来羅
2025-07-31 22:42:09
10390文字
Public トワウォ
 

空言(風信)

さわマル開催おめでとうございま……した……!
落とした兄貴記憶喪失話です。




「こ、恋人!」
 思わず叫んでいた。
 オイ、と遮る四仔に視線だけで懇願し、目を見開いてぱちぱちと瞬く男に信一は縋り付く。
「大佬と、俺は、恋人……!」
 何を言っている、とは言われなかった。
 その冗談は面白くないな、とも。嘘だろう、とも言われなかった。
 だから魔が差したのだ、というのは言い訳にしても情けなかったが、訂正する機を逸したのは確かだった。
…………君は、」
「俺、信一。藍信一。大佬……あなたの、養い子で、右腕で、それで、その、」
「恋人?」
「そ、そう!」
 頭に包帯を巻いた龍捲風は、小さく笑ったようだった。
 その眼差しがゆっくりと室内を見まわし、隣に立つ四仔へと移り、少し離れた場所にいる十二、それからまた信一へと戻って柔らかく細められる。
「どうやら俺は、余程の面食いだったらしいな?」
 茶目っ気たっぷりに頷いてみせた龍捲風に、十二が吹き出した。
「さすが龍哥! 動じないなぁ!」
「十二」
「いいじゃねぇか、四仔」
「よくないだろう」
 四仔が正しい。
 よくはない。わかっている。
 けれども、少しだけ、ほんの少しだけ、これはチャンスなんじゃないかと思ってしまったのだ。
 時は一時間ほど前のこと。
 見回り途中で龍捲風の姿を見かけて駆け寄ったときのことだった。
 悪かったのはタイミング。
 階段の下から数えて七段目に立っていた龍捲風の横を、ぽん、ぽん、と軽快な音を立ててボールが落ちていった。狭い階段は通りすがるにも体を傾ける必要があり、下から上がってきた物売りが龍捲風とすれ違い様に会釈して上がっていく、その上から幼子がボールを追って駆け降りてきていた。「あ、待って」と声が上がったのは、下層からだ。つい顔を向けたのは龍捲風だけでなく、物売りもまた反射的に振り返った。まさに一瞬の出来事だった。そのとき遠心力に従って円を描いた荷物が、駆け降りてきた幼子の背に当たった。
「っ!」
 瞬間的な判断だったんだろうと思う。
 咄嗟に幼子に手を伸ばした龍捲風だったが、物売りとすれ違う際に傾けていた体は、もう四半回転分、幼子には足りなかった。ゆえに、地を蹴った足は踏み締めるはずの段を失い、伸ばした手でしっかりと胸に抱き込んだ幼子ごと階段を転げ落ちた龍捲風は、信一の目の前で強かにその頭をコンクリートの地面に打ちつけた。
 その結果がこれだ。
 大慌てで四仔を呼びに行かせ、泣き喚く幼子を十二に預けて龍捲風の呼吸を確認した信一の手際は悪くなかった。
 だから、全ては悪い方へと重なったタイミングなのだ。
…………ここは、」
 まるで他人を見るような目で信一を、四仔を、十二を見た龍捲風は、これまで生きてきた記憶の全てを失っていた。





