mishiadd
2025-08-17 12:33:51
25092文字
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月とチョーカー

【本編軸/現パロ】叡智を賜ったオメガバースシチュエーション3連発短編集【剣伊/鄭伊】
第三話「いろいろ言い訳しながら番が成立してないルームメイト兼親友の巣作り」の後日談:https://privatter.me/page/68af1b972987b

※オメガバース基本設定(たくさん美味なる派生設定があるらしいのですが今回は以下を採用しています)
α(アルファ):男性/女性とは別軸に存在する「雄」の性。(女性体でも「雄」の部位を持つ)
Ω(オメガ):男性/女性とは別軸に存在する「雌」の性。(男性体でも「雌」の部位を持つ)
ヒート:Ωの発情期。数ヶ月に一回あるいは時期外れでもαのフェロモンに当てられて強制的に誘発されて起こる。αと交合することにより治まる。
番(つがい):αがΩのうなじを咬むことで成立し、Ωのヒートが起こらなくなったりフェロモンが安定するなどいいこと尽くし。ただしΩから番を解消することはできず、番のαを失ってしまうとΩは新しい番を得ることができないばかりか再びヒートが起こるようになってしまう。
巣作り:ヒート中のΩが(特に番の)αの匂いのついた衣服を身の回りに搔き集めて交合するための巣を作ること。本能的な行動。

1.『唐人屋敷に引き取られた長屋の未亡人』(剣伊鄭弓前提鄭伊)

鄭成功将軍の唐人屋敷に新しい食客がひとり増えたのは、鄭成功とその女房役であった『アーチャー』を名乗る者が途中離脱した『儀』が終結してすぐのことだった。

物の怪のような雰囲気をまとっていた『アーチャー』がいつの間にやら人間然とした顔をして屋敷の中でも寝食し始めたと思ったのも束の間、以前はそれこそ半ば夢のような目つきをしていると思った浪人が、ますます夢見心地のような目をしていつの間にやら屋敷に迎えられて棲みついている。

聞けば、準備さえ整えば『アーチャー』――周瑜と共に伴って、将軍が大陸へと連れていく算段なのだという。

屋敷の奥にひっそりと設えた、落ち着いた座敷を与えられたその食客は、滅多なことのない限り部屋の外に出てこない。
「たまには日ノ本風の食事も出してやりなさい」という日ノ本育ちの主の命に従って、厨房では鄭らの食事とは別に、特別に彼の為だけの膳が用意されることもあるという。

使用人が膳を運んで座敷の前まで持ってくると、するすると――そこだけわざわざ障子で誂えた――引き戸が開き、中からそっと大きな手が伸びてくる。「かたじけない」と静かな澄んだ声で言って膳を取り、またするすると引き戸が閉まる。



――屋敷の奥に、物の怪が一匹。



「あれは一体なんなんだい」と使用人仲間で耳打ちすると、どうやら『儀』においては将軍の戦友であったという男で、元々将軍も自軍への勧誘を度々していた相手だったがついぞ色よい返事を貰えておらず、これはもう致し方なしと諦めかけていたところで、一体なんの心境の変化があったのか、男の方から声を掛けてきたということだった。

「声を掛けてきたというのは?」
「『自分も大陸に連れて行ってほしい』と」

フン、と聞き手の男が訝しげに眉を跳ね上げると、訳知り顔の男がひそひそと耳打ちした。

漢方、が御入用らしい。――なんだか、一時の衝動で失敗をしてしまったとかで」
「『一時の衝動』」

鸚鵡返しをすると、ちょいちょい、と指先で相手の耳を更に近付けるように示した語り手の男が、更に声を潜ませて言った。

じきに居なくなる、とわかっていた相手と契ってしまったらしくてな。抑えが利かなくて無理強いした相手にうなじを咬まれてしまったのか、それともやっこさんの方が一時の情動に負けてうなじを咬むことを許してしまったのか、それはわからんが」
――はあ」

ぴんと来ていない聞き手の男に焦れて、「ああもう」と語り手の男が言った。

「つまり、あの食客は『おめが』なのさ。――最初から自分が後家になるとわかっている『あるふぁ』の男と、我慢が利かなくて契っちまった。それで、わかっていた通り相手の男はいなくなって、今じゃあ発情期ひーとはあるくせに他の番は作れない、ひどく不自由な身の上ってわけだよ」
「ああ、それで漢方――

大陸には、発情期を抑えるための漢方薬というものもある。日ノ本の民間療法や西洋医学由来のものがないでもなかったが、効きには個体差があるようで、体質に合わなければそれまでだった。そこで、男が一縷の望みをかけて手を伸ばしたのが漢方だったのだろう。

