mishiadd
2025-08-17 12:33:51
25092文字
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月とチョーカー

【本編軸/現パロ】叡智を賜ったオメガバースシチュエーション3連発短編集【剣伊/鄭伊】
第三話「いろいろ言い訳しながら番が成立してないルームメイト兼親友の巣作り」の後日談:https://privatter.me/page/68af1b972987b

※オメガバース基本設定(たくさん美味なる派生設定があるらしいのですが今回は以下を採用しています)
α(アルファ):男性/女性とは別軸に存在する「雄」の性。(女性体でも「雄」の部位を持つ)
Ω(オメガ):男性/女性とは別軸に存在する「雌」の性。(男性体でも「雌」の部位を持つ)
ヒート:Ωの発情期。数ヶ月に一回あるいは時期外れでもαのフェロモンに当てられて強制的に誘発されて起こる。αと交合することにより治まる。
番(つがい):αがΩのうなじを咬むことで成立し、Ωのヒートが起こらなくなったりフェロモンが安定するなどいいこと尽くし。ただしΩから番を解消することはできず、番のαを失ってしまうとΩは新しい番を得ることができないばかりか再びヒートが起こるようになってしまう。
巣作り:ヒート中のΩが(特に番の)αの匂いのついた衣服を身の回りに搔き集めて交合するための巣を作ること。本能的な行動。


もしかすると、最近の伊織の気が大概弛んでいたのかもしれない。

常にどこか気を張っていた以前に比べて、日常の中で格段にリラックスできる時間帯が増えた。寝つきもよくなったような気がするし、気付けばリビングのソファでうたた寝をしてしまうことも増えた。
タケルの子供のような高い体温が心地よくて、湯たんぽ代わりにして腕に抱いて寝ていたのが、だんだんと条件付けでもされてしまったのか、タケルの匂いがするとなんとなく眠くなってしまうようにすらなっていた。
夕餉の後、いつものようにソファの上でうたた寝をして目が覚めると、伊織につられることもなく一睡もしていなかったらしい様子のタケルが伊織に抱きつかれた姿勢のまま、一心不乱にゲームをしていたり食い入るように映画を観たりしているのが視界に入る。
身を起こして目を擦り、寝ぼけ眼で「おはよう、セイバー」と言うと、決まってタケルが「ふうーーーー……」と深い溜息をついたあと、どこか苦々しいような顔で「ようやく起きてくれたか」と言うのだった。

だから、全体的に昨今の伊織は諸々油断していたと自分でも思う。
以前ならばこのような失態は絶対に犯さなかっただろうと、思う。



――抑制剤を飲み忘れた



「抑制剤を飲まない状態の自分」を伊織は久しく忘れていた。しばらく襲われることのなかった強烈な倦怠感と、どこか――不快感ともとれる身の裡の甘いような疼きに、運悪くその時が重なってしまったことを知る。――これは、まぎれもない発情期の症状だった。

大学の午後の講義がなく一足先にアパートの部屋に戻ってきていたところで伊織は自分の状態を自覚した。ぞわぞわと疼く己の肌を両腕で掻き抱いてなんとか宥めようとしながら、壁に掛かった時計を見る。――午後二時を回ったところだった。タケルが戻ってくるまでにあと四時間はある。……それまでに症状が治まっていれば、タケルに迷惑を掛けることはない。

タケルに、己のΩ性を露わにした見苦しい姿を見せるわけにはいかなかった。――αの身でありながら、自分のことを一匹のΩではなくひとりの人間として、友人として接してくれているあのαとの、この世にも得難い友情を、決して失うわけにはいかなかった。

ふらつく足どりでなんとか自室の扉を開け、布団を敷く。冷蔵庫からスポーツドリンクやカロリーバーなどを持ち出してきて枕元に置いた。ブランケットにくるまって布団の上に蹲り、ただひたすらに耐え、悪夢の時が過ぎ去るのを待つ。――これが、発情期の事故が起こったときに伊織がとれる唯一の対策だった。

