星だけが知っていた

賽殺し伝子さんパロシリーズの猫箱。

令和利吉さん&伝子さん生存ルート。
利吉さんが哀れかつ残念です。かっこいい利吉さんなどいない。
令和利吉さんに想いを寄せるモブ女子が清い交際をする場面が少し出ます。
人間関係? 室町時空とは違うのは本編で触れたよね。
温室育ちの花をどうぞ心ゆくまで楽しんでください。

星だけが知っていた


 一人称というものを決める時、人はどれだけ深く考えるだろうか。
 一般的には女性なら私だとかアタシだとか。男性なら僕だとか俺だとか。他にもウチだとかオラだとかおいらだとか。人は、さまざまな選択のある中から自分を指し示す言葉を決める事になる。多様性を叫ばれる昨今では、男性が髪を伸ばす事が当たり前になったように、一人称の選択肢も尚の事、広がっているに違いない。
 しかし大概の人間は、そんな事深くは考えない。親や友人の真似、周囲の環境、はたまたハマっているサブカルチャーの類だとか。
 要は人格形成が固まり始める幼少の頃に、周囲の影響を受けてなんとなく決めるケースが殆どだ。
 ――何を隠そう、この僕、山田利吉の場合もそうだった。
 とはいえ僕の場合、父は生まれた頃に他界しているからそもそも影響を受けることもなかったし、周囲の友人達の殆どは「俺」という一人称を選んでいた。
 何故なら、カッコいいから。強そうだから。
 漫画やアニメの影響で、背伸びをしてみたい小学生男子にとって、かっこよさや見栄というのはとても重要だ。
 くだらないと思うだろうが、どんなにささやかな内容であれ、カッコよく見えるかどうかは、人によってはそれこそ命よりも重い。マザーグースは『カエルとカタツムリと仔犬のシッポ』で男の子は出来ていると唄っているが、きっとそれは間違いだ。男子という生き物を構成するものは、見栄とプライドとかっこよさなのだから。
 だから、――自分で言うのもなんだが、小生意気で少々プライドが高かった一般的な少年だった僕が、周囲の子供達が一人称を「俺」に変えて背伸びをしていく中でそれでも「僕」という一人称を使い続けることを選んだのは、今にして思えばそれなりに大きな意味があったのだと思う。
 言葉には意味が宿る、言霊がどうとかよく言うけれど、多分それに近いものが一人称にも宿るのだと思う。
 ……ただ、僕は先程も述べた通り、「僕」を何となく選んだ。
 だから、おそらくきっと、僕の最大の黒歴史の始まりは、そこからだったに違いない。
 僕が「僕」を選んだ理由は単純だ。
 その方が、穏やかな印象を与えるから。穏やかな印象を与える方が、将来子供に接する時に有利だから。ただそれだけだ。
 ――そう。物心ついた頃からずっと、僕は教師になりたかった。
 何故って、母が小学校の先生だったからだ。
 母が教師として仕事をしている、だから僕も教師になる。それは僕にとっては朝が来たら起きるのと同じくらいに当たり前の事だったし、その選択に疑問を持つ理由もなかった。今日の学校給食がハンバーグだったからと言って、いちいち『なんで?』と聞く人間はいないだろう。たまたま今日はハンバーグの日だった。それだけで理由は充分だ。だから、たまたま親が教師だったから教師になる、と考えるのは僕からしてみれば当たり前のことだった。
 教師になるなら、子供たちに好かれるよう穏やかな印象を与えた方がいい。
 だから、僕は『僕』を選んだ。それが一番、一般的な男性の一人称の中で穏やかな印象を与えるから。
 もちろん僕は人より少々プライドが高かったから、気弱なヤツに見られないように結構な努力をしてきたつもりだし、自惚れでもなんでもなく同世代の友人たちよりも見栄とかっこよさを持っていたつもりではあるけれど。
 ――とはいえ正直なところ、そこまで教師が魅力的な職業なのかと言われると、僕はノーと答えるしかない。
 何故なら、僕は母を見て育っているからだ。
 仕事に追われ、家に帰ってもテストの答案用紙やらなにやらと格闘している母。あまりに忙しすぎて、僕の事を殆ど祖父母に任せきりにしている母。ただでさえ忙しいのに、残業代も出ないクラブ活動だとかにまで時間を割いて、やれこの生徒の家庭環境が、やれこの生徒の親からのクレームがとてんてこまいで対応する姿を見れば、そりゃこの仕事に魅力があるとは思えない。祖父母も、当の母本人も、『教師にだけはならない方がいい』と口を揃えていうのだから、余計にだ。