「ここが、大佬と俺の家」
 手を引いて部屋の中へと連れて入った信一に、龍捲風はやはり見知らぬそれを見るように部屋を見まわした。
「一緒に住んでるのか?」
「うん」
……一緒に」
「あ、部屋は別だよ。そっちの左側が大佬の部屋。俺は向かい」
 互いに別の家もいくつか持っているものの、余程のことがない限り、幼い頃より住んでいたこの家がふたりの帰る場所だ。だから、これは嘘じゃない。
 養父と養い子として住んでいるここは、何ら疾しいところはなく、隠されてもいないから、城砦中が知っている。
 とはいえ、今の龍捲風には違う意味に聞こえたに違いなかった。
 恋人だ、と宣言した男が連れ帰り、一緒に住んでいると言うのだ。僅かに警戒するように体が強張った龍捲風が、その繋いだ手から伝わってきて心臓が跳ねた。
 四仔の診察室では何ひとつ言葉にしなかった龍捲風だったが、やはり動揺はしているのだろう。記憶がないだけでもどうしていいかわからないのに、現れたのは親子ほども歳の離れた男の恋人だ。信一がそう言われたら、冗談だろうと空笑いで返していたかもしれない。けれども龍捲風は何も言わないのだ。言わないから、信一はもう少しだけ、あと少しだけと欲張りになる。
「あー……、四仔も安静にしてろって言ってたし、夕飯は何か買ってくるよ」
「いつもはどうしてた?」
「大佬が作ってくれたり、買ってきたり……ごめん、俺、料理からっきしなんだ。いつも大佬に頼ってた」
「それなら、俺が何か作ろう」
「え?!」
「俺が作ってるんだろう?」
「そう、だけど」
 覚えてるの、とは怖くて聞けない信一に龍捲風は笑った。
「いつもと同じことをしていたら早く記憶が戻るかもしれないだろう?」
 だからそんな顔をするな、と。
 困ったように眉尻を下げた龍捲風が信一の髪をくしゃりと撫でる。
「俺、どんな顔してる?」
 龍捲風は笑って答えなかった。
 けれども自分でもわかっている。きっと心配でどうしようもなくて、でも焦っていて、後ろめたさも手伝ってただただ必死になっている顔だ。
 龍捲風はそっとその背を抱いて引き寄せると、安心させるようにとんとん、と背を叩く。ひゅっと息を呑んだ信一をどう思ったのか、あやすような優しい手つきはもう一度ぐっと強く抱きしめた。
「大丈夫だ」
 もう長く、この手に抱かれたことはない。
 まだその背丈が龍捲風の胸あたりまでしかなかった頃には無邪気に抱きついていたけれども、胸の奥に巣食う焦燥感にも似た想いの行方を知った頃からもう理由もなく触れることはできなくなっていた。
……大佬、」
「俺はお前をどう呼んでた?」
「信一って」
「そうか、…………信一」
「なに、」
「信一」
「っ、ぁ、」
「大丈夫だ、信一」
 触れたところから、この早鐘を打つ心音が聞こえてしまいそうだった。
 抱きしめられた腕はあの頃よりずっと力強い。背に回された手は温かで、頭から首筋へと撫でた指先は少しだけかさついていた。知っていたけれども、知らなかった感触。背丈が然程変わらないから、顔のすぐ真横にある龍捲風の頬が耳に当たる。
 目の奥が熱くなって、信一は咄嗟に目を閉じた。
 失うかと思ったのだ。
 何にも代え難い、この人を。
 目の前で階段から落ちていく姿は、スローモーションのようにはっきりと信一の脳裏に焼き付いている。
「だい、ろう」
 涙を見せるのは気恥ずかしくて、龍捲風の肩に目元を押し付けた。そうして漸くのろのろと腕を持ち上げて龍捲風の背に回す。痣くらいはできただろうけれども、骨は折れていないと四仔も言っていた。こうして抱きしめる体は確かなものとして信一の腕の中にある。
「ごめん、大佬、俺、」
 心配したのだ。
 心臓が潰れるくらい心配して、無事だと言われて安心して、良かったと本当に思ったのだ、思ったのに、なのに。
 見知らぬ人間を見るような警戒の眼差しを向けられたことなど、ただの一度もなかった。
 誰だと問う声の冷たさもまた。
「信一」
 今、呼ぶ声は柔らかく甘い。
 その声も、信一は知らないものだった。
 ぞわりと臓腑を撫でられたような震えが走る。
 恋人なんて、そんな嘘、どうして言ってしまったんだろう。
 信一を恋人だと思い込んでいるから、龍捲風はこんなにも優しいのかもしれない。いや、優しいのはいつもだけれども、こんなむず痒くなるような甘ったるさは、いつもの龍捲風にはない。
 恋人には、こんな声で話す人なのか。
 こんな。
 これは。
 ひどい。
 酷い、愛する人への裏切りだ。
「大佬」
 謝らなくては。
 意を決して顔を上げた信一に、けれども龍捲風は、龍捲風の顔が、近づいた。
「────っ」
 額に当たる、生温かで柔らかな感触。
 触れるだけの唇は、近づいたときと同じようにそっと離れていく。
「泣くな。お前に泣かれると、どうしていいかわからなくなる」
 目を見開いたまま固まった信一を、龍捲風がまた笑った。
「まだ早かったか? ん?」
 揶揄いの色を瞳に湛えて、龍捲風が目を細める。まるで愛おしくてたまらないのだ、というような、そんな甘やかな眼差し。求めてやまなかった、その。
 知らない。知らない。こんな、甘さ。
………………はや、くない」
 しどろもどろに、そう答えてしまったのは、やはり信一の弱さだったかもしれない。でも好きな人に、こんなことをされて正気でいられる理性はなかった。
 きっと耳の先まで赤くなっただろう顔を隠すように抱きついた信一を抱き返す龍捲風は、けれども喉の奥で笑うばかりで信一の好きにさせるのだ。駄目なことは駄目だとはっきり言う人だ。だからこれは駄目じゃないと言っているも同然だ。こうやって甘えてもいいのだと。だから。
 だから。
…………本当に記憶がないんだ…………
 つきんと痛んだ胸の奥に、信一はもう一度ぎゅっと目を瞑って龍捲風の肩口に顔を押し付けた。