mishiadd
2025-08-17 12:33:51
25092文字
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月とチョーカー

【本編軸/現パロ】叡智を賜ったオメガバースシチュエーション3連発短編集【剣伊/鄭伊】
第三話「いろいろ言い訳しながら番が成立してないルームメイト兼親友の巣作り」の後日談:https://privatter.me/page/68af1b972987b

※オメガバース基本設定(たくさん美味なる派生設定があるらしいのですが今回は以下を採用しています)
α(アルファ):男性/女性とは別軸に存在する「雄」の性。(女性体でも「雄」の部位を持つ)
Ω(オメガ):男性/女性とは別軸に存在する「雌」の性。(男性体でも「雌」の部位を持つ)
ヒート:Ωの発情期。数ヶ月に一回あるいは時期外れでもαのフェロモンに当てられて強制的に誘発されて起こる。αと交合することにより治まる。
番(つがい):αがΩのうなじを咬むことで成立し、Ωのヒートが起こらなくなったりフェロモンが安定するなどいいこと尽くし。ただしΩから番を解消することはできず、番のαを失ってしまうとΩは新しい番を得ることができないばかりか再びヒートが起こるようになってしまう。
巣作り:ヒート中のΩが(特に番の)αの匂いのついた衣服を身の回りに搔き集めて交合するための巣を作ること。本能的な行動。


あるいは、伊織がタケルの異変に一番最初に気付いたのもまた、『匂い』だった。

どこか香辛料スパイスを思わせるような香りに、当初伊織は隣家の夕飯の匂いが漂ってきているのかとすら思った。それから夕餉に呼びつけられたタケルがダイニングに入ってきて一際香りが強くなったので、ようやく「――あ」と伊織は事実に思い至ったのであった。

若いαのフェロモンだった。ただ、当たり前の体臭のように、ほんのりと香っている。

不思議と嫌悪感はなかった。あるいはその匂いにはΩに対する獰猛さがなく、むしろ可能な限り抑圧しようという意思すら感じられたからかもしれなかった。



――この匂いには、気遣いを感じる。



それが理解っただけでも充分だった。αであっても自制心を保ち、こちらの都合や心境を理解しようとする者もいるものなのだと初めて思い至った。同時に、申し訳なさも覚える。――恐らくタケルがこうしているのは、先日伊織の口が滑ってしまい、彼個人のαという種族に対する主観を吐露してしまったことも大いに関係しているだろう。

伊織にとって自身のΩ性をどうすることもできないのと同じように、タケルにだって彼自身のα性をどうにかすることはできない。成長と共に第二の性が顕現してしまうことは免れず、そしてそれはタケル自身の意識とは無関係に起こり――そしてそれは本来、健全なことである筈なのだった。
それを、伊織個人の経験などを話してしまったことによって、この若いαは――あるいは、己の性に嫌悪感すら抱いてしまっているのではないか。

であるならば、年長者として犯すべきでない失態を、伊織は犯してしまったことになる。

「あんな話は気にしなくていい」と、言ってやるべきなのだろう。あんなものは所詮は伊織個人の見解で、タケル自身が重く受け止める必要はないのだと。あくまでもタケル自身は、自由に――αらしく――

ぴくん、と伊織の手が震える。指先が痙攣する。――自由にαらしく振舞った個体がかつて伊織に何をしたかを、思い出す。

かしゃん、と手に持っていたキッチン道具を床に取り落していた。シンクのカウンターに両手をつき、早まる鼓動と呼吸に耐えかねて咳き込む。ふ、ふ、と碌に酸素を取り込めない形ばかりの呼吸を繰り返すうちに、ちかちかと視界が点滅し始める。

――オリ、……オリ」と水の中にいるようなくぐもった声が聞こえる。ハアハアと荒い呼吸を繰り返すうちに、はっきりと「イオリ」と聞こえた。声の方を向く。幼さの残るながらもひどく整った可憐な顔が、蒼白になった顔色で伊織の顔を覗き込んでいた。

「イオリ。一体どうした? こんなことは今までになかっただろう?」
……あ、匂い――

上擦る声でなんとか告げると、既に紙のように白かったタケルの顔がますます蒼褪めた。慄いたように己の両手を見下ろしたあと、伊織から距離を取ろうとして飛び退こうとする。――その手を、ぱしん、と伊織の手が掴んだ。
驚いてタケルが伊織を見る。――いまだ整わぬ呼吸のまま、伊織が告げた。