 それでも教師という仕事に興味を持ったのは、母のおかげだった。
 ろくに息子との時間を作れず、「たまには利吉にも構ってやれ」と祖父に叱られる母を、僕はどうしたって嫌いにはなれなかった。ごくたまに構ってくれる母との貴重な時間が何よりも嬉しくて、楽しくて。
 多分、まともに会話できる時間が少ないからこそ、それでも必死に時間を作って僕に精一杯寄り添ってくれる母のことが、僕は密かな誇りだった。大好物のオムライスは、まさにその象徴だ。
 母の作るオムライスは僕が調理実習で作ったような一般的なオムライスとは少しだけ違っていて、卵とバターをふんだんに使った、まるでスフレのようなふわふわの卵生地が乗っているものだ。ケチャップライスの上にふわトロオムレツを乗せたみたいな、噛むと舌の上でとろりと卵がとろける絶品のご馳走。コッテリしたバターに包まれて、ケチャップの酸味と塩気のあるベーコン、旨みをたっぷり染み込ませた玉ねぎとマッシュルームが入っている。たまにグリーンピースやニンジンなんかがまぎれたりしてこちらを飽きさせないのも良い。
 けれどなにより、僕をとりこにしたのは、やはり母がケチャップでえがいてくれる絵だろう。
 母は僕がその時一番好きなものを必ずオムライスにえがいてくれた。何度もこっそり練習したのか、例え母が知らなさそうなアニメのキャラクターであったとしても、きちんとえがいてくれる。僕はそれが何より嬉しかった。
 まともに会話をする機会が少なくても、息子を放置しすぎだと祖父に小言を言われていても、どんなに忙しくても僕を必ず見てくれる。
 ――当たり前の顔をして、当たり前じゃないことをしてくれる。
 それが親というもので、教師というものだとするなら――それはなんてかっこいいんだろう。
 真の漢は背中で語る、なんて言うけど、母はオムライスで全てを語ってくれていた。だから、決して雄弁でなくても、話す機会が無くても、僕は母のことが決して嫌いじゃなかった。
 だから僕は、教師になりたかった。
 母のように、多くを語らずとも、きちんと周りを見れる大人になりたかった。
 それが息子として当たり前のことだと思っていたし、母と同じ職に就いてその苦労を知れば、逆に母が困っている時に相談に乗ったりもできるだろうからと前向きに考えていた。
 ――そう、最大の問題は、その状態を僕が当たり前のものだと思ってしまっていた事にある。

 高校一年生の初夏。僕はクラスメートの女子から告白された。それが黒歴史誕生の瞬間だった。
 とはいえ僕は決してそれまでモテなかったわけではない。昔から告白は何度か受けていたが、気乗りしないからとやんわり断り続けていた。その気もないのに付き合うなんて失礼だと思ったからだ。けれど同級生の男子たちがやれ彼女ができたやれ片想いがどうだ告白されてどうだと騒いであるのを見て、ふと思った。
 ――僕がいつか教師になるなら、その時相手にするのは『普通の』子供たちだ。なら普通の同級生たちがそうするように、一度くらいは恋愛を経験してみる方が、未来の生徒に対して親身になれるのでは?
 僕はそんな理由で、告白してきた女子に『まだ恋愛というものがわからないけれど、それでも良ければ』と慎重に返事をし、清い交際を始めた。
 ……一見すれば、良好な関係だったと思う。手を繋いだり、デートに行ったり。好きなものについて語ったり、映画館に行ったり。……本当にありふれた、普通の恋人同士の関係だ。だが、付き合い始めて二週間後。彼女は突然別れを切り出してきた。
「利吉くん、なんていうか愛が重すぎてちょっと……
 ごめんなさいと頭を下げる彼女に、僕は本気で混乱した。だって、告白してきたのは向こうのほうであって、僕じゃない。むしろ好きだ愛してると事あるごとに口にしていたのは彼女の方だったし、僕は軽率にキスやそれ以上のことを求める彼女を『軽はずみな事はせず互いの気持ちを大事にしよう』と諭していた側だった筈だ。……なのに何故? 彼女は何も言わず、苦笑いで去っていった。
 わけがわからないまま数ヶ月後。今度は部活が同じの先輩から告白された。
 その間告白してきた何名かの女子にしたように、僕は以前「愛が重すぎる」と破局してしまった事があるからと伝えたが、二つ年上のその先輩は、「利吉くんみたいなイケメンから重い愛され方するなら大歓迎! 束縛されても全然平気だから! むしろガンガン愛してくれていいよ!」と目を爛々と輝かせてきた。それでも僕は慎重に、彼女を傷付けないようにと気を付けながら清い交際を始めた。――結果は一週間で破局した。