ハアハアと荒い呼吸を繰り返しながら、気を紛らわせるようにスポーツドリンクを一口だけ口にする。再び布団の上に丸くなって目を閉じると、かつてこの状態になったときに己の身に起こった――その肌の上を這いずり回った見知らぬα達の手のひらの感触を思い出す。突き動かされるように目を見開いて、その記憶から逃れたい一心で再び飛び起きる。その繰り返しだった。

怖くて、屈辱的で、気持ちが悪かった。――記憶の中の厭な匂いに、気が狂いそうだった。

ハアハアと荒い呼吸を繰り返す。ブランケットに体を包んだまま、自分の部屋を出る。――リビングの、ソファへと向かった。

ソファの上に腰を下ろす。そのまま横になり、いつもならタケルが座っているあたりに顔を埋めてみた。――かすかに、ほんの僅かにだが――タケルの残り香がある気がする。
すん、と高い鼻梁の鼻先をクッションに埋めてみる。ほんの少しだけ、強くタケルの匂いを感じられた気がした。そのまま身を縮こませていると、だんだんと気持ちが落ち着いてくるような気がした。あの恐ろしい記憶が、だんだんと遠のいていくような気がする。もともと朦朧とし始めていた思考の中で漠然とした恐怖が鳴りを潜めて、どこか安心できるような、そんな居心地の良さを覚えるような気がした。

もぞ、と体勢を変えてみる。やがて身を起こし、いよいよぼうっとした思考回路のまま――伊織は、タケルの自室へと足を向けた。







「ただいま」と言ってアパートの部屋の扉を開けたタケルの鼻先に、強烈に甘ったるい蜜の香りが吹き付けてくるようだった。
何事かと驚いて、中に入って素早く鍵を閉める。「イオリ?」と呼ばわりながら通学鞄を廊下に投げ捨て、そのまま伊織の自室へと駆け込む。――姿がない。

「イオリ!?」とますます声を荒らげてタケルがリビングへと飛び込む。――途端に、これまでに嗅いだことがない程に、噎せ返るように甘い――痺れるように濃密な、蕩けるような蜜の香りが充満していることに、気付く。

思わず鼻先に腕を当てながら周囲を見回す。ソファの上に、こんもりと山盛りになっている衣類の山を見つける。―― 一目ですぐ分かった。タケル自身の衣服の山だった。

「イオリ……?」と一歩近づくたびに濃くなる甘い匂いにくらくらする思いをしながらも、恐る恐る、一歩一歩着実にタケルがソファへと近づく。ソファの背もたれのすぐそばまで来たところで、は、は、と掠れるようにあえかな呼吸音が聞こえてきた。

……イオリ?」

とさり、と音がする。山盛りになっていたタケルの衣服の山が崩れ、中に埋もれていたらしい伊織の背中までが露出した。俯いたそのうなじが露わになっており、それが血色で鮮やかに紅潮しているのをタケルが見る。

――イオリッ!? 一体どうしたというのだ、きみ、体は大丈夫――
……セイバー?」

掠れた声がする。ふらふらと、タケルの衣服の山の中に埋もれたままの伊織が、ゆっくりとタケルを振り向いた。――は、は、と熱い呼吸を繰り返しながら、ぐっしょりと濡れた月夜の瞳が、タケルを見る。ぱちり、と長く濃い栗色の睫毛が瞬きをして、目尻から切ないような生理的な涙の筋が幾筋も滑り落ちた。

「イオリ!? こ、これは一体――私の、服――
「これは――この匂いを嗅いでいると、恐ろしくなくなるから――

朦朧とした、どこか幼いような口調で言った伊織が、すぐ手元にあったタケルのシャツを手に取る。それを両手で自分の鼻先に強く押し付けて、すんすんと小さく鼻を鳴らして匂いを嗅いだ。どこか小動物的なポーズのまま、タケルのシャツ越しに伊織が言った。

