1.
それは、醜い姿だった。
全身は黒くざらついた毛に覆われ、骨ばった四肢は猿のように長い。特に腕は異様に伸びて地を這うように垂れており、その先には場違いなほど滑らかで白い手が一対、ぶらさがっていた。
カビ臭い迷宮の中、異形そのものの存在を前にして、ノームの男は、うっとりとした面持ちで膝をついた。
声は掠れ、ひどく乾いていた。
徐々に収束する魔法陣の光が、男の血走った目と、口元を歪ませた笑みを照らしていた。
蝋燭の炎がちらちらと揺れていた。彼の目に映っていたのは、長年にわたる試行錯誤の果てに、自らが創り出した『理想の女性』だった。
彼女は、すべてを理解してくれるはずだった。どんな言い訳もいらない。言葉を尽くさなくても、誤解もすれ違いも起きず、最初から最後までただ『わかってくれる』――完璧な関係が、そこにあるはずだった。
「あぁ……」
ノームはうっとりと声を漏らし、ほとんど呆けたような目で彼女を見つめた。
夢が、現実に降り立ったかのようだった。
「わかってくれるね、私の全てを……」
そっと両腕を差しのべる。
それに応えるように、〈彼女〉もまた、長い腕をこちらへ伸ばす――。
白く細い指が、ゆっくりと、彼を指さした。
そして、たった一言囁いた。
その声は、確かに黒い毛に埋もれた彼女の唇から発せられたのに、まるで自分の声のように聞こえた。
彼女は目の前にいるはずなのに、まるで耳元で囁かれたようだった。
ノームのまなざしに、わずかな揺らぎが走った。
戸惑うように呟く。
「……なんだって……?」
〈彼女〉は、もう一度、同じことを繰り返した。
その声が脳に届いた瞬間、ノームの瞳は大きく見開かれた。動揺、反発、そして――恐怖。
「嘘だ……! それは、違う……そんなこと……私が、そんな――っ!」
声が裏返る。足元がふらつく。男は後ずさり、水を踏んだような音が足元に響く。
「嘘だ! 嘘だ!! 作り事を抜かすな!」
「私を、」ノームは燭台を掴み上げた。「否定……、するなっ!!」そう叫び、〈彼女〉に投げつけた。
〈彼女〉に当たって足元に落ちた蝋燭は、一瞬だけ炎を燃え上がらせた。あとには闇が濃くなるばかり。
そして。
暗闇の中で、何かが跳ねた。
びちゃり、と濡れた音とともに、男の身体が崩れ落ちる。砂袋が落ちたかのような重い音が響いた。
石床を染める血はゆっくりと広がり、魔法陣を覆い隠してゆく。
〈彼女〉は一歩、男の亡骸に近づいた。
かがみ込み、じっと見下ろす。
その指が、死者の頬に触れ――そして、静かに口を開いた。
ゴリ、ゴリ。
ぴちゃ……ぴちゃ……
あまりに異様な静けさの中、感情のこもらない咀嚼音だけが、永遠のように続いていた。
*****
2.
最初は、女の子たちの間での噂話だった。
――迷宮の奥深く、自分の心の声を聞かせる魔物が出る。
――満月の夜、恋人とふたりで迷宮の跡地に行くと、彼の本心がわかる。
――けれど、それを聞いた時、決して返事をしてはいけない。
やがて、それは学舎の教師たちの耳に入り、酒場では酔った男たちが語り草にし、路地裏では子供たちが怯えながらごっこ遊びにしていた。
時が経つにつれて噂はふくらみ、近頃は城下のあちこちでささやかれはじめた。
満月の夜、街には猿のようなものが現れて、心の奥を暴かれる──言い当てられて、動揺すると、〈そいつ〉に心を喰われてしまう。
夜道でプロポーズを後悔したと叫んで破局した恋人たち。
長年の親友が突然決裂したという話。
誰のものとも知れぬ《心の声》をきっかけに、商会で仲間割れが起きたという話。
噂の数は、枚挙にいとまがない。
その頃、城下で発生した数件の犯人不明の傷害事件は、当初通り魔のしわざと目されたが、奇妙なことに被害者たちは一様に口をつぐみ、事件の詳細を語ろうとはしなかった。
不安の広がる街の中、誰もが恐ろしげに口々に語り合う。
猿に返事をしてはいけない。
――殺されてしまうよ。
そして、誰ともなく呼び始めた──〈さとり〉と。
*****
3.