――アレ、しかし」

聞き手の男が首を傾げた。

「いいのかねえ。発情期が起こるようなおめがを屋敷に置いておいて。――その、アレだろう。鄭将軍と――『周瑜』殿は――
「それも承知の上だって話だよ。『周瑜』殿の方が快諾したって話だ」

ほあ、と聞いた男が目を丸くする。そのように心の広いおめがの話を、いまだかつて聞いたことがなかった。

「自分もおめがの身だから、いかにも気の毒だと。――やっこさんの方も、自分は大陸に連れていってほしいだけで、もし将軍が望むなら武の才も貸すが、それ以外のことについては一切の世話をかける気はないと。
ところが、そう言った矢先に発情期が来てしまってね。もともと粗末な長屋に住んでいたそうなんだが、建付けが悪くて匂いがそこら中にまき散らされてしまうようでな。特に、番がいなくなって仕方なしに発情期が来てるおめがの匂いなんてそりゃもう強烈なモンだよ。ただでさえ弱ってて自分の力で追い払えもしやしないのに、呼んでもいない野良のあるふぁどもが群れをなして一晩中戸を叩いてくる。……もともと友人だったんだ、将軍も周瑜殿もそんなところにひとりで置いておけるわけがないってね」
「いやしかし、そうは言っても」

ふたり揃って、そうっと屋敷の奥へと目配せする。奥の奥、人目から庇うようにして設えられた座敷から、ほんの僅かに――洩れ出ている常人べーたの自分たちにですらうっすらと鼻先で感じられる程、甘く蕩かすような、それでいてどことなく控えめな、凛として誘うような匂いだった。

ちょい、と鼻を軽く摘まむ。ふがふがと言った。

「可哀想なもんだよ。――本当はこの匂いも、たったひとりのためだけに発してた匂いだったんだろうにさ」
呼んでも呼んでも返事はない。……虚しいもんだろうね。体も心も、その人だけのことを想ってそうやって待ってるんだろうにさ。ずうーっと……

憐れを催しながら首を振り、回廊をくだる。――向かいから奥へと向かおうとする屋敷の主とすれ違い、深々と礼をとる。







「伊織」と鄭が座敷に正座した伊織の手を取る。貸し与えられた肌触りの良い白い襦袢一枚を着付けた伊織が、長い睫毛を伏せたまま、ただ触れられるままにしていた。

「おまえが契ってしまった相手のことは、重々承知しているよ。……俺たちは運がよかった。アーチャーは――『アーチャー』ではなくなった。俺たちには、おまえのことも、彼のことも、その不分別をなじる資格はない。かの黄金の王を名乗る男の気まぐれがなければ、俺たちとてきっとおまえたちと同じ道を辿っていたのだろう」
――よく覚えていないのだ」

伊織が顔をあげる。その拍子に、可憐な花を思わせる甘い匂いがふわりと強く香り、そしてそのまま留まった。

「その瞬間のことはよく覚えていない。……火遊び、のようなものだったのかもしれない。もしくは、火遊びにかこつけていた、他の何かだったのかもしれない。
あれ――俺を愛しているのだと言った。つがいにしたいのだと口走って、それからいつもはっとしたように口許を押えて俺の上から飛び退いていた。うつ伏せにした俺の体を布団に押し付けながら、気付けばぴちゃぴちゃといつも必死に俺のうなじを舐めていたが、牙を立てるのをすんでのところで思い留まっているようだった。
だからきっと、あいつは我慢していた。いつも――ひどく。だから――そう。きっと、悪いのは俺だったのだろう。
あいつが、ぺろぺろと、必死に――犬か狼のように、俺のうなじを舐めていたから」

――俯せたまま腕を回して、その丸くかたちのいい後頭部の――長い三つ編みの付け根あたりに手を掛けて、ぐっと自分のうなじに押し付けた。

「どうせ、同じことだから、と。――おまえに咬まれようとなかろうと、どのみちおまえがいないのでは、今後の俺の生など所詮大差ないのだから、と」
「破滅願望か?」

その言葉に咎める色はなかった。手に取った伊織の手首を掬い上げ、その内側に唇を落とす。ふ、と僅かに伊織が声を漏らし、周囲に漂っていた花のような香りが僅かに甘ったるく変化する。滴る蜜のような甘さだった。

「破滅――願望――。そうかもしれないな。当てつけだったのかもしれん。おまえは俺を置いていくくせに、と。……俺のうなじを咬まなかったからといって、それが一体なんの気遣いになる? もう俺は二度と普通には暮らしていけないのに。あいつは、俺に疵ひとつ付けなかったような顔をして去っていくだろう。よい想い出だったと。――いや、座とやらにはここの記憶は持ち帰れないのだったか? 想い出にすらならんか」