「安心する――いい匂いがして――厭な記憶が気にならなくなる。――だが、その代わり、体がひどく、熱くて」

は、は、と伊織の荒い呼吸がシャツ越しに聞こえる。やがて、鼻先に押し付けているだけでは足りなくなったらしい伊織が、柔らかい綿で出来たそのシャツの端を、口の中に控えめに含んだ。ぽろぽろと涙を流しながら、むずがる犬がおもちゃを咬むように、伊織がタケルのシャツを白い犬歯できしきしと噛んでいる。伊織の唾液がシャツに染みを作り、ぽたぽたと垂れていた。

「は、あ。――体の芯が、熱い。……おまえに迷惑を掛けたくない。結局どれだけ大層なことを言おうと、所詮Ωはこうなのだと軽蔑されたくない。おまえは、『友達』だから――

言いながら、伊織が自分の周囲に丹念に集めたらしいタケルの衣服を手繰り寄せる。ありったけの衣類をソファの背もたれに押し付け、飼主の足元に体を擦りつける猫のような仕草で火照る体をタケルの服に摺り寄せた。ぽろり、と再び生理的な涙が紅潮した伊織の頬を伝った。

「『友達』を欲しがる俺でいたくない。……おまえが、俺とは友達でいてくれると言ったの」

「に」と言いかけた伊織の唇をタケルの唇が塞いだ。ちゅ、と軽い音を立ててすぐにタケルが唇を離すと、呆然とした月夜の瞳がタケルの顔を追いかけた。
「ようやく黙った」とタケルが笑い、それから言った。

「きみは、なんというか――本当に、私の言うことをろくに聞かぬな? 私が何も言わぬうちから、私がきみのことをどう思っているか勝手に決めつけてみたり」
……うん――?」

「まあよい」とタケルが軽く肩を竦め、伊織の長く濃い睫毛にぐっしょりと含まれた涙を指先で払ってやった。

「『友達でいいよ……『友達』だって、きみが欲しいなら欲しがったっていい。軽蔑などしないよ」
「セイバー……?」
「あげるよ。全部きみにあげる。友達ってそういうものだと聞いたぞ」

もっとも、タケルにはこれまでろくに友達と呼べる相手がいなかったので、これも又聞きに過ぎなかったが。――だが、この場においてはとりあえず、このどこかずれている親愛なるルームメイトを言いくるめられればそれでよかった。

「きみが欲しいならあげる。――ああ、ただし」

いまだに伊織が大切そうに両腕に抱え込んでいた自分のシャツを引っ張って取り上げる。「あ」と途端に不安そうな顔をした伊織の額に重い前髪の上から唇を落とし、ひどく苦々しいような苦笑を浮かべて言った。

これはもうどこかにやってくれ。――本人が目の前にいるのだから、私の目の前でこんなものに縋りつくのはよせ。私もさすがに面白くないし、なんというか――自分の服相手にこんな感情を抱く自分というのは、それだけでなかなかに情けないものがある」
「うん……? うん……

ぼんやりと頷いた伊織の頬に手を触れながら、タケルがソファの背もたれの上に身を乗り出す。伊織が山盛りにしていた衣類をすべて払い落としてソファに座る伊織の隣に滑り込んだ。伊織の身体をゆっくりとソファの上に押し倒しながら、「全部きみにあげるよ、イオリ」と低い声で囁いた。
涙に濡れた不思議そうな月夜の瞳がタケルを見上げてくる。その肌に手を這わせながら、「……どうした?」と尋ねてやる。ぽつり、と伊織が答えた。

「いや。――『あげる』とは初めて言われた気がする。αは皆、奪うものだと思っていたから。……『貰う』のは初めてだ……
「そうか。まあ、先に私に『くれた』のはきみだよ。住む場所とか――

――この感情とか。――とは、言わなかった。

「だからまあ、おあいこだ。……友達って、そういうものなのであろう?」



狭いソファの上で、ふたり分の人影が蠢く。背後から伊織の身体を抱き寄せたタケルが、その白いうなじに唇を寄せた。
掠れたような控えめな嬌声ばかりを上げていた伊織の喉から、最後に残った理性の欠片を振り絞って制止する声が吐息のように洩れる。ふ、と熱い溜息の合間に、やっとのことで伊織が言った。