「やっぱり普通に愛してくれる人の方がいいってよく分かった、ごめん。思ってたのと違った」
 目を逸らしながらそう言った先輩は、結局なにが悪かったのかを全く告げず、そのまま部活まで辞めてしまった。
 ――何だ。何がいけないんだ。
 考えても特に思い当たる節はない。友人達に相談しても、何故か曖昧な相槌しか返ってこない。
 困惑したまま丸一年が過ぎる。
 高校二年生の冬、新たに告白してきた同級生はどちらかというと引っ込み思案な、人よりちょっと子供っぽい感性の子だった。
 顔を真っ赤にしながら一所懸命に勇気を出して想いを伝えにきた彼女に、僕はこれまでの経緯と、「どうしてフラれたのかわからない以上、君を傷付けてしまうかも知れない」と素直に伝えた。彼女は「私も、誰かとお付き合いした事ないから山田くんを傷付けちゃうかもしれないから、おあいこだね。その時はお互いに話し合おうよ」とはにかむように笑った。だから安心して付き合いはじめた。
 ――そして二週間後。クリスマスイブを目前に控えた頃、僕をようやく下の名前で呼ぶようになった彼女は「ごめんなさい、利吉くんとはやっぱりお友達のままのほうがいいかなって思って……」と申し訳なさそうに切り出した。つまり三度目の破局だ。
 ここにきて僕は焦った。
 何故。一体何がいけないんだ。
 やはり、過去の二人が言ったように愛が重すぎるのか? しかし、今回はそうならないよう、事前に困った時は話し合おうと伝えた筈だ。僕は口籠くちごもる彼女を必死に説得し、何がいけなかったか尋ねた。
「君も、愛が重すぎてって言うのか……? それとも何か気付かないうちに酷い事をしたとか……?」
「えっ……と、うん……。そうなんだけどそうじゃないというか……。あのね、利吉くん、私に対して本当に紳士的で、凄く私の事大事にしてくれてるなっていうのは分かるの。だから、私への愛情表現が原因で傷付いたとか嫌いになったとかじゃなくて……利吉くんが私に対して酷い事したとかは絶対無い! それは安心して!」
 それでは尚の事分からない。嫌いになったわけでもなく、僕が酷い事をしたわけではなく、それでも告白してきた相手にフラれる理由というのは何なんだ。必死に問い詰める僕に、彼女は「でもこれを言うと多分利吉くんを傷つけちゃうから……」と涙目で口籠くちごもる。今更だ。むしろ、理由がわからない方が今後困る。今まさに、切実に困っている。だから遠慮せず言ってくれと懇願こんがんした僕に、彼女は申し訳なさそうに告げた。
「えっとね、利吉くん、愛が重いのは重いんだけど……私への愛じゃなくて、利吉くんのお母さんへの愛が重すぎて、それで多分みんな辛くなっちゃうんだと思う」
 まるで頭をハンマーでガンと殴られたかのようだった。思考が真っ白になり、停止する。
「お母さんへの、愛……?」
 言葉を反芻はんすうする僕に、彼女は本当に申し訳なさそうに続ける。
「ほら、利吉くん、たとえば私が好きな食べ物聞いた時、お母さんの作ったオムライスが好きで、自分の好きなものを必ずえがいてくれるから好きって言ったじゃない? だから、私が作ってくれるオムライスに、何を描いてもらえるか今からとても楽しみだって。利吉くんも私の好きなものをオムライスに描くから楽しみにしててって。うん、えっとね、お母さんのこと大好きなんだなってわかるから、すごくいいことだと思う! これだけなら、微笑ましくて素敵だなーってなるの。でもね、利吉くんの好きなお店とか、好きなものとか、私に見せたい景色とか、……いろんなものがね、その、利吉くんは気付いてないと思うんだけど、お母さんとの思い出が前提になっちゃってるの。えっとね、利吉くんが悪いわけじゃないのはわかるの。利吉くんは、少しでも自分の大事な人に喜んでほしくて、滅多に会えなかったお母さんがやってくれた自分がやってもらって嬉しかった事を私にもしてくれてるんだよね。だから、利吉くんがすごーく私の事大事にしてくれてるのは分かるの。分かるんだけど、大事にしてくれててそれはすごくすごーく嬉しいんだけど……その……利吉くんのお母さんの愛が重すぎて、私じゃ絶対負けちゃうなって思っちゃうっていうか……