「だ、大丈夫だ。……おまえは、大丈夫だ」

タケルが目を見開く。かっと一瞬なにかに激昂したように奥歯を噛みしめたあと、伊織を真っ直ぐに見て言った。

「『私はαではない』から?」
おまえがαだったとしても――

ふ、ふ、とようやく呼吸が落ち着いてくる。大きく肩で深呼吸をして、真剣な瞳で伊織がタケルを見た。

「おまえは、大丈夫だ。……おまえの匂いは、『友達』の匂いがする」

タケルが呆気にとられた顔をする。大きな瞳を瞠って、まるで言葉を失っているようだった。――それから、ゆっくりと伊織の手を握り返して言った。

……そうだ。私はきみの『友達』だ。――だから、私は大丈夫だ、イオリ。私は安全だ――そうあると、誓う」

その言葉と共に、一段と香辛料の香りが強くなる。――その香りこそが『優しさ』というものなのだろうと、伊織は思う。



――『α』という友達



あるいはそれは、伊織にとっても抗いがたいような、甘やかなぬるま湯のような夢だった。







昼食時の他愛もない話題として、大学の友人――二浪で一学年下の新井助之進――に誰と住んでいるのか尋ねられたので、特に深く考えず、ごく当たり前のありふれた事情として、伊織はタケルとふたりで同居していることを話したのだった。

「えェ? じゃあ、その、セイバー……くん? ちゃん? ――殿、ってェのは、αなのかい」

第二の性はともかくとして、話を聞く限り性別がよくわからなかった友人の同居人にとりあえず性別を問わない敬称を付け、助之進が質した。

「伊織さんが、若いαと二人暮らし、ねえ。……そりゃあなんというか、相手にとってもちィーっとばかり、酷じゃァないのかィ」
「酷?」

きょとんとして伊織が小首を傾げる。「ああまた」と聡いくせに昔から妙なところで鈍感な友人に僅かばかり呆れ返ったように苦笑しながら、助之進が言った。

「本人達がそれでいいってェんなら、いいんだよ。外野がとやかく言うことでないってのだけは確かだから、サ。――マ、どうしたっていにしえから続く永遠の問題に辿り着くってェワケだ。――ソレ即ち、」



――『αとΩの友情は成立するのか』。



呈された課題に、伊織が目に見えて眉を顰める。珍しく不快の感情を露わにした伊織に、助之進が「珍しいこともあるモンだ」と思いつつ、「僅かにも疑わなかったかい」と尋ねた。

「疑わない。――セイバーは、普通のαとは違う。俺の『友達』でいると誓った」
「そりゃあ大したモンだ」

素直に心底感心したように助之進が何度か頷いて、食べかけのカツ丼の残りを掻き込む。もごもごと頬を膨らませて咀嚼しながら、「そんじゃ、伊織さんの方は大丈夫なのかい」とくぐもった声で尋ねた。

――俺?」
「ウン。……セイバー殿の方はそのつもりでいてくれて、それを徹底してくれたとして――アンタの方は大丈夫なのかい。……『友達』、続けられるのかい」
「どういう意味だ」
「βの俺にはよくわからねェが――アンタ、四六時中その若いαのフェロモンを嗅ぎ続けるんだろう。……アンタの方が、『友達』の枠からはみ出しちまうようなことにはならねェって、言い切れるかい?」

焼き魚定食から目線を上げて伊織が正面の助之進を見る。思いのほか案じるような目で、カツ丼を頬張ったままの助之進が伊織を見ていた。

――問題ない。それは、問題ないよ、助之進」
「どうしてだい」
「俺は、誰のことも欲しくなったことがない。αのどんな匂い――それでこの身に変化が起こったことなど一度もない。どのみちΩとしても不完全なのだ、俺は」

いつだって、噎せ返るようなαの獰猛な匂いは、伊織の身体を竦ませこそすれ、情欲を呼び起こしたことなど一度だってなかった。αの匂いそれ自体が伊織の警戒心と嫌悪感を誘発し、ましてやその体を明け渡してもいいなどと――そんな気分になったことなど、ただの一度だってなかった。

そう、唯一の例外として――セイバーの匂いは、伊織にとっても耐えがたいものではない
別段好きというわけでも決してなかったが、通常のαのフェロモンに対して起こるような心身の拒否反応はなかった。

「心配ないよ、助之進」と伊織が微笑んだ。焼き魚の骨を器用に箸の先で取り外しながら、穏やかな声で言った。

「俺がαに発情することはないし、セイバーが俺に欲情することもない。――この得難い友情が、末永く続くといいと俺は思っているよ」
……そうかい」

ようやく納得した様子の助之進が、口許ににっと笑みを浮かべて頷いた。「ごっそさん!」と空になった丼を手に立ち上がる。

「んじゃァま、また次の講義でな、伊織さん。……セイバー殿にも、俺からよろしくって伝えといてくれィ」
「うん? うん」

「っへへ」とどこか嬉しそうに笑った助之進が食堂を出ていく。ひとり残された伊織が、ガラス張りの壁から射し込む日光の中で、静かに食事を続ける。







――伊織の態度が、明らかに以前より軟化しているようにタケルは思う。

以前からまともな警戒心が伊織にあったとも言いづらかったが――であったならばそもそも、タケルが伊織と同居するなどという事態にすら陥っていなかった筈だ――最近はとみに、以前ならば存在していた筈の、伊織のなけなしの『兄』としての矜持とでも言うのか――弟分であるタケルにとっての頼れる存在でいよう、という自意識ですら、なんだか薄れてきているように感じる。

