明日からまた迷宮に?」
……ああ。今回は定期観測だから、深層まで一通り確認して、異常がなければ十日程度で戻る」

「迷宮って、大丈夫なんですか? 食事とか、睡眠とか、きちんと取ってくださいよ」
「フレキを同行させる。心配ない」
……いや、なんか余計に心配なような……

フレキも元カナリア隊の一員で、ミスルンとはカブルーより付き合いが長い。
けれど、あの面白がりで面倒くさがりの彼女が、ミスルンの世話を細やかに焼く姿はどうにも想像がつかない。

──いっそこの人が、何もできなければ迷宮になんて行けないのに。

脳裏をかすめた考えには、慌てて蓋をした。〈さとり〉の言う通りになってどうする。そんな考えに囚われてはいけない。

……お気をつけて」

微笑みながら、ようやくそれだけを口にした。


*****
5.

「迷宮近くの女学院で、話を聞けたんです。今までの目撃証言よりも、ずっと古いものが出てきました」

城の食堂にて、カブルーが机いっぱいに地図を広げながら言う。彼は、その手元に視線を落としたまま、次々と印をつけていた。

「女学院なんて、どうやって入り込んだんだよ」

呆れ顔で横から手元をのぞき込んできたナマリに、カブルーは顔だけを向けて、にっこりと笑った。

「正面から、お話を聞かせてくださいってお願いしただけです」
 
地図の上には、赤と青の点があった。満月の夜に現れた場所は赤、それ以外は青で示されている。さらに丸印で囲われた六箇所は、通り魔事件が報告された地点だ。その全てが、〈さとり〉の目撃証言と一致していた。

「満月にしか現れないって話だったけど……古い目撃例ほど、満月以外の夜にも出てんだな。一番古くて、半年前か」

ナマリが顎を掻きながら地図をのぞくと、その傍らでマルシルも眉を寄せてつぶやいた。

……ちがうわね。満月みたいな『時』より、魔力の濃い『場所』を選んでる感じ。
迷宮周辺って、常に魔力が濃いでしょ? そこから離れるほど、満月みたいな魔力の高まるタイミングじゃないと動けない、とか?」

地図を睨みながら、カブルーは腕を組んで唸った。

「やはり……発生源は、迷宮の可能性が高いですね」

魔力に引かれて、どこからかやって来て住みついたのか。それとも、元々そこが〈さとり〉の巣だったのか。
なぜわざわざ魔力の満ちる夜を選んでまで街へ出てくるのか。人を襲うためだというなら、やっかいだ。

「こりゃ一回、迷宮を調べに行かないとダメか?」

ビールをひと口あおり、ナマリが思いついたように言った。

「あ、あのバカ強いエルフの兄ちゃん。あいつ今は迷宮の監視やってんだろ? 何か言ってきてねぇの?」
「今ちょうど、巡回中です。何かあれば、近日中に報告があるでしょう」
「ほう。ならしばらく待っとけば、最新情報が手に入るってわけだ」


……ミスルンさん

今まさに、〈さとり〉の本拠地かもしれない場所にいるその人を思うと、胸の奥がひどくざわついた。

あの人に、何かあったら。

ナマリの言う通り、ミスルンは強い。そこらの魔物程度に後れを取るとは思えないし、最近はカブルーの手を借りずとも、それなりに自活も出来ている。フレキだって同行している。
心配することはないはずなのに、それでも、彼のことを思うと、どこか落ち着かなくなるのだった。

「なら、迷宮の方はミスルンさん待ちね。その間に私たちは、カブルーの集めた目撃者と、襲撃された被害者の聞き取りを進めて行きましょう」

マルシルの声が、カブルーの思考を引き戻す。

彼は静かに頷き、もう一度、地図の印を見つめた。
赤い、満月の夜の目撃例は、都市部に向かって、まるで血溜まりのように、じわじわと広がっていた。