 困惑し、僕はせめてもの抵抗を口にする。
「そ、そんなはずないだろう……母さんとは普段の会話も距離があるし、そもそも敬語でしか話した事ないし……
「うん、知ってる。でもその敬語も、お母さんと同じように教師になった時に、とっさに敬語使えるように練習するために始めたって言ってたよね? お母さんと同じお仕事に就く為に、物心ついた時からお家で練習してたんだよね? それはすごく立派なことだし、真面目な利吉くんらしいなって思うんだけど……私はそういう利吉くんが好きだけど……でも私、そういう話聞いてるとなんていうか利吉くんのお母さんに勝てる気が全然しなくて……。もちろん勝ち負けとか関係ないって理屈ではわかるんだけど、わかるんだけど、利吉くんがお母さんのこと好きなのと同じくらいの重さで利吉くんを愛せるかどうか、だんだんわかんなくなっちゃって……
 ……つまり、つまりはそういう事だ。
 ――前の二人が突然別れを告げたのも、目の前の彼女が涙目でどうか友達で居させてくれと懇願こんがんするのも。彼女らへの愛が強かったからでは決してない。――母親、山田伝子への愛が強すぎてドン引きされていたのだ。要するに、僕は自分の預かり知らぬ所でマザコンのレッテルを貼られていたのである。そりゃ、まともな感性の女の子は逃げ出すに決まっている。ああ、決まっているともさ。
 真っ白にひび割れて固まっている僕を、彼女は必死に「親子仲が良いのは良い事だから!」とか「なかなかお母さんと会えないなら仕方ないよね、うん!」とか言ってフォローしてくれた。精一杯、フォローしてくれた。しかし逆にそれが居たたまれなかった。あまりにも居たたまれなすぎて、正直泣きたかった。
 前述の通り、男子という生き物を構成するものは、見栄とプライドとかっこよさだ。そこへマザコンという巨大な十字架を背負わされてみろ。それはとんでもない非常事態だ。僕は焦った。何としてでも、母・山田伝子から親離れしなくてはいけないと。
 マザーグースは男の人を「ため息と流し目と嘘の涙でできてる」と唄っているが、マザコンのレッテルはため息では引きがせないし、このどうしようもなく泣きたい小っ恥ずかしさは嘘ではなく本物だ。由々しき事態だ。山田利吉、人生最大のピンチと言っても良い。
 兎に角顔を合わせれば甘やかしてくる母親に、「そういうの要りませんから!」「いい加減子供扱いしないでください!」と抵抗する所から始めてみたが、何故か赤飯を用意された。何故だ。
 母との思い出の品を手に取ることをできる限り辞めて、思い出の品を押し入れの奥深くへと封印するも、「ようやく利吉にも反抗期が来たのねぇ」と満面の笑みで喜ぶ母。こちらの気持ちも知らないで、相変わらず全力で愛情表現をぶつけてくる母。好きなものを絶対バラすものかと口を堅く閉ざしているにも関わらず、絶対に当ててくる母。「オムライスなんて嫌いです」と言って見るものの、口にするとやっぱり綻んでしまう自分の頬。嗚呼、のしかかるマザコンという名の十字架。
 ――この、人生最大のピンチにどう対応すれば良いのか。切迫した中、勉強に力が入る筈もなく……、僕こと山田利吉は大学受験に見事に失敗した。ああ、そりゃもう見事なまでの大失敗だ。あまりの情けなさと恥ずかしさに、正直泣いた。ああ、そりゃもう泣いたさ。全国に受験に失敗した学生なんて大量にいるだろうが、こんなくだらなくて恥ずかしい理由で失敗する奴がどこにいるっていうんだ。
 ……とはいえ、泣いていたって始まらない。自らの将来がかっている。――滑り止めの大学へ行くか、それとも本来の志望校へ行くか。僕は悩んだ。勿論、安定した人生設計を目指すなら、そのまま進学するのがスジだろう。別に第二志望の大学へ通った所で、教員にはなれる。むしろその方が堅実で、無難な選択だ。僕の中の冷静な部分が、そう告げていた。しかし、同時に僕には一つ、危惧すべき点があった。
 ……もしこのまま滑り止めの大学へ逃げれば、僕は一生『マザコンすぎて受験に失敗した男』の称号と付き合わなければならない。それは嫌だ。それだけは絶対に嫌だった。
 悩みに悩んだ末、僕は浪人という選択肢を選ぶ事に決めた。
 ちゃんと己と向き合い、やり直し、そして失敗を放置しない。それはとても重要な事だと思ったからだ。人生には、きっと失敗の瞬間は何度だって訪れる。だからこそ、逃げずにちゃんと向き合った方が、きっと後悔しない筈だ。