相変わらず甲斐甲斐しくタケルの身の回りの世話はしてくれていたが、たとえば一通りの家事が終わってふたりでリビングのソファに座っているときなどに、妙に近い気がする。――その、物理的な距離感が。

そもそもが独り暮らし用にせいぜい毛が生えた程度の大きさのソファに、ふたりで腰かけている。少しでも距離を取ろうとしてじりじりと隅の方に追いやられてしまったタケルにこれ以上の逃げ場はなく、伊織はといえばタケルが空けたスペースを「譲ってもらった」ものとでも思ったのか、その分更に距離を詰める始末だった。

タケルに寄りかかるようにして、ぱらり、ぱらりと本を読んでいる伊織に、耐えかねた様子のタケルが「……なあ」とどこか上擦った声で言った。

「狭い、のだが……
「ん? ああ――すまん」

言って一瞬身を起こすものの、やがて本の内容に夢中になってしまうのか、再びタケルに体を預けてきて元の木阿弥となる。二、三度の同様のやり取りのあと、ついにタケルが言った。

「イオリ。本を読むなら食卓か自室に行ってくれ」
「ん――ああ、すまん。そうだな。その通りだ」

その言葉にタケルがほっとしたのも束の間、なぜか伊織がぱたんと本を閉じてしまう。ちゃぶ台の上に本を置いたあと、改めてタケルに身を寄せてきた。「……!? ―――ッ!?」と軽くパニックに陥ったタケルが声にならない悲鳴を上げる。

「イ、イオリッ!? これは……いや、きみ一体どういうつもり――
「少し眠くなってきたから、少しの間だがここで寝る。……テレビで好きなものを見ていていいぞ、ゲームでも――

「別にうるさくないから」と言った声が殆ど夢うつつで聞き取れない。既に意識を失いかけている伊織の肩を揺さぶって、「イオリ! イオリ!?」とほとんど泣き出しそうな声でタケルが呼ぶと、「ううん」とどこか艶めかしいような声を漏らして伊織がうっすらと目を開ける。そのぼんやりとした無防備な月夜の瞳がタケルを見て――タケルの心臓が跳ねる。ばくばくと早まる鼓動とそれに伴う首筋や頬の紅潮を自覚しながらも、伊織が気付かなければいいとだけ必死に願う。

「イ、イオリ。疲れたのか? 眠いのなら、やはり自室に行ってきちんと布団で寝て――
「ここがいい」

幼い、拗ねた子供のような口調だった。唖然としてタケルが伊織を見ると、ぼんやりとした目つきのまま、無意識のように伊織が両腕をタケルに伸ばしてくる。きゅ、とお気に入りのテディベアでも抱え込むような仕草で、体ごと抱え込まれてしまう。
タケルを抱え込んで密着した伊織の、ぬるいような体温が伝わってくる。とくん、とくんとゆっくりと脈打っている伊織の鼓動が聞こえる。――タケルの全身を包み込むような、凛とした花のように甘い匂いが、強烈に鼻先を擽ってくる。

――!」

タケルが思わず息を止める。もう一呼吸でもその香りを吸い込めば、己が何をしでかすかわからなかった。
己の腕の中で小さく縮こまって体を硬くしているタケルには気付かないのか、抱えやすいとばかりにその体を改めて抱き直した伊織が、すん、とタケルの首筋に顔を埋めてきた。まるっきり大きなテディベアに甘える子供の仕草だった。

「イオリ、本当に――

ほとんど涙声になってしまっているタケルの懇願に、「ん……」と夢うつつに伊織が答える。「眠い」とぐずるように漏らした伊織が、「……いい匂い」とぽろりと零した。
ぴた、とタケルの動きが今度こそ止まる。「――イオリ?」と尋ねた。

夢うつつのまま――実際タケルに語り掛けているという自覚が伊織にあるのかないのかわからないままに――ふにゃりとした口調のまま、伊織が言った。

「おまえの匂いそれ自体は別に好きではないが――これがセイバーの匂いなのだから、であるならば、これはいい匂いだ。……安心する……

そのまま、すうすうと無邪気な寝息を立て始めてしまう。
伊織が意識を失ってますます重くなった両腕の重みを感じながら、油断して安心しきったΩの甘い香りを鼻先にこれでもかという程に感じながら――それでも、タケルは微動だにできずにいた。

己が裡の衝動を必死に宥めすかしながら――伊織の背中を、ぽんぽんと軽く叩いてやる。はあ、と熱い溜息を漏らした。