夜半、コツコツと靴音を鳴らしながら、黒い巻き毛の青年が路地を歩いていた。その足がぴたり、と止まる。
街のざわめきが遠のき、風が止んだ。
月はまだ、上りきってもいない。なのに、足元の影だけが不自然に濃くなった気がした。
すぐそこに、気配がある。
懐に隠した短剣にそっと手を伸ばす。
「……誰だ?」
押し殺した声で問うが、返事はない。
だが、ぬうっと路地の陰から現れたのは、猿にも似た異形の姿――。
――こいつか。
近頃の街は、こいつの噂でもちきりだ。
人の言葉を話す。
人の心を、読む。
それが、〈さとり〉。
毛むくじゃらの異形が、カブルーを指差す。その指だけが、ほっそりと白く、美しかった。
《……あの人が、いっそ何もできなければ、自分の側にずっといてくれるのに》
――それは、確かにカブルー自身の声だった。
「……!」
鼓動が跳ね上がる。息が、詰まる。
誰のことだなどと考えるまでもない。脳裏をよぎったあの人の顔。時に幼子のような寄る辺ない瞳をする、あの人の。
もしあの人が、何もできない存在ならば。違う、そんなことは考えてない。彼の回復は、喜ばしいことだ。
だけど。
もしも。
……留まるだろうか、自分のそばに。
《誰にも、渡したくないのに》
今度は、耳のすぐ傍で囁かれたように錯覚した。
けれど〈さとり〉は、動いてなどいない。
ただ、じっとカブルーを見ていた。笑うでも、嘲るでもなく。ただ、淡々と。
(……俺は……)
懐の短剣を抜こうと震える手に力を籠める。カチャリと鳴った鞘の音に驚いたように、〈さとり〉はザッと暗闇へと飛び去った。
何も言えないまま、カブルーは立ち尽くしていた。
あたりにはただ、月影だけが落ちていた。
この出来事は、四日後、彼が〈さとり〉捜査の指揮を命じられるよりも前のことだった。
彼は、自らの遭遇を、誰にも話さなかった。
*****
4.
「〈さとり〉?」
ミスルンは、スプーンを差し入れようとしていた手を止めて、わずかに首を傾げた。
木製の盆に乗せられた熱々のグラタンからは、焼けたチーズとホワイトソースの香りがふわりと立ちのぼっている。向かいに座るカブルーは、鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに、思わず目を細めた。
「ええ、そうなんですよ。最近、城下で〈人の心を読む魔物〉が出るなんて噂が立ってましてね。魔物の出ない国っていうのが売りのメリニで、しかも悪食王のお膝元たる王都でそんな話を広められたら、困るんですよ」
「なるほどな。だから魔物嫌いのお前が、自ら調査しているわけか」
「ええまあ、魔物ではない、という前提で調査してますのでね。通り魔事件との関連も……って、ああちょっと! ちゃんとふーふーしてください!!」
カブルーが慌てて叫ぶ。
聞き込み調査の最中に偶然会ったミスルンは、彼の話を聞きながら、ひょいと煮えたぎったグラタンを口に入れていた。
火傷を負いたくないという欲がない彼は、食べ物を適温にしてから口に入れるということをしなかった。
カブルーが慌てて声を上げる横で、ミスルンは口を閉じ、静かに咀嚼を続けている。
「……大丈夫なんですか? ミスルンさん、熱いもの平気なタイプなんですね」
カブルーがほっと息を吐くと、ミスルンは無言で口の中のものをごくりと飲み込み、小さな舌を突き出した。
「……口の中がぐちゃぐちゃになった」
「ほら、言わんこっちゃない……」
ため息をつきながら、グラスから氷のかけらを一つつまんで、その口に放り込んでやる。ミスルンが氷を口の中で転がしている間に、カブルーはグラタン皿を自分の方に引き寄せて、丁寧に息を吹きかけた。
「ん、はい。そろそろいいですよ」
皿を返そうとすると、ミスルンがひな鳥のように口を開けてくる。
仕方なく、一匙すくって食べさせてやってから、皿を返す。
今度はおとなしく自分で食べ始めた彼を見て、カブルーもようやく自分の食事を再開した。
「それで、明日からまた迷宮に?」
「……ああ。今回は定期観測だから、深層まで一通り確認して、異常がなければ十日程度で戻る」
「迷宮って、大丈夫なんですか? 食事とか、睡眠とか、きちんと取ってくださいよ」
「フレキを同行させる。心配ない」
「……いや、なんか余計に心配なような……」
フレキも元カナリア隊の一員で、ミスルンとはカブルーより付き合いが長い。
けれど、あの面白がりで面倒くさがりの彼女が、ミスルンの世話を細やかに焼く姿はどうにも想像がつかない。
──いっそこの人が、何もできなければ迷宮になんて行けないのに。
脳裏をかすめた考えには、慌てて蓋をした。〈さとり〉の言う通りになってどうする。そんな考えに囚われてはいけない。
「……お気をつけて」
微笑みながら、ようやくそれだけを口にした。
*****
5.