 そして、そんな本音を隠す為、『いずれ母のように立派な教師になりたいからね、生徒に色々なことを教えられるように少しでも沢山のことを学ばないと』とそれらしい建前を用意した。正直、どうやって周りを納得させる建前を用意するかの方が悩んだくらいだ。
 だから僕は、実の所進路に関して悩んだことはあまりない。
 別にどんな道を選んでも、諦めない限りきっと目的地には辿り着ける。人より険しい道を歩むのも経験のひとつだし、それで得られるものがあれば、将来教育者になった時、悩んでいる子供達に教えられる事も増える。ある意味、今回挫折したのも良い経験になるだろうと思っていたのだ。……挫折した経緯はともかくとして。
 だから、僕が最近になって深刻に、本当に深刻に悩んでいたのは、決して将来が不安になったとか進路の選択への後悔があったからとかではない。ただ、普通に進学した同級生たちと久しぶりに会った時に、何故進学を選ばなかったか聞かれて、用意した建前を述べた時だった。
 それを聞いた同級生の一人が、さも当然のような、明日の天気を語るかのような口調で言ったのだ。
「お前本っ当、お袋さんのこと好きだよなー」
 その一言が、山田利吉を貫いた。まるでレーザー砲で撃たれたかの様な衝撃と共に、僕の脳が吹き飛んだ。
 またか。またしてもか。
 ――これすら『マザコン』扱いになるのか。
 同級生は全く悪気がなかった。本当に、当然のことを言っただけだった。だから誰もその発言を気にせず、『そんなことよりコンビニアイスの新作美味かったぜ』などと話している。
 僕は表面上だけはにこやかに、けれど心の中では完全に崩れ落ち地にしていた。
 ――まずい。これではまた同じ失敗を犯してしまう。
 どうすれば、どうすればマザコンのレッテルからのがれられるのか。
 袋小路に迷い込んだ自覚はあったが、他人に相談などできるはずもない。こんな悩み言えるわけないだろうが、と泣き叫んでやりたい所だ。
 よく遊び相手になってやっている乱太郎しんべヱに「何か悩みがあるなら相談してくださいね! 僕たちが力になりますから!」などと言われもしたが、この二人に告げるくらいなら首をくくる方が遥かにマシだ。大丈夫だよ、ちょっと進路のことで悩んでただけだからと苦笑いし、「君たちにはちょっと難しい話だったかな」と曖昧に誤魔化した。
 ――そんな折である。落としたケーキの箱を拾いに道へ飛び出したしんべヱを助けようとした結果、そのまま自分が交通事故に遭ったのは。
 目が覚めると十日近くが経過しており、病院のベッドの上。
 怪我をした母と、そして泣きじゃくる乱太郎としんべヱに「良かった」「思い出してくれた」と飛びつかれ、僕は困惑する羽目になった。どうやら僕は事故の二日後から、記憶喪失になっていたらしい。妙なことを口走り、とんでもない荒れ方をして、母に怪我まで負わせたとか。
 …………なんだそれは。
 僕が乱太郎たちに『進路について悩んでいる』などと嘘をいていたせいか、受験ノイローゼによる精神的ストレスから一時的に錯乱、精神をんでいたのだろうという話で周囲は僕を置いてけぼりに訳知り顔で話を進めていく。……え、何それ知らない。
 そもそも受験疲れなんて感じた覚えがないし、ストレスがあったとしたらそれはマザコンのレッテルに対するもので、精神をむ内容ではない。
 だというのに、皆が「気付かなくてごめんなさい」「そんなに辛い思いしてただなんて」「もっと周りを頼っていいのよ」などと抱きしめてくる。
 ――何故こうなった。二度目の黒歴史誕生の瞬間である。
 なので僕は今、ガタゴトと音を立てる電車に揺られ、一人見知らぬ景色を眺めている。――あまりにもあんまりな黒歴史の数々から、少しでも抜け出す為に。
 そうそう遠くへ行くつもりはないが、たまには羽を伸ばすのも悪くない、……はずだ。
 幸か不幸か、母が予備校への欠席連絡を入れてしまって、暫くはヒマな時間が続くのだし。
 ……これまでは母の怪我の関係もあって、周囲にこれ以上迷惑をかけれないと思っていたし、定期的な通院もあってなかなか思うように動けなかった。けれど三週間も経ち、母の怪我も殆ど治りかけのかさぶた程度に落ち着いて、これまでの日常が戻りつつある。なら、少しだけ。ほんの少しだけ。……まるで悪戯の言い訳の様に、僕はそっと知らない街へと足を運ぶのだった。