「だ――めだ、ダメ――。セイバー、おまえはそこを咬んでは――。俺は、産めないから……俺ではおまえの子を産んでやれないから、俺をおまえの番にはしないで」
「ふうん、そうか。――私はな、イオリ」

ぺろり、と熱い舌先でうなじを舐める。

「『友達』に私の子を産んでもらおうとは、初めから私も思ってはいないよ」

――言って、白く光る犬歯を、ゆっくりとその白いうなじに沈みこませた。







翌日、けろりとした顔をして講堂に顔を出した伊織に、その隣の席に陣取った助之進が「よっ、伊織さん」と声を掛けてきた。

「今日は随分体調がよさそうで何より。……昨日はなんだか随分つらそうな顔をして帰っていったろう? 心配してたんだぜィ」
「あ、ああ」

体調不良がばれていたのか、と今になって少しだけ焦りを感じながらも、それはそれで過ぎたことだとして伊織が気を取り直す。

「セイバーが――俺のうなじを咬んでくれた。だから、発情期も止まった。抑制剤も、もう飲まなくてよくなった」
「ほぉん。そりゃァ大層よかった――って、エエッ!? なんだってェ!?」

あんぐりと目と口を見開いた助之進に、まるでなんでもないことのように――昨日新しく買った家電の話でもするように、平然とした顔をして伊織が言った。

「こうすることがもっとも手っ取り早いだろうから、と。……少なくとも、同居している間はつがいとして居た方がなにかと都合がいいし、俺の体調もよくなる。セイバーにも俺の不安定な発情期で迷惑を掛けることがなくなるし、よいこと尽くしだ。
せっかく友達同士でαとΩなのだから、便利なものは便利に使っていこう、とセイバーが」
「イヤイヤイヤイヤちょっと待ってくれ。理解が――理解が追い付かないのは、俺がβだからかィ? それとも、俺が古い人間で、そういう先進的な考え方にてんでついていけてないからかい」

「えええええ?」とひとりで唸っている助之進に、きょとんとした顔をして伊織が言った。

「そんなに驚くようなことを言っただろうか」
「イヤ? エエ? イヤ? 俺がおかしいのかい? ――βの俺にはわからねェんだが、その、つがいってのは、そんな簡単なモンなのかい、伊織さん」
「正直なところ、わからない。俺がつがいを得たのはこれが初めてだ。だが――セイバーがああ言っているのだから、恐らくはそういうものなのだろう」
「イヤア……イヤイヤイヤ……

ぶんぶんと頭を左右に激しく振っていた助之進ではあったが、やがてふと伊織を見た。「ん、」と伊織が先を促すと、ぽそり、と助之進が尋ねた。

「その――つがいってェのは、Ωから解除することはできないんだろ? αにだけその決定権があると」
「ああ、うん。――だから、セイバーがうちから出ていって同居を解消するときには、つがいを解除すると言っていた。これは、ルームメイトとして共同生活を送る上での便利なルールのうちのひとつに過ぎないから、と」
……それ、本当かなァ……

そもそも、βである助之進にとっては、ただの又聞きに過ぎない情報ではあるが。
――確か、つがいのいるΩにだって、発情期は来るのではなかっただろうか。――そのフェロモンの矛先が、つがいのαひとりのみに向かうようになるだけで。

……本当にただのルームメイトのつもりかなァ、それ……

頭を抱えてしまった助之進に不思議そうな目線を向けつつも、「とにかく」と伊織が満足げな明るい声で言った。

「俺はやはり、よいルームメイトを――よい友達を得たようだ。……この得難い友情が末永く続くよう、祈っているよ」
……俺はまァ、本人たちがそれでイイってんならイイんですけどねィ……

「これ以上は馬に蹴られてナントヤラ、かな」と、苦笑いをした助之進は目線を講堂の正面の黒板へと向けた。






3.『いろいろ言い訳しながら番が成立してないルームメイト兼親友の巣作り』・了





月とチョーカー・了