「迷宮近くの女学院で、話を聞けたんです。今までの目撃証言よりも、ずっと古いものが出てきました」
城の食堂にて、カブルーが机いっぱいに地図を広げながら言う。彼は、その手元に視線を落としたまま、次々と印をつけていた。
「女学院なんて、どうやって入り込んだんだよ」
呆れ顔で横から手元をのぞき込んできたナマリに、カブルーは顔だけを向けて、にっこりと笑った。
「正面から、お話を聞かせてくださいってお願いしただけです」
地図の上には、赤と青の点があった。満月の夜に現れた場所は赤、それ以外は青で示されている。さらに丸印で囲われた六箇所は、通り魔事件が報告された地点だ。その全てが、〈さとり〉の目撃証言と一致していた。
「満月にしか現れないって話だったけど……古い目撃例ほど、満月以外の夜にも出てんだな。一番古くて、半年前か」
ナマリが顎を掻きながら地図をのぞくと、その傍らでマルシルも眉を寄せてつぶやいた。
「……ちがうわね。満月みたいな『時』より、魔力の濃い『場所』を選んでる感じ。
迷宮周辺って、常に魔力が濃いでしょ? そこから離れるほど、満月みたいな魔力の高まるタイミングじゃないと動けない、とか?」
地図を睨みながら、カブルーは腕を組んで唸った。
「やはり……発生源は、迷宮の可能性が高いですね」
魔力に引かれて、どこからかやって来て住みついたのか。それとも、元々そこが〈さとり〉の巣だったのか。
なぜわざわざ魔力の満ちる夜を選んでまで街へ出てくるのか。人を襲うためだというなら、やっかいだ。
「こりゃ一回、迷宮を調べに行かないとダメか?」
ビールをひと口あおり、ナマリが思いついたように言った。
「あ、あのバカ強いエルフの兄ちゃん。あいつ今は迷宮の監視やってんだろ? 何か言ってきてねぇの?」
「今ちょうど、巡回中です。何かあれば、近日中に報告があるでしょう」
「ほう。ならしばらく待っとけば、最新情報が手に入るってわけだ」
……ミスルンさん
今まさに、〈さとり〉の本拠地かもしれない場所にいるその人を思うと、胸の奥がひどくざわついた。
あの人に、何かあったら。
ナマリの言う通り、ミスルンは強い。そこらの魔物程度に後れを取るとは思えないし、最近はカブルーの手を借りずとも、それなりに自活も出来ている。フレキだって同行している。
心配することはないはずなのに、それでも、彼のことを思うと、どこか落ち着かなくなるのだった。
「なら、迷宮の方はミスルンさん待ちね。その間に私たちは、カブルーの集めた目撃者と、襲撃された被害者の聞き取りを進めて行きましょう」
マルシルの声が、カブルーの思考を引き戻す。
彼は静かに頷き、もう一度、地図の印を見つめた。
赤い、満月の夜の目撃例は、都市部に向かって、まるで血溜まりのように、じわじわと広がっていた。
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