伊織の背に腕を回して鄭がその細い体を横たえさせる。その作業を手伝うように伊織が両腕を鄭の首に回した。伊織の為に和風に改装した座敷の畳の上で、鄭の手が解いてやった伊織の髪がぱさりとうねって散った。
伊織の顔の両脇に手を置いた鄭が、とても発情中のおめがとも思えない程落ち着いた伊織の白い顔を見下ろす。伊織もその顔を真っ直ぐに見上げていた。――鄭の鼻腔をくすぐる強烈に甘ったるく痺れるような蜜の匂いだけが、伊織が確かに発情しているのだということを教えていた。

「伊織。これは、おまえの発情期を終わらせる、ただそのためだけの行為だ。――だから、なにも後ろめたく思うことはないんだよ」
「後ろめたい? 誰にだ? 俺が申し訳なく思うのなら貴殿のつがいにのみだよ。……こんなつもりはなかった」

伊織が目を逸らすように障子の方に目を遣る。ぐ、と口許に力を籠め、鄭が笑みを象る。――アーチャーは、すべて承知の上だった。それは伊織には本人から直接伝えていたことだった。
鄭は言い方を変えた。

――伊織。今夜は俺のことを、『セイバー』と呼んでもいい」

そっぽを向いていた伊織が僅かに目を見開いた。ばっと激昂したような顔で鄭を見て、彼の真剣な表情とぶつかる。――あ、と声を漏らしてから、ふふ、と苦笑した。

「それは――無理がある。あいつは、貴殿のように体格のよい男ではなかったよ」
……そうかもな」
「声も、貴殿のように低くなかった。こんなふうに――雰囲気だってなかったよ。いつだって、我慢のきかなくなった仔犬が好物に食らいつくみたいだった」
「ああ、そうか」
「『愛している』と言ったくせに、愛しているだけのことは何も残してくれなかった。たったひとつ、このうなじの咬み痕だけ。――『愛している』と言ったのに、あいつは俺を置いていった」

「鄭、鄭」と名を呼んで、伊織が幼子のように両手を鄭へと伸ばしてくる。その腕が首に絡みつくのに任せながら、「ああ、伊織」とあやすように答えてやった。

「鄭。――あいつは俺を置いていった。『愛している』とは一体何だ? だったらどうしてあいつは俺を置いていった。俺にあんなものを見せて、あんな世界を見せて、あいつが俺を愛しているというのなら、どうしてその全部を俺から取り上げて、こうしてここに置いていった?」
「伊織、伊織。落ち着いて、俺の顔だけを見るんだ。――何が見える?」
……鄭」

「鄭が見える」と伊織が答えると、「うん」と鄭が頷いた。伊織の背丈の割に細い体を掻き抱いて、白い首筋に唇をひとつ落としてやる。宥めるようにうなじのあたりを撫でてやると、「無駄だよ」と伊織が言った。

「そこを咬んでもなにも起こらない。――愛とはなんだ、鄭? 貴殿らの間にはあるのだろう?」
……伊織」

黙らせるために、伊織の肌を愛撫する。しばらく譫言のように「鄭、鄭、あいつが俺を置いていった」とばかり繰り返していた伊織の口から、やがて意味のある言葉が失われ、代わりに甘ったるい鼻にかかった声ばかりが漏れるようになってようやく、鄭は安堵することができた。――彼に禍ばかりをもたらすこのおめがの性が、一時だけでも彼に忘却の安らぎを与えることができるのならば。

それでようやく、悪いことばかりでもないのかもしれないと、思える。







鄭が部屋に戻ると、「落ち着いたか」と書を手にしていたアーチャーが微笑んだ。

「ようやくな。――今は座敷で寝ているよ。発情期も無事に治まったようだ」
「それは何よりだ。……大陸の漢方が効くのならばそれでいいが、効かなければこれを定期的に続けなければならない。――本人の負担にはなるだろうが、遺憾ながらこれが今できる最善ではある」
「本人の負担――

ふっと鄭が遠くに目を遣る。「どうした? マスター」と呼び慣れた名で尋ねたアーチャーに、鄭が言った。

「伊織には、『愛』がわからないのだと言っていた。彼を置いていったセイバーの愛も、――彼にうなじを咬ませた、自分の愛も。恐らくは」
――『愛』などと」

フ、とアーチャーが美しい顔に少しだけ翳りのある笑みを浮かべて言った。

「きっとそんなに大層なものではないのだよ。必ずしも美しく正しい姿をしているとは限らない。必ずしも善であるとも限らない」
……ああ……
「汚泥を這うような愛もあるだろう。それが間違っていることもあるだろう。だが、『そんなものは愛ではない――とは、私は言いたくないよ。マスター」
――ああ」

中華風の円い窓の向こうで、ふたつの影が重なり合った。






1.『唐人屋敷に引き取られた長屋の未亡人』・了